あなたと指先3センチ

花岡 柊

あなたと指先3センチ

 社内でチームを組み行っていた企画が成功した。その成功を祝して、とは名ばかりのただお酒が好きな人たちが集まった飲み会は、十名ほどの人数で先ほどから随分と盛り上がっていた。

 会社近くの気軽に入れる洋風居酒屋。奥の広い堀炬燵の部屋を借りてくれたのは、幹事をしてくれた恵子ちゃんだ。彼女は私の二つ下にあたる後輩で、何かと雑用を押し付けられる不器用ちゃんだ。今回の飲み会も、きっと体育会系のノリで西條君あたりから言われてやることになったのだろう。

 人のいい恵子ちゃんは、断り方がへたくそだ。ふわふわっとした話し方は男性受けがいいけれど、そのお陰で余計なことまで頼まれてしまう。

 たまに助け舟を出してあげるのだけれど、それもその時にしか効果はなくて、結局のところは自分で何とかしていくスキルを身に着けるしかない。

 そんな恵子ちゃんの座るそばには、お酒を飲むととにかく面倒臭くなる西條君が座っていた。

あんなところに座っていたら、絡んでくださいと言っているようなものなのに、大丈夫だろうか……。

 そんな私は、西條君からは対極にあたる端の離れた席に座っている。右隣の席には、大人しい雰囲気の本田君。目の前には、社内で仲良くしているさっちゃんと、さっちゃんの隣には丸山君が座っていた。

 示し合わせたように、私たちはなるべく西條君から離れた席を陣取っていた。みんな過去に西條君から絡まれて、少なからず面倒を被っていたからだ。

 例えば、散々酔って家にまで押しかけられてしまい、翌朝まで寝かせてもらえなかった本田君。

 カラオケに行ったときに何度もしつこく同じ曲を歌わされるという、地獄のエンドレスに陥ったさっちゃん。

 飲んでる最中、ずっと同じ内容の説教をされて、飽き始めて欠伸を我慢していたら逆切れされたという丸山君。

 そして私は、嫌いなビールを何杯も飲まされた挙句、いきなり抱きつかれるというセクハラな状況にあったんだ。あの時は、さすがに驚いて、みんなの手も借りつつ思いっきり突き飛ばしたのだけれど、勢いでうしろの壁に頭を打ち付けた当の本人は、翌日にすっかりそのことを忘れているという納得しがたい事件だった。

 因みに、西條君は中学から高校まで柔道をしていたので無駄に力が強くて、抱きついてきた体を引き離すのに、さっちゃんや丸山君も手助けしてくれたんだよね。あれは、本当に最悪の出来事だった。

 真ん中辺りの席には、チームを引っ張ってくれていた、私がずっと憧れている藍田先輩や、その同期の人が座り、落ち着いた雰囲気で談笑している。

 藍田先輩とは、私が今の部署に移ってからの知り合いだった。新しい内容の仕事に慣れない私を何かと気にかけてくれて、いつも助けてくれるとても頼りがいのある先輩だ。

 すらりと背が高くて、いつも背筋をピッと張っている姿は嫌味なく自信に満ち溢れていて。頭の回転が速く、何通りもの答えを常に用意しているような人だ。普段は真面目な顔ばかりしているのだけれど、時折ふっと気を抜いた瞬間の笑顔は、私の大好きな顔だった。

 部署に異動して半年ほど経ち、仕事内容にも慣れた私が出した企画を先輩が褒めてくれたときは、本当に嬉しかったな。

 あの頃のことを思い出しながら、仲間と笑いあいお酒を飲む藍田先輩の横顔を眺めていたら、目の前から視線を感じた。

 さっちゃんがニコニコと私を見ている。

「乙女の顔になってるよ」

 さっちゃんが私をからかう。隣では、丸山君もなんだか笑顔だ。

 恥ずかしさを誤魔化すために、苦手なビールを喉に流し込んだ。苦みと炭酸が、喉を刺激しながらお腹へと落ちていく。

「西條君に抱きつかれた時あったじゃない? あのあと、西條君がどうなったか知ってる?」

 さっちゃんが意味深な訊ね方をする。

「壁に頭を打って……」

「直後じゃなくて。飲み会の翌日だよ」

「翌日? 何かあったの?」

 その時の記憶を辿ってみたけれど、何のことなのかさっぱりだった。

「榊さん。知らないの?」

 隣の本田君が少し驚いた顔を向けてきた。

「俺も知ってるよ」

 丸山君まで。

「えっと。なんだろ……?」

 自分だけ何も知らないことに、よく解らない不安に苛まれてちょっと頬が引き攣る。

 目の前のさっちゃんが私とは対照的に、どうしてだか含み笑いを浮かべていた。

「藍田先輩がね、西條君のことを呼び出して、やり過ぎだって叱ったんだよ。当の西條君は全く記憶がないから、叱られてもなんだかよく解ってなかったみたいだけどね」

 さっちゃんは、呆れて肩を竦める。

「脈ありじゃね?」

 さっちゃんの隣で丸山君がニヤニヤと茶化す。

 私は恥ずかしさと嬉しさに、またグラスを手にしたのだけれど、さっきの苦みがよみがえって口にするのをやめた。

 そんなことがあったなんて、少しも知らなかったな。

 先輩が西條君に、そんなことを……。嬉しい。

 もう一度藍田先輩へ視線をやれば、好きな気持ちが益々膨らんで、どうしようもなく胸がいっぱいになってきた。

「見つめ過ぎじゃないのぉ」

 さっちゃんがまたからかうから、「やめてよぉ~」と笑い飛ばす。

 付き合いで頼んだ、最初の一杯のビールを飲み切る気にならず、さっちゃんたちとテーブルにある料理を食べながら、今回の企画が成功したことを話して盛り上がる。

 次も一緒にチームを組めたらいいね、何て言ったところで、向こう側の席が騒がしくなってきた。どうやら、西條君の悪い癖が始まってしまったようで、恵子ちゃんに絡み始めていた。

「あーあ。恵子ちゃん、西條君に捕まっちゃったよ」

 丸山君が眉根を下げる。

 西條君は恵子ちゃんを隣に座らせ、アルコールにトロンとした目をしているわりには、下から掬い上げるような厳しい視線を向け説教を始めていた。

「西條君、何杯飲んだんだろうね?」

 さっちゃんが心配そうに恵子ちゃんを見ている。丸山君と本田君も、飽きれたような困った表情で恵子ちゃんと西條君の方を見ていた。

「お酒の席だとはいえ、西條君の酒癖は悪すぎるよ」

 丸山君が呆れたように零している。

 少し離れた西條君のそばでは、恵子ちゃんが俯き加減で、「はい。はい」と何度も誠実に返事をしていた。ここで真面目に返事をしないと、西條君が荒れるのを流石の恵子ちゃんも知っているからだ。

「ちょっと……、助けに行ってこようかな」

 立ち上がろうと、私は目の前にあったグラスを引っ掛けないよう奥にやる。

「やめておいた方がいいよ」

 さっちゃんが心配そうに私を止める。

「けど……。あのままじゃ、恵子ちゃんがかわいそうだよ」

 心配するさっちゃんに笑顔を向け、掘り炬燵から足を出して立ち上がろうとしたところで、真ん中辺りに座って飲んでいた藍田先輩がスッと立ち上がり西條君のそばに行った。

 先輩は、西條君のそばにあるビールのグラスを遠ざけ、店員さんにお水を貰っている。

「西條、その辺にしとけよ。酒の席での説教なんて、たちが悪いからな」

 届いたお水のグラスを、先輩が西條君に握らせる。

 笑いながら言っているけど、藍田先輩の目は笑っていない。

 あれって、結構本気で言ってるよね。

 藍田先輩の厳しい視線に、私まで背筋が伸びる。

 三つ上の藍田先輩には、西條君も当然頭が上がらない。酔っていながらもぺこぺこと頭を下げて、西條君は恵子ちゃんから離れていった。

 めでたし、めでたし。

 助け舟が必要なくなって座りなおし、私は再びグラスを手にした。半分残ったビールはすっかりぬるくなっていて、更に飲む気がなくなり、別のものを頼むことにした。

 恵子ちゃんのことが落ち着いてドリンクメニューを手にしたところで、隣の本田君がトイレに立ち上がる。目の前のさっちゃんと丸山君は、何やら楽しそうにおしゃべりに夢中だ。

 この二人、もしかして……。

 ふふ、何て緩む頬を隠すようにドリンクメニューを顔のところまで持ち上げる。

 サワーやカクテルが写真付きで並ぶのを見ながら、ワインのページで手を止めた。

「サングリア、美味しそう」

 デキャンタに数種類のフルーツが漬け込まれたワインの写真は、とても魅力的だ。でも――――。

 ドリンクメニューを開きながら、店員さんに手を挙げる。

「あの、このサングリアって、グラスでも頼めますか?」

 一人でデキャンタは、さすがに飲み切れない。男性陣はみんなビールを好む人たちばかりだし、さっちゃんはさっきカクテルを頼んだばかりだった。だから、グラスで頼めるならと思ったのだけれど……。

「申し訳ありません。そちらはデキャンタのみとなります」

 そっか……。残念だけど、他のにしよっかな。

 別なものに変更しようとメニューに視線を戻したら、右隣の席が埋まった。丸山君が戻ってきたのかと、気にも留めずにドリンクを考えていると、隣からすかさず注文する声がした。

「サングリアをデキャンタでお願いします」

「……え?!」

 私が考えているすぐそばで、突然注文を引き継いだのは、なんとさっき恵子ちゃんを助けた藍田先輩だった。

 丸山君だと思っていたから、気がついた瞬間、私の心臓が急激に跳ね上がり、心拍数が早くなる。

 驚いて、言葉もないまま藍田先輩を見てしまった。

「飲みたいんだろ? 俺も一緒に飲むから、心配すんな」

 言葉もなく、私はコクコクと頷きを返した。

 間も無く届いたデキャンタとワイングラス二つが、私と藍田先輩の前に置かれた。

 空のグラスに真紅のワインを注ぐと、フルーツの爽やかでほんのり甘い香りがしてきた。

「お疲れ」

 藍田先輩が私のグラスにカチリと当てる。

「お疲れ様です」

 サングリアを口にすると、思ったほど甘すぎず、フルーツの香りが後を引いた。

「おいし」

 サングリアに向かってぽそりと零すと、隣では先輩が右手にグラスを持って私を見ていた。

「さっき、助けようとしてただろ?」

 ……え?

「榊は、気の利くお節介だからな」

 藍田先輩は、そう言って笑う。先輩の左手は床についていて、私の右手も床についていた。少しだけ離れた指と指の先。

あと少しが遠いな……。これは、憧れの距離かな。

「西條君、酔うとしつこいから」

 控えめに言って私が笑うと、藍田先輩も笑う。

「けど、助けに行ってたら、今度は榊がまたターゲットになってたんじゃないか? 前の時、結構ひどかっただろ、アイツ」

 首を僅かに傾げて瞳をのぞき込まれると、苦笑いが浮かんでしまった。

 でも、恵子ちゃんの辛そうな顔を見ていたら、放っておけなくなっちゃったんだよね。前の飲み会で絡まれて散々な目にあったのに、私も学習能力がないな。

 肩を竦めてグラスに口をつける。先輩も同じくグラスに口をつける。

 場は盛り上がり、西條君は他の同期と何やら楽しそうにしていて周囲に被害はなし。恵子ちゃんも自分のペースを取り戻して、他の子たちと盛り上がっている。よかった、よかった。

 指先の距離は、変わらない。すらりと伸びた先輩の指が、私の小さな手に届く日は来るのかな。

 あと少しの三センチ。先輩との距離は、近くて遠い。

「榊は、ワインが好きなんだな」

「え?」

 床についた互いの手に気を取られていたら、先輩に笑顔を向けられて我に返った。

「前の飲み会の時も、飲んでなかったっけ? ワイン」

 私が何を飲んでいたかなんて、憶えてくれてたの?

 確かに、西條君に絡まれた時は、さっちゃんとグラスワインを頼んで飲んでいた。

 ほんの些細なことなのに、嬉しくなって頬が緩んでしまう。先輩から気にかけて貰ったこんな小さなことが、私を幸せな気持ちにしてくれる。

 周囲のことをよく見て気遣いのできる先輩のことだから、たまたま記憶の隅にあっただけのことだと思っても、特別に感じてしまうのは私の気持ちが想いでいっぱいだからだろう。

 それでも、素直に嬉しい。

「みんなは、たいていビールですよね。でも、私あまり得意じゃないので、お付き合いで最初の一杯だけにしてるんです」

「得意じゃないのに、一杯目付き合うとか律儀だな」

 先輩だって、私のサングリアに付き合ってくれてる。嬉しいけど。

 藍田先輩との他愛もない話が私の心を弾ませる。

 普段仕事のことでしかあまり話す機会もないけれど、ずっと目で追ってしまう人。私の好きな人。

 そんな先輩と隣り合わせで飲めるなんて、今日のこの時が夢みたいだな。

「このチーム、纏まりがあってよかったですよね。また、このメンバーで仕事ができたら、いいな」

「やる気の塊みたいなのが集まってるからな。西條も、飲むとあんなだけど、仕事には誠実だし、忍耐力もある」

「そうですよね」

「榊だって、そうだよ。細かい作業も間違いなくしっかりやってくれるから、安心して任せられるよ」

 先輩に褒められて、嬉しさに頬が熱くなる。単純だな、私。

「また何か俺が企画を立ち上げた時には、榊も引っ張り込むから、よろしくな」

「もちろんです」

 デキャンタのワインが半分より少なくなった頃、先輩との距離が少しだけ近くなった気がして、勢いがついて来た。

 普段ならこんな事、絶対言わないし、言えないのだけれど――――。

「藍田先輩は、素敵ですよね。仕事もできるし、人望もあるし。さっき恵子ちゃんを助けたみたいに、気遣いもあって」

「どした。そんなに褒められても、なんも出ないけど」

 先輩がクシャリと目を細めて笑う。

 ああ、私この笑顔大好きなんだよね。

 先輩って時々無防備な顔で笑う時があって、その瞬間に出会うとすごく幸せな気持ちになる。

「幸せそうな顔してんな」

 先輩が笑って、グラスにワインを継ぎ足してくれた。

「先輩のおかげです」

「俺?」

 私はクスクス笑いながら、左手でグラスに触れる。

 床についた右手は、同じく床についた先輩の左手とやっぱり三センチの距離。

 あと少しが、どうしても遠い……。

 指先を少しだけ伸ばせば届くけど、そんな勇気はない。

 ううん。酔いに任せて少しだけ……。

 指先の距離をほんの少し近づけようとしたところで、先輩が話しかけて来た。

「榊が笑うと、なんかこっちまで釣られて笑っちゃうよ」

 牽制されたみたいにかけられた声に、違うドキドキが加わって、顔から火が出そうになる。

 何やってんの、私。

 動かそうとしていた三センチの距離は縮まらず……。

「えぇー。私、変な顔でもしてますか?」

 平気なフリでおどけた声を上げ、変に舞い上がる気持ちを誤魔化した。

「そうじゃなくて」

 言って先輩が私の目を真っ直ぐに見てくるから、今度は違う意味で舞い上がる。

 さっきから感情がない交ぜで、クラクラして来ちゃうよ。

 どうしよう。先輩からこんな至近距離で見られたら、心臓がどうにかなってしまいそう。

「榊は、可愛いよ」

 ……え?

 一瞬、心臓が止まったかと思った。

 聞き間違い? ……じゃない?

 ドクドクと血液が顔に集まってくる。

「先輩、酔って――――」

 ませんか――――?

 けれど、言葉が最後まで口から出なかった。

 離れた席では、西條君がご機嫌に酔っている。

「藍田センパーイ。何小洒落たもの飲んでんですかー!」

 西條君が大きな声で言って、先輩に笑いながら絡み始めた。絡まれた先輩は、グラスを右手に持ち上げて、「うまいぞ、これ」なんて言ってまたクシャリと笑うんだ。

 私は隣で、もうどうにかなりそうなくらい心臓が早鐘を打っていた。

 だって、三センチの距離がゼロになっている。

 先輩の手が、私の手に重なっている。

 先輩の長い指が、私の手をそっと握るように重なってる。

 西條君のおどけた笑い声も。恵子ちゃんたちの控えめな笑い声も。周囲の話し声も、全部が吹き飛ぶくらい自分の心音が耳のそばで聞こえるくらい鳴っていた。

 驚く私は、先輩を見たまま目を逸らせない。

「西條、お前飲みすぎだよ」

 西條君に言ってケタケタと笑ったあとに、「な」って私の顔を覗き込む先輩に、私はただコクコクと赤い顔で頷いた――――。

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