5

 風は更に勢いを増した。水の張った路面から撥ねる水飛沫は帯状に光って寄せては引いてを繰り返した。

 国道五号線へ合流する頃、一度だけ女が口を開いた。

 そういえば、この前あなたと会った時も雨だった。そういえば、初めて会った日も。雨男はあなただったんだね。

 男が言葉を探しながら口を開くと同時に、車がトンネルへと進入した。雨が車を叩く音が消え、代わりに、トンネルに響く轟音が二人の耳を塞いだ。半開きの口は、言葉を発するタイミングを失いそのまま力無く閉じていった。

 トンネルを抜け、石狩湾を左手に走る。夜の海は雨の影響もあり空との境界を失くして闇に溶けていた。再び建物が数を増していき、時計台が描かれたカントリーサインを超え、手稲山を右手に走り、白い恋人パークを過ぎ、左折して大きな通りを離れ、細道を少し進んだ。

 四階建ての賃貸マンションの前は冠水して川のようになっていた。

「お疲れ様、お腹空いちゃったね」

 男が話し掛けるが、返事がない。不思議に思って横を向くと、女は斜め上を見つめながら目をぱちくりとさせていた。

 男も視線の先を追い、身を乗り出してフロントガラスから上を覗いた。

 ワイパーが視界を拭う。

 彼女が見つめていたものは、マンションの三階、角部屋の明かりだということは、すぐわかった。

「あれ、部屋に誰かいる?」

 驚いて尋ねる男に、女は淡々と返した。

「来てるみたい」

 満足した答えが得られなかった男はいぶかしげに尋ねる。

「来てるって、誰が?」

 答えを急ぐ男に合わせることなく、女は一拍置いて答える。

「旦那」

 男は一瞬言葉を失った。

「……旦那?」

 裏返った声に女は顔を逸らした。

「旦那って……どういうことだよ?」

 問い詰める男を無視して女はシートベルトを外し手早く身支度を整えた。助手席のドアを開けると、横殴りの雨が車内に入ってきた。

「おい、待てって!」

「別居してるんだけどね、今日はたまたまこっちに来てるみたい。悪いんだけど、今日は帰ってもらえる?」

「え?」

 悪いんだけど、と言いつつも悪びれた様子はない。もはや「楽しいデート」を取り繕うつもりは微塵もないのだろう。話の内容と、話し方と、そして思い出の中の彼女との間にずれが生じて、男の頭は更に混乱した。

「じゃあね」

 女は躊躇せず雨の中に出ていった。

 声を掛ける間もなくドアの閉まる音が耳に響くと、男も慌ててシートベルトを外し、車を降りて追い掛けた。

 ヘッドライトに照らされたうしろ姿に声を張り上げる。

「ミリア!」

 名前を呼ばれた女はマンションの玄関に入ると足を止め、額に張り付く髪の毛を手の甲で払いながら男の方を振り返った。

「結婚してるのに俺と会ってたのかよ!」

「それはあなたも同じでしょ?」

 靴は再び浸水し、大粒の雨は立ち所に全身を濡らした。

「雨男で、どこに行っても閉まっていて入ることができない。あなたって本当に運がない人ね。かわいそう」

 女は憐みの目で男を見た。

「さよなら」

 そう言って建物の中へ消えていった。

 男は言葉もなく立ち尽くした。

 黒い空を仰ぎ見て降ってくる雨に顔を濡らしたり、足元の水の流れを小さく蹴ったりした。

 混乱していた感情はやがて腹立たしさに収束した。そして次第に雨と風で頭が冷え、情けなさへと変わっていった。かわいそうなことをされたその相手に、かわいそうと言われたことが、とても惨めだった。

 顔を拭う。が、すぐにまた濡れる。拭って濡れて拭って濡れてを繰り返し、最終的には両手を使って顔を洗うようにごしごしと擦った。

 手を振って水を飛ばすが、顔も、手も、またすぐに雨に濡れる。

 男は諦めてとぼとぼと車に戻った。

 シートが濡れるのも構わず背もたれに体を預ける。下着にも水が浸みている。蒸れた車内と、体にへばりつく衣類が気持ち悪い。

 一人になった車内が寂しく感じ、男はカーオーディオをつけた。

 コマーシャルがしばらく続いた後、ラジオは二十時を告げた。

「腹減ったなぁ……ハンバーグ食いてえ……家になんかあるかな……」

 男はすっかり冷めたコーヒーを飲み干した後、もう一度大きく溜め息をついて頭をがしがしと掻いた。そして車を発進させ、女の家ではなく、自分の家へと向かった。

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