第15話 (補論3)「時間」という概念は存在しない

我々は、「時間がたつ」「時間を使う」など日常的に「時間」という言葉を当たり前のように使っている。この「時間」が実は存在しないというと大騒ぎになりそうだ。時計を見れば、確かに1分1秒と時間が進んでいるのが見えるし、新幹線に乗って東京から大阪まで行くと2時間半が経っている。やっぱり時間はあるではないか。でも、実際に時間という「モノ」を見た人は誰もいない。時間は「過去⇒現在⇒未来」と一様に流れる物理量であり、触ったり持ったりすることはできない。

「第4話 縁起が悪いの本当の意味」でも述べた通り、我々が知ることができるのは「原因⇒結果」という因果律だけである。我々は、原因が過去であり、結果が現在(あるいは未来)だと知っている。この因果律を見て「時間が経った」と思っているだけのことである。じっと座っているだけのあなたですら1秒前のあなたと1秒後のあなたは異なる。このわずかな間にもあなたの心臓は脈を打っているし、ごくわずかだが歳も取った。この事実をもって、時間が経ったと言っているだけに過ぎない。


アインシュタインはかの有名な「相対性理論」で、時間が見る人によって伸び縮みすることを発見した。つまり光速に近いスピードで動く人の時間は静止している人の時間より遅く進む。このことは現実に観測もされており、GPS等の最先端技術で応用もされている。そして動く速度が光速に達した時(現実には人間サイズのモノを光速で動かすことは不可能だが)、時間の進む速度はゼロになる。つまり時間はなくなるのである。


ここまでは、どうということのない物理学の常識であるが、ここからがいよいよSFの世界の話になる。宇宙が誕生して138億年が経過し、いまこの瞬間にも時間は前に進んでいる。「第1話 色即是空 空即是色」でも述べた通り、何もない真空の中でも極微のエネルギーの揺らぎが存在し、粒子と反粒子が絶えず生まれては消えている。これと同様に、時間にも相対する「反時間(あるいは虚時間)」があるのではないかという議論である。

長いゴムひもを両手で持って引き伸ばしてみて欲しい。どう引っぱっても左右同じだけ伸びて、右手側だけ伸ばすことはできないはずだ(ピン留めするとかズルはなしで)。同様に、時間も過去から未来に一方通行で流れる正の時間と未来から過去に流れる負の時間があるのではないか。ではそのような負の時間はどこにあるのか。現実にはいま我々が体験している時間は正の時間か負の時間かは確認のしようがない。

たとえば目隠しをされて名古屋駅から新幹線に乗ったとしよう。まったく外の情報から遮断された状態で新幹線に乗って、あなたは自身が東京に向かっているのか大阪に向かっているのか判別できるだろうか。これと同じである。我々が知ることのできるのは「原因⇒結果」という因果律だけであり、時間がどちらの方向を向いて動いているかは知るすべがない。感知できるのはとにかく前に進んでいるという感覚だけである。


仏教も同様の考え方をする。仏教では実在するのは「現世」のみで「前世」も「来世」も存在しないと考える。今の世俗的仏教が教えている前世や来世の考え方はいわゆる「オカルティズム」(要するに生前の世界や死後の世界が存在するという考え方)であり、後世の凡弟子たちが付け加えた余話であろう。

お釈迦様が教示されたことを真に正確に解釈すると、1秒前も1秒後も前世、来世になり、前世は現世の原因であり、来世は現世の結果だという一連の「因果律」のことになる。


簡単な例を示そう。いまテーブルの縁にあるお箸が落ちそうになっている(現世)、1秒後(来世)にはお箸は床に落ちる(災難が起きる)と予見できる。ではなぜそんな事態になってしまったのか。それは前世(1秒前)においてそんな所にお箸を置いた(原因を作った)あなたが悪い、とお釈迦様は言われるであろう。そして手を添えてお箸が落ちるのを防いだら、あなたは自らの努力(善行)によって来世を変えたことになる。現世で善行を積めば来世でよいことが起きる、現世で悪いことが起きるのは前世からの因果によるものだというのは、まさにこの「テーブルの縁のお箸」のことである。


これはほんの些細な例だが、こうした因果律が延々と積み重ねられて、人生は、いやあなたの人生だけではない、この宇宙にある森羅万象のすべてが「前世(過去)⇒現世(現在)⇒来世(未来)」というように動いて行っている。1秒前(前世)も1秒後(来世)もない、実在するのはこの瞬間(現世)のみである。

物理学的には無限に短い最小単位の時間、いわゆる「プランク時間」こそが「現世」ということになる。原因⇒結果という因果律により1秒前の世界は1秒後には消えて新しい世界に変わっていく。仏教では、これを「諸行無常」と呼んでいる。


諸行無常と言うと、平家物語の冒頭「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」がすぐに思い浮かぶ。どんなに栄える者もいつかは衰退し、「常」というものは存在しないという意味だと解されている。ただ、これは宗教的意味であり、物理学的にはすべての事物には「静止状態」というものはなく常に変化してゆくと解釈される。時間が経つのではなく、「状態が変化してゆく」のを見て、我々は「時間が経った」と認識しているにすぎない。あるのは「時間」ではなく「状態の変化」なのである。

ようやく「時間」という概念が実は存在しない虚構だという結論に達した。


現代物理学の最先端の理論である「量子重力理論」によると、時間という特別なモノは存在しないという。アインシュタインが言った通り、時空は一つのモノであり不可分なのである。

新幹線のスピードが文字通り「ひかり」の速さになれば時間はゼロになる。その時、新幹線の長さもゼロ(ぺちゃんこ)になる。プランク時間、プランク長さ(一兆分の一兆分のそのまた一兆分の1くらいの極小の世界)のレベルでは時間も空間もなくなりエネルギーの「揺らぎ」だけが存在することになる。

これこそが真の「諸行無常」であり、真の「無」である。





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仏教と物理学の奇妙な関係 ツジセイゴウ @tsujiseigou

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