UBASUTE

ツジセイゴウ

第1話 UBASUTE

2060年5月

「ここで、虐殺されたお年寄りの数は20万人に上ると言われています。」

 引率の先生の案内に従い、子供たちはゾロゾロと博物館の中を見学して回った。その広大な館内はざっと見て回るだけでも最低2時間はかかった。実際の施設はさらにその数倍の規模があったと言われている。

「でも、どうしてそんなひどいことをしたのかな。」

「そうよね、うちのおばあちゃんなんか、いつもお小遣いくれるのに・・」

 30年前に実際にこの場所で起きた痛ましい事実も、今の子供たちにとっては単なる歴史の1ページに過ぎない。いや、むしろ想像しろという方が無理なのかもしれない。

やがて、見学者の一団は、「旅立ちの部屋」と書かれた展示室に入る。壁一面に美しい花の絵が描かれたその部屋は、そこで行われた恐ろしい儀式とは対照的に艶やかな色に包まれていた。部屋の中央のベッドには、一体の老人姿の人形が横たえられ、そのやせ衰えた左腕には点滴の管がつながれている。

「あの、点滴の液が全部落ちると、寝ている人は眠ったまま天国に逝くのです。」

 先生の説明が続く。

「眠ったままあの世にいけるんだったら、最高じゃん。」

「こらっ、仁君。ダメ、そんなひどいことを言っちゃ。」

「でも、うちの父さん、いつも言ってるよ。あれは間違いじゃなかった、あれがあったから今の俺たちがあるんだって。」

「それは、間違いよ。たとえどんな理由があるにしても、人が人の命を奪う。それって絶対あってはならないことなの。」

 先生は怖い顔で仁をにらみつけた。

「そうかなあ。」

 仁は、少し不満げな表情で、ふてくされてみせた。その間にも、他の子供たちは「出口」と表示された扉の外へと、笑顔を浮かべながらゾロゾロと繰り出して行った。


時を遡ること30年、2030年の2月。

「ついに来たか。」

「ああ、今年当たり危ないんじゃないかって思ってたんだが、やっぱり。」

 長男の大樹が、沈痛な面持ちで、赤色の紙片を次男の裕樹に手渡した。飯野家では、家族4人が集まって、深刻な面持ちで家族会議が開かれていた。

「それで、おやじはこのことを。」

「まだよ。私の口からは到底切り出せなくて。」

 明子は、そっと目頭を押さえた。赤い紙片は、裕樹の手から大樹の嫁の恵子、最後に明子へと順々に回された。「入所通知令状」と書かれたその紙片の差出人は、厚生労働省高齢者対策局。紙の中央あたりには、ハッキリと見えるように「入所期限2030年3月20日」と記されていた。

「で、どうするんだ。免除申請するのか。」

 裕樹は、後の3人の顔色を伺うように切り出した。その声は、いかにも歯切れが悪く、誰かが否定してくれないかなという期待感がこもったような曖昧なトーンであった。

しかし、他の4人の口からは、いくら待ってもイエスともノーとも答えは出てこなかった。口を開くことが憚られるような重苦しい沈黙だけが続いた。そして、その沈黙を破るかのように、明子の号泣する声が飯野家の居間に響いた。


 2030年、世は超高齢化社会を迎えていた。年金財政は5年前に既に破綻し、自助努力できない高齢者が巷に溢れ始めていた。政府が取った究極の対策は、後期高齢者特別収容施設「永久の荘」の設立であった。介護が必要な高齢者を強制的に収容施設に集め、国全体の介護負担を減らそうという試みであった。大泉内閣の試算では、この制度により年間3兆円以上の高齢者給付予算が削減できるとしていた。

 永久の荘は、全国10ヶ所に設立された。南関東地区では、温暖な南国の地、伊豆に、5年前総額3千億円の巨費を投じて建設された。総収容人員2万人。なだらかな伊豆高原の山々を切り開き、50棟を超える居住棟に加え、病院、温泉療養施設や数多くのレクリエーション施設棟が立ち並んでいた。単なる施設というよりは、むしろその一体が一大都市空間を形成しているといった方が当たっていた。

 誰が見ても、これ以上のものはないと思われるほど贅を尽くしたこの街には、しかし、それだけの巨費を投じるに値する理由があった。なぜなら、この施設に入所する者は、白い箱に収まらずして再び外に出ることはなかったからである。


「で、誰がおやじに鈴をつけに行くんだ。」

「俺はいやだね。そんな残酷なこと・・・」

「やっぱり、母さんしかないだろう。」

 家族会議は、もう何時間も続き、居合わせた全員の顔に疲れの表情がにじみ出ていた。

 飯野三郎、この家の世帯主であり、妻明子の良き夫として、そして四人の子供たちの良き父親として、長年一家を支えてきた。それが、3年前脳梗塞で倒れてからというもの、ほとんど寝たきり状態となり、さらに悪いことに最近肝臓にガンが見つかった。

送られてきた、入所通知令状には、入所要件として以下の三項目が記されていた。

① 年齢が満75歳以上であること

② 政府指定の健康診断で「甲種適格」と判定された者であること

③ 高齢者給付金の受給額が、三年連続して200万円を超えること

令状には、それに続いて以下のような文言が記されてあった。

『高齢者対策法第十条に規定に従い、永久の荘入所要件の全てに該当する者にこの令状が送付されます。令状記載の入所期限までに遅滞なく入所手続きを済ませられますようお願いします。なお、免除申請される場合は、この令状送達の日から三週間以内に所定の申請書を市役所に提出してください』

「甲種適格」とは、要介護4以上でかつ重度の不治の病を患い余命が長くないと医師が認定することが、主たる要件となっていた。これに対し、「乙種適格」というのもあった。健康診断上は問題ないものの、自ら申請して入所する場合をいい、主に所得が少なく単独で生活することが困難な者が利用していた。

三郎の場合、令状が来たということは、この甲種適格に該当していた。令状が来れば、原則として入所が義務付けられるが、家族の同意のもと免除申請をすれば認められる場合もある。しかし、そのためには、医療、介護費用の名目で、最低でも500万円の一時金を国に納付しなければならない。そして、その後も、介護、疾病の度合いに応じて免除継続申請金が発生していく。


 その日の夕刻、家族会議は、結局結論を出せないまま中断した。唯一決まったことは、この事実をまず当の本人に伝えること、そしてその役目を明子が担うこと、の2点だけであった。長男の大樹が、不測の事態に備え、その日の夜は飯野家に泊まることとなった。

 明子は、三郎の寝室にそっと足を踏み入れた。短い冬の日差しは既に西に回り、赤々とした夕陽の色が窓ガラスに映えていた。三郎は眠っているのであろうか、返事がない。脳梗塞で倒れてからというものほとんど寝たきり状態で、わずかに右手を動かすことが出来るだけであった。先月まで近くの特別養護老人ホームに入っていたが、その費用も払えなくなり、今月からは自宅療養に切り替わっていた。

「あ、あなた。」

明子は、夫に悟られまいと、出来る限りいつもと変わらない様子で話しかけた。しかし、そこは50年も夫婦をやってきた仲である。

「来たんだろう。例の紙が。」

 三郎は、窓の外に顔を向けたまま、ボソリと呟いた。明子は、ドキリとした。ゆっくりと時間をかけて、心の準備を整えて、それから言葉を探して、しかるべく夫に告げようと思っていた矢先に、夫の方からよもや思いもかけなかった言葉が飛び出した。

「な、何ですか、例の紙って。」

「すっ呆けたってダメだ。お前の顔に書いてあるさ。令状が来たって。」

 三郎の顔がゆっくり動いて明子の方に向き直った。窓から差し込む夕陽のせいか、夫の顔色は窺い知ることが出来ない。対して、三郎の方からは、明子の表情が手に取るように見えた。明子は、いま後悔していた。やっぱりこの役目は自分には無理、大樹に頼めばよかった。そう思った瞬間、両足が小刻みに震え始め、立っていられなくなってきた。

「いいさ。俺もそろそろ潮時かなと思っていたし。これ以上、ここで寝て暮らしたって何の楽しみもない。聞けば、永久の荘って天国みたいなところだそうじゃないか。一度でいいから死ぬまでにそんなところで、ゆっくりしてみたいもんだ。」

 明子は、返事をする代わりに、緊張の糸が切れたようにベッドの脇に崩れ落ち、そのまま号泣した。

「どうして泣くんだ。お国のため、家族のため、皆のために、いや自分のためにもだ、あそこへ行くんだ。それで何が悪い。」

「でも、あなた。あ、あ、あああ・・」

 明子は、結局一言もしゃべることなく、残酷な使命を全うすることとなった。


 翌日、三郎の寝室。

「『永久の荘』、か。なかなかいい名前をつけたじゃないか。うん、これは楽しそうだ。温泉なんかもう何年も入っていない。でも、ここじゃ寝たまま温泉に入れるそうだ。最高じゃないか。」

 三郎は、わずかに動く右手で、入所通知令状に同封された入所ガイドを繰りながら目を細めた。もう隠しても仕方がない。こうなったら、一日も早く本人に告知し、その意思を確認しなければならない。

永久の荘では、人生の最後の半年を過ごすために贅を尽くした最高のサービスが、完全な無償で用意されていた。最高の医療設備に、最高の介護スタッフ、そして最高の食事、ありとあらゆるサービスが整っていた。しかし、これらのサービスは全ていずれ訪れる旅立ちの日のための序章に過ぎなかった。

 三郎は、まだまだ恵まれた方であった。身体の不自由があるとはいえ、傍には明子もいるし、2人の子供も時折は顔を見せに来た。世の中には、子供たちからも完全に見放され、病院で看取る人もなく息絶える人も数多くいる。

とはいえ、飯野家においても、経済面から今の生活をいつまでも続けることが困難になりつつあった。政府が支給する年金も当初の計画の半額となり、医療費についても三郎のような重症患者の場合、保険適用後でも月々40万円程度はかかった。生涯豊かに暮らすのに十分と思っていた貯えも底をつき、今では子供たちから送られてくるわずかな仕送りだけが頼りとなっていた。

「あなた、早まらないでくださいな。今、大樹たちが免除申請のための費用を工面しに行ってくれてるから。」

「免除申請?、バ、バカな。あんなもの申請したら、最低でも500万円はいる。そんな無駄金使うんじゃない。そんな金があったら孫たちのために使った方がよっぽどましだ。もう決めたんだ、俺は。誰にも否やは言わせん。」

 三郎は、キッパリと強い口調で言い切ると、不自由な右手に力を込めて、明子に背を向けた。明子には、そんな三郎の心の内が手に取るように読めた。三郎の背中には、ハッキリと涙の後が見えた。


入所期限まであと3週間、大樹の自宅。

「あなた、どうしようというの、通帳なんか持ち出したりして。まさか・・」

 恵子は、大樹を呼び咎めた。

「決まってるだろ、免除申請・・・」

「やめて、あなた、お願いだから。それだけは。それは祐太のために、祐太のために、せっせっと積み立ててきたものなの。それがなくなると、あの子大学にも行けなくなる。」

「しかし、人の命には替えられんだろう。」

「あなた、私たちとお父さんとどっちが大事なの。」

 恵子は、必死に大樹に取りすがった。大樹の家も決して余裕があるわけではなかった。住宅ローンの返済に、子供の学費、人生で最も出費の多い時期であった。そんな中、大樹が内緒で実家へ仕送りを続けていることも、恵子は知っていた。長男である以上親の面倒を見るのは仕方のないことと諦め、恵子は、その分生活を切り詰めてきた。しかし、我慢するにも限度があった。

 「どっちが大事」と尋ねられて、大樹は一瞬、答えに窮した。そして、言い表しようのない憤りを覚えた。

「どっちも大事に決まってるだろ。当たり前のことを聞くな。祐太の学費のことなら何とかなる。でも、親父の方は待ったなしだ。ここで決断しなければ、後で一生後悔することになるぞ。」

「でも、免除申請は今回だけじゃないんでしょう。もし、お父様が長生きされたらまた来年も・・」

「うるさい。そんなこと言わなくても分かってる。お前も所詮は、飯野の家の者じゃないんだ。親父がどうなろうと、自分さえ良ければ・・・」

「ひ、ひどい。私、何もそこまで言うつもりは・・・」

 恵子は、テーブルに突っ伏して、大声で泣き出した。

「どうしたの、ママ。パパ、ダメだよ、ママをいじめちゃ。」

 何も知らない祐太だけが、恵子をかばおうと駆け寄った。


 入所期限まであと2週間。

「サブちゃん、ついに来たんだってな、例の紙が。」

「ああ。」

「俺も行く。おめえだけ一人行かせてなるもんか。」

「いいよ、無理しなくても。それにお前んとこには、令状まだ来てねえんだろう。」

 今日は、幼なじみの中山健一が三郎を見舞っていた。

「そんなの関係ねえ。自分で申請すれば、「乙種適格」の診断が下りるさ。俺ももうこんな身体だ。そう長くはない。甲種だろうが乙種だろうが関係ねえよ。」

 健一は、要介護2で、まだ身の回りのことはほとんど自分ですることが出来た。ただ、身寄りがなく、一人暮らしがもう5年も続いていた。高齢者の一人暮らしは辛いものがあるし、危険も伴う。つい先日もストーブをつけっ放しで眠りかけ、危うく一酸化炭素中毒になるところであった。たまたま、巡回の介護士が気づいて事なきを得たが、あと一時間遅かったらどうなっていたか。

「三丁目の雅夫も、もうだめらしいぞ。先日血ぃ吐いたって。あそこも大変だよな。息子はアメリカにいるそうだ。いくら東大出たって、冷たえもんだ。結局は、親子といえども赤の他人さ。」

 三郎は、静かに頷いた。自分はまだいい方なのかもしれない。曲がりなりにも、こうやって心配してくれる家族がいる。それに比べ、健一や雅夫は。

「そうだ、三人で一緒に行こう。昔みてえに三人そろって。よく三人で遊んだなあ。ほら、覚えているか。園城寺の境内で、止めとけっていうのに、雅夫のやつが柿取りなんかして。あの時は、あそこのクソ坊主にこっぴどくしかられたなあ。」

「ああ、石段のところで座禅組まされて。足が痛いのなんのって。」

 ようやく、三郎の顔に笑顔が戻った。

「あの、坊さんも三年前、入所したってよ。若い頃から、不摂生してたんだろう。坊主のくせに糖尿病とかで目が見えんようになって。身寄りもなくて、ついに観念したのかね。」

 こうやって話をしていても、ついつい入所の話に戻ってしまう。三郎が再び暗い顔に戻ったので、健一は口をつぐんでしまった。

「す、済まねえ。そんなつもりじゃ。」

「いや、いいんだ。」

「それで、入所期限は。」

「3月20日だ。今、大樹たちが免除申請のための金策に走り回っているらしい。」

「そ、そうか。」

 健一の口にもう言葉はなかった。健一は重い腰を上げた。


 入所期限まで後10日。

「だから、茂樹、あと10万円、何とかならないか。」

 大樹は、懇願するような声で電話に向かって話をした。

「無理だよ。俺には、あれで精一杯だ。」

 電話の向こうに、面倒くさそうな茂樹の声が聞こえた。

「精一杯って、お前、まだ30万円しか出していないんだぞ。俺なんか、苦しい家計の中から何とか250万円用意した。それに裕ニイだって100万円頑張ったんだ。」

「兄貴と一緒にするなよなあ。兄貴はいいさ。いつも親父に可愛がってもらってさ。大学の費用だって、結婚式の費用だって、みーんな出してもらって。それに引き換え、この俺は、親父にしてみれば、どうしようもないドラ息子だろう。未だに定職にも就かずニート生活だし。金なんかあるわけねえだろう。」

「何だ、その言い種は。お前、親父がどうなったっていいのか。」

「知るかよ、そんなこと。こっちは明日の飯代の心配もしなきゃいけないんだよ。」

 プッ、という音ともに電話が切れた。

「くそっ、何てやつだ。」

 大樹は受話器に向かって罵りの言葉を吐いた。


 入所期限まで後1週間。飯野家。

「母さん、今日までに何とか400万円集めた。後100万円、もう少し待って。」

「大樹、もういいんだよ。もういいの。」

「いいって、何が。」

 大樹は、明子の様子からわずかな異変を感じ取った。1週間前に会った時に比べて明らかに何かが変わった。確かに入所期限が迫って来ている。明子のストレス状態は、既に尋常なものではなかった。何日も眠れぬ夜を過ごし、食事も喉を通らない。そうでなくても小さな明子の身体が、あの日以来、さらに一回り小さくなったような気がした。

 大樹は、明子が何かを隠しているような気がした。明子は、いつも隠し事をした時、視線をそらす癖があった。今日の明子は、明らかに大樹の視線を避けていた。一体、何があったのか。二人の間に、重苦しい沈黙の時間が流れた。

「もういいの、全ては終わったのよ。何もかも。」

「終わったって、母さん、ま、まさか。」

「昨日、市役所、市役所へ行って・・・」

 事の次第を説明する明子の声は、感情の高ぶりのせいで既に涙声となり、もう自制の効く状態ではなくなりつつあった。

「入所申請書を出してきたー。」

 その一言ともに、明子はどっと身体を折り曲げて、泣き崩れた。

「な、何て、早まったことを。早く取り下げに行かないと。」

 立ち上がろうとする大樹を、しかし、明子は制した。

「大樹、いいの、これで。お父さんと二人で決めたことだから。」

「でも、親父は本音では納得していないんだろう。そんなこと、母さんが一番よく分かってるはずじゃ。」

 その時、大樹はふと自分の名を呼ぶ声を耳にした。

「大樹、大樹、だいきー。」

 その声は、奥の寝室の方から聞こえてきた。三郎であった。大樹は、その声に吸い寄せられるように三郎の寝室に入った。三郎は、身動きできない身体をよじりながら、何かを訴えるように大樹の方に顔を向けた。

「父さん、聞いたよ。何てバカなことを。もう少し待っていてくれれば。」

「大樹、一番辛いのは母さんなんだ。わかるだろう。俺が動ければ自分で行くところだった。でも、この身体じゃなあ。俺は、母さんに、百回同じことを頼んだんだ。どうしても嫌だっていう母さんにな。昨日のことだったよ。母さんはやっと市役所に行ってくれた。お前に分かるか、この母さんの気持ちが。」

 大樹は、何かを言いかけたが、喉に引っかかって声にならなかった。

「大樹、言っておくがな、俺は何もお前たちのことを思って決めたんじゃない。正直、もう生きているのが辛くなったんだ。こんな身体じゃ、好きなことも出来ない。それに、今度は肝臓にガンだ。この先、ベッドの上でのた打ち回って死んでいく自分を見るのが怖いんだ。俺には、そんな勇気も気力もない。」

「だからと言って、父さん。どこの世界に、母さんや子供たちを捨てて、勝手に先に逝く親がいるんだ。そんな身勝手、僕が許さないから。」

 大樹は大粒の涙をポロポロと流した。

「バカだな。男のくせに。お前は、この家の長男だろう。」

「父さんはいつもそうなんだから。長男、長男って。何かあればいつも・・・」

 その後は声にならなかった。

「あさって、役所の方から迎えが来るそうだ。」

「あさって? そんなバカな。間に合わないじゃない。」

「間に合わないって、何が。」

「決まってるだろ、皆呼ばなきゃ。もう一回、家族会議だ。」

「まだ、そんなこと言ってる。何回会議を開いたって結論は同じだ。もう、決めたんだ。」

 大樹は、大急ぎで立ち上がった。これ以上、何を言っても無駄。後は、何とか金策をして、無理やりにでも免除申請するしか手は残っていなかった。

「大樹、おい大樹、どこへ行くんだ。おーい、明子、明子はどこだ。」

 三郎は、わずかに動く右手を高々と上げて、大樹と明子の名を呼び続けた。明子、居間のソファに突っ伏したまま、慟哭の淵に沈んでいた。


「それでは、よろしいですか、ご家族の皆様。出発のお時間です。お別れのご挨拶を。」

 入所期限まで後5日を残して、飯野三郎の入所の日が到来した。結局、大樹の金策は間に合わず、別れの日がやってきた。

「あ、あなたー。」

明子は、ストレッチャーに横たわった大樹の頬にすがりついた。三郎の目からも大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちている。一旦入所すると、電話、手紙等の通信手段を除き、二度と互いの顔を見ることは出来なくなる。文字通り永久の別れとなる。

明子に続いて、大樹、裕樹と、順々に三郎の手を握り締め、頬ずりしていく。三郎は、家族や友人から捧げられた花束を両手に抱いて、静かに頷いた。

「ひぃーん。」

 明子の泣き声か一際高くなった。大樹は心臓が引きちぎられそうな思いをじっと堪えて、静かに頭を下げた。

ストレッチャーは、厳かに飯野の家の玄関先に出る。傍らから、三郎の口元にそっとマイクが差し出された。

「ご町内の皆様、ご親戚の皆様、長い間お世話になりました。ご存知のとおり、私の命も残り少なくなりました。こうやって声の出せるうちに皆様に一言ご挨拶申し上げたいと思います。私は、この街で生まれ、この街で育ち・・・」

 三郎の挨拶が続く。この町内からの入所者は三郎で5人目であった。挨拶の要領も心得たものである。飯野家の玄関先には、町内会の数十人の人たちが見送りのために集まってきていた。

「茂樹は、まだか。」

 大樹は、そっと傍らに立つ裕樹に声を掛けた。

「あいつは、来ないだろうょ。冷たいもんだよ。実の親といっても、あいつにとっちゃ・・」

 二人が話をしている間にも、三郎の挨拶は結語へと続いていく。

「それでは、ご出発です。皆様、最後のお別れを。」

 合図とともに、送迎用に横付けされた車の後部扉が開き、ストレッチャーの足が折れた。

「あなた、ダメー、やっぱり行かないでーー。」

 明子はストレッチャーにすがりつくようにして号泣した。

「こら、明子、よさないか。みっともない。」

 三郎は、ストレッチャーの上から明子をたしなめようとするが、やせ衰えた右腕はプルプルと震え、その後は声にならなかった。見送る人たちの間からもすすり泣く声が聞こえる。

「貴様とおれとは同期の桜・・・、同じこの街の庭に咲く・・・」

 幼馴染の健一と雅夫の合唱する声が小さく聞こえ始めた。三郎は、自分の姿をこれから出征していく兵隊の姿に重ね合わせてみた。生きて返ってくることが適わないことを承知の上で、国のため、残される人々のため、まさに命を捨てるために出立していくのである。

「見事散りましょう、国のため・・・。」

 二人の合唱の声は、次第にかすれ声で途切れ途切れになり始めた。三郎は、思った。自分の死が、国のため、誰かのために役立つのであればそれでいい。それだけで。そう思わないでは、到底この場をやり過ごすことは出来なかった。

やがて、三郎の手を握り締めていた明子の手がストレッチャーの脇からすべり落ち、明子はついに玄関先にへたり込んだ。傍らから、大樹が明子を抱きかかえるように立ち上がらせようとする。その間にも、三郎のストレッチャーは車内へと滑り込んだ。その後、無情にもバタンと扉の閉まる音がことのほか大きく響いた。

「パ、パアー。」

 大きなクラクション音がもの悲しく響き渡り、車はゆっくりと走り始めた。

「あ、あなたー、あなたー。」

 明子は必死の形相で、車を追いかけようとするが、車影は次第に小さくなり、ついには見えなくなった。

「人は分からないものねー。飯野さん、あんなにお元気だったのに。」

「ああ、てっきり俺の方が先だと思ってたのに。」

「家族の方たちはどうしてたんだろうね。冷たいもんだねー。」

 車が見えなくなるのを待っていたかのように、集まっていた人々は、口々に小声で言葉を交わしあいながら、三々五々解散していった。後には、明子を始め、飯野の家の人たちがポツリと取り残され、いつまでも車が走り去った道を見つめていた。


永久の荘、ホール。

「皆様、永久の荘にようこそ。本日入所されます方々は全部で246名です。私たちが、皆様の貴重な人生の総仕上げのお世話をさせていただきます。どうか、よろしくお願いいたします。」

 ホールに永久の荘のコンセルジュの説明の声が響く。巨大なドーム型のホールの天井は全てガラス張りで、南国伊豆の明るい日差しが差し込み、真冬とは思えないほどの暖かさに保たれていた。ホールには今日入所する高齢者たちが集まり、ある者は車椅子に乗り、またある者はベッドに横になったまま、オリエンテーションを受けていた。大半の人が、多かれ少なかれ何らかの障害を抱えているようであった。

「それでは、続きまして、永久の荘の設備について少し説明させていただきます。」

 コンセルジュの合図で、天井のガラスにシャドーが入り、ホールの中がほの暗くなった。同時に正面の巨大なスクリーンに永久の荘の全景が映し出された。その壮大なスケールに入所者の感嘆の声が上がった。

「この永久の荘は、収容人員2万人。それとほぼ同じ人数のスタッフが皆様の生活をサポートしてまいります。中央には、総合病院と温泉施設、それに各種のレクリエーション施設があり、皆様が普段生活される居住棟とはすべて回廊で結ばれています。館内は完全なバリアフリーとなっており、ほとんどの場所には電動ベッドでも移動できる仕組みになっています。ですから、極端な話、指一本動かせればどこへでも自由に行けるということです。」

 三郎は、次々に映し出される館内の映像に息を呑んだ。廊下は全て電動ベッドが2台優に並んですれ違える広さがあり、エレベーターやトイレのドアも全てワンタッチのリモコンで開閉できるようになっていた。レストランもベッドのままで出入りできるだけのゆとりをもって造られていた。

 圧巻は、温泉であった。普通の温泉旅館の大浴場の十倍ほどの巨大な浴場には、天井から何十という入浴用ベッドが吊り下げられており、これもまた全てワンタッチの操作で自由に上げ下げできるようになっていた。しかも、永久の荘の中には、こうした温泉施設が十数か所も設置されており、寝たきりの人でもまさに寝ながらにして湯巡りが出来るようになっていた。

「こ、これは。すごい。聞きしに勝る素晴らしさだ。」

「こんなところで半年も暮らせるなら、その後はどうなったっていいさ。」

 入所者の誰からともなく感嘆の声が上がった。

「皆様には、専門の医療スタッフが24時間態勢で付き添いますので、何の心配も要りません。全員にお渡しますリモコンのコールボタンを押すだけで、皆様が館内のどこにおられるかを瞬時に把握し、五分以内に救急医療チームが駆けつけます。ですから重い持病のある方でも安心してお出かけになれます。」

 コンセルジュの口から驚愕の説明が続く。

「こりゃ、ぶったまげた。でも、なしてここまで・・・」

「そりゃあ当然だろ。何せこの命をくれてやるんだから、せめて死ぬ前にこれくらいの贅沢はさせてもらわにゃ。」

 入所者の何人からどよめきの声が上がった。三郎も驚きの余り声を失していた。今目の前に見えている光景は夢ではなかろうか。あの日、あの発作で倒れた日以来、二度とありえないと思っていた自由の世界が今眼前に広がっている。寝たきりで何をするにも人の手を借りる必要があった。気兼ねして、頼みたいことも思うように口に出せない。そんな抑うつされた牢獄のような世界から解放されたような気分になった。

「それでは皆様、これから半年、人生最後の楽園生活をお楽しみください。」

 コンセルジュの挨拶と同時に、何人かの入所者から歓声が沸きあがった。


三日後。

「もしもし、ああ、明子か、俺だ。」

「あっ、あなた。」

 入所して初めての電話が三郎から架かってきた。入所したといっても、すぐに永久の別れとなるわけではない。電話や手紙のやり取りは、本人が可能な限り続けられる。今の明子にとっては、電話が唯一夫との通信手段であった。

「す、すごいぞ。想像以上だ。ここの設備はすごい。電動ベッドでどこでも好きな場所に独りで行けるんだ。車椅子じゃないぞ。ベッドだ、ベッドが自由に動くんだ。家にいた頃じゃ考えられなかった。メシもうまい。いろいろなメニューから自由に選べる。専任のヘルパーが介護してくれるから食べるのも楽だ。温泉も毎日だ。寝たまま風呂に入れるんだ。ベッドが自動で動いて・・・」

 三郎は、興奮した状態で立て続けにまくし立てた。

「はい、はい。」

 明子はうれしそうに返事をした。三郎が入所してまだ三日しか経っていなかったが、もう何年も三郎の声を聞いていないような気がした。

 家にいる時は、よく我ままを言って明子を困らせた。腰が痛いだの、メシがまずいだの、数えれば切りがない。一日中でベッドの上にいると、それだけで苦痛である。三郎の愚痴はそんな苦痛を代弁しているかのようであった。明子は、三郎の声を聞くたびに口を尖らせた。

今の明子には、その三郎の声が妙に懐かしく、思わず目頭が熱くなっていくのを覚えた。三郎がいなくなって、明子の負担は大きく減った。食事や下の世話もなくなった。愚痴も聞かなくていい。確実に楽になったはずであったが、あの日以来、明子の心の中にポッカリと大きな穴が開いたままになっていた。

「そ、そう。それは良かったわね。」

 本当は、もっともっと話したいことがあるのに、すぐに声にならない。自分の夫と話をするのにこんなに緊張したのは、恐らくプロポーズの時以来かもしれない。

「どうした、泣いているのか。」

 明子が、何も話さないので、三郎は思わず聞き返した。

「い、いえ。だって、あなたが、ずっとしゃべりっ放しで。」

「そ、そうか。悪かったな。ところで、そっちはどうだ。皆、元気か。」

「はい。あの後、大樹や裕樹が交代で毎日来てくれて。あの子達たったら、私が一人になって良からぬことを考えたりしないか、心配してるらしくて。」

「そうか。何てやつらだ。俺がいる時は一年に一回か二回しか来なかったくせに。やっぱり、子供にとっちゃ母親っていいものなんだな。明子、それはお前の人徳だよ、人徳。」

「まあ、あなたったら。」

 ようやく明子の声に笑い声が混じった。

 明子は、快活な夫の声を聞いて、複雑な思いに駆られた。本当は、これでよかったのかもしれない。三郎の声はわずか三日間の間に随分と明るくなった。家にいた時、三郎が明子を呼ぶ声は悲痛に満ちていた。自分が存在していることが家族にどれほどの犠牲を強いているのか、分かってはいるが自分では何も出来ない。そのもどかしさが、時には怒鳴り声に、時には涙声になって、明子を苦しめ続けた。

 今は違う。食事のことも、下のことも、言えばすぐにヘルパーが飛んできてくれる。全く赤の他人であるがゆえに、返って我ままも言いやすい。まるでロボットのように、何度呼んでも、どんな無理難題を言っても、愚痴一つ言わずせっせと片付けてくれる。三郎は、窮屈な籠から解放された鳥のように思いっきり羽を伸ばしていた。そんな生き生きとした生活の様子が、三郎の声の中に投影されていた。

「明子、お前も一人で寂しいだろうから、これからは毎日電話を入れてやろう。毎日だぞ。覚悟しとけ。毎日、嫌というほど俺の声を聞かせてやるから。」

「はい、はい。分かりました。」

「じゃあ、またな。」

 カチッと電話の切れる音がした。

 明子は、ほっと大きく胸を撫で下ろした。三郎の元気そうな声を聞いて、胸の中のわだかまりが解けていくような気がした。少なくともこの三日間、明子は、自分のしたことを後悔して、悶々として過ごした。大樹が裕樹が来てくれていなかったら、本当に悪い考えを実行に移してしまったかもしれない。

 でも、電話の向こうの三郎の声はまるで人が違ったように快活であった。あの三郎の声を聞けば、今まで家に閉じ込めていたことの方がむしろ罪のように思えた。少なくとも、あの場所に送り出したことは間違いではなかった、これでよかったのかもしれないと思うほどに、心の重石は軽くなっていった。


一週間後、飯野家。

「何、それ。それってどういうこと。」

 大樹の言葉に裕樹が眉をひそめた。

「俺にもよく分からない。ただ、寝たきりだったとはいえ、あんなに元気だった親父が肝臓ガンだったなんて、未だに信じられないんだ。」

「でも、国立ガンセンターの専門のお医者さんに診てもらったんだろう。」

「ああ、その時の先生は、あと半年、よくて1年だろうって。」

 大樹の手には、一枚の診断書と健康診断の結果表が握られていた。診断書の医師の所見欄には確かに「肝右葉に直径3センチ大のへパトーム(肝ガン)、リンパ、胆管への浸潤の可能性・・・」と記されてあった。

「肝臓ガンは進行が遅いし、あまり症状も出ないって言うぞ。」

「ああ、確かに。でも、セカンドオピニオンは求めなかったのか。」

「セカンドオピ・・?」

「そう、セカンドオピニオン。誰か別のお医者さんの意見も聞くということだ。万一ということもあるからな。」

 大樹は、医師からの告知の際に自らが立ち会わなかったことを後悔していた。明子は、全く医師の言いなりで、詳しい説明も求めることもなく告知は終了していた。しかし、明子にそのような重大な役割を期待する方が間違っていたのかもしれない。

 何しろ、最愛の夫が3年前に脳梗塞で倒れて半身不随となり、それに追い討ちをかけるように今度は肝臓ガン。冷静に医師の説明を聞いて来いという方が無理な話である。明子がかろうじて覚えていたことと言えば、三郎のガンが手術の難しい部位にあり、余命がそう長くないであろうということだけであった。

 三郎には、とりあえず化学療法と放射線治療によりガンが小さくなった後に手術するという説明をした。ただ、当の本人がそんな説明を真に受けるはずもない。三郎が今回あっさりと「永久の荘」行きを決断した背景には、無論寝たきりの生活が3年近く続いているということもあったが、ガンの告知が最後通告となったのは間違いない。

「それに、おかしいと思わないか。肝臓ガンだっていう告知があって十日も経たないうちに、例の紙が来た。まるで、待ってましたと言わんばかりに、だ。」

「そ、それは・・・。でも、ただの偶然じゃないのか。」

 裕樹は一瞬、言葉に窮した。大樹は一体何を言おうとしているのか。まさか・・・。裕樹は大樹の心の内を想像するうちに、背中に冷たいものが走るのを覚えた。

「ああ、そうかもしれない。俺も、こんなことは考えたくはない。皆が納得して、人事を尽くして、全ての可能性を調べ尽くした上で辿りついた結論だったら諦めもつく。ただ、中途半端なまま、時間に追われるように親父を送り出してしまったことが、未だに悔やまれてならないんだ。」

 裕樹は、大きく嘆息を漏らした。

「で、母さんには、このことを。」

「未だだ。いや、むしろ言わない方がいいのかもしれない。母さんも何日も何日も寝ずに考えた挙句に決断したことだ。それが、間違いだったかもしれないなんて口が裂けても言えるもんか。」

 大樹の言うことももっともであった。三郎を送り出す大前提となった肝臓ガンの診断が誤っていた可能性があるなどと告げるのは、明子に死ねと言うようなものであった。

「とにかく、俺はこの診断表を誰か詳しい人にもう一度見てもらおうと思ってる。」

 大樹が、三郎の診断表を封筒に入れようとしたその時。

「何を話してるんだい。二人そろって。」

 明子が部屋に入ってきた。

「い、いや特に。親父、今頃どうしてるんだろうね、って。」

 裕樹は、思わす背筋を伸ばして座り直した。

「あ、ああ。そうそう。その後、親父から連絡は?」

 大樹は、三郎の診断表の入った封筒をそっと机の下に隠しながら、相槌を打った。

「一昨日電話があったわ。元気そうだった。」

 明子は、裕樹の隣に腰を下ろしながら、話の輪に加わった。

「私ね、やっぱり決断してよかったと思ってる。だって、あんな元気なお父さんの声、久しぶりに聞いたもの。家族って、皆そろって家にいるのが一番だと、ずっと思ってた。でも、それは皆が五体満足で、元気でいられる時だけのこと。お父さんは、寝たきりになってからものすごく周囲に気を遣ってたみたい。私やお前たちにいらぬ心配や負担をかけたくないと、そればっかし。それが返ってお父さんを苦しめていたのかもしれない。」

 明子は、しんみりと語った。大樹は、明子の話に驚いた。あれだけ、献身的に三郎の介護を続けてきた明子の口から、よもやこのような言葉が出てくるとは思ってもみなかったからである。三郎を送り出したことで一番傷つき、そして苦しんできたはずの明子が、今目の前で、あれは間違いではなかったと言っている。大樹は、母親の言葉がにわかには信じられなかった。

ただ、このように改めて言われてみると、明子の話には奇妙に説得性があった。常識的に考えれば、食事や下の世話など、よほど親しい者にしか頼めないことである。しかし、それが介護される側の精神的な負担になっているとしたら、返って全くの赤の他人の方がいいのかもしれない。どんなに汚いことでも、相手はそれが仕事である。対価も払っていると思えば、遠慮は無用である。

しかし、本当にそれだけか。家族愛なんて、そんなものだったのか。大樹は、何となく納得がいかなかった。


 入所後一ヶ月。

「飯野さんも、ついに魔の二ヶ月目を迎えられましたな。」

 三郎の電動ベッドの隣に、車椅子が擦り寄ってきた。

「あっ、桜井さん。何ですか、その魔の二ヶ月っていうのは。」

 巨大なガラス張りの窓の外には、遠くに伊豆の海原が輝くのが見渡せた。三郎は、電動ベッドを少し起こしながら、車椅子の男に尋ね返した。桜井友男、三郎より一月ほど早く入所したこの男、どういう素性かよくわからないが、しばしば三郎の脇に寄って来ては話し込んだ。

 歳は八十過ぎ、やはり脳梗塞で下半身が不自由だという。三郎も遠慮があって詳しくは尋ねてはいなかったが、どうやら身寄りもなく、自ら手を上げて入所したらしい。歳の割りには元気がよく、しばしば車椅子を駆っては、この広大な館内をあちらこちらへと行き来しているようであった。

「魔の二ヶ月目。要は里が恋しくなる季節っていうところですかね。誰しも、最初の一ヶ月は毎日がビックリの連続でさあ。それまで寝た切りで、ベッドに縛られていた人が、ここじゃ文字通り「自由」を得る。温泉に入るもよし、うまい物を食うもよし、映画を見るもよし、読書をするもよし、大抵のことが自分で出来る。誰にも気兼ねは要らない。」

 三郎は、なるほどとばかり、コクリと頷いた。この老人の言うことは、全く今の自分に当てはまっていた。それまでは、明子や大樹に遠慮して、言いたいことも言えず、ただひたすらベッドの中で文字通り「いい子」にしてきた。それが、家族にとってベストだと思ってきたからである。

「でも、そんな生活も一月もすれば飽きてくる。2万人が暮らす巨大都市と言っても、所詮は檻の中だ。あの大海原に比べりゃ、ちっぽけな囲いの中に過ぎん。見るものがなくなれば、思い出すのは家族の顔だけだ。入所して二ヶ月を過ぎる頃からですよ。帰りたい、家族に会わせろ、と言い始める人が必ず出てくるんです。」

 三郎は、ドキリとした。一ヶ月前、家族には二度と会うまいと固い決意をして入所してきたつもりであった。しかし、この男の一言で、三郎のそんな固い心の内が微妙に揺れ動き始めた。残してきた明子や大樹の顔が、走馬灯のように目の前をグルグル通り過ぎた。

「飯野さんも気をつけられた方がいいですぞ。あんまり騒がしくすると、隔離棟行きになりますからな。」

「隔離棟?」

「おや、まだご存じなかったんですか。ここじゃ、施設の秩序を乱す人を隔離する別棟があるんですよ。まあ、刑務所の独房みたいなところでしょうな。私も詳しくは知りません。行ったことがないもんで。」

 三郎は、永久の荘に入所して初めて暗い話を耳にした。当初は、見るもの聞くもの全てが天国のように思えた。ここで暮らす人たちは、皆が笑顔で幸せそうに、まさに自らに残された天寿を静かに全うしているように見えた。ただ、この男の話を聞くと、必ずしもそうではなさそうである。

確かに、三郎も入所当初から、この館内に漂う静かさが少しは気になっていた。いくら覚悟を決めて入ってきたとはいえ、半年後に迫り来る最期の日を前にして、よくもこれだけ多くの人々が平穏でいられるものだと感心したこともあった。一人くらい、泣き叫ぶ人がいても不思議ではなかった。

「まあ、いいですがね。遅かれ早かれ、ここじゃ全ての人に等しく死が訪れる。それだけは間違いない。まあ一つ、お互い死ぬまで静かに天寿を全うしましょうや。」

 桜井友男はそう言い残すと、静かに車椅子を転がし始めた。

 三郎の心の内は何とも言えない嫌な気分に覆われ始めた。それまで一点の曇りもなかった青空に微かに暗い影が差し込んでくるのを感じた。


「そうですね。これだけの資料では何とも言えませんが、肝臓ガン、しかも末期の肝ガンを診断するにしては、いささか簡単すぎるような気も・・・」

 医師の口からは歯切れの悪い答えが返ってくる。大樹は、三郎の診断書を持って、都内の病院を訪ねていた。裕樹とも相談した結果、裕樹の友人の紹介で消火器外科の専門医にセカンドオピニオンを求めていた。

「がんセンターではMRIも撮って、それで見つかったんです。」

「MRIまで撮られたんだったら、まず間違いはないとは思いますが。ただ、肝ガンの診断は専門医でも難しいですから、通常であれば腫瘍マーカーによるテストも必ず併用するようにしています。」

「腫瘍マーカー、ですか。」

「そう、腫瘍マーカー。少し専門的な話になりますが、ガン細胞は増殖する際には必ず特殊なたんぱく質を放出します。患者さんの血液中のたんぱく質の濃度を調べれば、腫瘍か良性か悪性かがすぐに分かるのです。五年前にヘパトームの診断に用いられる新しい試薬が発見されてからは、ヘパトームの診断率が格段に改善しました。今じゃ肝ガンの診断には欠かせない検査です。がんセンターなら、MRIを撮る前にも必ず実施するはずですが。」

 医師は、三郎の診断書をひっくり返したりしながら何度も点検するが、結局それらしき検査結果の記録は見つからなかった。

「通常の血液検査の結果を見る限り、確かに肝機能がやや低下しているようです。ただ、残念ながらこれだけでは肝ガンかどうかの診断は無理です。ご存知のように、肝臓は沈黙の臓器と言われてまして、たとえガンになっても相当進行するまで目立った症状は出てきません。申し訳ありませんが・・・」

 結局、大樹が訪ねた医師の口からは確たる回答は得られなかった。ただ、大樹の疑いの気持ちだけは確実に深まった。がんセンターは、なぜ腫瘍マーカーテストを実施しなかったのか。あるいは単に診断表に結果を記載しなかっただけなのか。だとすれば、なぜ記載しなかったのか。今となっては、当の本人もいないため、再検査のしようもなかった。


「厚生労働省は、今年度の老齢年金支給総額が昨年に比べて1パーセント減少し、62兆円程度にとどまるとの見通しを発表しました。計画より2年前倒しで目標が達成できた理由として、同省は高齢者特別収容施設「永久の荘」の設立を上げており、今後さらに同様の施設を増設建設するかどうかが新たな課題として浮上してきました。」

 食堂のテレビから流れるニュースを三郎は複雑な思いで聞いていた。

 年金基金の運用資産は5年前に底を尽き、政府は毎年60兆円を超える高齢者給付金の大半を特別国債の発行によってまかなっていた。国の借金の残高は既に1500兆円を超え、金利も10パーセントを超える水準に達していた。

 誰が見ても、どうにもならないと思われていたこの国の財政を立て直すために取られた窮余の一策が「永久の荘」の設立であった。この世の楽園と安楽死をセットにしたこの制度は、しかし、大ヒットとなった。特に、身寄りのない寝たきりの高齢者の応募が殺到した。例え半年後に確実な「死」が待っているとしても、このまま誰に見取られることもなく孤独な死を迎えるよりはずっとまし。

 少なくとも、永久の荘に行けば半年間の贅沢三昧が保証される上に、没後は国によって手厚く葬られ、その御霊は大和神社で永代供養される。永久の荘行きを志願する高齢者にはこうした打算が強く働いていた。

「今日の厚生労働省の発表について、大泉総理大臣は次のような談話を発表しています。」

 キャスターのアナウンスに続いて、画面には大泉総理大臣の自信に満ちた顔がアップで映し出された。まだ五十過ぎという異例の若さで与党民自党の党首に抜擢された大泉総理は、行政改革推進者としてのリーダーシップを発揮し、のし上がってきた。「永久の荘」は自らの構造改革の最終仕上げとして、まさに政治生命をかけて着手したものであった。

「いやー正直、私自身も驚いています。大成功ですよ、これは。高齢者給付金の伸び率がマイナスになったのは実に32年ぶりのことです。来年度はさらに3パーセント程度の削減が見込まれています。わが国の財政は、ついに暗くて長いトンネルから抜け出す準備が整ったということです。私は、今ここで永久の荘に志願した人々に、心底からの敬意を表したいと思います。自らの命を掛けて、この国の危急を救おうとされた勇気ある行動は間違いなく後世に長く語り継がれることになるでしょう。」

 大泉総理の顔は、緊張と興奮で赤くなり、額には玉のような汗が吹き出していた。

「けっ、いい気なもんだぜ。何が永久の荘だ、何が志願だ。おらあ、特攻隊じゃねえぞ。このバカ。」

 三郎の隣でテレビに見入っていた一人の男が怒鳴り声を上げた。三郎と同じ日に入所した男であった。入所式の日もプンプンと酒臭いにおいをさせていたが、今日はそのにおいが一段と鼻を突くほどになっていた。本当かどうかは分からないが、本人曰く、これまで心筋梗塞の発作を二度も起こし、医師からも匙を投げられたとのことであった。そうこうするうちに例の紙が来て入所の日を迎えたのだという。

「ねえ、そうは思いませーんか。飯野さんよ。」

 三郎は、酒臭い息を吹っかけられて、思わず顔を背けた。もともと酒はあまりやらない三郎にとって、酔っ払いの吐く息の匂いはたまらなかった。

「おんや、俺も嫌われたもんだぜ。全部ばらしちゃおうかな。俺知ってんだ、何もかも。何もかも、ぜーんぶ。」

 男は、独り車椅子の上で踏ん反り返っていた。その騒々しさに、何人かの入所者たちが思わず振り返って、眉をひそめた。

「困ります。また、昼間っからこんなに飲んで。」

 ヘルパー二人が、酔っ払い男を包み隠すようにして、車椅子を押した。

「てやんでー、酒飲んでどこが悪いんだ。どうせ、もうすぐあの世行き。早く殺せー。このバーカ。」

 男は、運ばれて行く間中、館内に響き渡るほどの大声でわめき続けていた。

 その夜、三郎は昼間の出来事が気になってなかなか寝付けなかった。

確かにテレビの報道内容は腹立たしい限りであった。『お国のために命を差し出す』、いつかどこかで聞いたようなセリフだなと、三郎は思った。二十世紀は戦争の時代、二十一世紀は繁栄の時代と言われて久しい。今のような平和な時代に、まさか国のために命を差し出すことがあろうとは、考えてもみなかった。

人間はやはり残酷な生き物なのかもしれない。その昔、姥捨て伝説が語られたこともあった。それは、貧しくて今日明日の食い扶持もままならないような時代の出来事だとばかり思っていた。今のように物資が満ち溢れたこの飽食の時代に、まさか同じようなことが、しかも国家の手によって行われることになろうとは誰が想像したであろうか。

 そこまで考えて、三郎は、ふと桜井氏が昨日言っていた言葉を思い出した。これは、ひょっとして『魔の二ヶ月目』というやつでは。自分では絶対後戻りはしない、どうせ先のない人生、と思って入所してきた。しかし、これまでのところ体調もさして悪くない、食い物もうまい、毎日が天国のような暮らしである。人間、楽をすると、どうやら「生」に対する執着心が生まれてくるようである。自分は、もう少し頑張れたのではないか、もう一度人生をやり直せるのではないか、家族を捨てて入所したのは本当に正しい選択だったのか・・・。三郎の心は一晩中揺れ動き続けた。


「うーん、確かにおかしいですねー。」

 医師は、首をかしげながら2枚の検査結果表を見比べた。医師が手にしている片方は先日大樹がセカンドオピニオンを求めに来た際に持参したもので、もう片方はたまたま三郎が三年前に町ぐるみ検診の際に受けた血液検査の結果表であった。明子を手伝って家の中を整理していた時に、たまたま大樹の目に留まった。

「この前も言いましたように、血液検査の数値を見る限り明らかに肝機能の低下が見られます。それに白血球の数も増加している。確かに肝ガンの可能性は高いといえます。ただ、とても気になるのは、ほら、ここです。これを見てください。」

 医師が指差した、そこには総コレステロール「155」という数字があった。医師は人差し指を滑らせるようにして、3年前の検査表の数字を指し示した。そこには「263」という数字があった。

「この患者さん、お父さんでしたね、高脂血症のお薬を服用されてましたか。」

「高脂けっ・・?」

「高脂血症です。要するに血中のコレステロール値が高いんです。コレステロールが高いと脳卒中や心臓病を引き起こしやすいので、このレベルだと通常はコレステロールを下げる薬を処方する場合が多いんです。」

「母に聞いてみないと確かなことは。ただ、多分そのような薬は飲んでなかったと思います。それで一昨年脳梗塞で倒れちゃって。」

「そうですか、やっぱり。」

 医師は、再び二枚の検査結果表をしげしげと見比べながら、眉をひそめた。

「で、もし、薬を飲んでなかったとしたら・・・」

「通常、血中のコレステロールの値は遺伝によって決まります。つまりご家族の中にコレステロール値の高い方がおられると、その子供もコレステロール値が高くなります。もちろん日常の食事や運動によってもコレステロール値は下げることが出来ますが、値が100も下がるというのは何か積極的な治療をしない限りありえないと思います。」

 医師の口からは相変わらず歯切れの悪い説明が続く。大樹は、こめかみの辺りが少しイライラしてくるのを覚えた。

「こんなこと、私の口から申し上げてよいのかどうか。ただ、この2枚の検査表を拝見する限り、こちらの方と、こちらの方は別人としか思えな・・・」

 その瞬間、大樹は頭の中が真っ白になった。2枚の検査結果表が別人のもの。大樹は医師の手から2枚の検査結果表をむしり取るように手にすると、一番上の氏名欄を確認した。そこには紛れもなく「飯野三郎」という文字が印字されていた。

「ま、まさか。」

 その時、大樹の脳裏にある恐ろしい考えが浮かんだ。


永久の荘、食堂。

「飯野さん、何かおかしいと思いませんか。」

「おかしいって、何が。」

 三郎と桜井友男は二人並んで食事を取っていた。三郎は特段桜井氏に好意があるわけではなかったが、桜井氏の方はいつも三郎の脇に擦り寄ってきた。どちらかというと人当たりのいい三郎は、付き合い下手の桜井氏にとっていい話し相手だったのかもしれない。

 桜井氏もそんなに悪い人ではないのだか、時折人目を憚るように声を落として耳打ちするようにしゃべる仕草が三郎には気になっていた。桜井氏がそのような話し方をする時は決まって悪い話であった。

「旅立ちの日まで半年のはずなのに、ここじゃ入所5ヶ月を超える人についぞ会ったことがない。こんなに多くの人がいるのに、ですよ。」

 確かに、桜井氏の言うとおりであった。少なくとも三郎がいつも話をしている入所者のほとんどは長くても入所4ヶ月目、旅立ちの日を目前に控えた人はまず見たことがない。

「それは、入所者の皆さんが多かれ少なかれ重い病気を抱えて入ってこられるからでしょう。かく言う私も肝臓にガンがあって半年持つかどうかって言われてきました。余命が少ないと言われて来ている人ばかりだからでしょう。」

「確かにそれも一理ある。私も胃ガンであと3ケ月持つかどうかと言われて来た。ただ、それにしたって、半年持つ人が一人もいないなんてありえないんじゃないですか。一人ぐらい天寿を全うする人がいたっておかしくはない。」

 三郎は、桜井氏の言わんとするところを測りかねていた。というか、これまでそういうことを考えたことすらなかった。ただ、改めて言われてみると気になることもある。

 第一に、自分でも信じられないくらいに体調がよい。末期の肝臓ガンであれば、そろそろ微熱や食欲不振、それに黄疸やガン特有の疼痛が始まってもおかしくはない。しかし、今の三郎は食欲もますます盛んで、これまで全く動かなかった左手も少しずつ動くようにすらなり始めていた。

 最初は、この施設のケアがいいからだろうと信じていた。末期のガン患者に幸福のうちに旅立ってもらうため、恐らく最善の治療が施されているのであろう。だから、微塵の症状も出てこないのだろうと思っていた。

「旅立ちの日が近くなると精神的に不安定になるので隔離している可能性も考えられる。いくら十分考えて納得の上で入所したといっても、所詮は刑の執行を待つ死刑囚のようなもの。後2ヶ月、後1ヶ月などと指折り数えていたら頭もおかしくなる。」

 三郎は改まって言われてドキリとした。どうせ、自分は最後まで持たないだろうと思って入ってきた。ただ、今の調子だと6ヶ月持ってしまうかもしれない。果たして期間満了の日、自分は平静のまま旅立ちを迎えられるのであろうか。そう考えると、三郎は背筋がうそら寒くなるのを覚えた。

 桜井氏は、何かをじっと考えるように、湯飲みを口に近づけた。その時。

「ぐわーっ」

 桜井氏が急に腹を抱えて苦しみ出した。

「桜井さん、桜井さん、大丈夫ですか。」

 三郎は、桜井氏の突然の急変に慌てふためいた。自分は寝たきりで助け起こすことすら出来ない。自分に出来ることは、とにかく出来る限り大声を出して助けを呼ぶことくらいである。

「誰か、誰か来てください。」

 異変に気付いて、すぐに近くにいた2人のヘルパーが駆け寄ってきた。その間にも桜井氏の容態はどんどん悪くなっていく。腹を抱えたまま、時折吐きそうな声を喉の奥から絞り出している。すでに口角からは白い泡も吹き出し始めた。

「げーっ。」

 その時、桜井氏はつい先ほど食べた物に併せて、これ以上はありえないというほどの大量の鮮血を床の上に吐き上げた。

「キャーッ。」

 ヘルパーの一人が顔を背けて尻餅をついた。その間にも、桜井氏は小刻みに痙攣を起こし始めた。素人目にも重篤な状況であるのはハッキリと分かった。

 ようやく懸かり付けの医師が駆けつけた。この施設では、こうした緊急時に備えて各棟に医師が常時待機しており、何かあれば確実に5分以内に駆けつける体制が出来ていた。

「ガン性潰瘍からの大量出血の可能性、緊急手術の準備を。」

 ガラガラガラとストレッチャーを押す音が近づいてきた。その間にも、桜井氏の意識は次第に薄れていく。抱きかかえられてストレッチャーに載せられる桜井氏が、苦しそうな息の中でかろうじて最後に発した言葉は。

「飯野さん、私の言ったとおりでしょ。気をつけなさ・・・」

 言葉を最後まで言い切る前に、桜井氏は再び大量の血を吐いた。やがて氏の右腕はダラリと力なくストレッチャーの外に垂れ出した。あっという間もなく、ストレッチャーは医師や看護師とともに病院棟の方へと走り去った。

 その日の夜、三郎はなかなか寝付けなかった。昼間、桜井氏が吐いた大量の血を見てしまったこともあったが、それ以上に氏が最後に残した言葉のことが気になっていた。「気をつけなさ・・」とは、どういうことか。

 桜井氏は、何か今日の出来事を予感していたような口ぶりであった。それに、これまでの経過を見ても、桜井氏に胃ガンらしき症状はあまり見られなかった。食欲もあり、すこぶる元気であった。なぜあんなことが。これは、昼間桜井氏が話していたことと何か関係があるのか。三郎は入所2ヶ月目の最初の日を言い知れぬ不安を抱えたまま終えた。


飯野家。

「何だって、そ、それってどういうことなの。」

 大樹はついに明子に例の件を打ち明けることにした。三郎の健康診断結果表の数字が間違っていた。死んでも明子にだけは言うまいと思ってきたこの秘密を今敢えて明子に話すにはそれなりの訳があった。

 明子は、最初大樹の言っていることがよく理解できなかったようである。しかし、それが健康診断表の人間違いの話だと判り始めた時の明子の動転はとても言葉に言い表せたものではなかった。両の手はプルプルと震え、入れ歯がガチガチと音を立て鳴った。

「どうしましょう、もしそれが本当だったら。私、お父さんにとんでもないことをしてしまったことになるわ。どうしましょう。」

 明子は、三郎の入所申請書を市役所に出しに行く前の夜のことを思い出していた。

「どうせ、あと半年持たないんだ。遅かれ早かれだ。それだったらせめて最後の半年くらいは・・・」

 明子の脳裏に、しゃがれた三郎の声が何度となく蘇った。あの夜、三郎に懇願されて申請書の提出を決めたのは明子であった。無論、三郎も自分の寿命を知った上での覚悟であった。それが、間違っていたかもしれないとは。

「ど、どうしよう。大樹。ねえ、どうしたらいいの。」

 大樹はやはりよせばよかったと思った。明子の動揺ぶりは尋常ではなかった。下手をすれば三郎の後を追ってよからぬことを考えるかもしれないとの不安がよぎった。

「永久の荘は一度入所してしまうと入所の撤回は絶対認められない。入所時点で戸籍も抹消され、文字通り死別したのと同じ扱いになる。でも、その意思決定の前提となる情報に重大な間違いがあれば、取り消すこともできるかも。いや出来る、絶対に。」

「ねえ大樹、お願い。何とかお父さんを取り戻して。お願いだから。でないと私、死んでも死に切れない。」

 明子はワーッと泣き崩れた。

「母さん、とにかく落ち着いて、最後にがんセンターの先生の話を聞いたときのことをもう少し詳しく話してくれないかな。」

 大樹は、三郎が最後の告知を受けた際の様子を克明に知りたかった。一体、どういう話がなされ、そしてどういう意思決定がなされたのか。それが分からなければ、話の持ってゆきようもない。しかし、明子の悲鳴はなかなか止みそうになかった。

 その時である。電話の呼び鈴がけたたましく部屋の中に鳴り響いた。大樹はタイミングを逸らされた気がして少しイラッと来た。しかも明子はとても電話に出られそうな状況ではない。仕方なく、大樹は受話器を上げた。

「もしもし、飯野です。」

「おう、大樹か。元気か。」

 大樹の耳元で聞き覚えのある声がした。

「と、父さん。」

 最悪のタイミングであった。大樹は一瞬言葉を失った。何をどう話せばいいのだろう。まさか健康診断表が間違っていたなどとは口が裂けてもいえない。いずれは話すにしても、今はその時ではない。

「げ、元気?」

 大樹は、とりあえず平静を装ってありきたりの問いを投げかけた。

「ああ、元気だ。ちょっと最近食欲が落ちたかなっていうくらいだ。医者は抗がん剤のせいだろうって。まあ、末期のガンにしては上出来の部類だ。」

 三郎の声は明るかった。明子から聞いていた通り、三郎は肩の荷を下ろしたかのように楽しそうに話をした。とても半年後に死を迎える人の声には思えなかった。

「そ、そう。よかった、元気そうで。」

「どうした、大樹。何か元気がないな。」

 大樹はドキリとした。離れていてもさすが実の親である。大樹の言葉の端に隠れた陰をすぐに聞き分けた。

「いや別に、そんなことはないさ。ちょっと風邪を引いただけで。」

「そうか、それならいい。ところで母さんはいるか。ちょっと代わってくれ。」

 大樹はまたドキリとした。明子はすぐ隣にいた。大樹は大慌てで受話器の口を手で塞いだ。

「か、母さんは、今ちょっと買い物に出かけていて。それで僕が代わりに留守番を。」

「そうか。変なやつだな、お前は。俺があんまり元気なんでビックリしたのか。」

 電話の向こうで三郎の笑い声がした。

「まあ、いいや。母さんが戻ったら伝えてくれ。夕方また架けるって。」

 やがて電話の切れる音が耳に届いた。大樹はやれやれとばかりに大きな嘆息を漏らした。もし明子の泣き声が先方に伝わっていたら。そう思うと、改めて背中にじっとりと脂汗が浮かぶのが分かった。

「父さんからだったよ。元気そうだった。やっぱりガンというのは間違いなのかも。」

 その一言で明子の泣き声がまた高まった。

「母さん、分かったから。とにかく泣いてないで、お医者さんの話を。」

 大樹の再三の問いかけに明子はようやく重い口を開き始めた。

「難しいことはよく分からなくて。だってがんセンターでも一番の偉い先生だとか。そんな先生に話をされたら誰だって信じちゃう。」

 そこで明子はまた泣き崩れた。

「わかった。わかったから。それでレントゲンとかMRIの写真は?、見たの?」

 どうしても詰問調になってしまう。明子は黙って頷いた。

「で、どんな説明があったの。」

「よ、よくは覚えていない。この白い陰がガンだって。それしか。後は手術はもう出来ない、よくて半年だとか。ワーッ。」

 明子はまた声を上げて泣き出した。これでは会話にならない。やはりもう一度国立がんセンターに行くしかない。行って、もう一度よく話を聞くしかない。人一人の命が掛かっているのである。


「飯野さん、また残しちゃったんですね。」

「すみません。あまり食欲がなくて。」

「いいんですよ。気にしなくて。一度先生によく見てもらいましょうね。」

 ヘルパーは食器を片付けながら笑顔で答えた。

 入所して1ヶ月と10日、三郎は初めて体の不調を感じた。食欲が落ち、身体も何となくだるく感じるようになった。これまでは、もの珍しさも手伝って、電動ベッドを操作しながら所内をあちこち行き回ったり、温泉に一日2回も入ったりと、精力的にここでの生活をエンジョイしてきた。

 しかし、先週あたりから急におかしくなり始めた。これが桜井氏が言っていた『魔の二ヶ月』というやつかもしれない。そう、ここへ来る人は大抵が重い病気を抱えてくる。入所して半年持てばいい方なのである。自分だって、脳梗塞に肝臓ガン、これまで何もなかったことの方が不思議なくらいであった。

 三郎は、そっとベッドに背をもたれかけさせてため息をついた。その後桜井氏はどうなったのか。何の知らせもなかった。うるさく付きまとわれていた時は鬱陶しく思えた人の顔が妙に懐かしく、気になった。これも魔の二ヶ月のせいかもしれない。

 しかし、三郎にはもっと気になることがあった。桜井氏が運ばれてゆく直前に微かに口にした言葉。確かに彼は「気をつけなさい。」と言った。一体何に気をつけるのか。身体に気をつける?、そんなことは当たり前のことである。彼の言葉にはもっと意味深長の響きがあった。

「まさか。そんなことは。」

 三郎は、その言葉の意味をあれこれ推測するうちに、ある恐ろしい結論に行き当たった。


その頃、永久の荘理事長室。

「これ以上は無理かな。」

「もう、ギリギリです。でも霞ヶ関からの要請は日増しに強くなっています。」

「もっと早くしろということか。」

 北村理事長以下4人の幹部は深刻な顔つきで報告書に目を通していた。

「毎日の入所者数だけでも既に300人を上回っています。対して死亡者の数は1日平均200弱、このままでは後1ヶ月ほどでベッドが満杯になります。」

 木田事務局長が淡々と報告を続ける。

「うーん、しかしなあ。これ以上早くすると、入所者に気付かれないか。」

「その恐れは多分にあると思われます。現に、先日も食堂で大暴れした者がおりまして。」

「で、どうした。」

「はい、適切に処置いたしました。」

 永久の荘の成功は大々的にマスコミによっても報道されていた。重度な障害のある高齢者は集中して介護した方が効率性が高まるということを実証したからである。既に高齢者給付金予算は2兆円規模で削減されており、今後もまだまだ減ることが見込まれていた。大泉内閣はこの成果をさらに拡大したいとして、日々永久の荘への圧力を強めていた。

「理事長、アレを使いますか。」

「いくら何でも、アレはまずいだろう。流石の私もそれには賛成しかねる。」

 事務局長の意見に、理事長は渋い表情で腕を組んだ。

「しかし、このままでは遅かれ早かれパンクしますよ。そうなってからでは。」

「君、ここはアウシュビッツじゃないんだから。言っておくが、私は21世紀のヒトラーにはなりたくないからな。」

「どうせ、公園や橋の下で野垂れ死にする予定だった連中ばかりですよ。身寄りも定かじゃありません。そんな連中の千人や二千人、闇から闇で処分しても誰も何も言ってきませんよ。それに北村理事長、ここで大成果を収めれば、霞ヶ関への返り咲きも夢ではなくなり・・・。」

 事務局長の再三の意見具申に、北村理事長の心は微妙に揺れ動いた。心の奥底に巣食っていた悪魔がそろりと顔をのぞかせた。確かにこいつの言う通りかもしれん。ここに入所してくる連中のほとんどはどうせ碌なやつではいない。社会から落ちこぼれ、自分の老後の面倒すら自分で見切れない三流国民ばかりだ。そんなやつらに無駄金を払って生かしておくことの方が問題だ。どの道ここにいる4人は、いや4人だけではない、霞ヶ関にいる連中もだ、もう悪魔の虜となってしまった。今更何を。

「少し時間をくれないか。よく考えてみる。」

 北村理事長は静かに会議の終了を告げた。


「この診断書が何か。」

 がんセンターの佐々木教授は自信に満ちた顔付きでゆったりと話を進める。

 大樹は、明子を伴って三郎の主治医であった佐々木教授への面会を求めていた。明子はこの部屋に見覚えがあった。あの日、あの悪夢のような告知の日も、同じようにこの椅子に座って話を聞いた。あの時は、隣にいたのは大樹ではなく、夫の三郎であった。

 今の時代、ガンはどのような重篤なケースでも本人に告知することが医師法で定められていた。隠すことの方が、返って治療効果を下げるという医療審議会の報告を受けての法改正が10年前になされていた。

「肝臓ガンですね。それも門脈と胆管を塞ぐ形でかなり広範囲に広がっています。手術は無理ですね。」

 明子の脳裏に佐々木教授の冷たい告知の言葉が蘇った。あの時は、気が動転して詳しい話は何一つ聞けなかった。病巣を映し出したMRIの写真も見せられた。確かに、肝臓を覆う白い影が大きく広がっていた。

 傍らでは、三郎が不思議なほど冷静な様子で教授の説明を聞いていた。余命あと半年、残酷な告知にも微動だにしなかった三郎の姿がいまありありと瞼の裏に浮かんだ。

「こっちの診断表は父が3年前の町ぐるみ検診で受けたときのものです。血液検査の数値が全然違っているので不思議に思いまして。例えば、ここの総コレステロールの値なんか・・・」

「あっはは、そんなことですか。」

 佐々木教授は高らかに笑い声を上げた。

「いやいや、いいですか。血液検査の結果なんてその時の体調次第でいくらでも変わりますよ。昨日と今日とだって随分違った結果が出ることだってあります。ましてやこちらの診断表は3年前のものでしょう。そもそも比較の対象にすらなりませんよ。」

「でも、コレステロールの値は個人個人固有のもので、特別な治療をしない限り大きくは変わらないと聞きましたが。」

「健康な人の場合はそういうことも言えるかもしれませんが、あなたのお父様の場合、末期のガンを患っておられた。ガン細胞がコレステロール値を大きく下げることもあるんです。」

「じゃあ、なぜ腫瘍マーカーテストはなされなかったんですか。ガンの診断には不可欠だと聞きましたが。」

「おやおや、これは、これは、どこのお医者様に聞かれたのか。セカンドオピニオンっていうやつですか。全く失礼な。いいですか、当センターで最新式の磁気共鳴装置を使った診断でハッキリと病巣が捉えられたんです。腫瘍マーカーテストなんて必要ありませんよ。」

 残念ながら大樹の質問はそこまでであった。医学の知識が全くない大樹にとって、がんセンターの権威の医者と渡り合おうということ自体が土台無理な話であった。

「で、どうなさりたいのですか。誤診ということで当センターを訴えられますか。必要でしたら、カルテでもMR断層写真でも何でもお出ししますよ。今はそういう時代ですからね。こっちとしても、あらぬことで疑いを掛けられても後味が悪いし。」

 どうやら、これ以上問い詰めても無駄のようであった。先方も自信たっぷりで受けて立つという構えである。やはり、これは大樹の思い過ごしであったのだろうか。

「まあ、得心なされたのでしたら、どうぞお引取りください。私も午後にはオペがありますので。」

 大樹がそれ以上何も言わないのを確認した佐々木教授は早々に立ち上がった。

「ありがとうございました。ご面倒をお掛けしまして済みませんでした。」

 大樹は、座ったまま重い頭をわずかに下げた。


「飯野さん、はいお薬ですよ。毎食後きっちりと飲んでくださいね。」

 ヘルパーは、食事のトレーを片付けながら処方された薬と水の入ったグラスを三郎のベッドの脇に置いた。三郎が体調の不良を訴えたため3日前から薬の量が増えた。白いカプセルが2錠に粉薬の粉薬が1袋、それを一日3回毎食後に飲むように指示されていた。医師の話では、粉薬が抗ガン剤で、錠剤が胃薬とのことであった。

「後から飲みますから置いておいてください。」

 三郎は、すぐには薬に手をつけず、テレビのスイッチを入れた。ヘルパーが下がっていくのを確認した三郎は、徐に薬に手を伸ばすと、ティッシュペーパーを用意した。粉薬の袋を開けると中身を全てティッシュの上に流し込んだ。次いで錠剤の入った袋の封を切ると、やはりティッシュの上に転がした。

 それから周囲に人がいないことを確認した三郎は、手の平の中にくるんだティッシュをそっとベッドの布団の下に隠した。

 三郎は、今ようやく桜井氏の言っていた「気をつけなさい。」という言葉の意味を薄々理解し始めていた。体調が悪くなり出したのは薬が変わって3日目のことであった。医者の説明では、抗がん剤の副作用で、一週間もすれば慣れてくるということであった。それ以上の、詳しい説明は何もなかった。しかし、もしやと思って、薬を隠し始めて2日、体調は徐々に以前の状態に戻り始めた。

 ここに至って、三郎の不信感は強く大きくなった。投薬と称して密かに毒物を摂取させられているのではないか。しかし、もしそうだとしたら一体何のために。ま、まさか。

「飯野さん、お薬は終わられましたか。」

 ヘルパーが戻ってきた。

「はい、今終わりました。有り難うございました。」

 ヘルパーは、何事もなかったかのように、空になった粉薬の袋と錠剤のパッケージを片手で握りつぶすと、水の残ったコップとともに片付けた。

 このヘルパーは、一体白なのか黒なのか。もし薬の中身を知っているとしたら、ここまで平然と笑って後片付けが出来るものであろうか。しかし、用心するに越したことはない。万一、黒であったら、薬を捨てたことを主治医に報告するかもしれない。それは自らの命を縮めることになりかねない。


飯野家。

「どうしよう、大樹。お父さんに連絡しようか。」

 明子は、懇願するように大樹の意見を求めた。

 当然である。しかも出来る限り早く三郎に連絡すべきであった。永久の荘行きを決断した最大の理由が肝臓ガンの告知であった。それが誤診、いやでっち上げの人違いだったとなると、そもそもの意思決定の前提が崩れてしまう。何としてでも知らせて、三郎を取り返す必要がある。

 しかし、大樹は思案に暮れていた。一体、どうやって三郎に連絡を取るのか。電話は危ない。大樹の直感が、三郎へ電話を架けることを思いとどまらせた。万が一、電話が盗聴されていたら。これだけ大規模でかつ組織的な計画であれば、それくらいの監視体制は出来ているかもしれない。

 そして、もし大樹と三郎の会話がその監視網に掛かったら。三郎の命が縮まる恐れなしとしない。やはり電話は避けた方がいいかもしれない。

 その頃、永久の荘。三郎は、毒薬を盛られているかもしれないことをどのように明子や三郎に伝えようかと思案していた。電話は危ないかもしれない。そこは親子、以心伝心で、大樹の思いは遠く離れた三郎にも伝わっていた。

 三郎は、じっくり思案をして受話器を上げた。

「もしもし、ああ母さんか。」

「ああ、あなた。今丁度電話をしようと思ってたところなの。」

 大樹は、明子に話し方に注意するよう目配せした。明子は、一瞬受話器の口を押さえてゆっくりと頷いて見せた。

「その後、どうだ。皆元気か。」

「ええ、元気にしてるわ。そっちは。」

 三郎は言葉を選びながら話をした。

「うん、肝臓ガンが少しずつ大きくなってるようだ。医者から新しい薬を処方してもらっているんだが、なかなか体調がよくならなくて。半年持たんかもしれんな。」

「そ、そんな。」

 受話器を握る明子の手がプルプルと震えた。覚悟を決めて永久の別れをしたつもりでも、この同じ空の下でまだ夫が生きているかと思うと、そういう話を耳にしただけでも辛さだけが増した。

 いくら手厚い看護が受けられるといっても、やはり送り出さなければよかった。家を無理にでも処分すれば免除申請の資金くらいは工面できた。明子の胸のうちは後悔の念で一杯になった。

「あなた、実は・・」

 明子が思わず例の件を口にしようとしたので、大樹が慌ててそれを制した。

「実は・・、どうした?」

「実は、その。私・・・、明日で73歳になるの。」

 大樹に差し止められて、明子は大慌てで、喉まで出掛かっていた言葉を飲み込んだ。

「おう、そうだったかな。これは、これは、失礼しました。お誕生日おめでとう。」

「あ、ありがと・・。それでね、今日は大樹が来てくれてて。」

 明子は、涙声となった。

「バカだな。何で泣くんだ。おめでたいのに。いいか、大樹には俺は元気だって伝えてくれ。じゃあ、また電話するから。」

 少しして、カチッと電話の切れる音がした。

「どうだった、父さん、何て。」

「体調がよくなくて、新しい薬を飲んでるって。やっぱりガンだったのかしら。」

「いや、逆だ。薬を飲まされてるんで、体調が悪くなってるんだ。もしガンでなければ、何もしないのに体調が悪くなるはずがない。」

「大樹、どうしよう。まさかこんなことになるなんて。お父さんがかわいそう。半年持たないかもしれないって。どうしよう、ああ・・・」

 明子は、再び大粒の涙ポロポロと落として泣き崩れた。

 半年持たない。やはり。入所者の全てが半年間も極楽生活を送らせてもらえるはずがない。それは全くの税金の無駄遣いである。施設側にとってみれば、一日も早く死んでくれた方が大助かりである。そして、どのような手段を講じて命を縮めても、誰にも何も分からない。何しろ入所者の多くは重篤な病気を抱えて永久の荘に来ている。たとえ入所後3ヶ月目に亡くなったとしても、家族も何も言うまい。寿命だったんだろうね、の一言で終わりである。まさに密室の中の出来事であった。

「とにかく、何とかして父さんにこのことを伝えなきゃ。そして、何としてでも永久の荘から助け出さなきゃ。」

 そうは言ってはみたものの、大樹は、事の重大さを知るにつれ、途方にくれてしまった。


その頃、永久の荘北村理事長室。

「とうとう、官邸の方からアレを使えと言ってきた。」

 北村理事長は渋い顔で居合わせた4人に告げた。

「やはり言ってきましたか。」

 木田事務局長は、自身の意見具申が的を射ていたとばかりに胸を張った。

「で、時期はいつ頃。」

「それはコチラに任せると書いてある。実行の日時だけを知らせてくれれば、後の対応は全て官邸の方で引き受けるとのことだ。」

 理事長は、大きなため息を漏らした。

「70歳以上の高齢者の致死率は50%、これで入所者の半分が一気に処分できます。当施設のベッド繰りも大きく改善されます。」

「しかし、ヘルパーや介護士にも多くの犠牲者が出るだろう。」

「施設の主だった職員には、すでに予防接種を実施済みです。それと特効薬のタミシリンの配布も完了しました。後は、理事長のご決断次第です。」

 事務局長は、手際よく説明を続ける。

こいつ、俺に内緒で準備していたな。北村理事長は一瞬ムッとした表情をしてみせたが、それを押し殺して事務局長の説明に耳を傾けた。

「ウイルスの散布方法は簡単です。施設の中央にある空調設備のダクトから粉末にされた散布剤約30キログラムを流します。この方法による初期感染率は約5%、潜伏期間は約3日です。後は、初期感染者からの空気感染により館内全体に感染が広まるのに一週間程度。全てのオペレーションが終了するのに2週間も見ておけばよろしいかと。」

「で、我々はその間どうなるんだ。」

「私たちは、完全に隔離された別棟で待機します。万一の場合に備えて、予防接種とタミシリンの配布を行いますのでご安心ください。」

「アウシュビッツと同じだな。密閉された空間で人々がもがき苦しんで死んでいくのを我々は隣から高見の見物か。」

「理事長、お言葉を・・。これは列記とした国の施策として行うものです。この国を救うためには仕方のないことなのです。ヒトラーがやったこととは根本的に目的も使命も違っています。そのあたりのことは・・・」

「分かった、分かった。いいから、後を続けたまえ。」

「初期感染による死者が100人を超えたところで、当施設で新型のインフルエンザの感染が確認されたことをマスコミ発表します。記者会見での想定問答は既に用意されておりますので、理事長にはあらかじめお目通しをお願いします。後は、官邸から自衛隊の特殊医療部隊が派遣され、全てのオペレーションを引き継ぎます。我々の役目はそこで終わりです。」

「それで、君も、俺も、めでたくクビということか。」

 北村理事長は、木田事務局長の説明を聞き終わると、どっかりとソファの上にのけぞった。

 永久の荘の設立から5年、当初は自立が困難な高齢者たちに安楽な余生の場を提供する目的であったが、それがついに地獄のガス室に切り替わる時が来た。致死率の高いインフルエンザウイルスが、2万人の高齢者たちが暮らすこの密閉空間に撒かれようとしていることを三郎はまだ知らない。


永久の荘、三郎の部屋に、思いがけない珍客が入ってきた。

「おーい、サブちゃん、久しぶりだな。」

「け、健ちゃんでねえか。おめえ、一体なんでここに。」

 三郎は突然の来訪者に目を丸くした。つい一ヵ月半ほど前、永久の別れをしたはずの中山健一の姿がいま眼前にあった。車椅子には乗っていたが、相変わらず元気そうな様子であった。

「なんでおめえがここに。おめえんとこにも令状が来たのか。」

三郎は、再会の喜びに相好を崩しながらも、同じ質問を繰り返した。健一は、三郎の質問にはすぐに答えず、ニコニコ微笑みながら三郎のベッドの脇まで車椅子を滑り寄せた。

「申請したんだ。例の、乙種っていうやつを。」

 乙種適格であった。自ら志願して、日本のため、人のために、自らの命を捧げる。その行為を礼賛して、人々は乙種申請者を「志願兵」と呼んだ。しかし、その華やかな呼び名とは裏腹に、志願兵の実体は、身寄りがない、あるいは単独での生活が難しい等、主に生活困窮者が利用する手段となっていた。どうせこのまま生きていても碌なことはない。自暴自棄に陥った孤独な老人が、自殺も出来ず死場を求めて志願するというのが、乙種適格の真の姿であった。

「バ、バカな。どこの世界に自ら進んで、自分の命を縮める野郎がいるんだ。このバカ。」

 三郎は、健一を叱りつける傍らで、目の奥の涙腺が緩んでいくのを感じていた。

「前にも言っただろう。俺は、もう一人で生きていくのが辛くなったんだ。身体もだんだんということをきかなくなってくるし。これからのことを考えると、怖くて、怖くて。」

「だからといって・・・」

 三郎は、何かを言おうとしたがそれ以上は言葉にならなかった。三郎は、健一の目に薄っすらと光るものを見た。しばらく重苦しい沈黙が続いた後、健一がボソリと呟いた。

「半月前だ。雅夫が逝った。」

「えっ、何だって」

「だから、雅夫が、雅夫があの世に逝っちまったんだよー。」

 その時、健一の目からすっーと一筋の涙が頬を伝った。

「そ、そうか。雅夫が。あんなに元気だったのにな。あの、雅夫が・・」

 一ヵ月半前、入所の日にはまだ見送りに来れるほど元気だったあの雅夫が、まさか自分より先に逝くとは。三郎は突然の悲報に絶句した。

 人の命とは判らないものである。周囲を見回せば、そこら中に高齢者が溢れている。もう誰が先とか後とか言っていられない状況にあった。先程は、志願した健一を罵ってみた三郎も、もう口に言葉はなかった。

 とにかく、甲種だろうが、乙種だろうが、残り少ない人生の最後の一時をまた幼馴染の健一とともに過ごせる。そう考えるだけで、三郎の心の中に渦巻いていたこのところの不信感と不安感は少し和らいだ。

 しかし、次の瞬間、そんな三郎のささやかな喜びの気持ちは一瞬にして消え失せた。

「えっ、そ、それって、どういうことだ。」

 健一は、車椅子から身を乗り出して、人目を憚るように三郎の耳元で囁いた。その瞬間、三郎の頭の中は真っ白になり、絶壁の上から奈落の底に落ちていくような感覚に襲われた。

「だから、おめえのあの健康診断書、甲種適格を決める根拠になったあの診断書が、人違いだった可能性があるってことよ。」

 健一の口から驚愕の言葉が続く。「肝臓ガンで余命が後半年」、つい三ヶ月ほど前に受けた告知の瞬間が鮮明に三郎の脳裏に蘇ってきた。国立がんセンターの偉い先生の診断だから絶対間違いない、そう言われて信じ切っていたあの診断が人違いだった?。しかし、どうしてそんな大事なこと、人の命を左右するそんな大切なことに間違いが起きるのか。ひょっとして・・。

「で、明子や大樹はこのことを。」

「ああ、無論知ってるさ。というか、おめえの奥さんから、このことを聞かされたんだ。診断書か間違ってたかもしれないって。それで、大ちゃんがもういっぺん国立がんセンターまで聞きに行って。」

「それで。」

「けんもほろろだったとかさ。何しろあっちは肝臓ガンの専門の偉い先生だ。端から話にならねえ。」

 今、三郎はようやく目が覚めた。これまで、自分が抱き続けてきたもやもやとした不信感がいよいよ確信へと変わり始めた。自分は政府によって仕組まれた強大な陰謀に巻き込まれつつある。いや、自分だけではない、日本全国にいる何十万人という高齢者が、今この瞬間にも恐ろしい陰謀によって抹殺され続けている。国を救うという美名の下、何十万という尊い命が合法的に奪われ続けているのである。

「奥さん言ってたよ。おめえにとんでもないことをしちまったって。どうやってこのことをおめえに知らせたらいいんだって。そして、どうやっておめえを取り戻したらいいんだろうって。」

 三郎の脳裏に、診断書が間違っていたということを知って狼狽していく明子の様子が浮かんだ。そう言えば、つい先日のあの電話。明らかに明子の様子がいつもと違っていた。恐らく、明子はこのことを自分に知らせようとして、それで。三郎は、明子が早まったことをしないよう心の底で祈った。

「そ、それで。おめえ、まさか、まさか、そのことを知らせに。そのためにここへ。」

 揺れ動く三郎の心は、今度は健一に向けられた。幼馴染の親友の命が危ない。それを知らせるために健一は、自らの命を張って、ここへ。

「バ、バカ言え。俺はそこまでお人好しじゃねえさ。俺は自分のために、自分で決めて、ここへ来たんだ。」

 健一は、その後プイと窓の外に顔を向けてしまった。三郎はその横顔に深い深い友の情けを感じた。


一週間後。

三郎は、相変わらず薬を隠し続けていた。ある時は、シーツの下に、ある時は食べ残しのスープに溶かし込んで、とにかく出された薬には一切手を付けなかった。しかし、こんなことが一体何時まで続けられるのであろうか。いずれ、看護師か介護士の誰かにバレる時が来る。そして主治医に報告が。そんなことを思い続けていたある日。

「飯野さん、点滴のお時間ですよ。」

 いつもの看護師が、点滴薬の入ったバッグを手にして三郎の部屋に入ってきた。

「点滴?、そんなお話聞いてませんよ。」

「先生から何も聞いておられません?。経口剤の効き目があまり芳しくようなので、今日から抗がん剤の点滴を始めますからね。」

 看護師は、何のためらいもなくバッグを吊るし、点滴の準備を始めていく。

「抗がん剤?、でも身体の調子はいつもと変わりがない・・」

 そう言い掛けた瞬間、三郎の脳裏にあの恐ろしい記憶が蘇った。「気をつけなさい・」という桜井氏の言葉、そして大量の血を吐き上げて意識を失した同氏の顔。ひょっとして、この点滴薬の中にも。そう言えば、三郎が入所して二ヶ月と二日が経っていた。桜井氏の言っていた「魔の二ヶ月」とやらも過ぎた。この永久の荘では、三ヶ月を超えて生き長らえる人は珍しい。

「変わりがないと思っても、血液検査の結果は確実に悪くなっています。自覚症状が出る前に早め早めにお薬をね。」

 看護師は、そう言いながら点滴の留置針を管にセットする。ツーっと薬液が管の中を流れ落ち、針の先から一滴が滴り落ちた。

「いやだ、絶対にいやだ。点滴なんかしたくない。いやだー。」

 三郎の心臓はもう飛び出さんばかりにドクドクと脈を打ち、額から冷や汗が噴き出した。何とか逃れようともがくが、わずかに動く右腕以外は、ビクとも身体が動かない。まさにベッドの上で磔にされたまま、殺されるのか。

「まあまあ、飯野さんたら。まるで子供みたいに。」

 看護師は、ニコニコ顔で三郎の左の袖を腕まくりしていく。その時、三郎は、見た。看護師の口角が不吉な微笑でかすかにゆがむのが見えた。間違いない、黒だ。この看護師は何もかも知っている。この点滴の中身が何で、この薬液が三郎の身体の中に入ると何が起きるのかも、全て知っている。

「いやだー、死にたくない。」

 三郎の絶叫が室内にこだました。三郎は、右手で看護師の手を払いのけようとするが、すぐさまベッドの手すりに革ベルトで手際よく固定されてしまった。と同時に、三郎の左腕にヒンヤリとした脱脂綿の感触が触った。万事休す。

三郎は観念して静かに目を閉じた。三郎の脳裏に、死んだ母の顔、そして最愛の明子の顔、大樹の顔、裕樹の顔が次々と浮かんでは消えていく。どんなに覚悟を決めて入所したとはいえ、それでも死への恐怖は隠せない。ましてや、健一の言うとおり、嘘の診断書で始末されるなら死んでも死に切れない。事ここに至って、三郎の心に生への執着が芽生え始めた。

その時である。

「飯野さん、入浴の時間ですよ。」

 部屋に一人の介護士と思しき若者が入ってきた。その男は、看護師を押しのけるように三郎のベッドの脇に立った。

「な、何をするんです。」

 今まさに注射針を三郎の腕に刺し込まんとしていた看護師は、突然の邪魔が入ったことでムッとしてこの若者の顔をにらみつけた。

「飯野さん、入浴の時間はキチンと守って頂かないと。最近は入所者も増えてるんですから。」

 三郎は、その男の顔を見て、飛び上がらんばかりに驚いた。

「し、茂。」

 思わず男の名を呼び掛けようとしたが、そんな三郎に向かって茂樹は微かに目配せした。

「に、入浴って、あなた。点滴の方が先でしょ。」

「入浴が先に決まってるでしょう。最近は予約制になってるんですから。点滴こそいつだって出来るじゃないですか。」

 看護師は、茂樹を押しのけようとするが、茂樹と看護師では端から相手にならない。茂樹は問答無用とばかりに、看護師を突き飛ばすとあっという間に三郎のベッドを廊下に押し出した。

「あっ、ちょっと待ちなさい。ちょっと。」

 看護師が床に打ちつけた腰をさすりながら、やっとのことで起き上がろうとする間にも、茂樹に押された三郎のベッドは廊下の彼方に消えていった。


「茂樹、お前、また、どうしてここに。」

「詳しいことは後で。それより今はここからどうやって抜け出すかを考えなきゃ。」

 ベッドを押す間にも、茂樹は、三郎の左手首に巻かれたリストバンド外すと、廊下に止めてあった食膳用のカートの中に投げ込んだ。カートの中は今終わったばかりの昼食の食器や残飯で山のようになっていた。

「これで、しばらく時間が稼げるかも。」

 茂樹は、そう言いながら、ドンドン三郎のベッドを押し続ける。

「オーイ、いたぞ、こっちだ。」

トレースパッドを手にした数人のセキュリティーが、食膳カートを追って廊下を駆け下っていく。彼らは、三郎のリストバンドから発っせられる電波を頼りにして三郎の位置を確認していた。無論、そこにはバンドの主はいない。

三郎はベッドの上でホッと安堵の嘆息をもらした。間一髪、後少し茂樹が三郎のリストバンドを外すのが遅れていたら。そう考えただけで、背筋に鳥肌が立っていくのを覚えた。と同時に、茂樹の手際のよさに少なからず驚いた。

セキュリティーの足音が遠ざかっていくのを確認した茂樹は、ようやく人目に付きにくい談話コーナーの片隅に三郎のベッドを止めた。周辺には他に2台の電動ベッドと数台の車椅子、それに10人程の入所者が三々五々食後の雑談にふけっていた。

「茂樹、お前。」

三郎はようやく一息ついて、茂樹の顔を落ち着いて見ることが出来た。三郎が茂樹に会うのは実に三年ぶりのことであった。脳梗塞で倒れる前、まだ三郎が元気だった頃、いつまでも定職に就かずニート生活を送っていた茂樹を張り倒して以来のことであった。あの時に、茂樹は家を飛び出してしまい、それ以来、飯野家の敷居をまたぐことすらなかった。一体どこで何をしていたのか。

「親父、おれ今ここで介護士として働いてるんだ。」

「か、介護士?、でも、お前、そんな資格、いつどこで。」

「一年前さ。覚えてるか。三年ほど前、親父にぶたれて。あの時は、ホントにブッ殺してやろうかとも思ったよ。でも、あれから自分でもよく考えて、それで介護士の資格を。こんなダメ人間でも、心から喜んでくれる人がいる。そう思った時、いつの間にか介護士に。」

「そ、そうか。」

 三郎の声は、その後言葉にならなかった。3年ぶりに息子に会えたということもあったが、それ以上に、どうしようもないと思っていたダメ息子が立派に独り立ちしていたことが余程うれしかった。隠そうと思っても、次から次へと涙が溢れ出た。

「親父が、永久の荘に入所するって聞いて。ホントは免除申請したかったんだけど、今の俺にはまだそんな金もないし。それで、介護士としてここにもぐり込んで。親父が亡くなる前に、こんな俺でもしてやれることがあるんじゃないかって思って。」

「そ、そうか。」

 茂樹の話を聞いて、三郎の涙の量が倍増した。もう目が霞んで茂樹の顔すらハッキリと見えない。自分は茂樹のことを誤解していたのかもしれない。どうしようもないダメ人間と決め付けていた。茂樹、済まん。三郎は、その一言すら口に出せずにむせび泣いた。

「でも、親父。ここは大変なところだったよ。介護士の俺たちには正確には知らされてないが、

半年の贅沢三昧なんて嘘ばっかりだ。入所して二ヶ月もすると、元気な人が次々と悪くなって隔離棟へ送られて。」

「そ、そうか。お前もおかしいと思っていたのか。」

「ああ、でも確たる証拠もないし。もうしばらく様子を探ってと思ってた矢先に、親父の点滴騒ぎが。俺、咄嗟に思ったよ。今すぐ動かなきゃ大変なことになるって。」

 三郎は再び背筋に鳥肌が立つのを覚えた。恐らく、茂樹の判断は正しかっただろう。あの点滴の薬液が自分の体内に入っていたら、間違いなく自分は隔離棟へ。

「でも。これからどうするんだ。ここにいても、いつかは見つかる。」

「逃げよう。親父、とにかく、ここを出よう。」

「でもどうやって。」


2人がその答えを考えつく間にも、事態は急変していく。

「緊急連絡、緊急連絡。ベッド番号Dの7769、飯野三郎さんの行方が分からなくなっています。見つけられた方は、すぐに近くの係りの者までご連絡ください。繰り返します・・」

「ちくしょー。」

 茂樹は、そう言いながら、大急ぎでベッドを押し出した。たちまち、周囲にいた人々の視線が2人に注がれる。茂樹は、三郎のベッドを押して長い長い廊下を駆け下っていく。しかし、一体どこへ。その間にも、ベットを追いかけるセキュリティーの数はドンドン増えていく。

もうこれ以上、逃げ場がないと思った時、廊下の傍らからむんずとベッドの端を掴む手が伸びた。

「サブちゃん、早くベッドを降りろ。」

 見れば、杖を片手にした健一がしっかりとベッドの手すりを掴んでいた。

「お、おじさん。」

 茂樹が返答する間もなく、健一は三郎をベッドから引き摺り下ろした。腰から下が全く動かない三郎は、無残にも廊下の上に転がり落ちた。

「サブ、お別れだ。シゲ坊、サブのこと頼んだぞ。」

「お、おい。健ちゃん。おめえ、一体。」

 三郎の叫びが終わらないうちにも、あっという間に中山健一の身体は三郎のベットの上に転がっていた。そして、次の瞬間、健一は電動ベッドのアクセルレバーを力の限り押し倒した。

「おーい、こっちだ。こっちだぞー。捕まえて見ろ。バーカ。」

 三郎の身代わりに健一の乗った電動ベッドはみるみる小さくなっていく。

「親父、早く掴まれ。俺の背中に乗るんだ。」

 茂樹は、床に横たわる三郎を抱え起こすと、脇に手を回した。

「バ、バカな。健を置いて行けるか。おい茂樹、戻れ、早く、連れ戻しに行くんだ。」

「親父、分からないのか。中山おじさんの好意を無駄にするのか。」

「健はな、健はなー、俺に知らせに来てくれたんだ。知らせに。命を張ってだよー。それをみすみす置いて行けるかー。」

 茂樹は、泣きわめく三郎を無理やり背に乗せると、廊下の反対側に走り始めた。

「貴様と俺とは同期の桜、同じこの街の・・、元気でなー、健ちゃん。奥さんによろしくなー。」

 健一の歌う声がドンドン小さくなっていき、代わってセキュリティーのドヤドヤという足音が廊下をこだましていった。


 健一のお陰でわずかばかりの時を得た茂樹は、廊下の端まで来ると胸ポケットに入れてあったセキュリティーカードを壁際のリーダーに通した。カシャと電解錠の外れる音がして、ドアがすっと開いた。茂樹は、恐る恐るドアの向こうを覗き込んで、誰もいないことを確認すると一歩足を踏み出した。

 三郎には、初めて見る永久の荘の裏方の姿であった。整然と片付けられた表と違い、裏の廊下は雑然としていた。遥かかなたまで続く廊下には、数え切れないほどの電動ベットや車椅子、それに食膳カートやリネンカートが無秩序に並べてあった。

 茂樹は、とりあえず大きな食膳カートの陰に三郎の身を隠した。裏の廊下とはいえ、いつ何時別の介護士や看護師が来ないとも限らない。そんな連中に、万一三郎の姿が目に止まったら、全ては一巻の終わりである。

茂樹は、何とか人に見られずに三郎を運ぶ手段がないかを考えた。何しろ三郎は重度の身体障害者である。自分で歩くどころか這うことすら出来ない身である。その三郎を一体どうやって所の外へ連れ出せばいいのか。

その時である、ガシャと電解錠の外れる音がして、ドアが開いた。茂樹の心臓の音が一気に高鳴った。開いた扉の陰から、シーツを満載したリネンカートが現われ、続いてカートを押す介護士の姿が現われた。茂樹は、万一に備えて身構えた。しかし、次の瞬間、茂樹はホッと安堵の嘆息を漏らした。

「あ、茜。」

「あら、茂樹。どうしたの、こんなところで。それに、そんな怖い顔して。」

 淡いピンク色の介護服に身を包んだ小柄な女性介護士が笑顔で茂樹の前に立った。

「いや、丁度午後の入浴時間が終わったところで、ちょっと一息ついてたんだ。」

「大変でしょ。入浴介護の方は。力仕事だし。危険もあるし。」

 2人は、慣れた口調で声を交わした。

「ねえ、茂樹、今夜空いてない。私、丁度非番なの。」

「こ、今夜かい。」

 茂樹は茜から誘われて一瞬躊躇した。

「い、いや。今夜はダメだ。今夜は大事な用があって。」

「なーんだ。いつもそうなんだ。折角楽しみにしてたのに。」

 茜は少し膨れっ面をして見せた。茂樹は、茜が三郎のことに気付くのではないかと気が気ではなかった。とにかく、何とか早く茜をこの場から去らせなければ。

「明日ならいいよ。明日の夜、いつものところで、どう。」

 茂樹は口から出まかせの受け答えをした。どうせ、今夜三郎をここから助け出せば、二度とここへは戻れない。茜には申し訳ないが、いつかどこかで訳を話せる日も来よう。茂樹は胸の内で手を合わせた。

「明日、オッケー。いいよー空いてる。じゃあ明日ね。」

 茜は、小躍りしながら、大きなリネンカートを残して颯爽と戻って行った。

「ゴメン、茜。」

 茂樹は、茜の後姿がドアの向こうに消えていくのを確認すると、すぐさまリネンカートからシーツやタオルなどを投げ出し始めた。茜が、各入所者の部屋から回収してきたばかりのリネン類で、汗や汚物の匂いでムッとするほどに汚れていた。

「親父、少しだけ辛抱しろよ。」

 茂樹は、三郎を抱きかかえると、リネンカートの奥底に沈め、その上から悪臭の漂うリネン類を覆いかぶせ始めた。間一髪、ガチャリとドアの開く音がして別の介護士2人が入ってきた。

「いやあ、ひでえ匂い。おい、何やってんだ。こんなところで。」

「す、すみません。ちょっとリネンカートをひっくり返しちゃって。」

 茂樹は、大慌てでシーツを拾い集めるとカートの中に投げ込む。寸でのところで三郎の足がシーツの下に隠れた。

「気をつけろよな。新米さん。汚物を撒き散らすと、また消毒しなきゃならなくなるからな。」

 2人は、鼻をつまみながら、汚いものを避けるようにそそくさとその場を立ち去った。三郎と茂樹はやっと安堵の嘆息を漏らした。

「親父、少しの間、辛抱しろよ。このカートには誰も近寄って来ねえさ。」

 そう言いながら、茂樹はカートを押し始めた。

「おい、茂樹、いいのか。今の子、茜さんとかいったかな。」

三郎はリネンカートの中からカートを押す茂樹に声をかけた。

「いいのかって何が?」

「とぼけたってダメだ。好きなんだろう。あの茜って子が。」

「何言ってんだ、親父。そんな分けねえだろう。」

「いいや、声を聞けば分かるさ。済まねえなこんな老いぼれのためによー。」

「うるせーな、だから言ってるじゃん。関係ねえって。親父は少し黙ってろ。人が来るぞ。」

茂樹は黙ってカートを押し続けたが、カートの中の三郎の目に浮かんだ涙を一番よく分かっているのは茂樹自身であった。

「おい、そこのカート、ちょっと待った。どこへ行くんだ。」

廊下を中ほどまで進んだところで、今度は2人のセキュリティーに呼び止められた。三郎は思わず息を殺した。カートの薄いシートを通してセキュリティーらしい2人のシルエットが微かに見える。もうおしまいだ。カートのグリップを握る茂樹の両手にもねっとりと汗が噴き出した。そして、ついにセキュリティーの一人がカートの中を覗きこんだ。

「臭っせー。何だ、これ。」

セキュリティーは、そのまま顔をそむけて鼻をつまんだ。もう一人のセキュリティーが嘲笑するように言い放った。

「どうせ、ババアやジジイが吐いたり、漏らしたりしたアレだろう。アレ。」

その時、茂樹が口を開いた。

「す、すみません、リネン庫はどっちですか。僕、新米なもんで。」

「リネン庫ならあっちだ。臭えから、早く行け。」

茂樹はしめたとばかりカートを折り返し、グイッと力を込めて押した。

「全くとんでもない野郎だぜ。」

セキュリティーはブツブツ言いながら廊下を反対の方向へ去っていった。茂樹は大きな嘆息を漏らした。


丁度その頃。永久の荘C棟。

「1045の関根さん急変です。」

看護師が慌ただしく廊下を駆け下っていき、すぐ後に担当医が続く。ストレッチャーに載せられた80過ぎの女性が点滴を打たれながら病院棟の方へと運ばれていく。

「いつ頃からこんな状態に。」

担当医がストレッチャーの脇を駆けながら看護師に尋ねる。

「風邪をひかれたのか、夕べから少し咳と熱が。朝の検温の時はまだしっかりされてて。まさかこんな急変されるとは。」

看護師は青ざめた表情で答えた。後少しで病院棟の入り口というところで中から数名のメディカルチームが慌ただしく出迎えた。

「よーし、ご苦労様、後は我々の方でやる。」

胸に「戸田内科部長」という胸章を付けた少し年配の医師が前に進み出た。

「先生、インフルエンザの疑いがあります。すぐにC棟の病室と廊下に消毒の手配を。」

担当医が進言する。

「いや、その必要はない。ただの風邪だ。」

「で、でも、もしインフルエンザだったら。大変なことに。」

「そんなこと君に言われんでも分かっている。インフルエンザの検査はこっちでやるから、君たちは通常業務に戻り給え。」

「で、でも、担当医は僕ですから、僕にも責任があり・・」

「すぐに戻り給え、これは部長命令だ。」

その言葉と同時に数人のメディカルチームがストレッチャーの周囲をグルリと取り囲んて、あっという間に病院棟の奥に運び去っていった。


 永久の荘、理事長室。

「理事長、ついに患者第1号が出ました。83歳の女性です。」

木田事務局長の嬉しそうな声が理事長室の中に響く。

「で、その患者はどうなったのかね。」

 渋い表情の北村理事長が尋ね返した。

「先程死亡が確認されました。間違いありません。強毒性のインフルエンザです。」

「そうか。とうとう始まってしまったのか。」

 北村理事長は、がっくりと肩を落とすと、ソファの上に崩れ落ちた。

「なあに、心配要りませんよ。理事長。ウイルス散布の件を知っているのは、メディカルチームの幹部だけです。一週間もすれば、自衛隊の医療チームに引き継いで、それで万事終了です。」

 事務局長は、自信満々で胸を張った。

「本当にそんなにうまくいくのかね。こんなバカげた茶番劇が。」

 北村理事長だけが、ただ一人不安の声を漏らした。そして、その理事長の不安はやがて現実のものとなる。


「親父、もう一息だ。この階段を下りれば、地下の駐車場だ。」

 茂樹は、三郎を背負って非常階段を下っていた。三郎はかろうじて動く右腕をしっかりと茂樹の首に巻きつけて、肩に身を預けていた。三郎の目には再び涙が浮かんでいた。一番どうしようもないと思っていたドラ息子の茂樹が、今一心に自分を背負って階段を下りている。もし、誰かに見つかれば、二人とも生きてここを出られるか分からない。命を賭けた逃避行が親子の絆を再び固く拠り直した。

「親父、随分軽くなったな。」

「そ、そうか。ずっと寝たきりだったからな。足なんかもうミイラみてえだろ。ホント情けないよなー。それにしても、お前も力強くなったなー。さっきから息一つ切れてねえ。」

「バカにすんなよな。こう見えても、介護歴一年だ。もう何百人、風呂に入れてやったことかか。あの風呂に入っている時のみんなの顔、たまんなく幸せそうだよな。一度見ると、病み付きになるぜ。ホント。」

「そ、そうか、そうか。」

 三郎の目に再び涙が浮かび、その後は声にならなかった。

「よーし、着いた。ラッキーだ。誰もいない。」

 幸い、巨大な駐車場はガランとしていて不思議なほど人がいなかった。茂樹は、少し不審に思った。いつもなら、この時間帯、交代の看護師やら介護士で少なくとも何人かの人影は必ず見えるはずであった。ところが、今日は人っ子一人いない。一体どうなっているのか。

「親父、また少し辛抱しろよな。」

 茂樹は、三郎を後部座席に寝かしつけると、頭からスッポリと毛布をかぶせた。後3分、ゲートを出てしまえば、もうこっちのものだ。茂樹は、ゆっくりと車をゲートへと走らせた。

 しかし・・。

「おーい、止まれ。そこの車。」

 守衛が赤い灯火を振りながら、茂樹の車を制した。

「ちっ。」

 茂樹は、舌打ちした。いつもなら、難なく通り抜けられるのに今日に限ってなぜ。守衛は、運転席の脇に近づくと、茂樹に声を掛けた。

「おい、聞いてないのか。今夜は誰も外には出られない。いや、今夜だけじゃない。当分の間、センターへの出入りは全面禁止だ。」

「冗談きついぜ。そんな話、聞いてないっすよ。また、どうしてすっか。」

 茂樹は、驚いた様子で尋ねた。

「緊急通達が出たんだよ。ほんの10分程前だったかな。俺も、まだ詳しい話は聞かされてない。ただ、通達によれば、何でもセンター内で伝染病が発生したらしい。それで、しばらく永久の荘全体を封鎖するとかさ。」

「ダメだよ。今日は、どうしても行かなきゃなんねえ用があんだよ。通してくれよ。なあ、一人位いいだろう。」

 茂樹は、懇願するように守衛に頼んだ。しかし、守衛の返事は冷たかった。

「ダメだ。ダメだ。今日は、絶対誰一人外に出すなと言われている。たとえ親が危篤でもだ。」

 茂樹は、今ようやく地下の駐車場が不気味なほどに静かだった理由を知った。通達が出て、全てのスタッフがセンター内に足止めされていたんだ。そんなこととはつゆ知らず、三郎を背負った茂樹だけがこのゲートまでたどり着いたというわけだ。

 守衛は、運転席の窓から後部座席を覗き込むと、トーチの光で毛布を照らした。

「何、積んでんだー。このガキは。やけにでかい荷物だなー。」

 茂樹は、ドキリとした。同時に三郎も石のように身体を固くした。寸歩でも動こうものなら、守衛に知られるところとなる。もう躊躇はしていられない。茂樹は一瞬の隙を突いて、アクセルを思いっきり踏み込んだ。

「あっ、おい。コラ。待て。待たんか。」

 守衛の叫びも空しく、茂樹の車はゲートの遮断機をへし折って急発進した。その後、茂樹の車は真っ暗な伊豆高原の森林の中へとスピードを増して消えていった。しばらくして、はるか後方の彼方より緊急警報の鳴る音が微かに聞こえた。


 約3時間後、杉並の茂樹のアパート。

 わずか一部屋の小さなアパートは、足の踏み場もないほどに乱雑に散らかしてあった。茂樹が伊豆にある永久の荘に介護士として勤務し始めて後、このアパートに戻るのは二週間ぶりのことであった。こんなこともあろうかと思い、アパートの賃貸契約を解除しなくて良かったと思った。

「親父、少し狭いけど辛抱するんだぞ。今、飯野の家の方はヤバイかもしれん。親父が永久の荘から抜け出したことがバレてたら、もう手が回ってるかもしれない。でも、ここなら、誰にも気付かれねえ。」

 茂樹の言うとおりだった。三郎が失踪したとなると、一番に家族の元が疑われる。茂樹のアパートが一番の隠れ家かもしれない。何しろ、当の三郎ですら、茂樹が杉並に住んでいたということすら知らなかったくらいである。

 茂樹は、少しかび臭いにおいのする自分のベッドに三郎を寝かせると、自らはドサリと壁に背を持たれかけ.静かに目を閉じた。長い長い緊張の糸が突然プッツリと切れたように、2人はそのままぐったりと深い眠りに落ちていった。

 どれくらい時間が経ったであろうか。まだ外は真っ暗で夜は明けていなかった。三郎は、茂樹の微かな咳の声で目が覚めた。

「茂樹、大丈夫か。風邪でも引いたか。」

「ああ、かもな。でも、大したことはないさ。少し疲れただけだろう。」

 茂樹は、そう言いながらも、身体の異変を感じていた。軽い咳に、少し熱っぽい感覚。風邪の初期によく経験するアレであった。だが、2人とも、まだこの茂樹の異変が、今永久の荘で起こりつつあるとんでもない大事件と関わりがあるなどとは微塵も思っていなかった。

「なあ、茂樹。これから一体、どうするつもりだ。いつまでも、ここにいるわけもいかねえし。と言って、飯野の家は、お前の言う通り、もう役人の手が回ってるかも知れない。何しろ、俺も、お前も、永久の荘から脱獄したお尋ね者だからな。」

 茂樹は、しばらく考え込んだ後に、呟いた。

「どこか遠くへ行こう。誰も知らない所へ。どうせ親父の戸籍はもう抹消されてる。どこで、どうやって暮らそうと自由だ。心配すんなって。親父の面倒は、どんなことがあったって、この俺が見るからさ。何しろ、俺は、介護士・・」

 と言い掛けて、茂樹はそのまま激しく咳き込んだ。

「おい、茂樹、大丈夫か。茂樹。」

 三郎は、不自由な右手をかろうじて伸ばして、茂樹の額に手を当てた。

「す、すごい熱じゃないか。おい、茂樹。どうしたんだ。本当に大丈夫か。」

「ああ、心配すんなって。風邪だよ、風邪。」

 茂樹は、三郎の手を払いのけると、そのまま床の上に横になった。


 永久の荘、理事長室。

「理事長、患者数が300人を超えました。死亡者数も31名です。」

 パソコン画面を確認しながら、木田事務局長は自信満々の笑みを浮かべた。

「この調子だと、後24時間位で死亡者数が規定の数に達します。予定通り、マスコミ発表を行い、正式に官邸に自衛隊の特別医療チームの派遣を要請します。理事長、あと一息です。」

「好きにしろ。くそったれが。」

 苦虫を噛み潰したような表情の北村理事長だけが、一人罵声を発してソファにうずくまった。


 その頃、病院棟。

次々と運び込まれてくる患者に、何も聞かされていない若い研修医や看護師たちが右往左往していた。

「先生、こちらお願いします。血圧20-60。呼吸停止。」

 ピピピピッ、ピピピピッ、激しく心電図のモニターが鳴り響く。

「先生、心停止です。」

「先生、こっちもです。」

 慌しく、医師がベッド脇に駆けつける。看護師が大急ぎでアンプルから薬液を注射器に抜き取った。巨大な救急救命室の中はベッドに横たわった患者で溢れ、廊下にも数え切れない位のストレッチャーが並べられていた。ストレッチャーの上では、一様に高齢者たちが咳き込み、もがき苦しんでいた。

ついに平成の大量虐殺の幕が開いた。

「一体、何が起きているんだ。」

「どうやら、院内感染らしい。悪性のインフルエンザだ。先程患者の嘔吐物から陽性反応が出た。」

 医師の一人が絶叫した。

「それにしても、症状かひど過ぎる。第一号の患者が出たのは、何時ごろだ。」

「よくは分かりません。ただ、一昨日の夕方に、一人の患者が肺炎で死亡しています。」

「早く、ウイルスの型を特定しろ。それにタミシリンの用意だ。」

「タミシリンのストックは500人分しかありません。」

「何をバカな。ここには2万人のお年寄りがいるんだぞ。それに医師や看護師も・・。」

 と言い掛けた若い研修医が、そのままどっと咳き込んで、床に倒れた。

 それを無視するかのように、戸田内科部長の指示が飛ぶ。

「よーし、皆よく聞け。これからトリアージステージに入る。いいか、トリアージだ。助かる見込みのない患者はドンドン切り捨てる。」

「トリアージだ。患者を素早く選別しろ。いいな。」

「トリアージだ。」

次々に救急救命室に伝令が飛ぶ。

「この患者は、無理だ。見捨てろ。こっちもダメだ。これもだ。」

 次々とストレッチャーを覗き込みながら、内科部長の怒声かこだまする。

「先生、この患者まだ脈があります。助かる見込みが・・」

「バカを言うな。こいつらは全部ダメだ。もっと助かる見込みのある患者を探せ。そっちを優先する。」

 戸田内科部長は、廊下を走り回って、次々と治療の中止を指示して回った。しかし、患者選別に奔走しているように見えた内科部長の目は、眼鏡の奥で密かに笑っていた。あと10人、あと20人、内科部長は頭の中には死亡者数のカウントしかなかった。


 茂樹のアパート。

 茂樹の容態はさらに悪化していた。激しい咳、額に噴き出した大量の汗、一見してかなりひどい状態であった。

「おい、茂樹。大丈夫か。茂樹。」

 三郎は、右手一本で、不自由な身体をにじらせながら這うようにして茂樹に近づいた。茂樹の額に手を当てた三郎は飛び上がらんばかりに驚いた。人の身体が、こけほどまでに熱くなるものであろうか。茂樹の身体はまさに炎に包まれていた。

「茂樹、救急車だ。救急車を呼ぼう。」

 三郎は、かろうじて動く手で茂樹の携帯電話を手に取った。

「や、止めろ。親父。今、病院に行ったりしたら、全部バレちまう。大丈夫だ。明日の朝になれば、きっと、よくなって・・。」

 と言いかけて、茂樹は、そのままどっとその場に突っ伏してしまった。

それから少しして、未明の杉並の街に一台の救急車がけたたましいサイレンを鳴らしながら走り去って行く音が聞こえた。


 都内、新宿近くの東都大学病院救急救命棟。

 酸素マスクを被せられた茂樹が救急車から下ろされ、ストレッチャーで運ばれていく。時折、ビクンビクンと肩が痙攣を起こしている。一見して重篤な状態にあった。

「何時ごろから、こんな状態に。」

 当直医が、三郎に尋ねる。

「昨日の夕方頃からです。少し、咳が出てたのと、それと熱が。てっきり風邪かと思ってたら。明け方ごろからこんな調子で。」

「悪性のインフルエンザの疑いがあります。念のため隔離病棟へ。それと、お父さんですか。あなたも隔離します。感染しているといけませんから。」

 三郎を乗せたストレッチャーもあっという間に、茂樹のストレッチャーの隣に滑り込んだ。酸素テントの中でのた打ち回る茂樹。医師たちは痙攣発作を起こしている茂樹を革のベルトで固定すると、素早く酸素吸入器、心電図モニター、点滴と処置を続けていく。

「おーい、患者から採取した検体をすぐにウイルス研に送付しろ。ウイルスの型を特定するんだ。急げ。それと院内消毒もだ。エントランス、廊下、この患者が通ったところは全て消毒しろ。」

 胸に「山口」という名の入った胸章を付けた当直医は、いかにも手慣れた風に次々と指示を出していく。そして、この山口医師の判断は、結果的に正しかった。もし、ここで適切な処置が成されていなかったら、茂樹が撒き散らすウイルスは止まる所を知らず拡散し、日本全国を覆いつくすパンデミックに発展していたかもしれなかった。

 それにしても、不思議なことが一つあった。父三郎である。重篤な状態に陥った茂樹に対し、三郎にはほとんど症状が出ていなかった。あるいは、まだ潜伏期間なのかもしれない。これから、三郎にも恐ろしい症状が出るのか。

通常のインフルエンザであれば、高齢者や病弱な者が真っ先に犠牲になる。しかも三郎は、こともあろうに永久の荘のリネンカートの中に何時間もいた。ウイルスにまみれていたかもしれないシーツに何時間も包まれていたのである。その三郎がピンピンしていて、一番壮健なはずの茂樹が今ベッドの上でもがき苦しんでいる。これは一体どういうとか。


その頃、この疑問に対する答えが、まさにその永久の荘で現実になろうとしていた。

「何か変だ。どうしたんだ。一体何がどうなってるんだ。」

 木田事務局長は、怪訝そうな表情で、何度もパソコンのキーボードを叩きなおした。先程から、画面に表示される患者数と死亡者数の伸びが鈍化してきていたのである。予定通りであれば、もうとっくにマスコミ発表の時間を迎えていてもおかしくない時限であった。ところが、死亡者数はまだ60名そこそこで止まったまま、患者数も同様に800人近くで伸び悩んでいた。

 その時、理事長室の扉が大きく開け放たれ、戸田内科部長が血相を変えて駆け込んできた。

「大変です。救急病棟で、若手研修医や看護師の中に犠牲者が出始めました。」

「な、何?、スタッフ全員には予防接種とタミシリンを配布したんじゃなかったのか。」

「はい、確かに。でも何か想定外のことが起きているようで。私にも、原因がよく・・」

 そこで、内科部長が激しく咳き込んで、どっと床に倒れた。木田事務局長は思わず顔をそむけ、手で口を覆った。

「多少の犠牲は覚悟の上だ。構わん、オペレーションを続けろ。私は官邸に連絡を入れる。」

 木田事務局長が、電話の受話器を上げる。

 一方、北村理事長は、室内に設けられた監視カメラで、救急棟の中の様子を見て、卒倒した。そこでは、信じられない光景が繰り広げられていた。

「おーい、しっかりしろ。大丈夫か。」

 介護用ベッドから起き上がった高齢者が次々と床に倒れた医師や看護師を助け起こしている。それも1人や2人ではない。何十人というスタッフが床の上でのた打ち回り、それを助けようとする数多くの高齢者たちが次々と不自由な身体を押してベッドから下り、倒れたスタッフたちに寄り添っていた。

「くそっ、何てことだ。」

 その一言を残し、北村理事長は理事長室から飛び出していった。


 その夜、飯野家。

明子と大樹が不安そうにテレビのニュースに聞き入っていた。

「政府は、つい先程、伊豆高原にある後期高齢者収容施設「永久の荘」で、大規模なインフルエンザの感染が発生したと発表しました。関係者の話によりますと、このインフルエンザは致死率の高い強毒性のもので、すでに入所者やスタッフにも多数の死者が出ている模様です。」

 明子は、両手を口に当てて、ワナワナと肩を震わせた。

「お、お父さん。大丈夫かしら。もしものことがあったら、どうしよう。」

 大樹も、繰り返し三郎の携帯に電話を入れるが一向に通じる気配はなかった。その間にも、ニュースは先に進んでいく。

「このインフルエンザはH5N2型の鳥インフルエンザウイルスに由来するもので、人から人へ感染する能力を獲得しているとのことです。それでは、インフルエンザウイルスに詳しい東都大学ウイルス研究所の山村教授にお話をお伺いします。先生、今回の件を、如何お考えでしょうか。」

 テレビカメラがグイッと引かれて、山村教授の顔がアップになった。

「私どもウイルス研では、このような日がいつかは来るのではと予想してはおりましたが、最悪の場所で起きてしまったという気持ちです。永久の荘には約2万人の高齢者の方が入所されておられます。もし、この中で人から人へ感染する能力を獲得した強毒性のウイルスが広まれば、その感染率は80%以上、そして致死率は50%。ざっと見積もっても死者の数は8千人に上る可能性があります。」

 教授の口から、驚愕の説明が続く。キャスターの額にも汗が滲み始めた。

「患者だけを隔離して、他の高齢者を永久の荘から避難させるわけにはゆかないのでしょうか。」

「それは、返って危険です。今、永久の荘の門を開くことは、日本全国にウイルスを撒き散らすことにもなりかねません。そうなれば、パンデミック、いわゆる全国的な大感染に繋がる惧れがあります。最善の措置は、永久の荘全体を完全隔離し、その中で適切な治療と感染源の追求を進めることだと考えます。」

「先生、有り難うございました。今回の事態を重く見た政府は、すでに陸上自衛隊特殊医療部隊の派遣を決定、永久の荘の周囲20キロメートルには報道関係者も含め一切の車両の立ち入りを禁止しました。繰り返します、南伊豆「永久の荘」で大規模なインフルエンザの感染が発生しました。皆さん、南伊豆地方には近寄らないようにお願いします。繰り返しま・・・」

 プチッ。大樹がテレビのスイッチを切った。

「大樹、どうしよう。死者8千人だって。もうお父さん、ダメだわ。かわいそうに、ああ・・」

 明子は、突っ伏して大声を上げて泣き崩れた。大樹も両手で膝頭をわしづかみにしたまま首をひねるしかなかった。

 その時、電話の呼び鈴がけたたましくなった。ギョッとする2人。間違いない、三郎の死亡を知らせる悪夢の電話だ。2人は直感した。震える手で、明子が受話器を上げる。

「もしもし。」

「ああ、明子か、俺だ。」

「お、お父さん、お父さんなの?。本当に。」

 明子の声が上ずり、ヘナヘナとその場に倒れ込んだ。大樹も、信じられないという表情で、受話器に耳を近づける。

「大丈夫なの。お父さん。」

「大丈夫って、何が。」

「だって、今、テレビで大騒ぎよ。永久の荘でインフルエンザの大流行だって。」

「イ、 インフルエンザの流行?」

「えっ、知らないの。」

 一瞬の沈黙が、流れた。

「いいか、よーく落ち着いて、よく聞いてくれ。実は、茂樹に助けられて永久の荘を抜け出して来たんだ。ところが、その茂樹が今大変なことになってる。すぐ新宿の東都大学病院に来てくれ。もういっぺん言うぞ、新宿の東都大学病院だ。いいか、すぐだぞ。急いでくれ。」

「あ、あなた・・」

 プチッ。その間にも電話はもう切れていた。明子は、何が何だか訳が分からず、受話器を手にしたままウロウロと歩き回った。

「行かなきゃ、大急ぎで。行かなきゃ。」

「どうしたの、母さん、何があったの。父さんは何って。」

「東都大学病院、東都大学病院。東都・・」

 明子は、病院の名を忘れまいと繰り返しながら、大慌てで玄関を出て行った。


 東都大学病院、隔離病棟。

「飯野さん、でしたね。落ち着いてよーく聞いてください。ご子息さんですがね、簡易検査でインフルエンザの陽性反応が出ました。間違いなくインフルエンザです。詳しい型は、ウイルス研の正式検査結果を待ってみないと何とも言えませんが、あの症状からみて恐らく強毒性のものかと思われます。すでに肺全体に重度の肺炎が広がっていて、かなり危険な状態です。」

 防護服に身を包んだ山口医師が説明を続ける。

「先生、お願いです。あの子を助けてやって下さい。あの子にもしものことがあったら、私は死んでも死に切れない。先生、先生、お願い・・」

 三郎は、声を上げて泣いた。茂樹の発病以来既に48時間が経過しようとしていた。ところが、一番接触が多かったはずの三郎にはまだ何の症状も出ていなかった。

「で、もう一度お伺いしますが、お2人は、どこへ行かれたんですが。とこで感染したのか、お心当たりは。」

 三郎は、迷った。まさか永久の荘から抜け出してきたとも言えない。もし。それを言ったら最後、茂樹の努力も健一の捨て身の決断も全て水泡に帰す。永久の荘に送り返されて、すぐに処置室に。

 しかし、すぐ隣で苦しんでいる茂樹を見ていると、三郎の心は複雑に揺れ動いた。三郎はそっと目を閉じた。茂樹、明子、大樹、裕樹、家族の顔が次々と目の前に浮かんでは消えていった。そして次に三郎が目を開いたその時。

「実は、その・・」

直後。

「おーい。感染源が分かったぞ。永久の荘だ。2人は永久の荘からの脱出してきた人たちだ。」

 山口医師の一声は、たちまちスタッフの間に広まった。

「永久の荘からの脱走者。」

「永久の荘って、今強毒性のインフルエンザで封鎖されている、あの永久の荘か。」

「いいのか、このまま治療を続けて。厚生労働省に知らせなくては。」

 スタッフは口々に顔を見つめ合い、囁きあった。その時、茂樹の心停止を知らせるモニター音が鳴り響き、山口医師が無菌テントの中に駆け込んだ。

「この人たちが誰であろうと、どこから来た者であろうと、絶対助ける。それが俺たちの役目だ。」

 山口医師はすぐさま心臓マッサージを始めた。隣のベッドに横たわる三郎は、なすすべもなく、ただ心の中で合掌するだけであった。


 

その頃、永久の荘。

 救急棟の中は、まさに阿鼻叫喚の地獄絵図が広まっていた。廊下でのた打ち回る若い医師や看護師、それを助けようと必死で介護する高齢者。まるでどちらが患者で、どちらがスタッフなのか分からない混乱状態に陥っていた。

その中に、あの北村理事長の姿もあった。

「おい、しっかりしろ。こんな所で死ぬな。」

 理事長は、必死になって倒れた看護師をベッドに運ぶ。

「私も、もとは医者だった。眼科だったがな、腕の方は確かだ。手伝うぞ。」

 入所者の一人が腕まくりをしながら、患者に人口呼吸器を装着する。

「俺も手伝うぞ。年寄りだってバカにするなよ。こう見えても、昔は、相撲部屋にいたこともあるんだ。序の口までだったがな。」

 次々とサポートを申し出る高齢者たちが救命棟の中に溢れた。不思議なことに、新たに感染するのは若い医師や看護師たちばかり。入所者の多くは、軽い咳程度で済んでいる者が多かった。攻守は完全に逆転し、入所者は、障害のある者も含め、危険を顧みず必死で倒れた者を助け起こそうとしていた。

その中に、あの中山健一の姿もあった。三郎の身代わりで電動ベットに飛び乗り廊下を逃げ回った健一は、ついにはセキュリティーに取り押さえられ、すぐさま処置室に運ばれる手はずになっていた。ところが、間一髪、健一が処置室に運ばれた時、そこでは既に大騒ぎの一端が始まっていたのである。

「お、おい、しっかりろ。バカ、死ぬんじゃねえ。こんな年寄りを置いて、先に逝くやつがどこにいるんだ。」

 健一が、一人の若い女性介護士を助け起こした。茜であった。本当だったら、今頃茂樹と二人で手を取り合って、幸せなデートをしていたかもしれない、その茜が今ここでまさに生死の境にいた。

「お、おじいちゃん。も、もし飯野茂樹って介護士を見かけたら、こ、これを、渡し・・・」

「い、飯野茂樹って、ひょ、ひょっとしてシゲ坊のことか。」

健一がそれを聞き出す前にも、虚空を掴んだ茜の手はダラリと床の上に落ちた。健一は静かに茜の身体を床に下ろすと、その手に握られていた小さな携帯電話を取り上げた。茜に向かって合掌する健一の頬にツーっと一筋の涙が流れた。

しかし、健一には、茜の死を悲しんでいる暇はない。感染者の数は次から次へと増えていく。

一方、理事長室に残っていた木田事務局長のもとには、官邸からの連絡が入っていた。

「北村理事長は、今救急救命棟へ出て行かれました。はい、では私が代わってお伺いします。」

 木田事務局長は黙って、電話に聞き入った。時折、ハイを繰り返す以外は、全くの無言で、その表情は次第に固くなっていった。

「はい、委細は承知しました。それまでに全員を病院棟に。了解しました。」

 事務局長は、静かに受話器を置いた。

「予定の変更だ。三時間後に自衛隊の特殊部隊が到着する。それまでに入所者全員を病院棟に移送せよとの指示だ。」

「いよいよ、自衛隊にオペを引き継ぐわけですね。」

 理事の一人が、やれやれという表情で嘆息を漏らした。

「だと、いいが。」

 事務局長は、少し早い自衛隊の派遣指示に一瞬いやな予感がしたが、急ぎ足で部屋を出て行った。


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 東都大学病院、隔離病棟。

 明子と大樹が息を切らして到着した。

「飯野です。夫は、夫は、どこです。それに茂樹は。」

 明子は、普通にベッドの上に横たわる2人の姿を想像していた。しかし、実際は全然違っていた。ガラス張りの部屋にのさらに奥、無菌シートの張られたテントの中に2人の姿はあった。しかも、茂樹の方には今まさに生きるか死ぬかの治療が続けられていた。宇宙服を思わせる防護服を身に着けた医師と看護師が右往左往している。

 明子は、物々しい治療風景に圧倒され、その場で卒倒しそうになった。一体、何が起きているのか、そして三郎の、茂樹の、病気は一体何。大樹に支えられて、やっとのことで廊下のソファに倒れ込んだ明子は、そのままぐったりしてしまった。

 その時。

「山口先生、ウイルス研の詳しい分析結果が出ました。」

 病理担当の検査技師が隔離病棟に駆け込んできた。大慌てで封を切る山口医師。やがて。

「こ、これは、一体・・・」

 通知書に目を通す山口医師の目はこれ以上ないというほどに釣り上がり、紙片を握る両の手がプルプルと小刻みに震え始めた。

「先生、先生、一体、どうされました。」

 周囲にいたスタッフに緊張が走る。山口医師の手は固く、固く閉じられ、通知書は山口医師の手の平の中で次第にしわくちゃになっていった。

「このウイルスはとんでもない代物だ。型式は通常のH5N2型、強毒性の鳥インフルエンザ由来のものだ。だが、問題はその先だ。このウイルスがどうやって人から人へ感染する能力を獲得したかだ。結論から言うと、1960年代後半に大流行した香港風邪のウイルスとの混合亜種だ。」

「そ、それって、どういうことですか。」

「通常、鳥インフルエンザは突然変異でもしない限り、人から人へは感染しない。ところが、こいつは香港風邪のウイルスの中に入り込み、感染力を獲得した。自然界では、通常このようなことは起こりえない。これは、人工的に2つのウイルスのDNAを掛け合わせた亜種、そう、一言で言えば細菌兵器みたいなものだ。」

「せ、細菌兵器ですって。でも、一体、なぜそんなものが。」

 山口医師は、腕組みをして考え込んでしまった。

「確か、二人は永久の荘からの逃げて来たって言ってたな。ということは、今永久の荘で流行しているインフルエンザも同じものっていうことか。」

 治療に当たっていた全員が、その意味するところを推量しようとした。しかし、どう考えてもそれらしき結論に見当が及ばなかった。

「ま、まさか・・・」

 スタッフの一人が呟いたその時、三郎の祈りも空しく、茂樹の心停止を知らせるモニター音が長く悲しく隔離病棟の中に響いた。

「し、しげきーー。」

茂樹の死に顔を見ることも出来ないまま、三郎の目尻からツーと熱いものが流れ落ちた。


その頃。永久の荘のメインゲート。

 次々と自衛隊の車両が到着し、迷彩服に身を包んだ隊員が下りてくる。

「お待ちしておりました。事務局長の木田です。」

「陸上自衛隊小田原駐屯所の一等陸佐、関口です。今から、私の指揮下の者300余名がオペレーションDを開始します。おーい、用意はいいか。すぐにかかれ。」

 その号令とともに、迷彩服姿の男どもがドヤドヤと一斉に輸送車を降りる。皆、一様に防護マスクで顔を覆ってはいたが、手には医療器具らしいものは何一つ持っていなかった。彼らが代わりに携帯していたものは自動小銃と重火器類。

そして、隊員たちは永久の荘の中には入らず、周囲に散開していく。

「よーし、一人も外に出すな。」

関口陸佐の号令が飛ぶ。

「それでは、後はよろしくお願いいたします。」

やけに厳重な装備に一抹の不安を抱きながらも、陸佐に向かって軽く一礼した事務局長は、理事長車に乗り込もうとした。しかし・・。

「事務局長、どこへ行かれるおつもりです。」

関口陸佐が事務局長を呼び止めた。

「どこへって、決まってるだろ。報告のため官邸に向かう。私たちの役目はもう終わった。後は君たちの仕事だろう。」

「いえ、官邸からは、誰一人永久の荘の外に出すなと言われております。たとえ、それが理事長であろうと、事務局長であろうとでもです。」

「えっ、何かの間違いじゃ。当初の話だと、自衛隊に引継ぎすればそれで終わりと聞いている。」

「いえ、オペレーションDに変更になったんです。」

「オ、オペレーションD、だと。」

木田事務局長は何のことかまだ分からないという表情をしてみせた。その直後、関口陸佐の口から、驚愕の言葉が発せられた。

「そうです。南関東「永久の荘」は、パンデミック状態に陥ったと認定されました。よって、二次感染の防止を最優先とし、インフルエンザの治療を一切中止、永久の荘の周囲20kmを完全隔離します。ここへの出入りは一切禁止され、脱出しようとする者があれば、すぐに拘束して病院棟に連れ戻せとの指示です。場合によっては最終手段を取ることも止むなしとの指示です。」

 と言いながら、関口陸佐はそっと腰に付けたモノに手を当てた。

「そ、そんな、バカな。か、官邸は、俺たち全員を見殺しにする気か。」

 事務局長は、天を仰いだままガクリと膝を折った。

「事務局長、申し訳ありませんが、これもわが日本国のためです。この永久の荘で起こったことは全てが不慮の事故によるもの、意図的なウイルスの散布など一切なかった、そういうことです。よろしいですね。」

「く、くそっ。だ、騙したな。」

事務局長は、ほぞをかんだ。これまで何年にもわたって、官邸のために尽くしてきた。時には、人道的に見ておかしいと思うことがあっても、全ては国のためと思い、自分を騙し続けてきた。それが、こんな結果になろうとは。

「さあ、事務局長を早くエントランスまでお送りしろ。」

 関口陸佐の指示で、すぐさま防護マスクに身を包んだ自衛隊員にしっかりと両脇を抱えられた事務局長は、うな垂れたままズルズルとエントランスの方へと引き摺られていった。

「北村理事長、お許しを。やはり、あなたのおっしゃったことが正しかっ・・」

その時、事務局長は大きく背中を震わせて激しく咳き込んだ。その口角からわずかばかりの鮮血が飛び散っていた。


 再び、東都大学病院隔離病棟。

 山口医師が、三郎のベットの脇で真剣に問診を繰り返しいた。

「では、飯野さんは、香港風邪をひかれたご経験が。」

「ええ、中学三年の時でした。その年は早くから大流行だとか言われていて。私も、高校受験の前日に、急に40度近い熱が出まして。お陰で試験はさっぱりで。」

 三郎は苦笑してみせた。

「やはりそうでしたか。」

 山口医師は、そんな三郎の苦笑いを無視するように話を続ける。

「念のため、飯野さんの血液の抗体検査をしてみましたが、香港風邪に対する抗体が残っていたんです。」

「こ、抗体?、ですか。」

 三郎は、そのような医学の専門用語を使われても、よく分からないでいた。

「ええ、つまり、そうですね一言で言えば、飯野さんは一度香港風邪をひかれたので、香港風邪ウイルスに対する抵抗力があったということです。だから、茂樹君と長時間一緒におられてもインフルエンザに感染しなかった。いや実際は感染されていたんですが、症状が軽く済んでしまった、と言った方が正確かもしれません。」

「じ、じゃあ、茂樹は、その抗体とやらがなくて。」

「そうです。その通りです。1980年代以降に生まれた方は、香港風邪を経験していません。だから抗体がない。それで症状が重くなったんです。」

 三郎は、自らの運命を呪った。何で、こんな寝たきりの老いぼれが生き残り、茂樹のような若い前途のある人間が死ななきゃならないんだ。世の中には神も仏もいないのか。再び、三郎の目に涙が溢れた。

「でも、先生、インフルエンザの予防接種って、毎年受けないと効かないって聞きましたけど。」

「よくご存知ですね。確かにインフルエンザの予防接種による抗体は一年ほどしか持ちません。だから、人は一生の間に何度もインフルエンザにかかるんです。でも、今回は違った。なぜか抗体が残ってたんですよ、飯野さんの血液の中に。60年も前にかかったインフルエンザの抗体がです。そして、恐らく永久の荘に入所しておられる多くの高齢者の方々にもね。」

 山口医師の直感は当たっていた。永久の荘に散布されたインフルエンザウイルスは、官邸の意図とは反対に多くの高齢者を残したまま、若い研修医や看護師の命ばかりを次々と奪っていったのである。


 そして、その10時間後、ついに長かった冬の夜に夜明けを告げる第一鐘が全国に向けて打ち鳴らされた。

「つい先程入ったニュースです。東都大学病院ウイルス研究所からの報告によりますと、いま永久の荘で大流行しているインフルエンザは、H5N2型の鳥インフルエンザウィルスと1960年代後半に大流行した香港風邪のウイルスとを掛け合わせた混合亜種である可能性が高いことが判明しました。研究所の話では、この型のウイルスは自然界で発生する可能性はほとんどなく、何らかの意図をもって人工的にDNAを操作して合成されたものと見られています。

関係者の話によりますと、このウイルスは一昨日南伊豆の永久の荘から抜け出してきたと思われる入所者と介護士の血液から採取されたもので、強毒性であると同時に、人から人に感染する能力を備えていることが、正式に確認されました。東都大学病院では、この2人を完全隔離下に置いて治療を進めているとのことですが、先程1人の死亡が確認されました。

南伊豆「永久の荘」は、既に自衛隊により完全隔離されており、全国的な感染拡大の可能性はないとのことですが、今回の事態を重く見たWHO(世界保健機関)は、既に特別査察チームの派遣を決定しており、感染源の特定と新型ウイルス発生の原因究明が急がれます。」

 この瞬間、何百万、いや何千万という国民が、ある者は家の居間で、ある者は街の通りで、そしある者は車の中で、この玉音放送に聞き入った。誰もが、何かおかしいと感じつつも、仕方のないこととして黙認し、当たり前のように続けられてきた後期高齢者収容施設「永久の荘」は、いま音を立てて瓦解し始めた。

 興奮気味のキャスターは少し上ずった声で、最後通告の記事を一気に読み上げた。

「さらに、東都大学病院の話によりますと、この永久の荘から脱出してきた入所者は、末期の肝臓ガンで余命が少ないとの診断を受けて入所していたにもかかわらず、実際にはガンにかかったような形跡はなく、脳梗塞の後遺症を除けばいたって健康であったということが判明しました。

 東都大学病院では、永久の荘への入所を巡り何か不適切な処理が行われていたのではないかと見て、WHOの査察チームと協力してさらに調査を進めるとしています。」

 まさに、アリの一穴。たった一人の脱走者が開いた穴から、怒涛のごとく水しぶきが上がり始めた。もはや何者もこの流れを押しとどめることは出来ない。政府自らが累々と築き上げてきたはずの地上の楽園が、一夜にして21世紀のアウシュビッツと化す時がやってきた。

 翌日の各紙朝刊の一面トップには、これ以上ない特大の活字が躍動した。

『大泉内閣総退陣、「永久の荘」大疑獄』

『人道主義の勝利、「永久の荘」に国際司直の手』

『ウソに塗り固められた楽園「永久の荘」、崩壊す』



エピローグ


1ヵ月後、調査を終えたWHOから正式にインフルエンザ終息宣言が出され、永久の荘のゲートが開かれた。梅雨明け間近の雲間から、一条の陽光が差し込み、永久の荘全体を優しく包み込んだ。その中を一人、また一人と、ある者は自力で、ある者は車椅子に乗り、そしてある者は介護士の肩を借りながら、ゲートの外へと歩み出す。

「おじいちゃん、ありがとう。このご恩は一生忘れないよ。」

「よかったなー。元気になって。これからも頑張れよ。」

 入所者も、スタッフも、皆抱き合って喜びをかみ締め、青空に向かって歓喜の一声をあげた。

そんな中に、やつれ果てた北村理事長の姿もあった。いや今ではもう理事長という肩書きもなくなり、一老スタッフとして、感慨深げに永久の荘の建物を見上げていた。その口に言葉はなく、無言のまま深々と黙礼した。 

「サブ、ついに終わったよ。元気にしてるか。早く会いてえなあ。」

 中山健一の声がした。結局、健一にもインフルエンザの発症はなく、無事にこの日を迎えた。健一は、手に握り締めた茜の携帯電話を繁々と見つめ直した。茂樹が死んだことをまだ知らない健一は、どうやって茜のことを茂樹に伝えればいいのか考えあぐねていた。


今回のインフルエンザ感染による死亡者数は、最終的に入所者150名に対し、スタッフ635名と報告された。あの山口医師の推測どおり、入所者の多くは香港風邪に感染した経験があった。これに対し、スタッフの方は予防接種を受けていたにもかかわらず、不思議なことに抗体が形成されていなかった。そのために多くの犠牲者を出すこととなってしまった。

WHO特別査察チームの厳正な調査の結果、永久の荘に散布されたウイルスは、防衛大学生物・化学兵器研究所で人工的に合成されたものであったことが判明した。人工的にウイルスを合成したために、抗体形成過程において何らかのアノマリーが発生し、ワクチンの効かない新型ウイルスを発生させた可能性が指摘された。

一方、「甲種適格」で入所を強いられた高齢者のうち、かなりの数の者の健康診断書が捏造されていたことも明らかにされた。事態を重く見た国連安全保障理事会事務局は、正式に国際刑事裁判手続きを要請し、「永久の荘」事件に関った多くの関係者が司直の手によって裁かれる見通しとなった。

歴史は繰り返す。20世紀前半、かの太平洋戦争で死亡した日本人の数は300万人に上ったと言われている。誰もが何かがおかしいと感じながら、国のため、民族のためという美名の下、大量虐殺や玉砕が繰り返された。

そして今日、全国の「永久の荘」で命を縮められた高齢者の数は150万人にも上ると推定された。日本国がそして日本民族が生き残るためには仕方のないこととして諦め、誰もが何かがおかしいと感じつつも、目を塞ぎ、耳を塞ぎ、そして口も塞いでしまった。「UBASUTE(姥捨て)」、この飽食の時代には絶対ありえないと思われたことが、現実に起きてしまったのである。

こうして、「永久の荘」は、日本の歴史の1ページに新たな汚点を残すことになった。


一週間後、飯野家。

今日は、亡き茂樹の49日の法要の日であった。仏間には、白い菊の花に飾られた茂樹の遺影が掲げられ、位牌はしっかりと明子の手に握られていた。

「見てくれ、茂樹。お前のお陰で、こんなに動くようになったよ。」

三郎は、ベッドの上から茂樹の遺影に向かって、静かにつぶやいた。そんな、三郎の身体にも奇跡が起こり始めていた。それまでピクリとも動かなかった右足が、例の逃避行の後わずかずつではあるが動き始めたのである。三郎は、茂樹の遺影にも見えるように右足の足首を上げてグルグルと回して見せた。医者からも、この調子であればリハビリも可能かもしれないというお墨付きも出た。

「親父、よかったな。いつまでも元気で長生きしろよ。」

 仏壇の奥から、茂樹の声が聞こえたような気がした。三郎の目尻に光るものがあった。

「茂樹、許してくれ。あんなひどいことを言ってしまって。ホントはお前が一番親父思いだったのかもしれないなー。俺たちが間違ってたよ。人の命とお金を天秤にかけてしまった。やっぱり、人の命はお金には換えられない。お前は身をもってそのことを教えてくれたんだ。ホントに済まない。」

 大樹は、静かに仏壇に向かって手を合わせた。位牌を握る明子の手も微かに震えていた。飯野家の人々は改めて家族の一人を失った悲しみを噛み締めていた。


 その時、玄関に声がした。

「おーい、サブ。いるか。」

「そ、その声は、ひょっとしてケンか。ケン、ケン、ホントにおめえなのか。」

 三郎の頬に朱がさした。永久の荘であのような別れ方をして後、三郎は何度も後悔していた。自分の診断書が偽物だったことを知らせるために命を張って永久の荘に入り、そしてまた自分の身代わりになって電動ベットにも乗り移った。常人に出来るようなことではなかった。

てっきり戦死したとばかり思っていた、その健一が生きて戻ったのである。三郎は、ベッドから転げ落ちそうになりながら右手を大きく玄関の方に向けて伸ばした。

 程なく、中山健一の顔がひょいとドアの隙間から覗いた。

「やっばり、ケンだ。ホントにケンだ。おめえ生きてたんだ。」

「ああ、俺だ。ほら、ちゃーんと足も二本ついてるぜ。」

 健一は、クルリと身体を一回りさせて、おどけて見せた。しかし、そんな健一もすぐにその場の空気を察した。何かが足りないような気がしたからである。やがて、ゆっくりと仏壇の方に目を向けた健一の目の動きが止まった。

「シ、シゲ坊。おめえ、どうしてそんなとこに。ま、まさか。」

「そうだ。永久の荘を抜け出して2日後のことだっだ。例のインフルエンザで。」

 三郎が事情を説明する。

「そ、そうか。そうだったのか。知らなかった。」

 茫然自失。健一は、ヘナヘナとその場にへたり込んでしまった。最後に見た時はあんなに元気だったのに、それがわずかその2日後に。健一は、ゆっくりと仏壇の前で手を合わせると、徐に例のもの取り出し、ゆっくりと茂樹の遺影の前に置いた。

「そ、それは?」

「茜っていう女の子から預かったものだ。シゲ坊に渡してくれって。」

 三郎はすぐに思い出した。あの永久の荘の廊下、リネンカートの中で聞いた茂樹と茜の会話、「明日の夜、いつものところで。」という約束の言葉が、茂樹と茜の交わした最後の言葉となった。明子は、そっと携帯を取り上げると、三郎の右手に握らせた。

三郎は、ゆっくりと電源をオンにすると、メールの受信記録を開いた。何百通とある着信記録のほとんどが茂樹からのものであった。「茜、元気か今日は何食べた?」、「茜、明日、いつものところで会おう(^o^)」、「茜、・・、」、いつも『茜』で始まるそのメールは日に何通もやり取りされていた。

飯野家の人々は、代わる代わる携帯を回しては、今は亡き茂樹の微笑む顔を瞼の裏に思い浮かべてみた。

「茂樹、よほど好きだったんだね。この茜って子が。」

 明子は茂樹の遺影を見上げて、そっと目頭を押さえた。メールは茂樹が亡くなる2日前、あの永久の荘を脱出した日で終わっていた。その最後のメッセージは。

『茜、今度のことが終わったら、結婚しよう』

 明子は、携帯のフタを開けたまま、茂樹にも見えるように遺影の方に向けて置くと、再び深々と合掌した。


「ケン、お前には二度も命助けられたなあ。」

 その時、三郎が思い出したかのように感慨深げに健一に話しかけた。

「二度もか?」

「ああ、一度はついこの前、永久の荘で。俺の身代わりに電動ベットに乗って。あれがなかったら、いま俺はここにいなかった。」

「ああ、あのことか。もう済んだことだ。いいってことよ。でもあとの一回ってえのは?」

 健一は、何のことか分からないという素振りで天井を仰いだ。

「もう一回は、60年前のあの冬の日のことさ。俺に香港風邪うつしてくれただろう。あのお陰で免疫が出来て、今回死なずに済んだ。もし風邪がうつってなかったら、今頃は・・」

「バカ言え。うつしたのはおめえの方だろうが。」

「いや、高校受験の前の日だったからハッキリ覚えてるさ。この野郎、風邪うつしやがったなって。お陰でこちとら試験はさっぱりで。」

「何言うか、こいつ。そりゃあ、おめえのおつむのせいだろうが。このバカ。」

 2人の言い争う声に混じって、飯野の家に久しぶりに賑やかな笑いの声が響いた。 (了)

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UBASUTE ツジセイゴウ @tsujiseigou

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