第15話
「ねえ、そろそろつきそうなんですけど」
アメノウズメさんは全然反応を示さない。閉じられた瞼から長いまつげが静かな寝息をたてている。白い化粧顔の頬にはいつしか朱色のパウダーを施していた。その整った顔を改めてぐるりと見た。キャバクラで見た時とは違う印象。神秘な顔立ちと言っても過言でないのかも。まるでひとしきり泣いた後、静かに蝶の成虫に変わっていくときのような感じ。しっかり大人の顔をしてる。女性はいつの時代も、不思議な生き物なんだとやっぱり思ってしまう。
前の座席から後ろ手に資料が回ってきた。1枚をとって、残りを後ろの座席に回す。
「へえ、ホムチワケ伝承の見比べ一覧表、これですかあ」
ひとりごちしながらも、A4用紙に印刷された文字を追ってみた。
・古事記・・・ 垂仁天皇(第11代)の御子ホムチワケ命(みこと)は、長じて(歳を重ねて)ひげが胸先に達しても言葉を発することはありませんでした。しかし出雲の神様まで行ってお参りをしたところ言葉を発するようになりました。
・日本書紀・・・ 垂仁天皇の御子ホムツワケ命は、30歳になって髭が長く伸びているのに言葉がでずに泣いてばかりいました。しかし出雲で捕まえた白鳥で遊ぶと言葉を発するようになりました。
・尾張國風土記・・・ 纏向(まきむく)のお城(奈良)の、垂仁天皇の御子ホムツワケ命は7歳になっても言葉を話すことはありませんでした。しかしある時皇后さまの夢に多具の国(出雲の国のひとつ)の神が現れて、私を祀ってくれたなら御子は言葉を発するようになりますと言われたので、その神を尾張の地で祀りました。
・出雲國風土記・・・ 三澤郷の、オオクニヌシの御子アジスキタカヒコネ命(葛城の祭神)は髭が八握(やつは)に伸びるほど育っても未だに昼夜問わず泣いており、言葉が通じませんでした。
しかしある時、オオクニヌシが夢の中で御子と言葉が通じるようになったため、目覚めてから御子に問いかけると、御子は「御澤(みさわ)」と言葉を発し、そのあと石の多い川を渡って、ここですと言われ、沐浴されました。
アジスキタカヒコネ?またしても初めて聞く名前だ。日本の神話はいっぱい神様がいて、ややこしい。いら立ちを察してなのか、用紙の下方には出雲を流れる斐伊川の絵図がカラーでプリントされており、その川沿いにそのアジスキタカヒコネの出雲國風土記で登場する箇所がいくつか記されていたのを見て気を取り直す。
なるほど、どれも1300年前の古文書だ・・・。
これを読むと、怖ろしく破天荒な狼藉をするのにも関わらず、子供のように駄々っ子で泣き虫のスサノオを彷彿とさせるな。スサノオが天津神アマテラスの弟だというのは、天武朝時の編纂者たちの打算が働いていると、今時は誰しも疑わないだろう。津々浦々、太古からの土着の信仰者たちの祟りや逆上蜂起を未然に抑えておくには、スサノオを代替にして天津神に持ち上げておいた方が得策だと考えたに相違ないから。まさしくスサノオは国津神の典型だ。
しかしそれよりも驚きなのは、4つの神話に出てくるどの人物も言葉を発することができなかったという共通点だ。偶然と言えばあまりに偶然過ぎるから。想像するまでもなく、ホムチ(ツ)ワケとアジスキタカヒコネとは、同一人物であったのであろうとまずは普通にたどりつく。でもって、記紀神話よりも風土記の方が信ぴょう性あると聞いたことがある・・・ということはそうか、ヤマタノオロチ退治で有名な出雲のスサノオの末代の子供であるところの、出雲國風土記のオオクニヌシの子供が、実は奈良の葛城族の王であったということなのかもしれない・・・。
あの古事記でのやりとりを思い出す。雄略が初めて葛城の山麓で一言主の神と出会った時のやりとりではまだ天皇よりも一言主の神の方が各上だった。私は今年の正月に、そのもやもやした神話と天皇とのやりとりのあいだを逍遙したものだった。しかしそこからたった8年後の日本書記の編纂時では同じ雄略とのやりとりにおいていつしか対等の立場にされており、さらに77年後の「続日本記」では、なんとこの神は、天皇の怒りに触れて遠くの地へ流刑されてしまったのだ。
この顛末はいったいなんなのだろう?いやあ、これは面白そうだ。バスは出雲の三澤の郷なんだな。できることならここでタイムスリップしたい。
バスがとまった。ワンマンバス運転手横の扉が開き、バスに残っていた客がそれぞれ、不思議な格好を携えて、ぞろぞろと鈴なりに通路に立って下りていく。どれもこれも、七福神の宝船さながらではないか。まるでこれからコスプレフェスティバルが盛大に行われるかのようだ。アルバムに貼ってある、あの年中さんの時の「桃太郎」の写真が思い出された。すごく派手な着物の裾を帯にまでたくし上げ、足を露わにさせてる若い女性もいた。寝起きで欠伸してる者もいる。アメノウズメさんがわたしの先に立ち、客たちの後に続いた。
夜明けのはずなんだが、戸外が物々しく感じるのは気のせいなのか。前方の出口のステップのところで下りようとしたひとりの男が、ふいにこちらを見た。ちょうど桃太郎でおじいさんを演じた時と同じ、地味な頭巾を被っている。
「ええっ?」
思わず目を疑った。あの男だ。長いひげを伸ばしているが、あの眼差しの不敵な眼力、間違いない、あの時の中年男だ。たまたま同じホームから電車に乗り合わせたのはいいが、俺にくっついて離れようとせず、途中まで一緒に山を登ってきた、うっとうしいやつ。耐えきれずに追い払ったら、別の山の頂上からじっと俺を見ていやがった。そして極めつけは、御在所ロープウェイから何気に眼下を見下ろすと、やつは巨大なサイコロ岩を必至でよじ登ろうとしてた。あり得ない不気味なやつ。しかしなんでこのバスに乗ってるのだ?まさか、はるばるこんな異国の地まで、この俺を追いかけてきた?思わず全身に鳥肌の立つのを覚えた。
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