春にして君と離れ

オノイチカ

春にして君と離れ


『太陽系の外側には、多くの恒星がある。恒星は宇宙に一様に広がっているのではなく、集団を作っている。太陽系を含む恒星や星雲の集団を、銀河系という』


『1949年以降、東ドイツと西ドイツに分かれていたベルリンの町の境界に、1961年東ドイツは壁を築き、人々が自由に行き来できないようにしました。二つの世界の対立は深まり、冷たい戦争と言われました』


『そんなにもあなたはレモンを待ってゐた かなしく白くあかるい死の床で わたしの手からとった一つのレモンを あなたのきれいな歯が がりりと噛んだ トパァズいろの香気が立つ』


 私は机の上に積まれていた教科書を、ぱらぱらとめくる手を止めた。

 大きく伸びをして、そのまま机に突っ伏す。首だけを窓の方へ向けると、教室のカーテンが正午の日差しと風をうけて、ほの明るく発光して膨らむのが見えた。吹き込んだ風が、私の長い髪をさらさらともてあそんで頬をくすぐる。

 今日はお別れの式典があったから、帰るのも早い。さっきまでクラスメイトの声があふれていたけれど、みんな下校したんだろう。教室には私しかいない。


「美樹、ごめん待たせた」


 ドアが開いて足音が近づき、頭上から降ってきた少し低い声に、私は目線を上げる。そこには友達の颯太が、息を切らして立っていた。

 ひとなつっこい顔立ちに、優し気な目元。やわらかそうな栗色の髪の毛が、耳の上で彼の呼吸に合わせてほのかに揺れている。いつも少しだけ着崩しているブレザーがどことなく親しみやすくて、颯太からにじむ雰囲気に良く合っていた。

 胸にはまだ、勲章のような紅白のロゼットがついている。


「人気者は大変だねぇ」


「ばか、そんなんじゃないって」


 私がからかうような口調で微笑むと、颯太はバツが悪そうに目線を外して、ポケットからはみ出ていた封筒をくしゃっと握った。

 その音に、私の胸がチクリと痛む。


「帰ろう」


 颯太はいつものようにそれだけ言うと、私の目の前に積まれていた教科書をカバンにねじ込んだ。ポケットの手紙も一緒に。


「……うん」


 私はのろのろと起き上がり、薄手の赤いマフラーと学校指定の紺色のコートを身に着けて、開いたままだった教室の窓に近付いた。

 ふわりと大きく波打つカーテンの内側に入る。外の世界はまだ寒くて、けれど舞い込んできた桜の花びらと一緒に、春の匂いがした。


「今日で最後だね」


 窓を閉めながら思わずつぶやいた言葉に、一呼吸置いて。


「……ああ」


 颯太が小さく答える声が、聞こえた。




    春にして君と離れ




 太陽系の外側には、たくさんの恒星があるって教科書に載っていたけれど、銀河系って集団でひとくくりにされている近い星でさえ、お互いがどんな星なのか知らないに違いない。

 私が、このだだっ広い田舎以外の景色を、知らないように。


「さーむーいー! さむいさむいさむいーっ」


 星なんて無いかのように青く澄んだ真昼の空に、はぁっと白い息を吐く。

 颯太が運転する自転車は坂道を滑り、ぐんぐん風を切って荷台に座った私のマフラーをはためかせた。

 まだ春は産まれたてで、冬の残り香がツンと鼻を凍らせる。私は赤くかじかんだ指で彼の制服の腰のあたりをぎゅっとにぎりながら、寒いという単語を連呼した。


「舌噛むぞー」


 淡々とそう言った彼が、坂を降り切った勢いのままハンドルを切った。しばらくそのまま加速を使って走っていたけれど、減速すると同時に颯太はペダルをこぎ始める。

 校庭に植えられていた桜の木が遠ざかっていく。颯太のつむじに乗っていた、薄桃色の花びらが風でひらりと剥がれ落ちるのを最後に、雪のように降り注いでいた桜の花が見えなくなっていく。


 学校の坂道を降りた先、見渡す限り緑の草原に挟まれた通学路は、風に吹かれた葉がこすれて、ざあざあと潮騒のような音を奏でていた。

 辺りに山がない盆地で、都会から離れていて都市開発の進んでいないこの近辺は、学校がぽつんとあるだけで住宅街も遠い僻地だ。

 寒さに首をすくめて草の音を聞いていた私は、ふと颯太の漕ぐ自転車の速さに気付いて、あわてて彼のすそを引いた。


「――あ、ねぇ颯太、コンビニ寄ろうよ。私寒いしココア飲みたい」


 ココアを飲みたいのは本当だけど、コンビニに寄りたい理由がそれだけだと言ったら嘘になる。だってこのままだと、あっという間に家に着いてしまいそうだったから。


「ん……ああ、いいけど。ゆずハチミツ、ちゃんと置いてるかな」


「置いてる置いてる」


 こないだコンビニに来た時は、颯太の好きなゆずハチミツが売り切れていたのだ。がっくり肩を落とす後ろ姿を思い出してしまい、思わず笑いが漏れる。


 まっすぐ伸びる一本道の先、そこだけぽつりと近代的なコンビニに向けて、颯太はハンドルを切る。駐輪場に自転車を止めて自動ドアの前に立つと、陽気な入店音とあたたかな空気、まだレジ横でほんわりと湯気を立てているおでんの匂いが私達を出迎えてくれた。知らず力の入っていた肩がほぐれる。


「夏は大事な給水ポイントだし、このコンビニがあってホントに良かった」


 見慣れた店員のお姉さんにお金を支払い、私はココアを、颯太はゆずハチミツを冷えた頬に押し付けながら、コンビニを出た。


 日差しを遮るものがない一本道の通学路。夏は途中でへとへとになってしまって、必ずと言っていいほどこのコンビニで一休みした。セミの声と熱気が立ち込めるなか、颯太と安いラムネアイスを半分こして、汗をかきつつ頬張っていたことを、遠い昔のできごとのように思う。


「……あれ? 颯太、乗らないの」


 ゆずハチミツを飲みながら自転車を押して歩き始めた颯太に、声をかける。


「ん。片手運転は危ないし。それに、」


 何か言葉を繋ぎかけた颯太は、ごにょごにょと唇を動かしてまた一口ゆずハチミツを飲んだ。私が見つめても、わざとあさっての方を向いたままで視線が噛み合わない。

 彼はそれ以上何も言わずに歩幅を広げて、私の数歩先を歩いた。

 ずっと冷えていたところに温かい飲み物を飲んで急にぬくもったからか、後ろから見る颯太の耳は、ほんのりと赤くなっている。


 ……もしかしたら。

 私と同じように颯太も、早く帰るのが嫌なのかな。


 その可能性に気付いた私は、そうだといいな、と思った。そうだったら、と考えると嬉しくなってしまい、勝手に頬がゆるんでしまう。

 私は思わず小走りになって、追い付いた颯太の隣を並んで歩いた。あたりの草の鳴る音が一拍子遅れて、私を追いかける。


「そういえば秋にコンビニに屋台出してた、あのトラックの石焼きいも、すっごく美味しかったね」


 颯太と過ごした春夏秋冬を振り返りながら、私は手の中の温かなココアをもてあそぶ。颯太もどこか遠くを見るような表情で、ふわりと笑った。


「あー、あれな。あのトラック、結局どこから来てたのか分からないままだったなぁ」


 結局、分からないまま。

 その言葉に、凪いでいた心がまたチクリとささくれ立つのを感じる。


 ……もう会えない、なんて。

 そんなのは物語に出てくる感傷めいた言葉で、その気になればいつだって会いに行けるのに、なんて馬鹿にしてたのに。


 いつの間にかうつむいてしまったらしく、私の吐いた息はマフラーのなかで、ほわりと暖まって蒸発していった。

 会話が途切れて、また海鳴りに似た葉擦れの音だけが耳をくすぐっていく。


「……俺さ、忘れないよ」


 ぽつりと落ちた颯太のつぶやきに、私は視線を上げた。


「美樹と同じクラスになって、一緒に過ごした一年。もう会えなくても、ずっと覚えてるから」


 全部。と言葉をしめる颯太の視線が、私に向けられる。

 颯太と目が合った瞬間、心臓が大きく跳ねた。色素の薄い瞳に見つめられて、思わず息を飲み、その場で立ち止まってしまう。

 自転車を押す手を止めた颯太が、私に微笑んでいる。栗色の髪がお日様の下でやわらかく透けていて、どこか儚くて。見慣れたはずの笑顔に、胸が、詰まった。

 辺りで草の音が、風の音が、ざあざあと、うるさい。


「……颯太、そうた」


 声が擦れた。私は喉元まで出掛った言葉を吐息と一緒に飲み込もうとするけれど、上手くいかない。息苦しくなって開いた口から、堰を切るように言葉が形になっていく。


「あの、あのね、私、颯太のこと──」


 ──刹那。

 ゴオッ、と頭上の空気を切り裂くジェット音が響く。

 私達に覆いかぶさるように落ちた影に視線を上げると、大きく弧を描いて飛んでいる飛行機が目に入り、私の心は急速に冷えていった。

 言葉の終わりを唇と一緒に閉じて、耐えるように拳を握ったまま、私はまた一本道の通学路を歩き始める。

 しばらく立ち止まっていた颯太も歩き始める。チャリチャリと自転車のチェーンが回る音がして、そのうち私の隣に追いついた。


 颯太は、私の言葉の続きを尋ねなかった。

 私も、やっぱり……続きは言えない。


 いっそ颯太がポケットに入れていた手紙を渡した子みたいに、最後だからと大胆になればいいのかもしれない。


 でも知っている。

 それはきっと、呪いになるって。


 この気持ちに、この関係に、ちゃんとした形を与えてしまったら、これから先どうすればいいのか私には分からない。

 未来のない想いが、執着のように颯太を縛ったら。それがとても、怖かった。


 小さな三叉路に差し掛かる。

 私の家は一本道を外れて曲がったこの先すぐで、いつもは颯太とここで別れるのだけれど、今日の私はその道に目もくれなかった。

 黙って帰り道を通り過ぎる私に、颯太も何も言わなかった。


 増え始めた脇道を無視して、私達は草原を分けるように続く、まっすぐな道を踏みしめて歩く。

 やがて、夜明けに地平線から顔を出した太陽が一閃の光を投げたような白い線が、地平に沿って現れた。歩くたびにその線は、どんどん空高くそびえるように姿を現して、その足元に辿り着いた時には私の身長の三倍はあろうかという壁になっていた。

 無機質な壁は、まるで教科書で見た万里の頂上のように見渡す限り続いていて、果てが見えない。私達が歩く道を分断するように立つその壁には、頑丈な鉄の扉が付いていて、両隣をガッシリとした体格の男性二人が挟んで立っていた。


 颯太はその男性達に近付いて、冬服の下で首から下げていたカードホルダーを引っ張り出し、それを差し出す。男性が手にした機械でカードを読み取ると、ピッという短い機械音がして鉄の扉がゴドン、という大きな音と共に自動的に開錠された。


 無表情で促す男性達に背を押され、颯太は自転車を押してその扉をくぐった。

 私は縫い留められたように、扉の数歩前で立ちすくんだまま颯太の姿を目に焼き付ける。

 開いた扉の向こうで、颯太が私を振り返った。


「美樹」


 名前を、呼ばれて。

 崩れそうになる膝を、表情を、私はしゃんと引き締め、笑顔を作る。


 今この瞬間だけでいい。

 笑え。

 今までで、一番の、笑顔で。


「ありがとう、な」


 颯太がいつものように、くしゃりと顔をほころばせた。

 少し照れたような、はにかんだような、やわらかくて淡い笑顔。


 遅刻するからって、初めて自転車の荷台に乗せてくれた時の。

 突然の雨に降られて、雨宿りした先で一限目は諦めようっておどけた時の。

 友達とケンカした私に、少し高めのアイスをおごって励ましてくれた時の。

 ……私をまっすぐに見つめて、私のことを忘れないって言った時の。


 颯太の、笑顔。


「うん……うん、こっちこそ、ありがとう。ありがとうね」


 震えそうになる声を抑えて、こぼれそうになる涙を飲み込んで。

 私も、にっこりと笑ってみせる。


 私達のやりとりを無視して、男性達が境界を閉めようと鉄の扉を押した。巨大な獣が低く唸るような音を立てて、扉が閉まり始める。

 颯太は閉じかけた扉に残った隙間から、頭上に伸ばした手を大きく振った。

 さよならの、合図。

 私も手を振りかえす。痛いくらい天に向けて腕を伸ばして、体がふらつくほど大きく振ってみせる。


 扉から漏れる光はどんどん細くなり──やがて、ひときわ大きな咆哮のような音と共に、分厚い鉄の扉は完全に閉まった。


 その音と共に、私は崩れ落ちる。

 その場で両手と膝を突き、地面に頭をこすりつけるように、我慢していたものを全部吐き出すように、泣き叫び嗚咽した。

 目の奥が熱くて、涙が次から次へとこぼれて止まらない。ひきつけを起こした喉が痛んで、けれどそれ以上に胸がえぐられたように、痛かった。

 颯太も扉の向こうで、泣いているのだろうか。


 本当は、壁の向こうになんて行かせたくなかった。

 颯太、って名前を呼んで、行かないで、側にいて、って腕を引いて、飲み込んだ言葉を、想いを、吐き出してしまいたかった。


 けれど、そんなことは、許されなかった。




 2024年、東と西で小競り合いが続いていたこの国に、東西を分ける「壁」が建設された。まるでベルリンの壁のように。


 2029年、西が独立を宣言。度重なる話し合いもむなしく、ついには西が武力行使を行い、東西は完全に分裂してしまう。


 そして2030年の今日──「壁」を超えた行き来が、完全に禁じられた。

 空の領域も分け隔てられ、すべての航空機は壁に沿った航空領域でのみ飛行を許されることになる。

 壁の向こうに通勤・通学していた人達は、壁の内側にある職場や学校に転勤・転校することになり、かつての仲間と二度と会うことは叶わない。


 今日という日を境に、大人達は。

 西と東に分かれて、殺し合うのだ。

 私達の声は、届かない。


 世界は終わるでもなく続いていく。

 私は明日も、生きていくのだろう。


 春にして、誰よりも大好きだった、君と離れて。

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