第3話

   二


 昼間の暖かい風は冷たさを取り戻すと、坪庭は次第に影に覆(おお)われて、射し込んでいた光は赤みを帯びた。部屋の空気を吸いこんでドアが開かれ、口元を緩(ゆる)ませた細い体の男が入って来た。男はジーンズの左ポケットから小銭を取り出して、簡素な黒い机の上に積み重ねて置くと、大窓に近づいて上方を見上げた。窓ガラスと障子(しょうじ)戸を閉め、部屋の灯(あかり)を点(つ)けた後、携帯電話を布団(ふとん)に放り投げて横になった。


「あああ、疲れた・・・・・・」男は顔を枕に埋めたまま、確かめるように、大きく、静かに、ゆっくりと呼吸をした。


 数分後、男は顔を持ち上げて体の向きを変えると、畳の上に一匹の小さなアメイロアリを見つけた。


「ああ、小アリさん、きみはまだこの部屋の中をさまよっていたのかい? すっかり迷子になってしまったようだね。 ・・・・・・ん、おや? 朝の小アリよりも体が大きいぞ、ひょっとしたら別のアリかな? そうかもな、週に二回は見かけるし、一昨日も見かけたもんな・・・・・・ もしかしたら、この部屋はアリ達のテリトリーなのかもしれない。まあいいや、せっかく出会ったのだから、ぼくの話を聞いてくれるかい? 今朝、きみの仲間は聞いてくれたんだ、かまわないだろう?」


 淡茶色のアメイロアリは、大空の遠くに見える飛行機のように歩いていた。


「やっぱり、よほど気の合う人以外とは一緒に観光しちゃだめだね。足なみがそろわないというか、ペースが合わないというか・・・・・・ ささいな行動のずれが重なって、神経は痛んでしまうよ。もし誰かしらと観光することになったら、あれだね、理想は二時間だけど、四時間が限度だろう。でも、気の合う人だったら何時間一緒にいても、てんで苦にならないんだろうな・・・・・・」男は素早く体を起こし、胡坐(あぐら)をかいた。


「朝、ブラジル人と合流して、銀閣寺のそばにある哲学の道へ向かったんだ。というのは、昨日ブラジル人と話していて、その場所をおすすめしてくれたからだ。ほら、ぼくは京都の観光が足りていないだろう? だから、口コミを信用して、早朝から一人で向かう予定だったんだ。きみ、観光をぞんぶんに楽しめる時間帯って知っているかい? それは早朝と日暮れさ。その時間帯は人がめっぽう少ないから、喧騒に気をとられることなく、静かに場を味わうことができるんだ。それなのに、一緒に行こうと誘うブラジル人の言葉を安受けあいしてしまったから・・・・・・」


「それで、丸田町通を自転車で走っていたんだ。五分ぐらいすると、ブラジル人の乗っていた自転車から金切り声がなりだしてね、『こぐのが重い!』と言うんだ。原因がわからないブラジル人のかわりにしらべてみると、右のブレーキが“ききっぱなし”の状態だった。それで、そのままじゃ今日の観光に支障がでるから、自転車を借りた店まで戻ることになったんだよ」


 男はメモ帳を手に取り、アメイロアリの前に近づけた。アメイロアリは止まり、体の向きを変えて歩きだした。


「それぐらいならべつにかまわない。寝不足とあの人への想いで頭はかたまっていたから、自転車をこいでいるのが楽だった。 ・・・・・・それが、店に近づいたところで、ブラジル人はこんなようなことを言いだしたんだ。『昨日の疲れがのこっていて、自転車をこぐのがつらい。哲学の道ではなく、電車に乗って鞍馬山へ行かないか?』 ・・・・・・ねえ、きみ、ぼくはどう考えたと思う? こう考えたんだ(ああ、それならけっこう、鞍馬山へ行きたいのなら、ぼくにかまわないで行ってくれよ。ぼくはぼくで哲学の道へ行くからだいじょうぶさ。無理して一緒に行動する必要はないから、お互いの意志を尊重して、自分の行きたいところへ行こう。だから、気にせず鞍馬山へ行ってくれ)。今日の夕方までブラジル人と過ごすことを覚悟していたから、こんなに早い時間から解放されるとは思ってもみなかった。ぼくはブラジル人の言葉に喜んで、こう答えたよ『ぼくは哲学の道へ行くよ』とね」


 男は手帳を再びアメイロアリの前へ置いた。今度は先ほどよりも間隔が空いていた。


「そうしたらさ、ブラジル人はどうしたと思う? 遠くを見つめだしてさ、焦点を変えずに真剣に考えこむんだ。そして、眉間にしわをよせたまま力のない声で、『わかった、哲学の道へ行こう』と言うんだ。奈落へ突き落とされた気分だった。陽の光でしょぼしょぼとしていた眼はさらに閉じてしまい、思わずうすら笑いをうかべてしまったよ。ぼくは疑問に思った(なんでこの男は一緒に行動したがるんだ? 自分の希望をまげてまで行動を共にしようとするんだ? ぼくが一緒に哲学の道へ行きたいと言ったから? いや、そんなことは一度だって口にしていない。 ・・・・・・じゃあ、なぜ?)。


 アメイロアリはメモ帳の上を歩いていた。男はメモ帳をそっとつかみ、眼前に持ち上げた。


「空気が澄んでいたんだろう、空は数日見たことのない青一色がひろがっていた。けれども、つきぬけるような空でさえ、ぼくの心はそれほど動かされなかった。自分から会話をする気はさらにうせてしまい、考えることもイヤになってしまった。それに、腹のなかのぽっかりあいた球のようなものが、あいかわらず全身の力を吸いつづけていた。あの人に会いたくてしかたがなかった・・・・・・」


 アメイロアリはメモ帳の上で静止した。


「それからの自分は、もう、ただのマリオネットだよ。自分の希望をつたえることはなく、ひたすら相手の行動にあわせるだけさ。朝、ブラジル人に会う前はこう決めていたんだ。最近読んだ本の影響だろうね、隣人を愛せよ、だっけかな? でも、本で得た付け焼き刃の知識はもろいもんだ。ブラジル人と一緒にいてそんな気持ちは片隅にもなかった。あるのは汚されていく自分の心とあの人への想い、それから空虚感だ。ぼくは自分を殺しきれないまま、時間が早く過ぎてブラジル人が疲れるのを待っていたんだ」


 男は手に持っていたメモ帳を下げて、アメイロアリをじっと見つめる。


「楽しみにしていた哲学の道は、自転車で通りすぎるだけ。そのあとは近辺の寺をまわった。ブラジル人は墓地を見ては、大きく眼を開いて美しいと喜び、寺の中に入っては、畳の上であぐらをかき、正座をしている周囲の人を気にせずに瞑想をはじめた。昼食ではスーパーマーケットで買った高菜漬けを、ワンパックすべて食べつくす勢いのくせに、ほんのわずかの残りをぼくにすすめて、片付けさせようとするんだ。昨日の食事の時もそうだった。あじフライもごぼうサラダも、ペットボトルのお茶もそうだ、かならずぼくに後始末をさせるんだ。それも食事の容器ならまだしも、ぼくが買っていないペッドボトルの容器もだ!」


「ぼくは食べ残すのが嫌いだし、そんなことでもめたくないから我慢していたが、自分の買った飲食物の処理を人に任せるのはおかしいと思った。ブラジル人はベジタリアンだと言っていたが、ぼくからみたらえせベジタリアンだ。いやしく肉を食べる人でも、最後まで自分で食べきる人のほうがよっぽど立派じゃないか。その男は自分で、仏教徒だと言っていた。よほど日本が好きなのだろうが、ぼくには食べ放題の店で分別なく食い荒らすくせに、食べ残しをする奇怪な男にしか思えなかった。ブラジル人は、どこか盲信的なところがあった・・・・・・」


「そして昼さがり、ブラジル人が日本の曲が欲しいと言いだしから、川原町のタワーレコードへ行った。『おすすめの歌謡曲はないか?』と聞いてくるから、“美空ひばり”のベストをすすめたんだ。それなのに、ブラジル人はそれを拒否して、店で一時間ほど選んだ結果、買ったのは“ノラ・ジョーンズ”だ! 日本の歌謡曲どころか、世界中のどこでも買えそうな海外のジャズを買っているじゃないか! いったいぼくの待った一時間はなんだったんだろうか? さすがにぼくはブラジル人と一緒にいることが我慢できなくなり、役目は済んだと思うことにして、『疲れたから帰る』と言った。ブラジル人は『寺町で買い物がしたいんだ』みたいなことを言っていたが、そんなことはぼくにとってどうでもよかった。そんなくだらないことに大切な時間をつぶしたくないから、えせ仏教徒のブラジル人と別れたんだ」


 アメイロアリはメモ帳の裏へ移動していた。男はメモ帳をひっくり返した。


「きみはどう思う? ぼくはあのブラジル人が途中から“寄生獣”に見えてしかたがなかった。“寄生獣”といっても、岩明均のマンガ『寄生獣』じゃないよ、ぼくが考える意味での“寄生獣”だ。それは、一人で行動することができず、必要以上に他人に依存して生きている人間のことだ。相手のことなんてどうだっていい、相手が消耗しようがそんなことはいっこうにおかまいなしだ。いつもだれかしらとむすびついていないと生きていけない、そんな貧弱な人間のことだ。 ・・・・・・けれど、あのブラジル人は一人で旅をしているから、じっさいは“寄生獣”じゃないだろう、それなのに、ぼくとむすびつこうとしていた。自分の希望をまげてまで、哲学の道へ一緒に行こうとしたのがなによりの証拠だ。 ・・・・・・でも、きみはアリだ。理解できないだろう。集団があってこそ、きみはなりたっているんだからね・・・・・・」


「でも、遠い視点で見たらぼくもきみなんだよな・・・・・・ いや、そんなことはどうだっていい。ぼくはもうあのブラジル人から解放されて、自分をとりもどした。そして明日までの予定は今はない。あとはあの人と会える時を待つのみだ」


 男は柔らかい動作で手帳を畳に置くと、倒れるように仰向(あおむ)けになり、力を抜いて眼を閉じた。


「それにしても今日は疲れた。 ・・・・・・でも、明日だ! そう、やっとあの人に会えるんだ! ようやくぼくの心は救われるんだ!」


 アメイロアリはメモ帳から降りて、畳を移動していた。男は力なく寝息をたてはじめた。

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