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 アクセルを踏み込み三車線の広い坂道を上っていくと、大型複合商業施設の明かりが雨の向こうで霞んでいた。

「……あそこの観覧車、最近取り壊されたんだよね」

 独り言のように呟いた女の声は、沈黙の中で幻のように現れてすぐに溶けて無くなった。男が一瞥いちべつしても少し眠たそうに景色を見ているだけなので、本当は誰も何も言っていないのではないかと思えた。「乗りたかった?」という言葉が出そうになったが、この天気ではどの道乗ることはできないことに気付き、口をつぐんだ。

 大きな道を離れるとアクセルを踏む力を緩め、見落とさないよう慎重に進んだ。しかし、なかなかそれらしいものが見えてこない。

 しばらく進んだところで車を路肩に停める。女はそれで目的地に着いたことを悟る。が、二人とも黙ったままだった。

 何故なら、嫌な「予感」でもなく、既に確信めいたものが胸にあったからだった。

 色のない看板を雨が横から叩き付けている。びしょ濡れの窓ガラスの向こうは暗くて見ることができない。

 路地には自動販売機の明かりだけがやけに能天気に、まるで台風ではしゃぐ子供みたいに場違いな表情で、輝いていた。

 雨足は更に強くなってきていた。

「ねぇ」

 その声は雨音に掻き消されそうな程落ち着いていたが、男はびくっと体を強張らせた。

「雨もひどいし、もう遅くなりそうだから、家に帰らない? ハンバーグは作れないけど……簡単なパスタだったら私すぐ作れるから」

「ちょっと待ってて」

 女が言い終わるや否や、男はシフトレバーをパーキングへ入れエンジンはかけたまま、車のドアを開けてどしゃ降りの中に飛び込んだ。

 本当に営業していないのか……それはほとんどわかりきっていたし、何故営業していないのか……それももはやどうでも良かった。「ちょっと待ってて」と言ったのは優しさではなくて、女と別の空間に逃げたかっただけだ。

 雨粒は大きく重い。小走りで軒下のきしたへ向かうが、すぐに靴に水が染み込んだ。

 手書きの張り紙には、台風の影響で臨時休業する、と書かれていた。

 男は腹立たしい内容に歯を食いしばる。いやいやそれもそうだろう、仕方がない、自分のせいじゃないんだと頷く。納得できたつもりになるが、結局状況は変わらない事実が思考を侵食してくる。気を使う相手がいないのを良いことに大きく長い溜め息をついた。

「……まったくなんなんだよもう! ついてないなぁ……どうするよ……」

 吐き出した苛立ちと弱音は風に吸い込まれていった。

 ふと、店の前の自動販売機が目につく。荒れた暗い夜道を照らすそれは、自分の憂鬱を励ましてくれているように見えてきた。

「せっかくの二人の休日だもんな……これ以上時間を無駄にしないで、家に帰ってゆっくり過ごすのも悪くない、か……」

 再び雨の中に飛び出し、顔を伝う水滴に片目を瞑りながら自動販売機の品揃えを確認する。温かい飲み物が販売されていることがわかると、小銭を取り出そうと左のポケットに手を突っ込んだ。

 しかし、慌てていたためか、手が濡れていて滑ったのか、ポケットの中身をばら撒いてしまった。

「……とことんついてないな」

 そう言っている間にも容赦なく雨は降り注ぎ、どんどん髪や上着に侵入していく。暗い地面に目を凝らし、雨水に濡れた小銭を急いで拾い、左の手の平に集めていく。

「あ、指輪……」

 水溜まりに沈んだシルバーリングを右手で摘まみ上げる。

「危ない危ない」

 男は立ち上がり、手の平の小銭を自動販売機に投入し、温かいコーヒーを二つ買った。

 車に戻った時にはすっかりずぶ濡れだった。

「何やってるのよもう」

 呆れて言う女の顔を見ることができず、男はひとまず缶コーヒーを一つ手渡した。

「ごめんごめん、いやいや、参ったわ。あれだってさ、台風の影響で休みなんだってさ。それでね、ミーちゃんの言う通り家に帰るのが良いとは思ったんだけど、家に着くまでお腹空いちゃうし、飲み物だけ買おうと思って。なのに小銭ばら撒いちゃうんだもん。もうワヤだよ」

 男は顔を拭いながら相槌を入れる間もなく喋り続け、自ら大袈裟に笑った。

「何もこんな雨の中買わなくてもいいのに……」

 男は言い訳ができないのを誤魔化すため、缶コーヒーを開け、それで自分の口を塞いでしまおうとした。しかし、熱くてなかなか飲むことができず、あちち、と言ったり息を吹きかけたりして一人忙しなく缶コーヒーと戦った。

 女は静かに視線を落とし、熱い缶コーヒーを、指先まで引っ張った上着の袖で包んで持っていた。

「さて……じゃあ帰ろっか。早くしないと車が沈没しちゃいそうだね」

 ドリンクホルダーにほとんど量の減っていない缶コーヒーが置かれ、ワイパーの速度が一段階上がり、車はゆっくりと転回し元来た道を走り始めた。

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