ブラッディ・オレンジピール

月緒 桜樹

紅いチョコレート

 予想はできていた。


「――え、ごめん。そんなつもりは、無かった」


 2月14日、私は彼にとって“その他大勢”に過ぎなかったことが、はっきりとわかった。


「ごめん、そんなこと言わないで」


 ヴァレンタインに本命を渡したって、玉砕するときは玉砕するんだ。それくらい解っていた。

 けれど、こんなことは女子の性質たちで。渡すときには、どうしたって砂糖ひとつまみぶん、期待してしまうのだ。


「頼むよ……、そんな悲しそうな表情かお、しないでくれよ……」


 きっと酷い表情だったろう。

 彼が言葉を重ねるほど、虚しくなっていく。お願い、黙って。私は、“踵を返す時間”が欲しいんだ。


「――――わかっ、た」


 息が止まる。


「じゃ……」


 背を向けようとして。


 いっそ、雪でも降っていれば良かったのに、と空を仰いだ。

 ――快晴というほどじゃないけれど、綿菓子のように甘そうな千切れ雲が流れている。


 いっそ、雪でも降っていれば良かったのに。


 この空虚な痛みを、刺すような冷たさで、透明に緩んでいく優しさで、きっと癒してくれるから。雪でも、降っていれば良かったのに。


 どうせ君には、君の“本命”がいて。


 放課後、私と対峙しているこんな時間があるなら、彼女の姿が見たくて。


 義理でもいいから、彼女の心が欲しかったんでしょ?



 ――それくらいわかっていたから、雪に撃たれたかった。


 そんな思考は刹那のことで、彼は再び「ね」と空気を震わせた。


「なんで、行こうとするわけ?」


 ――巫山戯ふざけてんの? 君が私に告白させないから、私は去ろうとしているのに。


「…………?」

「なんか、情けないじゃん。お前任せにするなんてさ」

「そんなこと……」

「――あるよ。――――好きでした、ずっと」



   ***


 そんな少女物語のような甘ったるいことを考えながら、私はブラウニーを作っていた。


 砂糖ひとつまみぶんの期待。


 ――なんて馬鹿馬鹿しいと思っていたけれど、私もやっぱり女子なのだった。



 胡桃とオレンジピールを刻みながら、苦い表情で期待を捨てようと目を瞑る。――そう簡単に振り払える物なら、苦労はしないのだけれど。



 そうして、想像したようなやり取りは一切せずに。軽く義理で渡したかのような口調でもって、「あげるよ」と言ったのだった。


 本当に、綿菓子のように甘そうな千切れ雲が浮いていた。


 手作りだから、お腹を壊したら……なんてことも考えたけれど、杞憂だったらしい。


「美味しかった、ありがとう」


 そんな軽め人並みの感想が返ってきて、この友人関係は続いていくのだった。「私は奥手だから」なんて呪いを自分に掛け続けて。


 来年こそ、進展したら……。


 そんな幻想は、抱くだけ虚しい。ネガティヴに呪いを掛け続けているから。


 君は……。そんな私の思考回路を書き換えてくれたのに、ね。



   ***


 ところで。


 色々と考えることで注意散漫になるのは仕方の無いことかもしれない。妄想するのも、女子の性質なのだろうから。

 ただ、それでのは、笑えなかった。


「あ――――」


 気づいてから、思い出したように血が流れ始める。


 真っ白になる痛みが爆発する。



 ――血溜まりが、あたかもチョコレートのように見えた。


 本当に、笑えない。

 私は、あくまで正気だった。


 ホワイトブラウニーのつもりだったのに、生地が一気に染まっていく。

 紅のような、黒のような、チョコレートじみた色に。普通に、ブラウニーだった。


 まな板の上のオレンジピールも、深紅のシロップに浸けられたように染まっていく。――ブラッドオレンジだって、皮はこんなに紅くない。


 そもそも、こんな状況下で、どうして私は料理を続行していたのだろうか。衛生的にも悪いだろうし。

 ――まぁ、彼はお腹を壊してはいないらしいし、味見した私も被害には遭っていないのだから、今更だ。


 マーブル模様のブラウニーは、悪くない味がした。

 オレンジピールを入れるなら、白い方が色鮮やかで良いだろうと思ったのだけれど、マーブルになってしまったブラウニー。鉄っぽい味はしなかった。







 私たちには、チョコレートの血が流れている。




 詩的すぎるかもしれない。でも、そんな気がしたのだ。

 すると、チョコレートは何より罪深いデザートなのだろう。そこには、原罪が息づいているのだから。


 ああ、人々がチョコレートに罪悪感を視るのは、間違いじゃなかったんだ。そう思えた。





 私たちには、チョコレートの血が流れている。




 ――それなら、この身は何でできているのだろうか。


 甘美な果実? ああ、その通りかもしれない。


 “カニバリズム”なんて、歪んだ皆さん方々は大好きなんでしょ?


 だから、例えば、理想的な何かができあがるのだろう。それは、甘美な果実なのだから。

 そうして、誰かの血肉となって共に生きていく理想を、語りたいのだろうか。



 けれど。


 思うに、そんな菓子はもう、だ。


 いつか見たような、何処かの誰かの物語フィクションで、何処かの誰かに降りかかった惨劇。

 そんなもの、既視感デジャヴュを抱かないわけがない。


 唐突な自己嫌悪。


 だから、試してみようと思った。


 別に彼の血肉となりたかったわけじゃない。

 寧ろ、そんな(一般的に見れば)変態的な発想は、私だって嫌いなのだ。


 ただ、完璧に偽装できるか試してみただけだ。


 本当に【私たちには、チョコレートの血が流れている】のか、実証してみようと思っただけだ。


 ある意味では、そんな私の方が変態的で、イカれているのかもしれない。



 そして、きっと完璧に偽装できたのだろう。彼は気づかずに軽め人並みの感想を寄越したのだから。


 きっと私が贈ったのは、ほろ苦くて、甘くて、罪深い。完璧なブラウニーだったのだろう。

 完全な、デザートだったのだろう。


 だから、【私たちには、チョコレートの血が流れている】。



 そして、私たちは――。


 そのまま、血に抱かれて、死んでしまえばいい。チョコレート濃密な血液に抱かれたオレンジピール“甘美な果実”のように。

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