第5話

「やっぱり、ぼくの勘は間違っていなかったんだ! ・・・・・・それとも、ぼくの解釈がそのように事を運ばせたのだろうか・・・・・・ わからない。わかっているのは、明日はあの人に会えないということだけだ」


 小アリはツーリストマップを登りはじめた。


「あの人からのメールの内容は、『ごめん・・・・・・ じつは明日なんだけど・・・・・・ さっき電話があってさ、身内の人が交通事故で入院してね、明日の十九時にお見舞いに行くことになったの。 ・・・・・・命には別状はないんだけどね・・・・・・ ごめんね! こんどこっちに来る用事があったら連絡して。そのときにゆっくりと会おうね!』だってさ。ねえ、きみ、どう思う? ぼくはずるいと思ったよ!」


 男は再びコップのなかの日本酒を飲んだ。


「ぼくは馬鹿だからね、必要のない、くだらない行為をしてしまうんだ。本当は断りのメールを受けとったら、そこで終わりがよしなんだ。あの人に会えないという事実だけを素直に受けいれておしまいさ。 ・・・・・・ところが、ぼくはそのメールの文章を分析してしまった。(この“お見舞い”という予定はどんな思いで入力したのだろう? お見舞いに行くから悲しいのかな? それともお見舞いに行けるからうれしいのかな? そういえば、仕事が終わる時間がわからないのに、なぜ、“十九時”とはっきりとしたお見舞いの時間を教えてくれたのだろう? 会う時間がないことを示したかったのかな? 一行目の“ごめん”と八行目の“ごめんね”はどんな意味がこめられているんだろう? 一行目は言葉のおもみを前面にだして、もうしわけない感情を表したかったのかもしれない。八行目は親しみとやさしさをこめるために“ね”をつけたのかもしれない。 ・・・・・・ひょっとしたら、断りの文章を入力したことにほっとして、気が楽になったのかもしれない。 ・・・・・・もしくは、わずかな罪悪感が表れたのかもしれない。それなら、最後の化粧されたこの数行は、気楽になった心が生んだ、お互いにたいしての気休めじゃないだろうか? “こんど”なんて言葉は、意志を持たない、いつあるかわからないあやふやな言葉じゃないか!)などと考えてしまった」


 小アリはツーリストマップを周回していた。男はくずれたような顔を浮かべる。


「最悪さ! もう最悪だよ! なんで、こんなあら探しのようなことをするんだろう。 ・・・・・・ほんと、自分がイヤになるよ。 ・・・・・・でも、どうにもならない。気がついたらそんなことをしていたんだから。これはぼくの癖なんだ、むかしからぼくを混乱させてきた悪癖なんだ! だってそうじゃないか、あら探しするということは、相手を信用しているふりして、まるでしていないからなんだ。相手を心底信用していたらそんな行為はしようがない。猜疑(さいぎ)心! 悲観するまえにこの感情があらわれて、ぼくは無意識にあやつられた。だって、しょうがないだろう・・・・・・ 会う約束をした直後から、あの人を疑っていたんだから・・・・・・」


 男はコップの酒を勢いよく飲みほした。小アリはツーリストマップの上に動きを止めていた。


「だから、ぼくも半分嘘のメールをかえしてやったんだ。『もちろんいいよ、そんな事情じゃしかたがないもんな。お大事にね!』ってさ。 ・・・・・・まるで犬の糞だ! どこにでもおちていそうな、吐きけをもよおす、胸糞(むなくそ)の悪くなる文章じゃないか! 偽善者その者だよ! ・・・・・・本当はこう送りたかったんだ、『遠まわしの嘘と同情を使いやがって、イヤならイヤとはっきりと言いやがれ! このクソ女!』ってね。けれど・・・・・・ そんな文章をおくる勇気はどこにもないよ。やっぱり仮面をかぶってしまうんだ」


 男は日本酒の紙パックに手をかけ、勢いよくコップに注ごうとすると、水の動きに手を揺らされて、机に注がれた。男はあわてて紙パックをコップの口にむけた。小アリは速度をあげて机の端を歩く。男は気にせずコップに口を近づけた。


「それでもやっぱりあの人が好きなんだよ。猜疑心にかられたって、結局残るのは悲しみだけなんだ。 ・・・・・・ほら、今日の朝、感情の重なりについて話しただろう? 覚えているかい? 今はとても単純だよ、悲しみだけが強く心をうちつけているんだから・・・・・・」


 小アリは歩く速度を緩めた。


「どんなに疑っても、あの人への想いは本物だから・・・・・・ ぼくはあの人が心から好きなんだ。あの人がこの世に存在している、そう考えるだけで、ぼくは生まれてきたことに感謝してしまう」


 男はコップを机の水たまりに置いた。


「そうだ、あの人のことを想うとかっと胸は熱くなり、ふやけて顔はほころぶんだ。そして、あの人の記憶をふりかえり、あの人との再会を空想しては、終わらないストーリーが回りだすんだ。色・形・動作は鮮明に描きだされ、二人の再会から始まり、たわいもない会話が再会の喜びをうつしだすんだ。──古ぼけた蛍光灯がくすんだ店内を照らし、かすれたベージュ色の壁には、筆で書かれたおすすめの料理が貼られていて、栗色の薄いテーブルには汚れた醤油さしと七味唐辛子、割り箸立てが置かれている。ぼくとあの人は向かいあって座り、運ばれてきた生ビールのジョッキグラスを手に持ち、品のない声が飛び交う店内で静かに乾杯する。ジョッキグラスは飲み口が凍るほど冷えていて、サーバーを洗浄していないせいか、それとも質が悪いからか、ビールはうすっぺらで酸味がつよい。いっしょに運ばれてきた白い小鉢には、洒落(しゃれ)っ気のない酢の物がちょこんと盛りつけられ、口をつけると、味の豊かさに思わず言葉をもらしてしまう。まわりはうるさくてがさつだけど、にぎやかで温かみがある。ぼくはあの人に『他の店に入ればよかったね』と笑いながら言うと、あの人は切れ長の眼を細くして、えくぼのある顔で笑いながら、『ほら、わたしの言ったとおりじゃん』と言う。するとふっくらした中年の女性が料理を運んできて、威勢のよい声をあげて湯気をたてている皿をテーブルに置きはじめる。あの人は女性の声に反応してしまい、料理についてたずねると、ぶすっとした顔でざっくばらんに説明をはじめる。あの人は“とおし”の味について話すと、化粧の濃い女性はしわだらけの顔をゆがめたまま、はつらつした声で得意げに話しつづける。女性が機敏にテーブルを離れたところ、ぼくは女性のぶ厚い化粧について笑いながら話すと、あの人はもうしわけなさそうに笑いながら、『そんなこと言っちゃ失礼でしょ! あの人も女性なのよ』と言う」


「場面はいろいろあってさ、洒落たカフェや薄暗い整然としたバー、エスニックな料理屋、もしく外灯がさびしい公園などが登場して、会話の内容は場面によってさまざまだけど、いきつく先はいつも変わらない。ぼくがあの人に長々と思いを打ち明けるんだ」


 男は不気味にはにかみながら小アリを見つめた。


「そのあとの展開はあまり描かなかった。現実はそう甘いもんじゃないからね、期待して痛い目にあわないためさ・・・・・・ それに描く気がなかったんだ。といっても、まったく描かなかったわけじゃない。最悪の事態を想定して、彼氏がいるところを描いてみたんだ。だって、じゅうぶんにありえることだろう?」


 男は小アリの前方にそっと右手をおいた。


「彼氏はあの人と同年代なんだ。 ・・・・・・なんでだろう? わりと若い男を想像してしまうんだ。まあ、男はなんだっていい、言っちゃえばべつに馬でもいいんだ。でね、ぼくはあの人の眼を凝視してありったけの想いをつたえる。でも、あの人は『彼氏がいるから・・・・・・』と困った顔をするんだ。ところが、ぼくはそんなことはまるでおかまいなしさ。だって、つきあっているだけじゃないか! 前から思っていたけど、ぼくは“つきあい”という形式がよくわからないんだ。たまにいるだろう? つきあっている相手がそれほど好きじゃないのに、保険のように、あるいは同情によってその関係を保っている男女がさ、それは“つきあい”という形式が生んだ、ある種の惰性じゃないかと思うんだ。その人たちは、ただ“つきあっている”だけだろうね。でも、ぼくはそんな“つきあい”は知らないし、望まない。ぼくはあの人を愛している。それをあの人につたえる。それで、あの人がぼくを愛してくれたら幸いさ。それだけで物事はなりたつんだ。“つきあい”という形式なんてぼくにはまるで関係ない」


 小アリは男の人差し指に乗った。男は手を顔の前に近づけた。


「あの人は“つきあい”に縛られている可能性がある、本当は愛してもいない男と一緒にいるのかもしれない。それなら、あの人の心は動く可能性がある。だからあの人に“つきあっている”人がいたら、ぼくはこう言おうと思っている。『結婚しよう!』とね」


 男は真剣な眼つきで、にらむように小アリを見ている。


「そりゃ、結婚できる可能性はかぎりなくゼロにちかいだろうね。ほとんどの人があっけにとられると思うよ。でも、ゼロじゃない! 可能性はあるんだから言う価値はある。なによりも、ぼくはあの人を愛しているし、一生をささげてもいいと思っている。その言葉を言えるだけの権利は持っているんだ。きみは『長いこと会っていない、お互いのことをよく知らない、そんな人間と結婚するのはリスクがある』と思うかもしれない。ところが、お見合いで結婚する人もいれば、つきあって一ヶ月で結婚する人もいる。もしかしたら、出会ったその日に結婚する人もいたかもしれない。結婚のしかたにきまりはないし、そもそも、結婚じたいがリスクのある行為だと思わないかい? それに相性が悪ければ別れるだけだし、良けれすべてうまくいく。習慣が二人をよりよく結びつけてくれるからね」


 男は机に手をおろし、小アリが降りるのを待った。


「けれど、毎晩ぼくの眠りをさまたげていた空想は、現実に実行されることはない・・・・・・ 明日、ぼくはあの人に会うことはないのだから」


 小アリは小指の根元から机に降りて、触覚をリズムよく動かし、歩きはじめた。


「ぼくはどうなるのだろう? ぼくのこの気持ちはどうなってしまうのだろう? 行き場のないこの感情は貧弱な胸にとどまり、体中のエネルギーを吸っては、からみつくように燃え続けるのだろうか? 感情の炎は頭に飛び火して、日中夜、ありもしない空想を生みだしつづけるのだろうか? ああ・・・・・・」


 男は頭を横に二三度大きく振った。


「もう耐えられない! 空想は心底から楽しいけど、ぼくの心をすっかり削ってしまった。あの人に会えると思っていたんだ。よりかんだかい、歌うような音が出るようにと、松脂(まつやに)をたっぷりと弓に塗り、激しく擦(こす)りすぎてしまった。張りつめていた高音の弦はぷつりと切れてしまい、音を鳴らすことはできなくなった。ありもしない弦では音一つ生みだすことできず、残った低音の弦では、もの悲しい空想が生みだされるだけだ」


 男はコップの飲み物をいっきに飲みほして、乱暴に机に置いた。小アリは歩みを速めた。


「あの人に電話しよう! そしてこの想いをつたえよう! ぼくはもう待てない! 待ってばかりいたのではなにも始まらない。 ・・・・・・それに、人はいつ死ぬかわからないんだ! もしかしたら、明日、ぼくは布団のなかで目覚めることがないかもしれない。 ・・・・・・ぼくが働いていた職場の同僚は、そんな終わりを遂げたんだ。ぼくだっていつそうなるかわかったもんじゃない! そうなったらぼくは、ぼくの、この・・・・・・ あの人への想いはどうなってしまうんだ? 目的をはたすことなく、ぼくと一緒に消えうせてしまうのか? それは嫌だ! それでは、この世に生みだされた純粋な気持ちは、どうにもうかばれないじゃないか。ぼくは、あの人への想いにたいして、もうしわけないことをしてしまうことになる。感情を活かす機会をあたえず、後悔の念を背負ったまま、深遠な意識にとりこまれてしまうではないか!」


 男は携帯電話を手に取り、眼をぎらつかせたまま部屋をとびだしていった。小アリは机の上の水滴に近づき、触覚を動かしていた。

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