第16話
エンジン音が消え、川の音が聞こえた。人間たちの声も遠くで吠えるようにして聞こえてくる。降り立ったバスは、河川敷で静かに停車している。ただひとり、ミニスカートのアメノウズメさんの格好だけが、場違いのように浮いて見える。
周りは小高い森が鬱蒼とたたずんでいた。八雲立つ出雲の山の面持ちとは到底縁遠い、放り出しただけの雑然とした風景だ。足元の泥のような砂地を数歩も歩けば、巨岩から剥がれ落ちたような尖った岩が川底にまで夥しく張り出しているのがわかる。川は二級河川くらいの幅だが、流れは結構早そうに見える。これがかつての斐伊川か。かなり上流に位置しているようだ。これまで幾度となく河川の氾濫があったのだろう、堤防がバスの屋根の高さまできていた。その人工の土嚢が一面雑草で覆われていた。雲に包まれた川下には太陽の名残りの緋色が、ただれたように川面へばりついているのがわかる。その目は真っ赤なほおずきのようで、一つの躰に頭が八つ、尾が八つ、胴体は苔むして、ヒノキやスギが生え、八つの谷、八つの峰を這い渡る大きさ。腹は血膿が流れている・・そうか、あの川の緋色は氾濫を繰り返すオロチの躰の血膿の跡か。
「すこし、ここでまっててもらっていいかしら」
アメノウズメさんが落ち着かなそうな顔をして声を投げてきた。
「どこへ行くの?」
「みんなをみてくるから」
「みんなって、誰のこと?」
「いずものおくにさんたちよ」
「わかった。出雲の・・ええっ?ちょっと、ちょっと!」
アメノウズメさんは静止する俺の声を振り払い、肩に掛かったままの葛のタスキを翻して、バスから離れていく集団の後ろを追いかけて行った。
出雲の阿国(おくに)っていえば・・。豊臣の伏見でも徳川の御所でも踊りを披露したはずだから、安土桃山から江戸時代にかけての女性だ。ということは、ここは神代の時代じゃねえのかよお。先ほど読んだばかりの、ホムチワケ伝承見比べA4プリントの文字が無情にも散らばっていくのを感じた。
その時だった。後ろから人の近づく気配がした。振り向くと、あの男が俺を見据えながらそこに立っていた。長く垂れたあご髭。だらりと垂らした手には1メートルもあるだろうか、長い刀をぶらさげている。まるで十拳(とづか)の剣さながらだ。じっとこちらを凝視して目をそらさない。ここではっきり言うしかないな、そう思った。
「あなた、いっしょに山に登った方ですよね!」
「そうです。ずっとあなたの後をつけてきました」
「なぜですか。やめてくださいよ」
「だってあなた、逆上したいんでしょ」
「・・・意味わからんし」
「こう見えて、私、言葉の出ないホムチワケなんですよ」
「馬鹿な・・そもそもあなたは言葉を出してるではないか」
「あなたには聞こえるけど、他の人にはまだ聞こえてない、話せない時のホムチワケなんですよ」
「はあ?」
「あなただってそう。言葉は話せるけど、しかしあなたのことを聞き入れて理解してきてくれた人は、長い人生でどうやらあまりいないようですね」
「それは・・」
「いつになったらあなたは他の人に自分のことを理解してもらえるのですか?もうお疲れでしょ。逆上なんていう見通しの立たない企てなどはやめてしまって、ここらで炎上しちゃったらどうですか。よかったらいっしょに炎上のお供をしますよ」
俺は一歩下がった。いったいこいつ、何が言いたいんだ?ホムチワケだと?たまたまバスでもらった説明書きを読んだ直後だから、こんな嘘を並べているのではないのか。このままでは劣勢にたたされてしまう。折れてはいけない。攻めに入らなくてはいけない。
「そう言うあなた、ホムチワケだけど、実はご立派なアジスキタカヒコネでもあるでしょ?」
「そうなのかもしれない。でも、それでもわたしはわけのわからない理由で流刑されてしまいました」
「そうか、わかったぞ。つまるところあなたは、自分の不幸を恨んでるのですね」
「そうです」
「それを言うのなら、ヒルコはいったいどうなるというのですか」
「ヒルコ?」
「そうです。イザナギとイザナミが国生みしたけど、最初に生まれてきた子は骨のないヒルコでしたよね。生まれて間もなく、葦で編んだ船に入れて、流して捨てられてしまいましたよね。それと比べてみれば、あなたはまだ幸せ者ではありませんか?」
「・・・」
「それにわたし、あなたがおっしゃるほど不幸ではありません。だってわたしはサルタヒコなんだし、それとわたしにはアメノウズメさんがついています」
ここまで言ったところで、相手の姿が消えていたことに気づいた。そしていつの間にかあたりが暗く沈んでいる。えっ?朝だとばっかり思っていたが、実は夕暮れだった?それにしてもあのホムチワケが、あのアジスキタカヒコネが、いったいどんな人物だったのか、そして葛城族とどんな関係があったのか、バスの中で強く期待してただけに、このようなつまらない言葉の応酬で終わったことに、なんともいえない寂寞感が襲ってくるのを覚えた。
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