ラブ・オール!
牧ノ原大地
一話完結
対峙した男は能面のように表情がない。
口許だけが不気味にニタリと動いた。
俺はそこから一歩も踏み出せない。抗うこともできず深く暗い沼の底に沈んでいった。
「くそがっ」
息苦しさで目が覚めた。これが記念すべき高校生活の第一歩だとは、随分な仕打ちではないか。
俺は朝食もそこそこに、慣れないネクタイを締めて、家を飛び出した。
変速ギアは三速のまま、爽やかな春の風の中をばく進する。心地よい緑のにおいが鼻孔を通る。
「俺の人生、高校からリスタートだ」
春の陽気のせいだろうか。そんな独り言も、意図せず口をついて出る。
「あれ」
見慣れた二文字を視界に捉えた。思わず両手でブレーキを握る。新品だけあって、車輪はすぐに動きを止めた。
脇の小道から、「池谷卓球スクール」と書かれた看板が覗いていた。
(ちょっとだけ覗いてみるか)
一瞬だけよぎったそんな考えを、すぐに頭を振ってかき消した。
「俺にはもう関係ないんだ」
実らない努力など、ざるで水を救うのと同じだ。無意味で、無駄。高校生活こそは、悔いなく過ごすんだ。俺はギアを変速一に戻して、ペダルを踏み直した。
「なあ、お前部活はどうするつもりなんだ?」
初日のホームルームを終えて帰り支度をしている最中だった。隣の席の笹本が声をかけてきた。爽やかスポーツマン然な男。
「サッカー部に入ろうと思っている。笹本は?」
「奇遇だなあ、俺もだよ。お前経験者か?」
「いや、違うけど。なんかモテそうだから」
「正直だな」
笹本の目に笑い皺が刻まれる。
「けど、そんなに甘くないぜ。何にせよ、仲間が多いのは良いことだけどな」
その直後。
「うおおおおおおおい! どういうことだら」
響き渡るライオンのようなうなり声。その叫び声が俺に向けられたものだと気が付く前に、声の主が視界に飛び込んできた。ライオンは一応人間の姿をしていた。
「お前卓球部に入るんじゃないのか? 俺も卓球部に入るつもりなんらけど」
反射的にのけぞってしまう。声の主を正視する。ニヘラニヘラとしまりのない顔面。鳩でも国旗でも出てきそうな爆発寝癖頭。顔が自然と歪む。
「いや、つーか、お前誰だよ?」
当然の返答をする。
「俺は石山アトムら。家がビンボーらけど、仲良くして欲しいずら」
「なんでもいいけどよ、俺はサッカー部に入るんだよ」
こんな「天然無造作ヘア」のちんちくりんとなんて付き合えるか。しかも、よりによって卓球部だなんて……。
「え、何でなんら? お前卓球メチャうまいじゃねーか」
八重歯がきらりと光る。アホ面のクセに、妙に真剣な眼差しで俺のイラつきは倍増する。
「人違いじゃねーの。俺は卓球なんてダサいスポーツ、やらねえよ」
「なんだ栄樹、お前卓球部入るのか」
隣にいた笹本が茶化す。
「バカ言えよ。早くサッカー部の見学行こうぜ」
「ああ、そうだな。何人来るか、楽しみだな」
後ろでアトムがブツブツ何かをつぶやく声が聞こえたが、俺は無視して教室を出た。
翌日。
「なあ漆畑、フォアハンドってどう打てばいいんら?」
またアトムだ。昼ごはんを急いで食べたのだろうか、顔にご飯粒が三つも付いている。
「は? 知らねーよ」
俺は弁当の唐揚げから目を離さずに答える。
「いいから、卓球場に来て欲しいら」
アトムが俺の制服の袖を強引に引っ張る。もやしみたいなヒョロヒョロの身体つきのくせに、意外と腕力があって思わず椅子から転げ落ちそうになる。
「お、おいバカ、やめろって」
アトムは俺の袖を掴んだまま、子供のいたずらを咎める母親のように、強引に教室の外へと引っ張っていった。
「ハハ、お前ら仲良いんだな」
遠くで笹本の声がした。ちげーっつーの。
一階の第一体育館、二階の第二体育館。その二つを繋ぐ階段の踊り場の脇に、錆びついた小さな扉があった。扉の上にはこれまた錆びついた看板が、申し訳程度に設置されていた。かろうじて「卓球場」と判読することができる。どうやらここが目的地らしい。
「この学校は『一と二分の一階』に卓球場があるんら。漆畑もやりたくなったろ」
「……」
「漆畑、お前はシェイクハンドだら? そこにあるラケット、使っていいぞ」
「……」
「軽くフォア打ちして、俺のフォームのどこが悪いか、教えてけろ」
「……」
俺が無言を貫く意図について、アトムが解釈を試みる様子は無い。俺は渋々ラケットを手に取り、台の中央やや右寄りの位置に構えた。左足は少し前に。重心はやや前に。かかとをわずかに浮かせて。身体が自然と正しい構えを取ったことに腹が立って、「チッ」と舌打ちをした。
「そしたら、行くぞ! 漆畑、お前鈍ってないだろうな」
アトムがサーブを打ち込む。ラリー開始の合図。さっさと終わらせて帰ろう。
十%ほどの力で、緩やかな山なりのボールをアトムの右端に打ち返す。
「ぬおー、お前、厳しいコース狙ってきやがって!」
アトムがわめきながら思いっきり振ったラケットは、綺麗に空を切った。
「……」
「もう一回ずら!」
仕方が無いので先ほどよりさらに緩く返球してやる。
「こんちくしょうめ! これでどうら!」
またも空振り。
「……」
その後もラリーが一度として続くことはなかった。
「うおー、まだまだ、もう一回ずら」
かれこれ五十回は超えているだろう。これほどトライして、ラケットがボールにかすりもしない。その事実が示すことはたった一つ。アトムは……。アトムは卓球がメチャ下手くそだった。
「……もうやめろ」
「そしたら、俺のフォームの悪いところ、教えてくんろ」
どこって言われても。
「ボールから目を離すのが早すぎ、インパクトの時肘が上がりすぎ、打点が早すぎ、手首ひねりすぎ、腰が入ってなさすぎ、棒立ち、左右の足の位置が逆、フリーハンドが死んでる、それから……」
「お、多すぎて覚えられないら! 俺のフォーム、そんなにダメか?」
アトムが大げさに頭を抱えた。こいつの場合演技では無しにそのポーズを取っていそうなところが怖い。
「良いところは一つも無い」
「そっかー、やっぱり卓球って難しいんだな」
全球空振りしたクセに、「良い試合だったな」と言わんばかりの爽やかな笑顔がムカつく。やっぱりどうしようもないアホだな。
「じゃあな。三年間努力すれば、一回戦くらいは勝てるようになるじゃねーの」
「待つずら! お前本当に卓球部入らんのか?」
「何度も言わすんじゃねーよ」
吐き捨てるように言葉をぶつけた。
「そしたら、俺と勝負して、俺が勝ったらお前卓球部に入るら」
「まともにボールも打てないやつが、俺と勝負になるわけねーだろ」
「今はまだ勝てないら! でもむちゃくちゃ練習して、お前なんか追い抜いてみせるら!」
「……勝手にしろ」
勝負事においては、敵との力量の差を見抜き、引き際を悟ることも大事だ。このバカには言っても分かるまい。俺はきびすを返し、卓球場を後にした。
久しぶりにラケットを握った右手の懐かしい感覚を忘れたくて、廊下の壁を思いっきり殴ってやった。鈍い痛みが静かに右手に伝わって来た。
その日以降、アトムは観念したのか、俺に絡んでくることは一度も無かった。よしよし。
「石山。石山アトム、いるかー」
その日もいつも通り担任の斎藤が出席を取ったが、返事はない。
「はーい、はーい。石山アトム、間に合ったれす」
勢い良く教室の扉が開いた。息を切らしながら、両腕を水平にして「セーフ」のポーズを取ったアトムがいた。
「ギリギリセーフということにしておこう」
「さすが斎藤先生、懐が深いずら!」
こいつが人を褒める場合、嫌味とか悪気とかを一切感じさせないのが怖ろしい。斎藤は照れ隠しなのか軽く咳払いをする。
「それにしても石山、お前汗だくじゃないか」
「んあ? 家から走って来たれす」
教室中に笑い声が響いた。
「毎日遅刻されたらかなわん。バスなり自転車なり、適切な交通手段を選ぶように」
「明日はもっと速く走れそうれす」
「そういう問題ではない!」
また爆笑。斎藤は嘆息して出席確認を再開した。台詞ほど、怒っている様子はない。
「ふん、どうせ三日坊主さ」
俺は机の下で小さく握り拳を作った。
五月も半ばが過ぎた。日直当番の仕事に手間取り、時間を食ってしまった。教室を出た時、廊下はひどく寂しかった。いつもならお喋りする生徒でごった返しているその場所が、やけに広く感じた。
日直日誌をロッカーの上に置く。廊下の進行方向に身体を向け、改めて横幅を確かめる。およそ二・五メートル。卓球台の横幅はほぼ一・五メートルだから、左右に五十センチほどの余裕があることになる。
誰もいないことを確かめ、通学用のスポーツバッグを開く。サッカー部の練習着の下に、ラケットケースは静かに眠っていた。こっそりとラケットを取り出す。手に馴染むグリップ、全力で振り切れるギリギリの重さ。以前と変わらぬ相棒に安堵する。
左端に身体を寄せると、勢い良く反対端に跳躍する。バックハンドからフォアハンドへの飛びつき。右腕はイメージ通り綺麗な四分円を描いた。前傾姿勢を維持し、今後はすぐさまバックハンドへと回り込み、スマッシュ。ボールは相手コートを突き抜けた。
「漆畑……くん?」
その声で妄想が中断された。振り返ると、朝比奈さんがその小さな顔を横に傾けていた。
「ああ、ちょっと、ね」
何がちょっとなのかの説明を求められても回答は持ち合わせていなかったが、とにかくその場を取り繕った。
「君ってサッカー部じゃなかった?」
「そ、そうだよ。今のもフットワークの練習」
「ふーん」
興味なさそうに朝比奈さんは曖昧に頷く。そこで冷静になる。これってチャンスでは?
「そうだ、今度の週末、映画行かない?」
入学当初から朝比奈さんには内心目をつけていたのだ。
「でもサッカー部って週末も練習でしょ?」
「大丈夫、風邪とか言って適当にサボるから」
「感心しないな、その姿勢」
朝比奈さんの眉間に皺が寄る。想定外の迫力に、言い訳の言葉が出てこない。
「漆畑くんってさ」
ため息を挟んで、朝比奈さんが続けた。
「本気で何か一つのことに打ち込んだ経験ないでしょ? 本気だったら、部活サボるとか絶対言えないはずだもん」
朝比奈さんはきびすを返した。
「笹本くん達には黙っててあげる」
「お前に何が分かる!」
その言葉をぐっと飲み込んだ。朝比奈さんが視界から姿を消してからもしばらくは、悔しさと情けなさとでその場から動けなかった。
高校生活は矢の如し。気がつけばブレザーから半袖シャツの季節に変わっていた。
部活を終え、すっかり暗くなった通学路を自転車で進む。
暗がりに一箇所だけ明かりが灯っていた。「池谷卓球スクール」だった。
(少しだけ、寄っていってもいいかな)
ハンドルを左に切ろうとしたそのとき、後ろから声がした。
「あれ、栄樹じゃねえか」
笹本だった。
「今帰りか? 一緒に帰ろうぜ」
「あ、ああ」
「そっちの練習はどうだったんだ?」
「そっち」というのは、俺が所属しているCチームのことだ。うちのサッカー部は実力順にAからCチームまで分かれている。笹本はAチーム。一方初心者の俺は、当然Cチーム。
「相変わらず基礎練ばっかりだな。はやく試合がしたいぜ」
「そのためにも早く上に上がらないとな」
「分かってる」
「なあ栄樹」
取り調べの刑事のように、笹本は鋭く俺の目の奥を覗き込んでくる。
「お前サッカー好きか?」
「……当たり前だろ」
鞄の中のラケットが脳裏をよぎる。「ごめん」と心の中で呟いたのは、笹本にであったのか、それとも……。自分にも分からない。
「ならいいんだけどな。お前運動神経良いクセに、いつもどこか集中力が欠けてる気がするんだよなぁ」
思わず目を逸らす。今日のシュート練習でも簡単なボールを何度も蹴りそこねていた。
「ま、まだ慣れてないだけだろ。すぐにお前なんて追い抜いてやるから、見てろよ」
精一杯の虚勢だった。
「はは、それは楽しみだな。期待してるんだから、頼むぜ。未来のエース」
(そうだ、今の俺にはサッカーがあるじゃないか)
言い聞かせるように反芻する。
「笹本、この後マック行かねえか」
「悪ぃ、この後少し練習したいんだ。何なら栄樹もやらないか」
「……いや、今日は疲れたから遠慮しとくわ。お前、練習熱心だな」
「いやまあ、石山ほどじゃないけどな」
なぜここでその名前が出る。
「俺の前が石山の席なんだけどさあ、あいつ授業中にプルプル震えてんのよ。トイレでも我慢してんのかなと思ってよく見たら、空気椅子してんのな。それも毎時間だぜ」
「どうせすぐに音を上げるだろ」
想定以上に敵意がむき出しの言い方になってしまい、自分でも驚いた。幸い笹本が気にする様子は無い。
笹本は嬉しそうに笑っていた。
「そうか」
何とか絞り出した声は、笹本の笑い声にかき消された。
十月の風は頬に冷たい。たった一人の屋上で寂しさだけが雪のように綿々と降り積もる。
今日も部活を休んだ。体調が悪いとウソをついた。痛む心すら、在り処を見失っていた。
何かが足りない。その思いには、気づかぬふりを貫き通さねばならない。決して認めてはならない。またあんな思いをするくらいならば。部活も適度に。友達も作って、恋愛もして。高校生活はそう過ごそうって、決めただろ? お願いだから……。お願いだから、忘れさせてくれ。窒息しそうなほど苦しい。
風に吹かれて落ち葉が乾いた音を立てた。
「こんな所にいただか。随分探したぞ!」
耳慣れた鼻づまり声が突然背中に突き刺さる。声の主は確認するまでも無い。
「漆畑、こいつを受け取れ!」
アトムは何やら白い封筒のようなものを俺に手渡してきた。
表面には下手くそな文字で「果たし状」(正確には、「状」の最後の点が無かったのだが)と書かれていた。
「……何だよ、これ」
「さあ、俺と勝負ら! 俺が勝ったら、お前卓球部に入る約束だら」
そう言えばそんな約束したっけな。
「この半年間、漆畑に話しかけなかったのも、全ては俺の特訓の成果を隠すためら。覚悟しろよー」
「うるせえよ。どのみちお前と話すつもりなんてねえんだよ」
そう言いつつも内心ほっとしている自分に腹が立った。目がかゆい振りをして、涙はごまかした。
「十一点一セット勝負ら!」
簡単な準備運動を済ませると、アトムが声を張り上げた。なるほど。三セットや五セットマッチとなると自力の差がものを言う。だが一セットだけであれば、幸運がいくつか重なれば自力の差がひっくり返ることもある。そういう意味でこいつの提案は悪くない。もっとも、この二本棒がそんな賢しい計算をしているとは思えないが。
「そう言えば漆畑、お前ラケットはどうするんら?」
「ああ、俺は適当にこのラバー貼りのでも使わせてもらうわ」
卓球台の横に転がっている年季の入ったラケットを手に取る。案の定ラバーの表面はワックスがけをしたばかりの廊下のようにつるつるで、ボールが食い込む余地は無さそうだ。回転は望めそうにない。とは言え、こいつ相手なら問題ないだろう。
「ぬおー、どこまで人をなめくさったら気が済むんら! 負けてもラケットにせいにするなら!」
「いいからさっさと始めるぞ」
「ぬ、そしたら軽くラリーしてから始めるら」
半年前のボールにかすりもしないアトムを思い出す。難しいコースを狙ってまた騒がれても面倒だ。俺はアトムが丁度ラケットを構えている位置目がけて緩いサーブを打った。
カキン!
金属どうしがぶつかり合うような鋭い音。ボールをジャストミートしたときにだけ聞こえる音だ。その音が俺の耳に届くよりも僅かに速く、高速のボールが俺の脇を通り過ぎた。
「なんら、その腑抜けたサーブは。あんまり俺をなめると、痛い目みるら!」
「いや、最初はラリーするんだろうが!スマッシュ打ってるんじゃねえよ」
ラリーだと思って油断していたとは言え、俺がまったく反応できないスピードのスマッシュ。こいつ、半年前とは別人じゃねえか。
「ちょっと待ってろ」
横目で捉えたスポーツバッグの底が光る。
(分かってるよ)
俺はスポーツバッグの奥から自前のラケットケースを取り出した。久しぶりに、お前の力を借りるぞ。
「あれ、なんでお前ラケット持ってるんら?」
「うるせえな、たまたまだよ。全力でお前を叩き潰すことにしたんだよ」
「そうでなくちゃ面白くないら。さあ、試合開始ら!」
ジャンケンの結果、アトム側のサーブで試合開始となった。お手並み拝見といきますか。
「ぬらぁ!」
ファーストサーブはバックサイドへのショートサーブ。おそらくほとんど無回転だろう。俺は手首を返し、バックハンドでアトムのクロスに払う。アトムが使っているペンホルダーラケットは、バックハンド強打が難しいラケット。だから、バックサイドにボールを集めるのがセオリーだ。
その直後だった。アトムは数瞬の間にバックサイドに回り込んだかと思うと、フォアハンドで強烈なスマッシュを対角線上に打ち込んできた。俺はラケットに当てるのが精一杯で、ボールはホームランのように台を遥かに超えていった。
「どうら、俺のライジングショットの威力は!」
ただのスマッシュに名前つけてるんじゃねえよ。このガキが。
「一―〇ら」
またアトムのサーブ。ほぼ同じ位置へのショートサーブだ。今度はみぞおちあたりに返球する。この位置はフォアハンドで打つかバックハンドで返すか判断に迷う、いわば卓球選手の泣き所だ。だがアトムはすぐにバックサイドに身体を運ぶと、例のごとくフォアハンドで強打する。
くそ、これも打つのかよ。
俺は慌ててバックハンドでブロックの構えを取るが、間に合いそうにない
「あー、あとちょっとだったら」
ボールは僅かに台をオーバーしていた。
……助かった。
この二球で分かったことがある。アトムは強敵だ。それは認めよう。そしてこいつがすごいのは、ライジングなんたら、ではない。際どいコースのボールを全てフォアハンドで強打できる位置に数瞬で移動してしまう、そのフットワークだ。
「この半年間の練習の成果ってことかよ」
アトムの反対側を向いてつぶやく。初心者のくせに卓球におけるフットワークの重要性を見抜くなんて、やるじゃねえか。
でもな、アトム。一つ教えてやるよ。
「一―一ら。さあ、漆畑のサーブら」
俺はアトムと同じように、バックハンドに下回転のショートサーブを出す。アトムはそれをカットしてバックサイドに返球する。
甘い!
俺はバックサイドに回り込んで、ストレートに強烈なドライブをお見舞した。ボールにまったく触れられずに、呆然とするアトム。
フットワークがすごいのは、何もお前だけじゃないんだぜ。
「す、すごいら漆畑、お前のライジングショット!」
ドライブだっつーの。
「まだまだこれからら!」
「ふん、もう一点も取れないと思え」
ああ、これだよ、これ。強い相手と対峙した時の、しびれるようなヒリヒリする感覚。全身の血液が沸騰するようなアツい刺激。
卓球って。
卓球って、やっぱりおもしれーじゃねーか、チクショウ。
「……完敗ずら」
「そうでもなかったぞ」
アトムには聞こえない小さな声でつぶやく。途中でアトムが横回転に弱いことが判明してからは確かに一方的な展開にはなったが、それも慣れの問題だったろう。一セットマッチのルールに救われたのは、案外俺の方かも知れない。
「煮るなり焼くなり、好きにするら」
ピカピカの床に、まるで萎んだ風船のようにへなへなと倒れ込むアトム。
「一つ教えろ」
「……何ら」
「お前、何でそんなに練習頑張れたんだ?素人が半年でここまで上達するなんて、並の努力じゃ無理だろ」
「なんら、そんなの決まってるずら」
普段から大きい声を、演説でもするように、一段と張り上げるアトム。
「だって、卓球強いのって、カッコいいら!」
「……なんだよ、それ」
脱力して、俺も床に倒れ込む。床のひんやりとした冷たさが、背中に沁みてくる。
「漆畑お前、小長谷ってよー、覚えてるか」
アトムは寝転んだままだ。
「ひょっとして東中の小長谷か?」
俺も床に寝そべったまま答える
「おう、その小長谷ら。俺、アイツと仲良かったから、中三の時アイツが出た県大会応援に行ったんらよ。その準決勝の相手がお前だったずら」
そう言えばあの試合、やけにうるさい応援が一人いたような。
「そうか。アイツ、強かったな。俺の苦手なカットマンだったし」
「ああ、でも、小長谷には悪いんらけど、俺はあの試合、お前のプレーに引きつけられたんら。パワードライブでガンガン攻めまくるお前のプレースタイルが、メチャメチャカッコ良かったんらよ。お前を見て、俺は卓球やろうって決めたんら」
アトムの横顔が眩しい。卓球始めたばかりの頃は、俺もこんな顔してたのかな。
俺は曖昧に頷くと、ゆっくりと瞳を閉じた。
アトムは知らない。県大会で準優勝した俺が臨んだ東海大会。三回戦で俺がボロ負けしたことを。三セット中一セットは人生初のラブゲームを食らったことを。後一勝で全国大会だった。掴みかけた栄光はすんでのところで、卓球が大好きだった気持ちと一緒に、粉々に砕かれた。絶対に超えられない壁があると思い知らされた。友達の遊びの誘いを断ってまで、修学旅行を休んでまで、ひたすら練習に打ち込んだのに、全て無駄だった。俺はそこでラケットを置くことを決意した。
「なあアトム、お前卓球好きか?」
「当たり前ら! こんな面白いスポーツ、他に無いら!」
「でもこれから、メチャメチャ強い奴に打ちのめされるかもしれないんだぜ」
「そしたらそいつに勝てるようになるまで練習すればいいだけら! お前俺より勉教できる癖に、頭悪いなー」
うるせえ! うるせえ! そんなこと……。そんなこと、俺だって分かってるんだよ。
「いつかお前にも勝てるように、もっともっと練習するら!」
「それは無理だな」
「何をー! やってみるまで分からないら!」
ふぐのように頬を膨らませるアトム。
「いや無理だな。何故ならこれからは俺もお前以上に練習するからだ」
「へ?」
今度はカバのように間の抜けた顔になった。
「俺も卓球部に入るって言ってるんだよ。お前より強い俺がお前より練習したら、お前の勝ち目はゼロだな」
「あー、ずるいら。やっぱりお前が卓球部に入るの無しら!」
「入って欲しいって言ってたじゃねえかよ」
「……本当にいいだら?」
「ああ」
「お前、サッカーの方が好きになったんじゃなかったのか」
「うるせえな、もう決めたんだよ」
それ以上は照れくさくて、一目散に卓球場を後にした。「一と二分の一階」の階段を下りるとき、背中越しに何か獣のような雄叫びが聞こえてきた。
その翌日。
「栄樹、食堂行こうぜ」
いつものように俺を昼食に誘う笹本。
「なあ笹本、ちょっと話があるんだけど」
「ん、どうした?告白ならご遠慮願うぞ」
ツッコむ余裕は無かった。笹本もその雰囲気を察してか、口を真一文字に結び直す。
「俺、サッカー部辞めて卓球部入るわ。いや、何ていうか中学の忘れ物を取りに行くっつーか、卓球のことが忘れられないっつーか……。別にサッカーは嫌いじゃないんだけど……」
笹本はいつもの爽やかさを取り戻し、白い歯を覗かせた。
「ああ、知ってたよ」
親友よ、やっぱり告白していいか。
「今日部活終わったら、マック行くか。お前の新たな門出に、ポテトくらいならおごってやるぞ」
「……いや、いいや。半年分のブランクを取り戻さないと」
「だな」
何せ絶対に負けたくないヤツがいるからな。
「おーい、何やってるら。昼休みも練習あるのみずら!」
教室の出口からそいつが叫んでいる。
「うるせえな、今いくよ」
ラケットケースを握りしめて、声のする方へ駆け出す。
「試合開始(ラブ・オール)!」
心の中で、力強くそう叫んだ。
ラブ・オール! 牧ノ原大地 @miccho
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