第6話

   四


 夜は深まっていく。乾いた空気はさらに低くただよい、灯(あかり)が点(つ)きっぱなしの部屋は、虫の音がどこからか幻聴のように響き、忘れ去られたように静かだった。


 突然部屋のドアが開かれ、アルミ缶を手に持った男がふらふらと入ってきた。イスにどっと腰かけると、皮膚が硬直したような面のまま、障子(しょうじ)のはるか先を見つめた。男は机に両肘をつき、目線を二度三度変え、再び一点を見つめた。


「ああ、アリさん、聞いてくれよ、ぼくは行動した、行動したんだ・・・・・・ あの人に告白する場面を千回は描いたのに、現実はなに一つ行われていなかった・・・・・・ ぼくはそれを本当は知っていた。だから行動したんだよ・・・・・・ ねえ、どんな結果になったと思う? ぼくはね、自分自身がこれほどまで卑屈で、小さい存在だとは思ってもみなかった。空想の中の自分は自信にあふれていて、あの人への想いがまるで崇高(すうこう)な、絶対の正義をもったもののように、ぼくは傲慢(ごうまん)ともいえる態度で、はっきりと自分の想いをつたえていたんだ。ところが、そんな自分のかけらも存在していなかった。頭の中は空白になり、言葉は流れることを知らず、自分が何をしているのかわからなくなってしまった。おもわず、携帯をほうり投げてしまおうかと思った。 ・・・・・・それでも、とぎれとぎれながら、自分の素直な気持ちをつたえたよ」


「道路上で話すのがなんとなく気恥ずかしくて、探した公園の奥すみで、気持ちをやわらげるように歩きながらね。いや、がんばったと思うよ、酒の力を借りていたとはいえ、じっさいに行動したんだから・・・・・・ でも、あの人は、まるで人ごとのように、さほど驚いた様子をあらわすことなく、『へー・・・・・・ そうだったんだ・・・・・・』と受け流した。まるで、おぼれている小動物がもがいているすがたを、同情してながめているかのように、哀れには思ってはいるが感情はさほど動かされていないようすだった。(かわいそうだけどしかたがない)あきらめてなに一つ行動にうつさないように。『わたしには好きな人がいるんだ』とでも言ってくれればまだよかったのに・・・・・・ 会話はとぎれて、自分の想いは放置されてしまった。結果は推測できたんだから、気をきかせて男らしく電話を切ればよかったのに・・・・・・ 居場所がなくなり、混乱してじっとしていることがばつの悪いことのように、必要がないことをする愚劣な人間になってしまった。『彼氏はいるの?』と、むだなことをたずねてしまった! そんなことを聞いてもどうにもならないのに・・・・・・ わざわざ自分をみじめにする材料を提供するように差しむけてしまったんだ!」


「あの人は静かに返事をした。 ・・・・・・それだけならまだましだが、それを聞いて、ぼくは思わず声をだして笑ってしまった! 本性が現れたんだ! 仮面が顔にはりつき、醜い笑い声をあげて自分をさらに汚してしまった! ・・・・・・あの人は一言も笑い声をあげなかった。それに気がついて、ぼくははっと我をとりもどし、だまってしまった。(なんて侮辱をしてしまったんだ!)と背筋がぞくぞくして、身動きできなくってしまった。 ・・・・・・そうしたら、あの人は言ってくれた、『ごめんね、約束したのに会うことができなくて・・・・・・』と・・・・・・ ぼくはやりきれなくなり、おもわず電話を切ってしまった」


 男はアルミ缶の液体を口に入れた。


「もう、悲しくて悲しくて・・・・・・ 自分が情けなくて、自分のうすっぺらな仮面が心底から憎くて・・・・・・ でも、涙はでないんだよ! 胸はわけのわからないものがうずまいて、くそったれなのに! ・・・・・・それでも、あの人を想うと、やっぱりあの人が好きなんだよ。 ・・・・・・だって、あの人は言ってくれた、“会うことができなくてごめんね”、と、けっして、“好きな人がいてごめん”とは言わなかった。それだけが、ぼくの心を救ってくれた。ぼくを見下したりせず、一人の人間として、対等にあつかってくれた。あの人は、正直な人だったんだよ!」


「ねえ、小アリさん、あんたは自分が“自分”じゃないと疑ったことがあるかい? あんたはないだろう・・・・・・ だって、しょせんアリだからね。自分がいる場所を知ることはなく、自分の歩いてきた道をふりかえることもなく、自分がしている行動すら疑問をいだくことはないんだからね。けれど、ぼくは自分が“自分”じゃないような気がするときがある。一緒にいたくない人の前でも平然と笑い、悲しいことがあるのに冷静なふりをして、泣きたいのに涙は流れることなく、腹から笑い声をあげてしまう。(自分は嘘をつきすぎて、自分というものを失ってしまったのでないだろうか?)日頃、そんなことを思うことがあった。 ・・・・・・だから、あの人への想いも、本当の自分の気持ちと信じることができなかった。長いあいだ偽(いつわ)ってきたせいで、恋愛感情を、人間らしさを、すっかり失ってしまったのではないかと、不安にかられることがあった」


「だからあの人に会って確かめたかったんだ! ぼくのこの体と心には、しっかりとした人間である証拠が息づいていて、正常につながっているのかを確認したかったんだ! ぼくは本当にあの人が好きなのかわからないんだ! だって、三年間あの人には会っていないんだよ! (ぼくの中のあの人は三年前の姿のままでいるけど、本当のあの人かわかったもんじゃない! 年月があの人をつごうよく変えことに気がつかないだけであって、ぼく自身が創りだした幻想に恋をしているんじゃないか? それでは、ぼくはいったい誰に恋をしているんだ? 実体のない、あの人の亡霊に恋をしているんじゃないか?)そう考えたら、言いあらわせない恐怖におそわれた」


「(ぼくはいったい何を見ているんだろう? ぼくの見ている世界は本当に存在するのだろうか? そもそも、ぼく自身が正しく存在しているのだろうか?)そんなことを考えだしたら、なにかしらの確証をえないと、自分がぼやけていくばかりだった。だから、ぼくの心を埋めつくしている感情、それをはっきりさせる必要があると思った。(自分を偽って恋心を楽しんでいるだけなのか? それとも純粋な、真実の感情なのだろうか? その答えは今のあの人に会えばわかる。あの人の前に立てば、ぼくの感情が真実か偽りかぼく自身が教えてくれる)そう考えたんだ」


「それなのに待てなかった。 ・・・・・・あの人への恋心がぼくの胸と頭を炎々と焼き、我慢することができなかった。もう耐えることができず、はやく、この感情にけりをつけて、一刻もはやく逃れたかった。今のあの人に恋しているのか、それともあの人の亡霊に恋をしているのか、そんなことはどうでもよくなってしまった! だって、ぼくの胸は、生命力を持った感情がたえず焦がしつづけていた。それはまぎれもない事実なんだ!」


「・・・・・・いや、それも確かなのかわからない。ぼくは本当に、感情に耐えられなかっただけなのだろうか? それを言いわけにして、自分の行動を正当化しているだけではないだろうか? そんな気もしてくる・・・・・・ わからない。なにしろ、あの人に会って自分を確かめることができない。ぼくは、あの人への、亡霊への恋心を、亡霊ではないあの人につたえてしまった! はやまった行動ではないだろうか? 電話でいったい何がつたえられるというんだ? 実際に会ってみないとわからないのに・・・・・・ なぜ電話してしまったんだ?」 


「やはり、耐えられなかったんだろう。 ・・・・・・いや、そもそも、今のあの人に想いをつたえる必要があったのだろうか? ないだろうな、けっしてないだろう・・・・・・ いや、あったんだ! ぼくは欲しかったんだ! あの人との新しい記憶が・・・・・・ なんでだ! なんで我慢ができなかったんだ! あの人との思い出をときどきふりかえり、ひっそりと楽しむだけでとどめておけばよかったものを・・・・・・ なぜ我慢できなかったんだ? 環境か? あの人を手に入れることができる、時間によゆうのある今の環境か? それとも、あの人が欲しくてぼくはこの環境を望んだのか? わからない! そんなことはわからない。 ・・・・・・まてよ、もしかしたら、正直に行動していたのかもしれない、(あの人が欲しい!)欲求を隠すようになにかしらの理由で化粧をして、自分を偽りつつも、正直に行動していたのかもしれない! けれど、もし恋心そのものが偽りだったら? ぼくはいったいなにをしているんだ? ・・・・・・やっぱり、幻影に動かされていたのだろう。ぼくは、虚妄(きょもう)にとらわれた、あさましい動物ではないだろうか? わからない! もう、なにが真実なのかわからない!」


 男はアルミ缶の中身を一気に飲み干した。


「それでも、あの人を想うとさびしくなる、 ・・・・・・あの人を想うとうれしくなる、 ・・・・・・あの人を想うとあたたかい気持ちになる、あの人を想うと晴れやかな気分になる、あの人を想うと踊りだしたくなる! あの人を想うと敬虔(けいけん)な心持ちになる、あの人を想うと愛しくなる。でも・・・・・・ あの人を想うと泣きたくなる! くそ、なんでだ! なんでなんだ!」


 男はアルミ缶を握りつぶし、テレビめがけて投げつけた。缶はテレビ台にぶつかって、薄っぺらい音をたてて畳に落ちた。


「ああ、この胸の嘆(なげ)きは偽りだろうか? もし、偽りなら、なぜこれほどまでに胸をかきみだすんだ? ああ、ぼくが偽りなら、これほどまでに苦しむことはないだろうに・・・・・・ それとも、この苦しみが仮面をかぶった憐憫(れんびん)なのだろうか? それほどまで自分を憐(あわ)れみたいのか? それほどまでに自分を卑屈に偽りたいのか? すでに、正直で純粋な自分は存在していないのか? あああ・・・・・・ もう・・・・・・ ぼくは考えたくない、なにも考えたくない! この頭を切りおとし、気味の悪いうす笑いをうかべた頭部につけ替えて、分別のないひきつった笑い声をあげたまま、スタッカートのきいた陽気な音楽にあわせてカタカタと動くだけでいい! それで満足だ!」


 男は目を閉じて、口を半開きにしたまま頭を振る。


「ぼくはもう考えない! 考えたってしかたがない! それに事はもう済んだんだ。ぼくの恋心が偽りかだって? もうそんなことは考えない! そんなのはどうだっていい! ぼくはあの人を想えば楽しめるんだ! あの人が亡霊だろうと、亡霊以外のなにものだろうと知ったこっちゃない!」


 男は日本酒のパックに手を伸ばし、口に近づけてどぼどぼと流しこんだ。


「ねえ、アリさん、あんたは聞いているかい? ぼくの話を一言ももらさずに、その小さな粒の頭にしまっているかい? ねえ、あんた、すべての“もの”には役目があるのを知っているかい? なんで物質は存在すると思う? ぼくは以前、イランにいた時に気がついたんだ。“もの”が存在するのは、その“もの”が、“なに”かしらに必要だからだ。もっとも、なにかの格闘漫画にも、同様なことが書かれていたけどね」


「じゃあ、いったい“なに”が必要としていると思う? 目のまえにある酒が今のぼくに必要とされるように、あんたの仲間はあんたを必要とするからさ。あんたがたくさんいるからこそ、あんたの種はなりたち、その種族は存在できるんだ。それはあんたの思惑を残酷なまでに気にもしない。だからこそ、あんたはこの世に存在しているし、ぼくの目の前の酒も存在している。この机も、このボールペンも、空気も、光も、あの人への想いもそうなんだ。結局は“なに”かに望まれ、必要とされているから存在しているに過ぎないんだ。それは神様と名をつけられた存在が必要としているかもしれない。いや、ぼくの存在はもしかしたら、その神様という名の存在を包括している、さらに上位の存在が必要としているのかもしれない。もしかしたら、その存在がぼくを必要としなくなった瞬間──ぼくの役目を終えた──に、ぼくの存在はこの世から消えてしまうかもしれない・・・・・・」


「けれど、ぼくは今存在しているし、あの人への想いも存在している。それに、ぼくはあんたの存在を必要としている・・・・・・ だから、あんたに役目をあたえるよ。巣に戻ったら、ほかの仲間にこう伝えておくれ。『ちっぽけな一人の人間が、許容できない能力の強大さに苦悩して嫌悪しつつも、その能力に愛着を抱いていた。わたし達アリは、その人間の持つ能力に妬(ねた)みつつも、そんな能力のないことを喜ばしく思い、自分達がアリだということに誇りを持って、自らの生をまっすぐにまっとうしよう!』と自覚させるんだ。 ・・・・・・ねえ、そう思えば、ぼくがきみに話をすることにも、意味を持つと思わない? それなら、ぼくがきみに話すのも許されると思わない? まあ、きみにとってはどうでもいいことだろうけどね・・・・・・」


「そういえば、きみは映画を観ることがあるかい? けっしてないだろうね。だから、ぼくが説明するよ──むかし高校生の時にさ、同級生の女の子に誘われて映画を観にいったことがあるんだ。ぼくはなんで映画に誘われたか考えもせず、自分がへまを起こさないようにするのと、時間が経つことばかりを気にしていたんだ。その時に観たのが、トム・ハンクス主演の『キャスト・アウェイ』という映画で、旅客機が墜落し、ある男が無人島に流れ着いて、長年一人で生活する話なのさ。結果、その男は助けられて文明社会に戻ることになるんだけど、一人で過ごす無人島の生活が、とても印象的だったんだ。特にその男が、いっしょに流れ着いたバレーボールにマジックで顔を描き、いくども話しかけるシーンがね。 ・・・・・・ぼくは、今はその男の気持ちがすこしわかる気がする。もちろん、その男とおなじ立場じゃないから、すべて理解できるわけじゃないけど・・・・・・ 人は誰かに話しかけて、自分をなぐさめないと生きていけないと思うんだ。だれかしらとつながっていないと、はけぐちがみつからず、いずれ頭がパンクしてしまう」


「それでも、ぼくはあの人への想いを誰にも打ち明けたくなかった! 打ち明けてしまえば、純粋なあの人への想いは、求めてもいない意見の強要と、的外(まとはず)れな解答に汚されてしまい、処女性を失って、まるっきり別のものになってしまうから。多くの人は深い思慮にふけいることなく、自分の概念にもとづいて安易な意見を述べる。もしくは、自分の理解を得られないことに眼をそらし、卑下(ひげ)しては嘲笑(ちょうしょう)するんだ。“できた”人間ならそんなことはしないけど、あいにく、ぼくのまわりにはそんな人間はいやしない。 ・・・・・・ぼくはあの人への想いを、なによりも大切にあつかいたかった。なんでもかんでも人に打ち明けて相談すればいいわけじゃない、本当に大切なことは、身に静かにひそめておくべきなんだ。 ・・・・・・それでも、ぼくは映画の男ではないけれど、やはり人間なんだ。だれかに打ち明けたい欲求にかられるし、そうしないと身が滅びてしまう」


 男は背もたれによりかかり、宙を眺めた。


「ああ、さようなら小アリさん・・・・・・ もう・・・・・・ ぼくはあなたには話しかけない。すでにその必要がなくなったから。もう、話すことなんて残っていないんだ。すでに空っぽさ。頭も、この胸にも、なんら残っていない。もう、全部吐きだされてしまった・・・・・・ だからもう、ぼくの前にはすがたを現さないでおくれ・・・・・・ けっしてその小さい体を現さないでおくれ。冬への準備は済んだだろう? ぼくとちがって頭を使うことなく、たえず体を動かしていただろう? ぼくはそれを知っている、なんどもそのすがたをみかけた。 ・・・・・・だから、けっしてぼくの前にすがたを現さないでおくれ! ぼくはもう話すことがないんだ! きみが目の前に現れてしまったら、ぼくはあけたくもない扉を開き、きみにお話するのかい? やめてくれ! 傷をかきむしるようなことはしないでおくれ! お願いだから、ぼくの前にその美しい体を現さないでおくれ・・・・・・ でないと、ぼくは・・・・・・ つぶしてしまうかもしれない。ぼくは、きみの、繊細(せんさい)で複雑なその体を押しつぶすかもしれない! そんなことはしたくないんだよ。・・・・・・それに、 ・・・・・・きみもそんな終わりを遂げたくないだろう?」

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蟻との会話 酒井小言 @moopy3000

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