第17話

人々の声が聞こえる。自分の踏みしめる足元が一歩一歩、砂地に食い込む。間違いなく自分は今、この地を歩いている。頭上の月が歩く影を照らしだし始めると、ますます自分が覚醒されていくのを感じる。

何台かの観光バスがとまっていた。誰もいない。1台ずつ、ナンバープレートを確認する。品川、松本、和歌山、鹿児島・・これまた、たいそうバラエティーに富んだものだな。いったいなんなの?あまたある日本神話の中で、わざわざホムチワケ伝承を発掘せんがために、こんなにも全国からバスがここに集結した?一般にはほとんど知られてもない、極小で超マイナーな神話のひとかけらなのに、なぜ?

 最後の観光バスを見終えたところで、ぱあーんと視界が広がった。広い河原の両側を、一斉に色とりどりの行燈が並んで火が灯されている。斐伊川の真ん中には長い橋が架けられ、その欄干にも無数の灯りがきらきら煌めいている。上流から一陣の風がカミソリのように走り抜けていく。つられて橋の灯が波打って揺れる。


「せえのお、どっこいしょう!」

一斉に立ち上がる声の束。夥しい数の、のぼりが高い夜空を一面にはためく。どれも絵柄の違う、見るからに勇猛果敢な旗印だ。人の掛け声と、さんざめく様々な太鼓や三味線。合わせて笙、笛や鐘の音もする。いったいここはいつの時代?

「どっこいしょう!」

今度は幅の広い、巨大な櫓か?いや、荒縄で丸太を組んだ背の丈ほどの舞台だ。そうか、これはカーニバルの中央ステージなんだ。張り巡らした板の上ではすでに、錦織りのきらびやかで派手な衣装たちがさっそうと現れ、一方では絹の羽衣が流れるように走って、本番前のあわただしさを知らせている。周りを老若男女らが、ところせましと囲んで、わいわい押し寄せる。

いったいぜんたい、これらの人たちはみんな、あのバスで全国から集まってきた人たちなんだろうか。草木染の直垂(ひたたれ)や小袖、衣袴をつけてるのもいれば、なかには麻で編んだ貫頭衣(かんとうい)を頭からすっぽり着てる者までいる。貫頭衣ともなれば奈良時代以前だろうし。ということは、ここはいつの時代でもない、ごちゃまぜの時代だ。思い思いに、自分の好きな衣装を持ち出してきたのか。

ふと、我が身の服装を見直してみた。下はスカルパの登山靴にノースフェイスの登山ズボン、上はモンベルの若草色アウターでどれもゴアテックス素材。なけなしのお金でそれぞれセレクトして買ったものだから銘柄は全部ばらばらではあるものの、かといって傍から見てエキセントリックないでたちとまではいかないだろう。到底、コスプレカーニバルには似つかわしくない、ごくありふれた軽装登山の格好。この俺だけが場違いなところに来てしまった居心地の悪さを感じる。


ステージの袖に演目を表示するめくり台が置かれた。そこにぶら下がった大きな和紙に、達筆な毛筆で「逆上」と書かれている。なるほど、時代を問わず、全国の逆上者たちがここに集まっているわけか。ひとりの世話好きそうな男がにやにやしながら、そのめくり台に来て、1枚をさっとめくりあげた。一番目の演目は・・。

「はっ?うらしまたろう?」

おとぎ話として誰もが知ってる演目だ。しかし今回のホムチワケ伝承とどういう関係があるというのか。言われてみれば、浦島太郎は、日本書記や風土記、万葉集にも登場する謎の多い説話のひとつではあるのだが。楽しかった竜宮城でのカーニバルのあと、最後は玉手箱から出てきた煙でおじいさんになってしまった浦島。これまでの楽しかったすべてが一瞬にして煙となって消えてしまったはかない物語・・。だから「逆上」のホムチワケと重なるのかしらん?考えてみればたしかに玉手箱の煙などというのは、人為的に後付けされた顛末のように思えなくもないが。


「たすけたカメにつれられて、竜宮城にきてみれば、絵にもかけないうつくしさ・・」

「おとひめさまのごちそうに、タイやヒラメのまいおどり、ただめずらしくおもしろく、つきひのたつのもゆめのうち・・」

・・小学校1年生の演目の幕が少しずつ開き、講堂で観ている父兄らが一斉に拍手する。幕が開くとステージには色とりどりのちゃんちゃんこを着た5人くらいの村の小さな子供たちがすでに立っている。カメをいじめている出だしのシーン。竹で編んだ、大きなドジョウすくいざるを背にかぶって甲羅の代わりにしてる。その、うつ伏せになっているカメをぼくたちが取り囲んでいた。カメは、なおとし君だ。

先生に、赤ちゃんの時のちゃんちゃんこを持ってきてくださあいと言われて、こんなものを着ていたのかと初めて知って驚いたのを覚えている。ぼくのそれは青と金色の絵柄模様で、胸のところに涎掛けのような白い襞が縫い込んであった。着るのが恥ずかしかった。ステージの上で何を言ったか、台詞は全く覚えていない。目の前を、生き物の役のもらえない子が二人、指に結んだ水色の長い紙テープをひらひらさせながら「なみ、なみ、なみ」と言って、舞台の袖からもう片方の袖へと横歩きに消えていった。そう、ここは昔の波打ち際なのだ。白砂青松。誰かが小豆のたくさん入った箱を右に左に揺らしては、静かな波が打ち寄せる。

クラスで二番目に好きだった子供役のはつえさんが「ねえ、みんな」と両膝を屈伸するような動作を交えて、観客の方に向かって言う。もともと声が小さかったので何度も練習していたのだったが、本番では大きな声が出ていた。横に並びながら、なぜかほっとしたのを思い出す。

カメを助けるはずの浦島太郎がそこにいない。そもそも誰が演じたのか覚えてない。台詞もあったのだろうが、すっかり忘れた。仕方ないからぼくたちは浦島さんの代わりに、うらしまさんがくれた長い釣り竿と、魚の入ったびくを手にしたまま、ゆっくりと這いまわる、カメのなおとし君のあとをついていく。たどり着いた先は、朱色の美しい竜宮城。サンゴや海藻もうまい具合に段ボールで作ってある。

おとひめさまはクラスで一番好きだった、しずこさんだったと思う。薄紫の透きとおった羽衣をたなびかせている。髪の毛を頭のてっぺんで二つの輪にして結んで、顔には白粉の化粧をしている。えっ?俺は目を疑った。だって、しずこさんではないから。この顔は、アメノウズメさんではないか!

ぼくたち村の子供役たちは、高坏に盛られたごちそうをたくさんよばれた。舞台の前列に並んだ同じクラスの子たちの歌が聞こえ、タイやヒラメたちが舞い踊る。方々から聞こえる笑い声と鮮やかな色彩。興奮に包まれて全体がアップテンポに昇っていくのがわかった。

そのうち、それらの魚たちがみんな、水面をぴちぴち跳ねるかのように、片足ずつ交互にステップし始める。弾けるようなステップと笑い声。それを見るや、うっかり忘れてたのを思い出したかのように昔の時代の男がひとり、めくり台のところまで走り寄って、これまでの「うらしまたろう」の紙をめくりあげた。こうしてすぐさま、演目が「ややこおどり」に早変わりする。思わず観客側から、

「いよぉ!待ってました!出雲の阿国!」

と、威勢のいい声が入った。すると奥の院で優雅に扇子をなびかせていた乙姫様役のアメノウズメさんが、ステージの前面へと進み出た。そうか、彼女は出雲の阿国(おくに)でもあったのか。


錦織りの長い帯はアゲハ蝶の如くに、おへそのところで勇ましく結ばれている。重々しい着物姿だ。にもかかわらず、突然、神がかりのように全身がリズムを奏でだす。唐突に足拍子を踏み鳴らす。邪魔になった前開きの着物の裾を帯にまでたくし上げる。露わになった内腿。観客側に開け広げ、いかにもがに股の態勢で右に左にと、コケティッシュなリズムを刻む。まるで砂鉄の踏鞴(たたら)を交互に踏みつけているかのように。激しければ、激しいほど鉄は酸素を帯びて赤く燃え盛るのだ。顔は笑っているが、真剣な表情。鳴り物が最高潮に興奮する。タイやヒラメたちも同じように、床の上で足を軽やかに踏み鳴らしている。その両手といえば、ひらひらと天井にかざし、波うつ波頭の白い泡のような、ちょうど大勢の阿波踊りの体を様している。きれいなお嬢さんたちの群勢。いつしか俺たち子供までもが巻き込まれていた。もはや、観客らも含め、会場がいっしょになって踊っている。


「ややこは、なんにもいりません」

「ややこは、なんにもいりません」

「ややこ!」

「ややこ!」


 ・・・延々と、どこまで続くのか。まだ大人の域には達してない子供の愛嬌が残るところの、ややこ踊りは、出雲の阿国たちが始めたものだ。それまでの常識を覆す奇妙奇天烈な河原での踊り。その人気は身分に関係なく一気に全国へと広がってしまった。テレビでおなじみのAKB48などのエロカワがもてはやされているのには、実はこんなところにルーツがあったのかもしれないな。いや待てよ、もっとさかのぼった神代の時代、アメノウズメノミコトの岩屋戸でのあの過激な踊りにこそ、起源があるのかもしれない。

だがこんなふうに、俺たち子供の浦島太郎たちは、ずっと変わることなくここでの竜宮城カーニバルに興じ続けることが果たしてできるのだろうか。もしこれが幻で終わることなく、エンドレスであるならば、きっと、しあわせ。しかしあのおとぎ話のように、玉手箱の煙に巻かれ、あこがれのすべてが実は泡であった場合は?裏切られてしまった自身の現実との対面。たった一言、無念に尽きると大人の俺は思うのだが。


その時だった。

「ヤマタノオロチじゃあ!」

どこからか会場の誰かが唐突な声をあげた。誰かがそれに呼応した。呼応が呼応を呼び、あちらこちらから声があがる。

「ヤマタノオロチじゃあ」

間もなくしてそれらがひとつの大きな束となる。束となって夜空の天井にとぐろを巻く。見れば、高々と屹立する真っ白いのぼりのどれにも、「八岐大蛇」という字がはみ出んばかりに、太筆で荒々しく叩きつけられていた。大太鼓の連弾が暗い斐伊川を振るがす。巨大なヤマタノオロチが八つの頭と八つの尾を携えてもうすぐここへやってくるのか。ステージのめくり台の演目はすでに、「スサノオノミコトとヤマタノオロチ」に替わっている。なるほど、この演目はたしか、小学校2年のときにあった・・・。

「ようたぞ、ようたぞ」

オロチの先頭にいるひろし君が大声で叫んで、舞台をくねくねと練り歩く。その両肩を後ろから順々に両手で捕まった20人くらいの男子がひとつの胴体となって、鈴なりにつながっていっしょに這いまわっている。そして先頭の声に続く。

「ようたぞ、ようたぞ」

「ようたぞ、ようたぞ」

同じ台詞を合唱してくりかえす。さすがに八つの頭と八つの尾の大蛇のかたちを小学2年の劇であらわすことは難しかったようで、頭は一つ、尻尾も一つに省略されていた。ムカデのように一列になり、片方の足を大きく天井に蹴りだしては戻し、次にもう片方の足を天井に蹴っては戻し、とぐろを巻きながら酒に酔って前後不覚の様を演じていた。それを、これとは別の劇に出るぼくは、観客側からじっと見ていた。黒いもじゃもじゃの夥しい服の布がさやさやとたなびいている。ところせましとばかりに舞台の上を蛇腹になって這いまわる。同じ小学2年生らが演じているとはいえ、観ていても勇壮であった。


斐伊川上流に住む美しいクシナダヒメを食べようとやってきたヤマタノオロチは、スサノオの思惑通り、八つの酒槽(さかぶね)ごとに八つの頭を垂れ入れて、酒をじゃぶじゃぶ音をたててたらふく飲み干しました。そして酔っぱらったあげくに、大いびきをかいてしまいました。もうじき、スサノオ役のひさお君が出てきます。そして目をさましたばかりのヤマタノオロチと、持っていた十拳剣(とつかのつるぎ)で決闘します。そして見事に退治します。劇の終わりのところで、オロチの切り刻んだしっぽから一本の剣が出てきます。そこでひさお君は最後の台詞を言いいます。

「これはつるぎだ。りっぱなつるぎだ。おねえさまのアマテラスさまにけんじょうしよう」


立派な剣・・。そう、名古屋市の熱田神宮に現存する(?)ところの三種の神器である、有名な草薙剣(くさなぎのつるぎ)がこれにあたるといわれているのだが。


斐伊川上流に住む、おじいさんのアシナヅチやおばあさんのテナヅチ、そして足を撫で、手を撫でして可愛がった娘のクシナダヒメは、同じクラスの誰がその役を演じたのか覚えてない。だからなのかわからないが、今の俺の目には、それらの登場人物の姿がみえてこない。不思議、なぜだ?

ああそうだ、古事記では、スサノオがこのおじいさんとおばあさんに対し、「わしは、アマテラスの弟、スサノオだ」と自己紹介し、この老夫婦は「これは畏れ多くも、かしこいことでございます」と言ったくだりがあったな。

この会話がくせものなんだ。「なんだとおっ?スサノオがアマテラスの弟だと?それは古事記当局さんのでっち上げでしょ、やめてくれい!」と、出雲國風土記が言わんがばかりの現象なのだろう。出雲國の人々にとってスサノオがアマテラスの弟だなんてことは、まさに寝耳に水の話だったに違いなかっただろうから。

小学校2年の担任の先生から台本を配られる前に、この話が有名な古事記という神話であることを紙芝居で教えてもらった。また、ここに出てくる十拳剣(とつかのつるぎ)という剣は、こぶしの10個分の長さがあるということと、次の三つの神話に登場することも、併せて教えてもらった記憶がある。黒板に大きな両刃の剣を、白銀のチョークで書いて説明してくれたから、何十年かたった今でもよく覚えている。


ひとつが、ヤマタノオロチの退治にスサノオノミコトが使った、スサノオの十拳剣。


ひとつが、アジスキタカヒコネ(ホムチワケと同一人物であるかも)が、矢に刺さって絶命したアメノワカヒコと間違えられたのに腹を立てて喪屋を切り伏すのに使った、アジスキタカヒコネの十拳剣。


ひとつが、タケミカズチが無理矢理国譲りをさせようと、出雲の稲佐の浜でオオナムチ(オオクニヌシ)の息子のタケミナカタと決闘したときに使った、タケミカズチの十拳剣。


今思えば、これら三つの剣が、奇しくも十拳剣(とつかのつるぎ)だったとは。それぞれの神話は違うけど、どこかでつながっているようで因縁めいている・・・。


・・・佳境だ。待ちに待った時がやってきた。八雲立つ出雲の山からスサノオが、長い鞘におさまった十拳剣を携えて姿を現した。ヤマタノオロチが目を覚まし、さあこれから決闘が始まるのだ・・。


「あっ、あいつだ」

 ぼくは、俺は。目が点になった。あれはひさお君なんかではない、あの男が、スサノオになっているではないか!あいつ、先ほどまではバスのところで、言葉のでないホムチワケだとか、アジスキタカヒコネだとか、俺にしか聞こえないという言葉で言っていたが、今度はスサノオなのかよお。ふざけるのもたいがいにしておいて欲しいし。まあ、いいさ。オロチを退治した暁には「これはつるぎだ。りっぱなつるぎだ」と言うシーンがあるはず。その言葉が俺以外の人たちに伝わるかどうかで、何者かがわかる。それにしてはどうも全体の様子がおかしいな。


「ようたぞ、ようたぞ!」

「ようたぞ、ようたぞ!」

あれれっ?またして「ようたぞ」が始まった。これもさきほどの、ややこおどりと同じく、エンドレスなの?

あの賑やかな大音響が会場を包んでくる。いったいどういうことだ?周りを見回す。ステージの上にいたスタッフたちもが、蛇腹の仲間に加わり、いっしょになって這いまわっているではないか。そしてその尾っぽはさらに舞台の下へと鈴なりにつながっていく。見れば観客もろともがいっしょに「ようたぞ、ようたぞ」と雄たけびを上げて這いまわっていた!まさに八つの頭、八つの尾がとぐろを巻いて、ステージの上でも下でも、のたうち回っている。見るも猛々しいシーン。酔いがさらに酔いに拍車をかけている。演じるだれもが底にぬけに明るい。だから俺もいっしょに連なるのだ!

「ようたぞ、ようたぞ!」

「ようたぞ、ようたぞ!」

気持ちいい。夜の空は、こんなにも透きとおるように晴れていた!


この今。俺はおれの中に、自分の幼少期の「原風景」を垣間見ている。


そしてやつは。やつはやつの中に、懸命に自らの「原風景」を探している。


 ふと、やつがいるはずのステージの方を見る。クライマックスの決闘シーンはまだ始まらないのかな。えっ?あのスサノオのやつ、なにやってんだ。一緒になってヤマタノオロチの鈴なりに化して、楽しんでいやがる。その十拳剣を鞘から抜くこともせずに。ホムチワケ、あるいはアジスキタカヒコネよ。おまえの口からちゃんと言葉は出てるのかどうなんだよ。


  

 ・・・この喧騒に気おされてしまっているのか。どうやらやつは、十拳剣(とつかのつるぎ)を鞘から抜くことを忘れてしまっているようだ。腑抜けなやつめ。ヤマタノオロチとの決闘どころじゃないではないか。このままじゃ、さすがにやばいぞ。この国の根底を成すところのレガリア(君主を象徴する物)が出現しないことには、ここから先の神話も、歴史的記述も、そのほとんどが意味をなさなくなってしまうぞ。そうなると、草薙剣を祭ってあるという名古屋市の熱田神宮はもちろん、八咫鏡(やたのかがみ)を祭ってあるという、あの伊勢市の伊勢神宮も、消えて無くなってしまうのかもしれん。正史では、十拳剣でヤマタノオロチの尻尾を切り裂いたところから天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)が出てきて、これが後の三種の神器である草薙剣(くさなぎのつるぎ)となるということで、筋書が決まっているのだから。この国の掟のようなものであり、長い年月でのアイデンティティーのようなものだったから。


 おい、おまえ!俺の後をずっと尾行してきたおまえ!十拳剣を手に、スサノオを演じてるおまえ!ホムチワケなのか、アジスキタカヒコネなのか、なんだかよくわからない、おめえのことだよ!筋書通り、早くその鞘から剣を抜いて劇の台本通り、大蛇をみじん切りに成敗しろよ!でないと、実際困るんだよ!


ええっ?・・・

おまえ、ひょっとしてまさか。こんな歴史の大舞台において、てめえだけの都合で、悠久の時空の流れをさかのぼって、謀反を起こそうとしてるわけじゃないだろうな!ありえないことをするな!やい、聞いてるのか!



・・・・第18話に続く

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逆上 ダリダ石川 @soramamekun

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