【猫の日】みんなのかぶった猫が見える日
テイル
猫をかぶった人達
二月二十二日、午前二時二十二分二十二秒のことである。
今日は、かぶった猫が見える日である。
もちろん冷静に考えたらおかしい。わけがわからない。でも忙しい現代人は世界の歯車が少しずれたことよりも、次の日の勉強や仕事の方が大事なので、あんまり気にすることはなかった。
◇ ◆ ◇
「こっこ、朝だよー」
「はぁい」
ちょうど階下から母の声がして、琴子は
その頭上に、ぴょこんと現れる影。
それは暖色の照明にくっきりと浮かびあがった。きらきらと潤んだ目の、
琴子は待ってましたとばかりに、幸助がかぶった猫を指差して「ははは!」と
「いっちょまえに猫かぶってる! 幸助のくせに!」
「猫!? そんなのかぶってない……うわ、いた!」
猫は不思議なことに空気みたいに軽くて、そこにいることをかぶっている本人すら気づかないほどなのに、でも触れてしまうのだ。頭に手をやった幸助は猫のつやつやした毛並みをおそるおそる
自分の上から振り落とそうとするも、猫は幸助の身体を曲芸のように飛び回る。つかまえたと思っても、ぬるん、とすり抜けてしまった。猫は液体とはよくいったものだと琴子は感心する。そうやってからかっているから、難しいお年頃の幸助は怒って出て行ってしまった。
「ちょっと、ごはんは?」
「部屋で食う!」
母とすれ違いざま、香ばしく焼けたパンを取っていく。いらない、と言わないあたりはかわいいものだ。
「こっこ、あんまりからかわないの」
「だって面白いんだもん。お父さんとお兄ちゃんは?」
「もう出かけちゃったわよ」
少し歳の離れた兄は、社会人だ。父と二人で同じ頃、琴子が起きる前に出勤してしまう。
二人とも、のんびりへらへらとしていて裏表なんてなさそうなので、気になっていたのだ。残念ながら見逃してしまったらしい。
「どうだった? 猫、いた?」
「それがねぇ」
コタツに琴子の朝ごはんを並べながら、母はもったいつける。
「二人とも猫かぶってなかったの。やっぱりねって思ってたんだけど」
「だけど?」
「スーツに着替えようとして、ハンガーから上着を取ったら、いたのよ」
「いた」
「猫が、びっしり。裏地にしがみついてて」
十匹はいたかしらねぇ、と母は煮え切らない態度。別に動物嫌いではないけど、その光景はちょっと刺激的だったらしい。
「それで、どうしたの?」
「しょうがないやって、猫ごと着ていっちゃった」
ははぁ、二人にとってスーツとは仕事モードに入るためのスイッチなのか、と琴子は感心する。そういえば家から帰ってきてすぐの彼らは雰囲気が固くて琴子は苦手だった。あれはまだ猫が残っている状態なのだろう。
そこでふと、琴子は気づく。人の猫ばかり見ていたけど、自分はどうなんだろう?
慌てて頭に手を伸ばすけど、触れるのは猫っ毛だけで、猫はいない。洗面所に走って鏡を覗き込んでも、いつもの琴子がいるだけだ。
私、猫かぶりじゃない!
猫は好きなので残念な気持ちもあるけれど、それがなんとも嬉しかった。
お母さんの用意してくれた朝ごはんを上機嫌で平らげて、ばたばたと準備を終えて、学校に急いだ。皆のかぶっている猫を見るのが楽しみだった。
いつもより勢いをつけて自転車を
どうやら皆、他人の頭に乗っている猫が気になる様子。けど、それにしては妙な視線のような気がして、琴子は少し不安になる。そしてその原因は、教室に入った直後に明らかになるのだった。
がらりと扉を開いて、おはよう、といつものように挨拶をする。ぐるりと見渡せば、そこにいる猫、猫、猫! 愉快な光景に笑いが抑え切れなくて、にやにやしながらいつも一緒にいる友達の輪へ向かう。なんだか変だと気づいたのは、そのときだった。
お喋りをしていたクラスメイト達は、なぜかいきなり口数が減って、琴子の方を見ている。というより琴子の頭のあたりを。なんだろう、なにかおかしいかな、と怖くなったそのとき、どこかで聞いたような笑い声がした。
「ははは!」
それは先に登校していた幼馴染の奏太だった。腕白坊主が辞書から出てきたよう、とまで言われるほどに快活な彼は、琴子を指差してげらげら笑っている。
「すげぇ猫! 五段重ね!」
「え、うそ!」
弟の幸助とまったく同じように頭へ手をやると、ぬるりと滑らかな感触。一、二……五匹! 上から順番に触ると、一匹ずつ、にゃーと間抜けな声をあげた。なんだかへんな楽器のようで、皆がおかしそうに笑う。
奏太は能天気な顔で、琴子の一番上の猫をつまみあげた。不満げな、にゃー、が響く。
「めくってもめくっても猫だ」
「朝見たときはいなかったのに!」
悲鳴をあげてから、気づく。琴子の家族はお気楽で温厚な人間しかいないので、家で猫をかぶる必要なんてない。そういえば幸助も友達とメッセージを交わしているところで猫が出てきた。
いや、本当はわかっていたのだ。
きれいなお洋服や、面白いスマホのアプリになんて、本当は興味ない。自撮りは嫌いだけど、皆がやってるからしょうがなくやってSNSにアップしている。かわいいキャラクターの出てくるほのぼのしたゲームより、父や兄が家のテレビでやっているドンパチ戦うゲームの方が見てて楽しかった。
でも、仲間外れは嫌だから皆に合わせていた。自分が猫かぶりだと薄々気づいていたからこそ、人の猫が気になっていたのだ。
思わず周りを見渡すけれど、クラスメイトのかぶっている猫はせいぜい一匹か二匹、奏太なんてゼロ匹だし、五匹の猫はダントツだ。
猫かぶりだってばれてしまった。
なんだか皆が冷たい気がする。いつも一緒の友達も、ちょっとだけ距離が遠い。その一歩が二度と縮まることはないんじゃないかって、琴子は悲しくなって、目が熱くなる。猫も耳を伏せて、しおらしくなる。
「でも、いいんじゃないかな。別に」
泣き出しそうになるところで、奏太があっけらかんと言った。
なにがいいのよ、と涙で揺れる目を向けると、彼はいつもと変わらないよく通る声で続ける。
「どうせ、お前の中から出てきた猫じゃん。人に合わせて態度を変えるのだって当たり前だし、五匹でも十匹でも、かぶってるのが悪いわけじゃないってこと。……って姉ちゃんが猫まみれで言ってた」
その言葉は、思いのほか琴子を安心させた。
奏太も年の離れた姉がいる。少し怖くて琴子は苦手なのだけど、大人の女性の言葉は説得力がある。
そうだ。結局のところ、この猫は自分の中から出てきたものだった。どこか別の場所から借りてきた猫じゃない。悪いことをするために生まれた猫じゃないのだ。
奏太の姉による猫かぶり論は、近くで聞き耳を立てていたクラスメイト達にも響いたらしい。琴子をからかうように見ていた男子も女子も、どこかバツの悪そうな顔で黙ってしまう。
「それに、ほら、お前の猫は、他の猫より、かわいいよ」
「えっ?」
ぼそっと小さい奏太の呟きは琴子にだけ届いた。彼の似合わない台詞に驚いていると、いきなり教室の扉が開く。担任の先生がやってきたのだ。その直後、チャイムの音がして、そこかしこで猫が飛び上がる。
奏太にさっきの言葉の意味を聞きたかったけど、先生に怒られたくないので、そそくさと自分の席に着いた。そして担任の先生と向かい合った琴子は、目を丸くする。
先生は中年の男の人で、でっぷりとした身体と鋭い眼差しが特徴的だ。厳しいし、いつもチャイムが鳴る少し前に授業を始めようとするので、あんまり好かれてはいない。その先生も、猫をかぶっていた。いいや、かぶっているなんてものではなく、大きな身体のそこら中に猫がしがみついている。おしあいへしあい、肩と頭に積みあがった猫の頂上で、ひときわ大きくて
怖くて嫌われている先生に、愛嬌のあるでぶ猫の組み合わせはどうにもおかしくて、皆どういう風に向かい合えばいいのかわからなくておかしな表情になる。
ごほん、とわざとらしい咳払い。いつもはすぐに授業を始めようとする先生は、でも今日は様子が違って、静かに話し出した。
「今日は猫の日ですね。私もほら、この通り」
と言って、先生は自分の頭に手を伸ばした。どことなく不遜な顔つきの猫は撫でられて機嫌が良くなった、なんてことはなく、ぶすっと生徒をにらんでいる。
「
彼の目は、この教室では一番の猫をかぶっている琴子を見ていた。猫の数でからかわれた琴子を慰めているのだ。この先生、こんなに優しかったっけ、と琴子は驚く。他の生徒も隣の子と顔を見合わせたりしているけど、先生は皆の戸惑う様子を怒ったりせずに続けた。
「猫をかぶるというと悪いことのようですが、そうじゃない。その時、その場所に合った顔をすること。好きな人にカッコつけること。自分より年下の子に優しくすること。そういうポジティブな意味の猫かぶりもあります。大人だって同じなんですよ。私達のように、子供と接することが多い大人は、特にね」
立派な猫でしょう、と先生は自分の猫を撫で続けた。ちょっと不気味な光景だけど、なぜかいつもはうんざりしながら聞いている先生のお話を、皆は真面目な気持ちで聞くことができた。
もしかしたら今日は、かぶっている猫が表に出てきているから、素直でいられるのかもしれない。
先生は猫から手を離すと、出席簿でとんとんと机を叩いた。その柔らかい音が、浮ついていた皆の心を現実の教室に引き戻す。
「きちんと猫をかぶれる大人になりなさい。それができれば猫を脱ぐこともできる。そして互いに猫を脱いで話し合える人を見つけなさい。猫を横に置いたままで、面と向かって好きと言える人を見つけなさい。その人はきっと君達の人生で大事な人になるでしょう。猫の日に、私から君達に話せることはこれだけです」
では授業を始めます、と先生は何事もなかったかのように続けた。
猫をかぶるということ。そして、猫をかぶらないということ。その意味。琴子は思わず、奏太を見ていた。向こうも琴子を見ていたようで、ばっちりと目が合ってしまう。お互いに恥ずかしくなって俯いた。
そのとき、琴子は目の端っこに黒いものを見た気がした。いたずらっぽくて素早い、まるで猫の尻尾のような……。
少年の髪に溶け込むような、黒く小さい仔猫がにゃーと鳴いたことに皆気づいたけれど、それがどこから聞こえてきたのか、ついにわかることはなかった。精一杯に背伸びしていた少年の他には、誰も。
◇ ◆ ◇
夜の十二時を回れば、猫の日が終わる。夢か幻のように見えなくなった猫達は、けれど消えてしまうわけではない。
人と人とが向かい合うときに彼らは現れ、そしてどこかでにゃーと鳴くのだ。
【猫の日】みんなのかぶった猫が見える日 テイル @TailOfSleipnir
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