第4話

   三


 陽は沈んでいた。隣の部屋の住人が外灯を点(つ)けて、坪庭は柿色に染まっている。数枚の葉と共に梢(こずえ)の影が障子(しょうじ)にうつしだされていた。部屋は冷たく、静けさに包まれていた。


 男ははっと目を覚まし、頭を二三度横に振って上半身を起こすと、頭を垂れたまま体を動かさずに遠くを眺めた。ころがっていた携帯電話の青い点滅が視界に入ると、けだるそうに腕を伸ばした。親指をはじいて画面を開き、その親指を数回動かしたあと、動きを止めた。顔の筋肉をピクリとも動かさず、機械のように規則正しく呼吸しては、携帯の画面をただ見つめていた。眼をかすかに細くすると、左手で地面を押して立ちあがり、黒い机の前のイスに腰かけ、頬杖(ほおづえ)をついて再び携帯の画面を見つめた。顔はお面のようにかたまったまま、ときたま大きく息を吸っては吐き、親指で携帯電話のキーを操作し続けた。


 机の上に置かれた日本酒の紙パックをわしづかみ、赤いキャップを回して空のコップに注ぎ込んだ。コップを口につけ、喉元を二回動かし、男は再び携帯電話のキーを操作した。


 素早く操作していると、急に動きが止まり、コップに手を伸ばしては再び動きはじめる。そんな動作を数回繰りかえした。


 三十分ほど経つと、男は携帯電話の画面を閉じ、背にもたれ、首を傾(かし)げたまま眼を見開き、しなびた溜息をついた。


「アリさん・・・・・・ きみはこの部屋にいるかい?」


 男はイスを半回転させて部屋を見わたした。窓に近い隅に、琥珀(こはく)色した胡麻(ごま)粒ほどの小アリを見つけた。小アリは動いているのかはっきりしない速さで、畳と畳の間を歩いていた。


「ああ! 小アリさん!」


 男は机の上から紙きれを取り、小アリに近づいてそっと置いた。小アリは進路を変えずに、なんの警戒もなく紙きれをよじ登った。男は口元と眼元を緩(ゆる)めると、紙きれを持ってイスに腰かけ、机に置いた。


「嫌な予感はあたるものだね。考えないようにしていた出来事が現実に起こってしまったよ。 ・・・・・・残念なことに、あの人は、明日会えないんだってさ、まったく、笑っちゃうよ・・・・・・」


「でもさ、それほど悲しくないんだ。なんでだろう、あの人からのメールの文章を見た時、ただの文章に見えたんだ。文章の意味がわかっているようで、うまくつかめなかったのかな、(明日は会えないんだ、ああ、そう)それぐらいにしか思わなかったよ。もしかしたら、無意識のうちにこの出来事を予感していたのかな? ほら、格闘技の試合を観戦していてさ、八百長の試合だと自分は知っていて、その勝敗も知っているんだ。もっとも、まわりの観客はそれを知らないから、自分も知らないふりをして一緒に騒ぐんだけど、見た目にうつる盛りあがりとは裏腹に、真相を知っているから心はひややかなんだ」


 男は物憂(ものう)げに溜息をついた。小アリはらくがき帳のうえを歩いていた。


「いや、違う! ぜんぜん違う! そんなんじゃない! 答えを教えられているクイズ番組に出ているようなものだ。 ・・・・・・違う! それも違う! ・・・・・・本当は、本当はいつ断られるのかと、いつも怯えていたんだ。 ・・・・・・あの人に会えることがうれしくて、その反面、断られることが死ぬことのように恐ろしくて、見ないようにしていたんだ・・・・・・」


「でも、見ないわけにはいかない。いくら怖くても、ぼくには眼をそらすことが許されず、嫌でもそちらを見てしまうんだ。正直言うと、会えることを喜んでいたくせに、会えないものだと覚悟していたんだ! マリオネットに微笑みの仮面をかぶらせて、うしろから見えない糸で操り、不器用な喜びのダンスを踊らせていたんだよ! ああ、でも、糸は切れてしまった。 ・・・・・・もう、踊ることはできないんだ・・・・・・」


 男は眉をひそめて口をかたくむすび、頬に気味悪い皺(しわ)を寄せた。小アリはらくがき帳の上で片足をあげて止まり、触覚はくるくると動いていた。


「だってさ! 四日前に電話で会う約束をした時、あの人の淡々とした声は以前のような清潔さはなく、ぬめりをもっているかのように受け答えがはっきりとしないんだ。生気はなく、『明日会える?』と聞いても、『んー、明日か・・・・・・ 明日ね・・・・・・ 明日は仕事だからな・・・・・・ それに友達と会う約束をしているし・・・・・・』とあいまいな返事をするんだ。それで、ぼくが『明後日は?』、『その次の日は?』と聞いても、たいしたことのない理由で断るんだ。ぼくは思った(言葉をのばしてはっきりしないのは、会おうとする意思がないんだ)。だってさ、『一時間でいいから』とたずねても、どうも煮えきらないんだよ? 返答が遅れるのは予定が入っているからじゃない、予定を入れようとしているからなんだ。三日間は合計で七十二時間だろう? そのうちのたった一時間も用意できないんておかしいじゃないか? よほどのワーカーホリックの人でないかぎり、だれにだって一時間は用意できるはずなんだ。 ・・・・・・できない人がいるとすれば、それは用意したくない人だけだ」


 小アリはらくがき帳から、机の中央へ歩いていた。男はコップの酒を飲みほした。


「それでも、なんとか明日の夜に会う約束をしたんだ。仕事が何時に終わるかわからないけど、終わったら連絡するよ、ということでね。あの人は変わらず淡々としていたけど、ぼくはやはり約束できたことがうれしくて、つい、おせっかいなことをしゃべってしまったんだよ。声に元気のない理由を聞いたらさあ、仕事が忙しくて疲れていると言うんだ。そこでだまっていればいいのに、ぼくは、『自分の選んだ仕事だろ?』と、説教くさいことを言ってしまった! あとあと考えてみたらほんとによけいなことでね、『あんたにそんなこと言われたくない!』とでも言われそうなことをだよ。それでも、あの人は『はいはい』とかるく受け流してくれたんだ。 ・・・・・・いや、受け流したのか? わからない、ひょっとしたら、受けとる価値がないと思ったのかもしれない。そんな態度だったのかもしれない、ああ・・・・・・ はっきりしないけど、一つだけはっきりしたことがあるんだ。電話を切るまぎわの口調がなげやりな丁寧語だったんだ!」


 男はコップに日本酒をなみなみと注いだ。小アリは鉛筆を乗り越えて、折り畳まれた京都のツーリストマップに近づいた。


「そのときの丁寧語、それがいくどもぼくを不安にさせて、会えないことを確信させたんだ」 


 男はコップの酒をぐいっと飲んだ。

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