第3話
半ば逃げるようにして、敬人の家を出た。
薬の効力は今日中には切れるはずということで、とりあえず帰宅して学校の課題を片付けようと思ったのだ。……あれ以上、敬人と一緒にいたら貞操の危機を感じたというのが、本音だが。
敬人は嫌ではない。けど、こんな状態で抱かれるというのは抵抗を覚えたのだった。
上着とフードで耳も尻尾も隠れているが、早く帰るに越したことはない。
そう思って駅に向かって歩いていた。
「……ん?」
背筋がゾワッとした。
なんというか、誰かに見られているような。
そういえば、道に自分以外の人が一人もいない……
「にゃ!?」
突然、目の前の地面が抉れた。
とっさに美緒は飛び退いた。
「うわっ!」
だが、そのジャンプ力が異常で自分でも驚いてしまう。電柱よりも高く飛んでしまった。そのまま民家の石垣に着地する。それも危うく足を踏み外しかけて、慌ててバランスを取った。
「っとと……」
自分の体が自分のものじゃないようだ。軽すぎる。これも、猫の影響ということか。
「ていうか、にゃに、こいつ……」
影だ。
大きな影がぎろりとこっちを睨んでくる。
恨みを買われるような真似をした覚えはないんだけど。
「にゃんにゃのよ! 私に、にゃんの用!?」
叫んでも、影はまた大きな腕を振りかざしてきた。
「危にゃっ」
宙返りをして避けた。本来の自分じゃできない身のこなし。
こういうのは、敬人がいないと終わらないやつだ。
スマホで電話を掛けようとしたら、それを察してまた攻撃してくる。
避けていては、電話ができない。いや、できるのだろうが、スマホを落として壊しかねない。うっかり落としたら大損害だ。
「に、逃げる……?」
できるか? 自分に。……無理だ。
「うぅ……どうしよう……」
美緒は唇を噛み締めた。
こいつの正体も襲撃の目的もわからないから、対処のしようがない。
そう考えていたというのに、勝手に自分の体が動き出した。
「え!?」
スっと体が前傾姿勢になり、腰を高く上げる。まるで猫が獲物に飛び掛るときの体勢だ。
「ね、猫……?」
今、自分は猫の妖に憑かれている。
これは、体の一部となっている猫の意思ということか。
戦うべきだと、猫は判断しているのか。
「ほ、本気にゃの……?」
こんな奴に勝てるとは思えない。
でも、このまま抵抗も何もできずに、呆気なく食い殺されるよりかは、幾分マシかもしれない。
美緒は涙目になっていたが、覚悟を決めてキッと影を睨みつけた。
「うぅ……無茶にゃ気しか、しにゃいけど……
影が突進してくると同時に、美緒は足で石垣を蹴った。影の腹あたり突っ込み、爪で一部を抉りとる。
さすがは猫。爪が鋭くて、動きは俊敏だ。
自分とは思えない身のこなしで、連続で影に突撃していく。
「そりゃっ!」
しばらくすれば、美緒自身も猫特有の動きに慣れてきた。
躊躇いや、ぎこちなさがなくなり、影に攻撃の隙を与えない。翻弄していく。
しかし、決定打は与えられない。いくら突っ込んでも、仕留められなかった。
「どういう、こと……っ?」
影は損傷箇所をすぐ再生してくるし、いくら抉ってもキリがない。何が悪いと言うのだろう。それに、このままでは。
「体力が、もたにゃいんだけど……」
妖もどきになっているとはいえ、ベースは人間だ。これほどの激しい動きを繰り返しても平然としていられるほど、美緒は体力がなかった。
「うっ」
とうとう影に脇腹を殴られた。影の持つ腕のようなものが肋骨までめり込む。
骨が大きく軋み、肉が裂けるんじゃないかという苦痛が全身を駆け抜ける。
その勢いで地面に体を叩きつけられ、美緒は肺が潰されるような圧迫感をおぼえて喘いだ。
普通なら死んでいただろう。妖の特性が自分の体を頑丈にしてくれているらしい。
痛いけれど、意識を失うようなことはなかった。
だが、影は倒れ込んだ美緒を待ってはくれない。トドメと言わんばかりに腕を上げてきた。転がって避けたとしても、その次の攻撃は確実に避けられない。
「くっ……」
敬人。
こういう危機に愛する人を思い浮かべるという小説定番の描写は、決して演出じゃなかったようだ。
実際、死にかけている今、美緒は敬人の顔を思い出していた。
影が美緒の頭めがけて腕を振り下ろす。
美緒は死の衝撃を覚悟して、ギュッと固く目を瞑った。
「散れ!」
怒号が辺りに響き渡り、あんなにも強かった影が一瞬で霧散した。
美緒が痛む体を起こしてみれば、敬人が走ってきている。
手には札を持っていて、助けに来てくれたことは一目瞭然だ。
「敬人!」
「大丈夫か、美緒!?」
敬人が血相を変えて美緒を抱き起こし、怪我の有無を確認していく。
心配してくれるのは嬉しいが、体は痛いだけで、特に大きな怪我はしていないのだ。
「……人体には影響がないらしいな」
「うん。痛いだけで、別に怪我とかは……」
「だろうな。美緒が負うはずの怪我は猫が負担しているらしい」
「え?」
「ほら」
猫耳と尻尾が消え、体が完全な人間に戻っていく。
美緒は頭に手を当てて、猫耳があったところを確かめてみる。そこにはもう何もなかった。
「どういう……」
「さっきの影は鬼だ」
「鬼?」
「ああ。お前に憑いていた猫は、比較的弱い妖でな。他の妖に食われることも多い。だから襲われたんだよ。餌としてな」
じゃあ、猫耳と尻尾が消えたということは……
「……猫、死んじゃったの?」
「いや、違う」
否定されるとは思わず、美緒は瞬きした。
「じゃあ、どういうこと?」
「鬼の攻撃による負傷を担ったせいで、お前に憑いていられなくなったんだろう。元々、俺の薬で無理に融合させられていたようなものだし。今は元に戻ってるんじゃないか?」
「……私のせいで死んじゃったわけじゃないのね?」
「ああ。妖はそんなにあっさり死なないさ。人間じゃあるまいし」
そう言う敬人の表情は暗い。
特殊な能力と理系の知識を持っているため、よく分かっているのだ。人間が、いかに脆い生き物かということを。
美緒がそっと敬人の頬に触れる。
こういう顔をして欲しくはない。敬人には悪戯っ子でもいいから、笑っていて欲しい。
よしよしと撫でれば、敬人も微かに笑った。
「……よし。帰るか」
「うん……って、なんで抱き上げられてるの、私」
「うちに帰るからだ」
「いやいやいや……私、そんな怪我してないから電車乗れる……」
「心配なんだ。うちに泊まって行けや」
「ちょっ、どさくさに紛れて何を!」
「ほら、帰るぞー」
「こらっ、敬人!」
美緒が叱っても、敬人はもう聞いていない。
本当に、仕方ない奴だ。
彼氏の悪戯っ子はいつものこと。
美緒は微苦笑を浮かべながら、敬人の首に腕を回したのだった。
陰陽師の末裔で理系学生な彼氏に妙薬を盛られました 土御門 響 @hibiku1017_scarlet
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