生物の存在論的差異への応援コメント
生命を「こと」と捉えるなんて素敵な発想ですよね。
最近、分子ロボットと言うワードを耳にしますが、ゆうきさんはどういう位置にあると思いますか?
それと、以下は知識の浅い一会社員の私なんかの「心」に対する意見ですが、
ゆうきさんの意見として今後の作品の続きで取り上げて頂けたら嬉しいです。
「意識」は動物の体の臓器の中では無く、2体以上の個体(例えばセンサーを持つ古細菌とセンサーを持つ古細菌、センサーを持つ機械とセンサーを持つ機械)の間の関係性そのものではないか?
犬やカラス等にも心があるかもしれないと研究している人もいるようです。
人間の場合、「複雑な言葉」が脳内ニューロンの様に機能して
巨大な量子コンピューターの様に演算力を高められたのではないか?
それによって自分の存在について「心」として
興味を持つように至ったのではないか?
等々。
乱文ですみません。
ゆうきさんのエッセイが扱うテーマは面白いと思います。
続きも応援しています。
作者からの返信
憮然野郎さま
読んでいただき、またコメントまでありがとうございます!とても励みになります。「もの」と「こと」日本語はそういう区別をする言語で、この世界を言葉にしていく上ではとても繊細な使い分けだなぁと感じます。心が実在するか否か、という問題は「価値」や「意味」が実在するか否かというテーマに近く、これは僕の専門領域で言うと、例えば原子が存在するか否か、という科学実在論争と同じ構図なんですよね。
僕は今のところ、それぞれの認識に依存した形式で存在するという反実在論よりの立場ですが、気持ちとしては実在してほしいなぁ、なんて思ったりもしています!
引き続き、お付き合いいただけましたら幸いです。
言葉にとって意味とは何かへの応援コメント
共有出来る能力は、人によって差があったりもするのだけれど、その事を知ることによって、お互いの言葉に対する自覚や認識が深まり共有出来る部分が廣がったりするのかなって思ったりしました。
言葉の意味には多義性があるからこそ、大切にしたくなるのもなのかって、個人的に思います。
また、こうしたことをお話させて頂けてありがとうございます。幸せです。
作者からの返信
はい、まさにおっしゃる通りです。互いの文脈を共有しようとする価値判断プロセスは、例えば医療ではvalues-based practice(価値に基づく診療)という手法があります。哲学的には構造構成主義といった考え方や、それを応用した「信念対立解明アプローチ」と呼ばれる手法がすでに存在しています。
言葉の多義性は、近代哲学から現代思想へ至る大きなうねりを作り出しました。その中でもソシュール言語学(日本においては丸山言語哲学)はとても大きなインパクトがあったように思います。
言葉の意味や解約可能性は複数だからこそ、誰か一人の価値観のみが正しというような不自由さから逃れることができますね。
夜空には、何が”ある”のかへの応援コメント
再開、とっても嬉しいです、ありがとございます!
何が”ある”のか、私もそのことを、いつもではないけれどずっと考えていて、けれども何かを見出せることは少なく、それでも考えることをやめられなのです。
「意味」や「価値」って、本当に難しいですよね。状況や環境の変化によって大きく変わってしまったりもするなぁと思ったりもします。
書いて下さりありがとうございますー!
作者からの返信
空さん、コメントありがとうございます!うれしいです。
世界には存在しているようで存在しない”ソンザイモドキ”が沢山あります。意味や価値はその代表的なものですが、目的とか道徳、なんかもそ
の類のものかもしれません。あるいは幽霊なんかも……(違っ
この連載ではそんな”ソンザイモドキ”のゆくえを追ってみたいと思います!
どうぞ、よろしくお願いいたします!
集団的主体性と環世界への応援コメント
もう……ラスト1行が鮮やか過ぎて胸を打ち抜かました(とってもいい意味でです)
生命と環境の「あいだ」それは確かにあって、それぞれの個体によって少しずつ違ったりもするのではないかな、と思ったりもします。
その「本当のところ」を知りたいなぁ、とも。
集団的主体性を、普段意識することはあまりないように思うけれど、意識し始めたなら、あれも?これも?とアンテナに引っかかってくるものはわりと沢山あるのではないかと思えました。
古いSF映画、今夜も聴こうっと♪
作者からの返信
空さん、最後まで読んでいただきありがとうございました!
そう、古いSF映画です。歌詞の意味を考えていたんです。僕らの目の前にある世界が、誰かの創造かもしれない、というのはもしかしたら本当なんじゃないか、ならばどのようにしてそんなことが起こっているのか。
生物と環世界をヒントに、心をめぐる問題、あいだ、存在論、間主観性という言葉を手掛かりに考えをめぐらしてみました!
ちょうど、ドイツの哲学者ハイデガーの生物論に関する文献を読んでいて、はっとしたんです。なんとなく古いSF映画とつながった気がして!
生物の存在論的差異への応援コメント
心を定義しようとしたら、本当に難しいだろうなぁと思いました。
それを定義しようと、あらゆる角度から考え突き詰めて行く過程は、ちょっと楽しそうとも思ったりもしました。最終的には、やっぱり難しいねってなるのかもしれないけれど。
「ある」と「いる」
文字にするとたった一文字違いだけれど、その差異は大きいな、と感じました。
あいだ……。あいだかぁ。
うーん、私もぜひ一緒に考えさせて下さい。
考えることは楽しいですね、ゆうきさんのエッセイ、とても楽しいです♪
作者からの返信
空さん、コメントありがとうございます!『ある』と『いる』、の違いはとても大きいですよね。そばに置いてある、とそばにいてくれる、ではかなり違ってきます。それくらい生命には特別な何かがあるのかな、と思います。
『あいだ』という概念もとても興味深くて、これは例えば音楽で言うと、五線譜上にはシとドのあいだは何も書かれていないのに僕たちはシとドの間に音楽を感じてたりします。シだけで終わってしまうピアノの音階に違和感を感じて、シを聞けば、ドを予感していたり、そんな風に音楽を聴いてるんですね~!
『あいだ』はまた、人と人のあいだ、というような考察もできるのですが、長くなりそうなので(^-^;
想起される過去、そして情報への応援コメント
過去における価値や歴史性は、その場に立つ人の背景や位置、尺度、時の経過によっても異なってくるものだなと感じました。
また、「正しさ」について、その通りだなぁと思いました。
同じ情報であっても、その受け取り方、解釈の仕方は様々で、どこに焦点を当てるかでその情報の扱い方は変わってくるのかもしれないけれど、向き合い方が重要ということ、本当にそうだなと思います。
作者からの返信
空さん、コメントありがとうございます!
歴史は年表のように横側から眺めることも出来て、僕たちはそんな側面からみた出来事の連続性に過去を見いだします。
でも過去は側面からみた景色じゃなくて、現在から過去を見渡した風景に近い気がして。だから、自分のおかれた環境や立場で、目の前にある過去という景色の見え方が変わるのかも知れないですね!