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 車内の水気でフロントガラスが曇ってきたため、ヒーターを強くした。

 北一条通からそのまま国道十二号線に乗り豊平川を越えると、中央区から白石区へと入る。そこから右へ左へ曲がっていくと、自宅のマンションが見えた。

 駐車場に車を停め、雨の中を走り抜けてマンションへ駆け込む。共同玄関のオートロックの前までいくと、あ、と声を上げ、ポケットに手を入れごそごそと探った。

 ポケットから出てきた手には、シルバーリングが握られている。そしてその左手の薬指に既にはめられていた指輪を外し、ポケットから出したものと付け替えた。

「いちいち付け替えるのも面倒だけど、ミーちゃん、この指輪付けないとすねるからなぁ」

 男は外した指輪を見ながら呟くと、もう一度ポケットへ手を入れて中を探った。

「ん……あれ……」

 ポケットの中身をすべて取り出して確認する。広げた手の平には汚れた小銭が数枚。

 再度ポケットに手を伸ばし、ポケットを裏返してみる。中は空っぽだった。

 男は唖然とした。

「鍵がない……」

 ポケットに入れていたはずの鍵がない。どうして……と考えるうちに、二時間前の暗い路地の記憶がフラッシュバックした。雨の中で自動販売機の飲み物を買おうとしてポケットの中の小銭をばら撒いた、あの時一緒に落としてしまった鍵に気付かず置いてきてしまったに違いない。雨水に流されて排水溝に呑み込まれていく鍵が瞼に浮かび、男はうなだれた。

 気が遠のく感覚を振り払い、男は壁のインターホンの部屋番号を押した。

 エントランスに呼び出し音が響く。

 この時間なら妻がいるはず、と思いつつも、今日何度目かの嫌な予感が胸を支配した。

 ロープウェイは運休しており、最初に行った飲食店は移転のため休業中、次に行った店は臨時休業、行こうとした女の家は夫がいて入れず、自宅は……。

 呼び出し音が止まり、何の反応もなくなった。

 苛立ちを噛み殺し、右ポケットからスマートフォンを取り出す。「ミユキ」と登録された連絡先へ電話を掛けた。

 呼び出し音がしばらく鳴り、止まる。

「もしもし」

「あ、ミユキ? 俺なんだけどさ」

 今度は相手が出たことに男は胸を撫で下ろした。

「ミユキ、今どこ? いや、俺、ちょっと早く帰ってこれたんだけど鍵失くしちゃったみたいでさ、家に入れないんだよね」

 男は大声で笑った後、エントランスに反響した自分の声に辺りを見渡した。

「あれ、ミユキ? 聞こえてる?」

 返事のないスマートフォンを一度耳から離し、画面を見るが、「ミユキ」と通話中になっているため、もう一度耳に当て呼びかける。

「ミユキ?」

「不倫してるでしょ」

 妻の冷えた声に、男は不意を突かれて息を呑んだ。

「な……何のことだよ?」

「不倫してるでしょ。誤魔化したって無駄だから。証拠があるの。探偵に頼んで、調査してもらったの」

「おい、探偵って……」

「そしたら今日、あなたと女の人が一緒にいる写真が送られてきたの。……小樽天狗山って……あなたって本当にワンパターンな人ね」

 天狗山、という言葉を聞いて、眉間に皺を寄せ首を捻った。ロープウェイにも乗ってないのにいつの間に……と考えていくと、追いかけてくるように駐車場へ入ってきた深緑の小さな車のことを思い出した。誰も降りてこなかったあの車に乗っていたのが、自分を尾行していた探偵だったのではないだろうか。

 滲み出る冷や汗を拭いながらどうにか否定しようと、あの、あれだ、と言葉を繋いだが、結婚する前に妻を天狗山に連れて行ったことを男も思い出し、もはやどんな言い訳も通用する気がしなくなった。

「あなた、この前急に私のことミーちゃんって呼んだでしょ。なあんか気になったのよね……」

 男は顔を歪めて頭を掻いた。同じ「ミ」で始まる名前だから不倫相手のことを「ミーちゃん」とあだ名で呼んでおけば万が一名前を間違えて呼んでしまったとしても誤魔化しが利くと思ったのだが、勘付かれていたか。

「……すまん! いや、でもね、そう、今日、丁度別れ話をしてきたんだよ。もう絶対会わないから! とりあえず家に入れて……」

「無理よ」

 男の嘆願を女の言葉が遮る。

「私、今実家にいるんだから」

「え?」

 素っ頓狂な声が出る。

「今後のことはまた連絡するから、それじゃ」

「いやいや、待って! 鍵がないんだって! これは本当!」

「これはってあなたね……ミーちゃんとホテルでも行ったら?」

 言い返す間もなく電話が切れた。

 画面を見つめたまま呆然としていると、そのうちぷー、ぷー、という電子音も途切れた。

 エントランスに入ってきた老夫婦が傘を畳みながら、スマートフォンを片手に立ち尽くしている男を怪訝そうに伺った。視線に耐え切れなくなった男は再び外に出た。

 目も開けられない強風と豪雨が全身に吹き付ける。後悔してうしろを向くと、老夫婦が通った後の自動ドアは閉まっていくところだった。

 一瞬空が明るくなる。見上げると、どす黒い空に雷鳴が響き渡った。続けて救急車のサイレンが近付いてきて、そしていびつに変化しながら遠ざかった。その後、お腹の虫が情けなく鳴いた。

 男はどうしていいものか考え付かないまま、ふらふらと車に転がり込んだ。

 くしゃみをして、鼻をすすって、身震いをして、虚ろな目でエンジンを掛けた。

 スピーカーから雑音混じりのラジオが流れ始める。

 ラジオによると、新千歳空港の発着便含め多くの交通機関に欠航が出るらしい。土曜日の夜、人気アイドルのコンサートが開かれていたこともあり、ただでさえ宿泊施設は混んでいたが、足止めを食らった旅行者が市内のホテルに押し寄せ、どこも満室となっている、とのことだ。

 どうせ自分がホテルを訪ねても泊まれはしないだろう。男は自分の運の悪さに苦笑いした。カーオーディオをラジオから聞き飽きたCDに切り替えて、行く当てもないまま車を発進させた。

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【短編】雨男のロードムービー 幸野つみ @yukino-tsumi

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