第2話

「その日は春を感じさせる陽気だった。 ・・・・・・ぼくは働いていたペンキ屋が借りているコンテナのなかでアシッドを食べて、一人で絵を描いていたんだ。ほら、アシッドを使用すると、突然映像がとびこんでくることがあるだろう? イメージはより鮮明に、稲妻のようにはっきりとのこり、あふれだすように筆がすすむんだ。それは絵を描く者にとったら邪道かもしれないけど、自分で楽しむだけなら誰にも文句を言われることではないからね。アシッドと絵画との相性は恐ろしく良い。きみも機会があったらためしてごらん? ぼくは美術館へ行くことをおすすめするよ。アシッドを食べてムンクの『マドンナ』を見たときは壮絶だったよ・・・・・・ ただ、あまりの巨大さにふれてしまい、神経をいためないように気をつけるんだよ。そして、あまり挙動不審にならず、出口を間違えないようにね」


 ヒメアリは枕に曲線を描いて歩いていた。


「いやいや、そんなことはどうでもいいんだ! 肝心なのは、アシッドを使うとニュートラルに戻ることなんだ。ぼくはアジアを放浪していたからわかるけど、忙しい日本の社会で生活していると周囲の環境にのみこまれ、大切なことを忘れてしまうんだ。自分がなぜ働くか考えることもなく、ただ、強迫観念につき動かされるようになってしまうんだ。そんな状態で生活していると汚れがたまっていく。精神への汚れとでもいうのかな、休まることなく神経を使っているせいで、擦(こす)れたかしょに汚れがこびりつき、在るべき人間としての感覚を失ってしまう。そうなると、目の前のことばかりにとらわれてしまい、せまくなった視野では大切なことが見えなくなるんだ。ちなみに大切なことを説明するのは難しいから、『バガボンド』にでてくる“沢庵坊”の話を参考にしてほしい。“沢庵坊”といっても、“武蔵”が七十人斬りしたあとにでてくる“沢庵坊”だよ。 ・・・・・・でも、きみはマンガを読めないか・・・・・・ まあ、いいや。でも、視野がせまくなるのは社会で生活しているかぎり、しかたがないことなんだろうね。だから、アシッドを使って神経の汚れを洗いながす必要があるんだ。アシッドはいわば、死を身近に感じることだ。死にちかづくことで、普段見慣れてしまったものは新鮮さをとりもどし、存在することのありがたみを実感するんだ。他の人はどうか知らないけど、ぼくはアシッドをそう解釈している。 ・・・・・・それにしても、きみを見ているとアシッドは必要ないだろうね、汚れることがなさそうだもんな。まったく人間ときたら・・・・・・」


 ヒメアリは枕の端(はし)をこびりつくように歩いていた。


「それはともかく、絵を描くのに飽きたあと、アスファルトに腰をおろし、背中をコンテナにもたせて雲を眺めていたんだ。小さな山の頂にコンテナがあって、ちかくにはTBSのスタジオがあるけど、自然が残っているところでさ、周囲は梅林がひろがり、はだかの木々に淡紅色が点々としていて、牧歌的な雰囲気がただよっていた。かすかに肌をやきつける陽射しがコンテナとアスファルトを温め、草花の香りをふくんだ風がとてもここちよかった。そのあたりの土地でもっとも景色が広い場所にコンテナはあったんだ」


 ヒメアリは再び枕の裏へ移動した。男はゆっくりと枕をひっくりかえした。


「活き活きとした色の映えた景色にかこまれ、青い空に浮かぶ白い雲の変化を眺めていると、突然あの人の顔が脳裏に浮かんだんだ。 ・・・・・・すると、急になんともいえない気持ちがおそってきて、胸が苦しくなったんだ。そしてすぐに、はっきりと気がついた、(ぼくはあの人が好きなんだ!)。顔はほころび、生きているのがとても幸せに感じたよ。手塚マンガのキャラクターみたいに、光に風、雲、草木、動物に語りかけたくなったよ。 ・・・・・・ところが、もう一度あの人を想うと、うれしさと悲しさが同時におそってきて、なんともせつなくなったんだ。人間の感情は複雑なもので、原色を混ぜあわせてまったく別の色を表すように、ことなる楽器の音色・音階をあわせて和音が響くように、さまざまな感情が重なり、ある特殊な感情が生みだされるんだ。それは、あの人を想うことでしか生みだされない、たった一つの感情なんだ」


 男は再び枕をひっくり返した。


「それからだよ、あの人のことを想うようになったのは。ぼくはあの人が好きだ。けど、あの人を手にいれたいとは思わなかった。仕事が理不尽に忙しい時や、何事もうまくいかなくて嫌になった時も、あの人を想い、長い人生の合間の息抜きである休息を、誰にも知られることなく、ひそかに味わっていたんだ。 ・・・・・・それでよかったんだ、たまに夢に現れて、心を騒がすこともあったけど、ぼくはそれを、その感情を愛していたんだ、(あの人がこの世に存在している!)それだけでじゅうぶんだったんだ」


 ヒメアリは枕から降りて右の前足を浮かせると、触覚を左右に振った。


「ところが約一ヶ月前、仕事を辞めて今の部屋に移り住んでから、あの人はひんぱんに夢に現れるようになった。夢を見た日の朝は、ふわふわと浮いた幸福感がただよい、夢うつつにあの人の記憶をかみしめて味わった。あの人は黒と白のボーダー柄の長袖のシャツを着て、細い両腕を曲げて、紺色のハット帽をおさえて笑っているんだ。 ・・・・・・んっ?」


 布団の上の黒い携帯電話が震えたのを見て、男はいやらしく顔をしかめると、素早く手に取ってその動きを止めた。


「仕事をしていたころは、あの人への恋慕がまるで特効薬のように、生活を安定させていたんだけど、やるべき義務のない以前よりも自由な生活ではね・・・・・・ 麻薬のようにじわりじわりと心を侵していったんだ。ほら、今は考える時間がたっぷりあるだろう? あの人を想ってばかりいると、それが身近な習慣になってしまうんだ。きみ、大麻を日頃から吸っていたらわかると思うけど、朝から晩まで吸っていると、効きがずいぶんと弱まるんだ。ひさしぶりに吸ったときのようにすーっと体に染みいることはなく、いくら吸ってもわずかに感覚が変化するだけで、頭は常に重く、意識がはっきりせず、体は泥の中を動いているかのようなんだ。それでもやめられない。あればある分だけ空気同様に吸ってしまう。まさに悪循環さ」


 ヒメアリは畳を歩いては動きを止め、再び歩いては動きを止め、同じ動作を繰りかえしていた。


「耐性っていうのはある意味では厄介なものだよ。それがなければいつも新鮮でいられるのにね。でも、耐性から逃れることはできないし・・・・・・ そうそう、大麻に慣れてしまった場合どうすると思う? 人によってパターンはいろいろあるだろうけど、自分の場合は酒を合わせて気分を変えようとするんだ。もちろん、そんな時は大麻を吸う一回の量が通常の倍ちかくに増えているよ。ところが、酒を飲んだってただの気休めにもならず、根本の解決にはならない。またすぐに満たされなくなる。結局、おなじことなんだ。 ・・・・・・だから、追いこまれたねずみのように、考え方を変える必要に迫られる。(大麻が手元にあるから吸ってしまう、なら、大麻を手元からなくしてしまえ!)それから吸うペースは急激に上昇曲線を描く。むだとわかっていながらも、坊さんの苦行のように吸うんだ」


「それといっしょで、あの人への追憶もひんぱんに繰りかえされるとね・・・・・・ 飽き足らず、さらに欲しくなるんだよ。いつもおなじ記憶ではもの足りないから、新鮮な記憶が欲しくなってしまう。たまにふたを開けて楽しむぐらいならこうはならないのに、感情への欲求はそううまくいかない。胸の内にはあの人を想う感情が大胆に座を占めてしまい、熱さと冷ややかさを持って自分をさらにかりたてるんだ」


「あの人に会おう! そう思いはじめたころ、タイミングよく万博当時の同僚と飲む機会にめぐまれたんだ。(あの人に会えるチャンスだ! これは神様からの贈りものだ!)ぼくは思ったよ、あの人の連絡先をうしなっていたから、その場であの人に会えるかもしれないと喜んだよ」


 小アリは歩き、布団から離れてしまう。


「それで先月末名古屋へ行き、飲み会に参加した。期待していたあの人はいなかった。でも、それでかまわないとも思っていた。いれば最高だったけど、そこまでは望んでいなかった。ひさしぶりの再会が飲みの場では味気(あじけ)なかっただろうし、それに同僚との再会を純粋に楽しみたかったしね。なにせ、あの人の連絡先を手にいれればよかったんだから・・・・・・」


「それで次の日の昼前、心臓の音にせかされて、手に入れた番号に電話をかけたんだ。電話にでなかったらどうしようと思ったけど、それからさきのことはなにも考えていなかった。七コールぐらいしてからだろうか、あの人は電話に出たんだ! それはもう歓喜そのもだよ! 小川のせせらぎのように流れるあの人の口調は以前と変わらず、気品とゆとりを秘めていて、切れ長でやさしい眼が頭に浮かんだ。馬鹿なことに、ぼくはあの人の声を聞いただけですっかり舞いあがってしまった。前日の飲み会のことをだしにして、自分の気持ちを悟られないよう、おどけた調子でその日に会えるか聞いてみた。 ・・・・・・つごうが悪いらしく、断られてしまった。まあ、それでも良かったんだ。声を聞けただけで、ぼくは幸福の絶頂(電話はつながった、会う機会はいつでもつくることができるぞ!)だったんだから。電話で声が聞けた、そのことがなによりもうれしかった。長話をしたいところだったけど、その日はそれ以上望むことはなかったからすぐに電話を切った。そして、ぼくは持っていた傘をふりまわして、どんよりとした灰色の空と無機質なビルに囲まれた錦の街を軽快に歩き、名古屋駅へ向かったんだ」


 ヒメアリは六畳間の片隅に置かれた十四インチのテレビに近づいていた。男は携帯電話を開くと、首をわずかに傾げたまま、憎らしげに画面をながめた。骨ばって痩せた腰を重そうに上げて立ちあがり、坪庭の覗く窓に近づいて、そっと窓を開いて顔をしかめた。


「まったく、昨日同様、今日も天気がよさそうだ。明日あの人に会えるというのに、なんでブラジル人と観光する約束なんてしてしまったんだろう? 一人でもの思いにふけながら観光できればいいのに、言葉もろくに通じない人間に気をつかって一日を過ごすなんて・・・・・・ まったく、自分を汚すようなものだ。それに、こんな気持ちでは相手にも失礼になるだろう・・・・・・ でも、短い滞在の旅行者との出会いを大切にして、相手の思い出に色をそえてあげたいと思ってしまったんだ。(ほんとうは一人で観光するのが好きなんだ。 ・・・・・・もうしわけないけど、あなたとは一緒に観光できない)はっきりと言えば良かった。これだから遠慮がちな日本人の気質が嫌になる! けれど、くったくのない笑顔の、大きく澄んだ眼を見ると、そんなことは言えない。それに上手に断る言葉をもっていないし、奴隷気質なぼくには、そんな勇気はない。まったく!」


 男は振り返り、眉間に皺(しわ)を寄せて細い眼でヒメアリをちらっと見下ろし、押入れの扉を横に開いた。水色の半袖シャツを手に取って着がえた。色あせたジーンズの裏ポケットに札を入れ、長い髪をかきあげて黒の鳥打帽(ハンチング)をかぶり、腰を屈(かが)めて布団の上の携帯電話を手に取った。ヒメアリはテレビ台を登っていた。


「小アリさん、きみは考えることができないだろう。 ・・・・・・ぼくは、それがうらやましくもあるし、かわいそうだとも思う。けれど、きみはしょせんアリだ。 ・・・・・・さようなら」


 男はドアを開けて、部屋の外へ出た。ヒメアリは触覚をまわすように動かしつつ、精密機械の体はテレビ台を一定の速度で移動した。

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