第3話 黒いあの実は一緒に死のう

 「オナニーですね」という彼の言葉を見た時、私は小川由香のことを思い出していた。


 彼女は生前、「おっぱいはあるから」とよく口にしていた。当時彼女には付き合い始めたばかりの彼氏がいて、でも浮気されているかもしれない、と物憂げだった。


 「付き合い始めたばかりなのに?」


「うーん、もしかしたらあまり好かれていないのかも。でも私、おっぱいはあるから」


 そう言って彼女は勝ち誇ったのだった。その姿は、10年近く前、高校生だったころの彼女を思い起こさせた。


 彼女は数か月前、睡眠薬を過剰摂取して死んだ。25歳だった。


 彼女の両親は、唯一の友人だった私に、何かトラブルはなかったか、としつこく訊いた。私が思い当たるのは彼氏との関係だったが、私に告げていない他の悩みがあったかもしれないので、それは告げなかった。どちらにしろ、辛さは本人にしか分からない。


 死人に口なし、とはよく言ったものだ。今彼女の墓の前で問いかけても、彼女は教えてはくれない。


 由香の彼氏と名乗る人物は、葬儀には現れなかった。冷淡な気もしたが、付き合い始めてすぐなのだったら、来ることが不自然にも感じられた。


 生命の危機が感じられた時、種の保存のために性欲が高まるという。由香はあの時、無意識に生きようとしていたのだろうか。人間であることを、諦められずにいたのだろうか。高校の時、保健室で出会った彼女は、どこで買ってきたのか菓子パンをくわえながら私に言った。


 「あなたも、辛くてここに来たの?」


咄嗟に答えることができなかった。彼女は続けて言う。


 「私、生きるのめんどくさくてさ、もし良かったら、一緒に死なない?」


笑えないジョークだったが、彼女は満面の笑みだった。もしかしたら彼女は、初対面の私を試していたのかもしれない。


 、ということを。


 「一緒に死のう」という花言葉があることを思い出した。あれはたしか、クワだ。


 あの時彼女が食べていたパンは、とてもとても甘そうだった。



**


 私はニートという存在が嫌いだ。好きな者などいないかもしれないが、とにかくニートは悪だと思っている。それはなぜか。


 ニートは自活できない。何者かの支援を受けなければ、その日暮らしだってままならないのだ。ニートという人種は、他人におんぶにだっこされておきながら、その恵まれた環境に甘んじて努力を放棄した愚かな人間だ。


 世の中のほとんどの人間が働いている。なのに働かないなんて、ずるだ。


 だから私は、「ニート」と名乗る男が現れた時、心底腹が立った。それと同時に、やはりネットに生息する人間、とりわけネットの人間と繋がろうとする人間のスペックなどその程度だという予想通りの結論に達した。……と、ここまで思案しておいて、それはということに気づかされる。類は友を呼ぶ、と言うが、私もニートと同類なのかと考えると嫌気がさす。


 いいや違う。私にはやり遂げなければならないことがある。それは誰よりも早く出勤し、誰よりも遅く帰り、上司に怒鳴られ、嫌味を言われ、くだらない女の派閥に巻き込まれることかもしれないが、その苦痛はなにより、


 私が生きていることの証明だった。


 人は誰しも証明を欲しがる。生きてきた証を欲しがる。社会に参画し、社会に認められ、社会の中で生きがいを見つけたがる。それはあのニート君だって同じなはずだ。彼は現実から、自分の欲求から逃げているだけに過ぎない。


 私は立ち向かっている。私は生きている。


 


 それを全人類が知るべきだと思う。生きることの重圧、辛さ、怒り、憎しみ、――それは喜びや楽しさなんかよりも簡単に手に入り、何よりも確かな称号だ。


 仕事がいかに辛いことか、ニート君に教えてやりたかった。だから私は長文のメールを送ったのだ。社会に交わるということは、これほど苦しいことなのだ。みんなやっているのだ。


 、ということなのだ。


 私は半ば狂乱しながらメールを送った。何に怒っているのか、自分でも分からなかった。


 由香は最後に会った時、生きていても楽しくなんかない、と漏らしていた。


 そんなのみんな知っている。だけれどみんな生きているのだ。


 由香のしたことは、抜け駆けだ。地獄でたっぷりしぼられるがいい。


 ニート君から返信があった。そんなに辛いなら辞めればいい? この男、何もわかっていない。


 なぜか私は泣いていた。由香の墓の前で泣いていた。由香は友達が少なく、親を除けば私しか献花する人はいなかった。


 一緒に死のう、なんて逃げの思考だ。私はこの世界で、私の称号しるしを手に入れてみせる。

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