琥珀を抱いて

淡島ほたる

琥珀を抱いて

貴和きわさん、おれね、貴和さんのこと、すきなんですよ」

 葉山ゆずるにそう打ち明けられたのは、二年前の秋のことだ。いや、打ち明けられた、などという深刻なものではなかった。いつものようにへらりと笑って、「これからメシ行きましょうよ」みたいな口ぶりで、あいつは言った。


 コンビニからこぼれる煌々とした灯り、道端で風に揺れるすすきの群れ、塗装の剥げたガードレール、木の植え込みに棄てられた弁当殻。生ぬるい風が吹いて、さっき飲んだばかりのビールが恋しくなった。ずいぶん酔っていた俺は、ろうそくの火の揺らめきみたいな葉山の告白になんの疑問も持たず、「おう。ありがとな」と屈託なく笑って返した。思えばそれが間違いだったのだ。



 その翌日から、葉山の変わりようはすさまじかった。昼夜問わず俺のデスクにやって来ては「それ僕がやりますよ」「それも」「これシュレッダーかけときますね」「あした空いてます? ストリップみにいきましょうよ」「コーヒーいれますよ」「胸ポケットに隠し持ってる煙草もらっていいですか?」「貴和せんぱい、恋人いないですよね? 生涯独身決定ですよね? あっこれセクハラですか?」などなど、わかりやすいアピールが始まった。ストリップに関してはもはや意味が分からず混乱したが、とにかく、恋に恋する乙女のような態度がみうけられた。ちなみにストリップには行かなかった。



「おれねえ、だから、貴和さんのことすきだから、離れなきゃ、とも思うわけですよ」


 そう言われたのが一年前だ。

 そうだ、一年前。食堂で昼飯を食っていたときに、唐突に言われた。「離れる」だなんて、付き合っているわけでもないのにおかしな話だ。ましてや俺の恋愛対象は異性であって、男ではない。またもや理解は困難をきわめたので、俺はきつねうどんのきつねを箸でつまみながら、「ほう」とだけ返した。だいたい葉山はいつだって、前後の説明がなさすぎる。ぱっとあらわれて、瞬く間に消えてしまう。あのときだってそうだ。さらりと告白されて、なにもなかった。

 そしていま、消えようとしている。いよいよといった風情で、葉山は俺にとどめを刺してきた。


「おれねえ、あと一年したら、ある星に行きます。貴和さんはここで、ちゃんといろんなものを人に広めてくださいよ。おれ、貴和さんの考える広告、すきなんですから」


 そう言って葉山は、窓から吹く秋風で落っこちた企画書を大事そうに拾い上げた。さっきの会議で提案したものの、あっさり没になってしまったキャッチコピーだ。

 ぺらぺらの紙を見つめる葉山の眼は、真っすぐだった。

「……広告がなんになるっていうんだ。こんなことしても、葉山はいなくなるのに、そんなもん考えて、なんになる」

 

 俺は意外と涙もろいようだった。

 三十五の男が、めそめそ泣いた。三十の男が、一年後に惑星へ飛び立つというほとんど嘘みたいな話で。俺が鼻をかむのを見ながら、涙腺がゆるくなってるんですよ、と葉山はにこにこ笑った。

「うるせえ、だれのせいだと思ってんだ」

 俺は葉山に丸めた塵紙を投げつけた。食堂の窓ガラスから降りそそぐ光が、涙でぼやけた世界のなかで、ひたすらに眩しかった。




 そして、一年後。大安。葉山は今夜、例の惑星に戻るらしい。

「おまえさ、ほんとうに行く気か? ほんとにそんな星が存在するのか? かぐや姫じゃあないんだからさ」

 荷物をまとめる葉山を見下ろして、俺はそう言った。俺の家に、こいつは一年前からずっと棲みついていた。「冥土の土産に、ひとつよろしくお願いしますよ」などと笑って。

 葉山はよく花や雑貨を買ってきては、俺の寝室に置いたりしていた。雑貨といっても、洒落たものではなかった。沖縄でつくられた木彫りのくまの置物、ギターを抱えたピエロのぬいぐるみ、ブロッコリー柄のテーブルクロス。ずれているのだ、こいつは。瓶に生けてある花はかすみ草の周期ばかりが早かったから、好きだったのかもしれない。加えてこいつは意外ときれいずきで、休みの日なんかは一緒に掃除させられた。おかげでここは、ずいぶんと過ごしやすくなった。その家を、すみなれたこの家を、こいつは出やがるという。


「もちろん行きますよお。おれってまあまあ、そういう人間でしょ? むこうみずっていうか、ほら、ね。そういう傾向があるでしょう。貴和さんならわかるでしょ」

 俺は「バカ」と煙草をふかしながら言った。へへへ、と鼻の頭を掻いて笑うこいつを、俺はけっこう寄る辺にしていたのだなと気づいてしまった。あっ煙が目に入った、とわかりやすい嘘をつきながら、俺はこっそり泣いた。やはり涙もろいのだ、俺は。


「もうすこしなんです。もうすこしでこの身体とはおさらばだから、宇宙葬にしてもらおうと思うんです」

「おさらばって、なんだよ。おまえはいつもそうやって、唐突だけどさ」

「俺は、ね。貴和さんが眠ったあと、ネオンの光を浴びるために夜の街に繰り出して、空き地に寝ころんだりしていたんです。猫の集会についていって職質されかけたこともあったし、女性に間違えられて露出狂に遭ったこともありました」

 絶句してしまった。

「何もかもおかしいけどさ、最初のは、なんだそれ。光合成的なもん?」

「そう。さすが貴和さん。光合成的なもんですよ」


 夜。最後の晩餐にと食糧を買い込んで、俺たちはあの秋の夜のような雑多な鍋をつくった。葉山は首まである白いセーターを着ていた。湯気の立つ土鍋から豆腐をよそって、はなうたなぞを歌って、たのしそうだった。もうもうと目眩ましのように漂う湯気の中で、目の前にいる男は、いままでの葉山となんら変わりなく見えた。


「まあまあ貴和さん、きいてくださいよ。ひとってね、死ぬ前は意外と興奮するものなんですよ。おれ、ちょっとわくわくしてるんです、いま。貴和さんが思ってるよりも、こわくないんですよ」

 葉山は小ぶりな包丁をつかむと、持っていたレモンをためらいなくまっぷたつにした。瑞々しくさわやかな黄色があらわれる。

「これ、かじってみてください」

「はあ? これを?」

「いいから。騙されたと思って。て、よく言いますけど、あれひどいですよね。騙されることがほとんどじゃないですか。ていうか大抵? 九分九厘? まあ今日は、おれの寿命に免じて騙されてください。ほらほら」


 葉山の熱烈な口上に負けて、俺は仕方なくレモンをかじった。なにが悲しくてこんなことを。予想通り、レモンは舌の上で純度百パーセントの酸味だけを残して終わった。


「騙されたでしょ」

「いま貴和さんはちょっとだけ、おれがいなくなることを忘れて、いいかんじにレモンのことだけ考えたでしょう。そーやって、生きてくださいよ。だいたい、あなたはいつもまじめだから」

「だいたい、おまえはいつも唐突すぎるんだ」

「おれはそういう人間ですから」



 宣言どおり葉山は消えた。すうすうと、夜空の彼方へ飛んで行ってしまった。


「元気でいろよ!」


 見送りながら、葉山は秋風だったのかもしれない、と思う。貴和さんもね、と葉山は笑う。夜風が、きりなく、俺と葉山に吹きつづけている。

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琥珀を抱いて 淡島ほたる @yoimachi

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