蟻との会話

酒井小言

第1話

   一


 十月初旬のある日の朝、一人の男が目を覚ました。秋の始まりを感じさせる寒さにおそわれ、六畳の和室はひんやりと静まっていた。坪庭の覗(のぞ)ける大きな窓からは明るい陽が射しこみ、塵(ちり)を浮かびあがらせていた。


 男はこきざみに目をこすり、汚れていない掛け布団(ふとん)の中で、仰向(あおむ)けのままぼんやりと天井を眺めていた。早朝の寒さが身に沁みて寝床から出られないわけではなく、日頃の習慣らしく頭が働いているようで、自分の体があることさえ気がついていないようすだ。


 数分後、男はゆっくりと体を横に向けた。畳には一匹の小さなヒメアリが歩いており、精密機械のように触覚を上下左右に動かしていた。男はヒメアリに気がつき、じっと見つめた。


「ああ、おはよう、小アリさん、きみは朝っぱらだというのに元気に働いているね、 ・・・・・・いや、じっさい元気かどうかわからない。立派に働いているようでなまけているのかもしれない。でも、つかれたようすもなくちょこまかと歩くすがたをみていると、そんな気がしてしまうよ」


 琥珀(こはく)色をした胡麻(ごま)粒ほどの大きさのヒメアリは、一定の速度で歩いていた。男は横顔を枕にあてたまま、小アリの動きを目で追った。


「ねえ、きみは眠れないことはあるかい? いや、ないだろうな、きみは虫だから考えることもできなければ、自分の行動をふりかえることさえできないだろう」


 ヒメアリは敷(しき)布団に近づいていた。男は坪庭に目を向けた。


「働いているところ悪いんだけどさ、すこし話を聞いてくれないかい? べつにかまわないだろう? この部屋ではきみが必要としているものはみつからないだろう、この部屋にいる時点で、迷子のようなものだからね。まあ、きみはそんなことに気がついちゃいない。それに、そんなことはどうだっていいだろうしね」


 ヒメアリは動きを止めて、触覚を左右に振る。男は布団の中から両腕を出して、右肘で上半身を浮かせるように持ち上げ、左手で体を支えたまま、右肘を枕に立てて頬づえをついた。


「昨晩はなかなか寝つけなかった。昨日は、朝から京都市内を観光したというのにね。ほら、この部屋に住んで一ヶ月経つというのに、嵐山以外ははまるで観光していないからさ、 ・・・・・・そういえば、昼下がりに伏見稲荷大社の竹林を歩いていたら、坊主頭のブラジル人の男に声をかけられたんだ。背が高く体格はがっちりしていて、有名なサッカー選手に似ていたよ。その男はタイに住んでいて、一ヶ月前から日本に来ているらしく、九州と四国を観光したと言うんだ。それでその写真をみせてもらったんだ」


「三十分ぐらいしてさ、話を聞くのも飽きたからお礼を言って歩きはじめたんだ。すると、いったいなにを気に入ったのか知らないが、自分のうしろをついてくるんだ。ぼくが山の上まで歩くと言うと、ブラジル人は笑顔を浮かべて『自分も行くよ』みたいなことを言うんだ。 ・・・・・・それから午後は一緒に行動するはめになったんだ。言葉がたいして通じないのにね」


 ヒメアリは敷布団に登り、前に進んだかとおもうと、動きを止めた。男は下目にヒメアリを見ていた。


「ほんとうは一人で観光したかったんだ。 ・・・・・・ほら、だれかと一緒に行動すると互いの意見がぶつかり、自分の行きたい場所へ行くことができないことがあるだろう? たとえ行くことができたとしても、それほど意味をもたない会話がじゃまをして、周囲への注意をそらしてしまい、景色をじゅうぶんに味わうことができなくなる。ぼくは観光しにきたのであって、観光名所でおしゃべりしにきたわけじゃない。 ・・・・・・くだらないおしゃべりをするのなら、観光名所じゃなくて居酒屋にでも行くべきなんだ」


 ヒメアリは敷布団のうえにおちている髪の毛のそばをうろうろしている。


「まあ、そんなことはどうだっていい、ただ、昨晩は心身ともに疲れていたんだ。それなのに、朝方ちかくまで寝つけなかったんだよ。今日は、朝からブラジル人と一緒に観光する、いや、おしゃべりをする約束をしてしまったというのに・・・・・・ まったく、安易な返事をしてしまったよ」


 ヒメアリは畳に向かって歩きだしていた。男は大きく息を吐いた。


「まあ、そんなこともどうだっていいんだ。寝つけなかったのもべつにイヤなわけじゃないし、むしろ、寝れないことが喜びでもあったんだから」


 男は腹ばいになり、両肘を敷布団に立ててヒメアリを見下ろした。ヒメアリは精巧な体を動かしていた。


「きみには心から好きな人がいるかい? いや、好きなアリか。 ・・・・・・おそらくいないだろう。しょせん虫だ、そんな感情は持ちあわせていないだろう。きみは働きアリかい? もしかしたら、女王アリなら母性本能のかけらぐらいはあるかもしれないね。まあ、そんなきみに話してもわかるわけがないだろう・・・・・・ でも、聞いてくれるかい?」


 ヒメアリは畳の間にそって歩き、掛け布団から離れた。男は枕元にころがっているボールペンを手に取ると、小アリの進む先へそっと置いた。


「好きな人がいるんだ。ぼくは明日、その人と会う約束をしている。そのことが数日前から頭のなかを侵して、休まることない追憶と空想が繰り返されるんだよ。その人に初めて出会った瞬間の記憶から始まり、断片に散りばめられたその人とのふれあいの場面を、順々にではなく、手あたりしだいに浮かびあがらせるんだ」


 ヒメアリはボールペンへ直進せず、斜めに歩いた。


「その人に初めて出会った当時のことは忘れもしない・・・・・・ 三年前、ぼくは名古屋で開催されていた“愛・地球博”内にあった飲食店の管理をしていた。知人から誘われて、四月の末から働いていたんだ。それまでなにをするわけでもなく、ただなんとなく生活をしていたから、気分転換になればと思ってね」


「最初は慣れない土地のせいか、それとも内気な性格のせいか、戸惑ってばかりいた。今までにつきあったことのない若い学生ばかりでさ、職場の人間とどんな会話をしたらいいかわからず、どういった態度をとればいいか悩んで、会話をすることを避けていたんだ。 ・・・・・・けれど、三ヶ月もすると、しぜんと職場の人とは打ちとけた仲になり、頭で考えることなくスムーズに会話することができて、すっかり新しい環境に慣れていたんだ」


「初夏のころだったと思う。生活になじんできたころ、一人の女性と知りあった。その人はぼくの理想とする容姿ではなかったけれど、とにかく気が合った。自分をかざる必要がなく、自然体のまま接することができた。無理をしないのが何よりも楽なのだろうね。それから休みの日に二人きりで出かけたりするようになり、なんとも思っていなかった女性の献身(けんしん)的な態度が積み重なり、気がついてみれば、その人の愛情を鏡にうつすようにぼくはその女性を愛していたんだ」


 ヒメアリはボールペンの先端から登り、ジグザクにボールペンのはらを歩く。


「その女性とつきあうことになり、仕事も順調にこなし、公私ともにうまくいっていた真夏の夜だった・・・・・・ レジの清算に立ち会うため、閉店間際の店にかおを出すと、シフト管理を受けもっていた青年が、店の外に置いてある横長の冷凍庫にひじをつき、見たことのない女性と会話をしていた」


 ヒメアリはボールペンのキャップから畳へ降りた。


「それが初めての出会いだった! 首が長くほっそりとした体のあの人は、肩にかかる栗色の髪の毛をたらしたまま、やわらかい笑顔をぼくにむけた。白い顔はうっすらと化粧され、薄いピンク色の唇をしていた。丸っこくて小さな顔だけど、余分な肉はついておらず、あっさりした顔のパーツのなかでも、切れ長のやさしい眼が特に印象的だった。どんな会話をしたかは覚えていないけど、その時の映像が鮮明にやきついてしまい、それからいくどもフラッシュバックさせられた。夜空には雲ひとつなく、外灯に羽虫がとびかう蒸し暑い夜だった」


 男は掛け布団のそばにある手帳を左手に持ち、ヒメアリの前に置いた。ヒメアリは手帳の前で三秒ほど動きを止めると、すんなりと登りはじめた。それを見て、男はヒメアリが乗った手帳を敷布団のそばに置いた。


「その時、その人が新しいアルバイトだと知った。それからその人のことがなぜだか、気になってしかたがなかった。仕事を手伝うことになるので、さほど足をはこぶことのなかったその店にも頻繁(ひんぱん)にかおだすようになり、あの人のすがたを厨房で見つけては、仕事中なのにたわいもないことをおどけて話し、ソフトクリームやポップコーンを作る手伝いをした。キャラメルの量を通常の倍ちかく入れたポップコーンを作り、自分で食べるためにわざと客にだせないような形の悪いソフトクリームを作り、厨房でふざけあったりした。あの人と会話できること、ただの喜びを覚えながら」


「だからといって、あの人に恋心を抱いているとは思いもしなかった。献身的な女性とのつきあいは何一つ不満なく、驚くほどうまくいっていたし、心から愛していたのも事実だった。それでも、職場の飲み会があれば、まっさきにあの人の前の席についた。“愛・地球博”内のパビリオンでパーティーがあれば、ビールを両手に持ってあの人のすがたをさがした。 ・・・・・・そうそう、オーストラリア館のパーティでもそうだった。酒で盛りあがり、仲間がいきおいで池に飛びこんだときも、つきあっている女性がそばにいたにもかかわらず、ひそかにあの人に自分の貴重品をわたしてから飛びこんだ。 ・・・・・・でも、何もなかったんだ。あの人と接するだけでじゅうぶんだったから」


 ヒメアリは均整のとれたとげのような足を素早く動かして歩き、再び掛け布団に降りようとした。


「やがて万博は閉幕を迎えた。ぼくは海外へ旅行に行くと、その人のことはしだいに忘れていった。旅行の最中になんどか連絡をとったことはあったけれど、万博当時のような盛りあがりはなく、遠く離れた友人に近況を報告するていどのものだった」


「そして日本に戻り、ペンキ屋で働きはじめると、忙しい仕事におわれて、あの人のことを思いだすことはすっかりなくなってしまった。そんな生活がつづき、一年が経とうとしていた三月の暖かい日、ぼくはインドのゴアでおぼえたアシッド(LSD)を朝から使用したんだ。アシッドは自分にとってどういう関係なのか見極めたくてさ、そのころは毎週休みがくるたびにためしていたんだ。 ・・・・・・きみ、アシッドを使用したことがあるかい? あれは使い方によっては非常に有効な代物だよ。ぼくの知った人間の多くは野外パーティーで使うことが多いけれど、あんなうるさいところで使用するのはもったいない! 気持ちよく踊るために使う? それはそれで楽しいけど、そんなのはただの原始的快楽者でしかなく、獣のようなものじゃないか。ぼくは人間だからね、きみにはない思考する能力を使いたいんだ。踊るのも好きだけど、ぼんやりと景色を眺めて、空想にふけるほうが好きなんだ」


 ヒメアリは敷布団を登り、枕元に近づいた。男は掛け布団をはねのけて、胡坐(あぐら)をかいてヒメアリを見下ろした。

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