第4話 甘いオレンジ私を眠らせて
ネットでよく言われている言説を使えば――私がそれにこなれている、というわけではない。あくまでみなさんに分かりやすく伝えるための言葉の綾だ――私は「社畜」だと思う。異常な労働時間と拘束時間、そして低すぎる賃金の3拍子だ。だが、そんな私にも、この会社に来てよかったと思える瞬間が1日に1度だけある。それは、誰もいないフロアで1人ゆっくりとコーヒーを飲む時間だ。
この時、まだ寝ぼけている世界で、私は優雅に人々の先を歩いている。あと30分もすれば使い勝手のいい雑用として虐げられる苦痛が始まるが、この瞬間だけは、私は一番でいられるのだ。
冬の太陽と目があった。あなたと私、どっちが早かったかしら。ブラインドから差し込む光が、必死に自己主張している。どこか、私に――由香に、似ていた。
最近、由香のことばかり思い出す。一応、1月に1度は献花しているが、それだって本当は惰性のようなもので、深い意味などなかった。なのにこうして毎日彼女のことを考えるようになったのは、おそらくあのニート君のせいだと思う。
あのニート君のように、生きていることに余裕のある人間と由香が対照的に感じられるのだ。あの男のメールの文面から感じられる生への
おっぱいはあるから、という彼女の言葉は、間違いなく生き続けようとする彼女の反感だった。誰かに認められようとする、彼女の。
今となって――本当に今となって言うのは卑怯だと思うが、私なら彼女の死臭を感じ取ることができたのではないかと思う。彼女の友人は私だけだったのだから、私が気づいてあげるべきだったのだ。彼女は、彼氏との関係というヒントを私にくれていたのに。
それに、彼女は最初から――出会った時から、死にたいと言っていたのに。
「おっ、今日も早いね」
2年間続く、上司の嫌味だ。そういう風に仕向けているのはどこの誰か問い詰めてやりたい。何年か前に人事異動や人員補充の希望を出したが、すべてこの男に却下された。
禿散らかした肥満体質の男、広田は、私が朝一番に開けた倉庫からファイルを取り出すと、特に確認事項もないくせに(すべて私が確認して申し送ってある。そのダブルチェックをしてくれる人材はない。いるのにしない)仰々しい溜息をつきいやに丁寧にページをめくり、ゆっくりとした動作でファイルを戻す。そしてトドメの一言、
「もちろんもう申し送りは終わっているよね? 今フォルダにファイルを入れておいたから、よろしく頼むよ」
はい、と短く返事をして、指定されたフォルダを開く。10、20……うんざりするほどのファイルが羅列してある。昨日のうちに指示してくれれば、こんな多くの負債を抱えずに済むのだが、この男はいつも翌日の朝にしか翌日の仕事を依頼しない。昨日は昨日の仕事がある、ということもあるのだが、この男は、私の仕事がこの部署の中で最後に終わるようにわざと仕向けているのだ。
現状を変えようとしない、腐った職場だった。
誰か1人に責任を擦り付けてさも全体が助かったかのような顔をするのは、間違っている。
現実でも、
「おはよーございまーす」
少し間の抜けた声がして、私ははっと顔を上げる。三国しなのが、私の向かいに腰かける。私と広田だけだった空間は、いつの間にか朝の慌ただしさに呑まれかけていた。
女の嫉妬、などというとみなさんの反感を買うかもしれないが、私はこの三国という女がどうも好きにはなれなかった。彼女は私の数倍手際が悪く、態度も悪い。だというのにその持ち前の(過剰すぎるほどの)愛嬌と肉体で、疲れた中年を癒し、お褒めにあずかり、ちゃっかり甘い汁を吸っているのだ。
**
「どーしたんですか、私の顔に何かついてます?」
昼休憩の時、三国が私に言った。私が困ったように笑うと、彼女は私の真似をするように曖昧に笑った。その時、彼女の大きな胸が揺れ、なんとも言えない感情が巻き起こった。
いや、私はこの感情に名前を付けなければならない、と思った。わずかな感情の動きに鈍感になれば、人生の大事な瞬間を逃してしまうような気がした。
これは、嫉妬? 正直に言えばそれもあったが、もっと違う感情が渦巻いていた気がする。そうだ、これは懐かしさだ。
「私、生きるのめんどくさくてさ、もし良かったら、一緒に死なない?」
あの日、馴染めない人たちの救済の地として存在していた保健室の片隅で彼女が笑った時、その笑みに呼応して彼女の胸も躍っていた。まるで、私は生きたい、と性の根源が話しているかのように。
おっぱいはあるから、と彼女は言った。私はその時、「そうだよ、もっと自信もちなよ。ない人だっているんだから」と自嘲的に励ましてあげればよかったのだ。その冗談めいた一言で、彼女は自信を取り戻し、息を吹き返したかもしれないのに。
彼女はもう、睡眠薬の海の底から眼を覚ますことはない。
馬鹿ね、と風に訴える。
おっぱいはあっても、生きてくれなかったじゃない。
三国のタバコの煙がゆらゆらと立ち上った。私も火をつける。
「珍しいですね、伊藤さんが私と一緒になるなんて」
「そう?」
私は内心どきりとしながら、こともなげにタバコを吸う。おいしくはないのに吸ってしまうのは、依存性が強いからだと知っている。
「そうですよ。あ、伊藤さん、申し訳ないんですけど」
と大して申し訳なくなさそうな声。次に言われることは分かっている。
「あたし今日約束があって、定時に帰らなきゃダメなんです。でも仕事が溜まってて、伊藤さんどうせ最後までいるだろうし、お願いしてもいいですか?」
どうせね、と広田のファイルを思い出しながら思案した。もしかしたら今日ここを出るのは0時を回った後かもしれない。
なんで断らないの、と由香の声がする。ううん、これは幻聴だ。
怖いの? うるさいな、私が何を怖がっているというのか。
私は帰りを待ってるよ。それはこっちのセリフだって。
さすがに疲れているのかもしれない。甘いもの、柿でも食べたかった。
「いいわ。社内フォルダに入れといて」
「やったぁ! ほんとに伊藤さんっていい人ですねー!」
私はさっき三国がしていたように曖昧に笑い、スマホを取り出す。メールが1件届いていた。
『今何してる?』
午前10時15分に送られたメールだ。
仕事に決まってんだろ、糞ニート。
活けられていない花瓶 @moonbird1
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。活けられていない花瓶の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます