たら・れば・えれ・べーた

立木十八

たら・れば・えれ・べーた

 男がひとりエレベーターに乗りこんだところだった。

 扉が閉まりかけたその時、ひとりの女性がエントランスにやってきた。手にはバッグと買い物袋。近所のスーパーは特売日だったのか、袋はいっぱいに膨らんでいる。

 このマンションにエレベーターはこの一基しかない。乗り遅れれば、重い荷物を抱えたまま、しばらく待たされることになるだろう。

 女性は小走りで駆け寄ると言った。

「すいませーん、乗ります」

「急がなくて大丈夫ですよ、走ると危ない」

「ふう、ありがとうございます」

「何階ですか?」

「あ、四階をお願いします」

「……」

「……あの、なんですか?」

「いや……このマンションに四階なんてあったかなって……」

「え……」

 男の言葉に女性の表情が凍りついた。

 エレベーターにまつわる怪談、都市伝説は思いのほか多い。幽霊譚もあれば、異世界に迷い込む話もある。変わり種としては地の底深くに通じていて、地底人に襲われるというものもある。狭い空間、見知らぬ人間と一緒に閉じ込められる、場合によっては二人きりにもなる。箱を支えているのはワイヤーロープ。もし、それが切れたら……。そんな生理的に忌避したい想像から、怪奇な話が連想されるのだろうか。

 それとも自身は一歩も動かずに高低を自在に移動するという不自然きわまりない性質から、異世界への乗り物であるというイメージが湧くのかもしれない。

 いずれにしても、このマンションに四階はある。

「いえ、わたし四階に住んでるんで。もう引っ越して半年は経つんで」

「あ、やっぱり。何度かお見かけしたことがあるなって思ってたんですよ」

「はあ……」

「今日はご一緒じゃないんですか?」

「誰がですか?」

「いつも小さな……五歳ぐらいのお子さんを連れてらしたじゃないですか」

「え……わたし、ひとり暮らしですけど……」

 ふたたび女性の表情が凍りつく。

 子供にとってエレベーターは一種の遊具でもある。ずらりと並んだボタンを押すだけで機械が駆動し目的地まで運んでくれる。単純な機能だからこそ、想像力は大いにかきたてられる。

 ここは巨大ロボットを格納する秘密基地、自分はその乗組員でこれからロボットで出撃するのだ。地球は存亡の危機を迎えている。地上を征服せんと地底人たちが侵攻してきたのだ。今も巨大化した昆虫や獣らが街を破壊している。それを止められるのは自分しかいない。行け自分、戦え自分、みんなの平和を守るのだ。そんな妄想をしながらエレベーターのボタンを押す。

 その後は、いつもの家のいつもの部屋に戻り、いつも通りに夕飯を食べいつも通り風呂に入り、いつもの時間に布団に入る。そんな日常の隙間にちょっとしたアクセントとしてエレベーターが存在している。

 しかし子供の遊びはエスカレートもする。時には危険な行為をそれと知らずに行うこともある。そうした遊具としての側面を大人が看過するはずもない。それを諫めるためだろう、エレベーターにまつわる怪談を大人が広めることもあった。

 昔このエレベーターで遊んでいた子供が落下事故にあって死亡した。その子は今も幽霊になって、この場所にとどまっている。そして誰かが楽しそうに遊んでいると、一緒に遊ぼうよ、とあらわれるのだ。

 もちろんここでそんな事故が起きたことはないが。

「あなた、さっきからなんなんですか? 気味悪いんでやめてください」

「そうですか? でもね、世の中にはもっと不気味なものがあるんですよ……例えば、このエレベーターに幽霊が出るって噂なんですけど……」

「そういうのいいんで、もう話しかけないでももらえますか」

「わかりました、黙ります」

「なんなの、もう……」

「……ねえ……どうして? どう……して?」

「やめてって言ってるでしょう。話しかけないでください」

「え? 僕はなにも言ってませんけれど?」

 ある種の動物は、本能的に群れから孤立するのを恐れる。それと同じで、共同体から切り離されることを人は恐れる。そうした集団、群れ、共同体、社会などから孤立しないためにも、他人の顔色をうかがい、同じ意見を持ち、同じ行為をする。そして見ているものや聞いていることが同じであることを、ことさらに主張し確認しあう。

 幻聴や幻視は、そういう人間にとっては恐怖である。他人には見えないもの、聞こえないことが自分の中に存在する。自分の精神が狂気に蝕まれるという恐怖はもちろん、他者から蔑まれ、社会から隔離されるという恐怖もある。

 地底人が特殊な機械を用い、地上にいる人間の精神へと直接、邪悪な音声を投射している。そんな主張をした人物が、かつていた。彼によれば個人的な怪我や病気も、世界的な大事故や天災も、地上に顕現するありとあらゆる凶事のすべてが地底人の仕業なのだという。

 日本の神話にはオオマガツヒノカミ、ヤソマガツヒノカミという二柱の神がいる。この神は災厄、凶事を司る神である。ヨモツクニから帰還したイザナギが、川で体を洗い流した穢れから生まれた神だ。ヨモツクニとは地下にあり、穢れに満ちた世界だという。マガツヒノカミは、そのヨモツクニの穢れを現世に持ちこむ。それによって凶事が起こるということなのだろう。

 彼の主張の根底に記紀神話があったのか、それとも精神の病からくる妄想虚言の類なのか、はたまた世界の裏にある真実を伝えようとしていたのか。真相はともかく、こうした主張をする者が社会において孤立したことは間違いないだろう。

 それはそうと、先の呼びかける声は男のものであった。

「あの、がっつり口が動いているの見えてましたから。嘘つかないでください」

「おかしいな……腹話術教室に通い始めてもう五年になるんですけど」

「やめちまえ」

「ほら……声が……遅れて……聞こえるよ……」

「聞こえねえよ。完全に同時に聞こえるよ」

「そうですか、僕の五年間はなんだったんでしょうね」

「無駄だったんじゃないすか」

「そうか、腹話術人形として作られた僕の人生は無駄だったのか……でもそれを否定されたら僕は、ボクハ……ドウ……スレ……バ」

「え……ってならねえから。それはさすがに無理があるから、ていうかマジックで口の横に線を描くな」

「これ油性なんですよ、僕はどうすれば……」

「知らねえよ。しばらくマスクでもしてろ」

「あれ、気がつきませんでした? このマ・ス・ク・に」

 そう言うと男は自らの顔に手をかけた。

 人間の皮で作ったマスクを被った殺人鬼がチェーンソーを振り回すというホラー映画がある。作品冒頭には事実を下敷きにしたとテロップが流れる。それが事実かどうかは別にして、マスク、仮面を被るという行為には様々な理由が考えられる。

 多くは個人情報をふんだんに含む顔を隠すことで、自身のパーソナリティを消そうというものだ。強盗などが主に使用する手法である。こちらの目的は顔の隠蔽なので、その種類は問われない。なんであれ顔さえ隠せればそれでいい。極端な話、紙袋でもストッキングでも構わないのだ。

 もうひとつには、変身願望の発露というものがある。仮面を被ることで、その面の示すパーソナリティに変化しようという行為。個人的であれ儀式的であれ、この場合の目的は変身である。そのため仮面のディテールが重要になる。それによって使用者は、大地を走る獣にもなれば、大空を飛ぶ大鷲にもなる。神にもなれるし悪魔にもなれる。世界中には、こうした仮面を使用した舞台、演劇が、古代より存在する。

 ここで先の映画に登場する殺人鬼へと話を戻すが、彼はそのマスクを被ることで、なにがしたかったのだろう。醜い顔を隠すためだったのか。それとも、もしかしたら人間になりたかったのか。

 ところでもうひとつ、利用目的はある。なにか有害なものから顔を守るための防具としての側面だ。面頬やガスマスクなど、戦場における仮面の利用法は現在過去において、種々雑多にある。

 例えば太陽光が苦手な種族なども、その防護のためにマスクを着けていることだろう。日の光が差すことのない、地下に住む地底人などは。

 もちろん男がそうだというわけではない。

「痛たた」

「なにやってんですか」

「やっぱり剥がれませんね。これ本物の顔でした」

「でしょうね」

「ところで、おかしいと思いませんか」

「思いますね、あなたの頭が」

「そうじゃなくて、このエレベーターいつになっても目的の階につかないなって」

「あ……」

「四階までは十秒もかからないはずです。それがいっこうに到着する気配もない」

「あれ……どうして?」

 女は男と顔を見合わせた。ふたりの表情には困惑の色があらわれている。

 しばしの時間が過ぎた後。

「ボタンを……押してないからじゃないですかね」

 私はふたりの様子を見るに見かねてとうとう口を開いてしまった。

 とたんに地上の汚染された大気がマスクを通して口中へと入りこみ、私の透明化装置を無効にする。ふたりきりだと思っていた密室内、突如としてあらわれた私の姿に、彼らは目を見開いた。

 しかし彼らの驚きなど気にも留めずに、私は長く細い腕を操作盤へと伸ばした。

 硬質化した爪が先端を覆う指先で、縦に並んだボタンの、一番下のそれを押す。

「下ヘ参ります」

 直後エレベーターは少しの振動を残し、下降し始めた。

 下ヘ、下ヘと。

 

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たら・れば・えれ・べーた 立木十八 @18tcg-tachigi18

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