最終話 冬のある日

「契約したからには、俺から食事を引き出したい。それは理解できる。分からないのは、なんで他の人間と契約し直さないか、だ」

「…………」


 契約破棄の方法を、俺に知られるのが嫌だから――一見もっともなこの推測も、ラルサが記憶を食べてしまえることを勘案すると説得力に欠ける。知られたところで、消してしまえばいい。

 黒羊は赤眼を見開いたまま、話の続きを待つ。


「解約の仕方を知られて困る理由は、二つ。一つは、解除後に“消す”のは面倒だから」

「……自力で考察したなら、大したものだ。思ったより馬鹿ではないようだな」


 これは、もう正解だと言ったようなものだ。

 荒俣彦々の第三版は羊が消して回ったせいで幻と化したが、徹底できていないため奈々崎さんに掘り起こされてしまった。


 契約者以外の記憶やネットの記載ですら消せるものの、相当に困難なのは間違いない。最近は、簡単に情報を公衆へ撒き散らせるので、羊も気が気ではないだろう。

 加えて、俺が予想した理由はもう一つある。


「契約者の記憶を消すのも、完璧じゃない。忘れない可能性がある、違うかい?」

「訂正しよう。オマエはさかしいよ、他の連中よりな」


“思い出したの?”、これは『あなたの知らない二百万字の世界』を食わせた時の感想だ。思い出す可能性があるからこそ、ラルサはこう尋ねた。


 リセットが不完全なら、契約の解除方法も記憶の片隅に残り得る。そうなれば、第二、第三の荒俣が生まれてしまい、ラルサには頭の痛い事態であろう。


「俺とキミは対等だ。脅しなら、こっちもできる。契約破棄の方法をネットに書き込むよ」

「人の子よ、いくつか勘違いしているようだな」


 暗かった部屋に、ぼんやりと赤みが差す。


「確かに、人の記憶は厄介だ。完全に抹消したと思っても、鍋にこびりついた焦げのように、残滓が後になって顔を出す」

「ボクの創作なのに、“山田”はかすかに覚えていた――」

「シャケだ」

「え、なに?」


 いきなり出た雰囲気にそぐわない単語に、素で聞き返した。忌ま忌ましいと吐き捨てるように、ラルサはシャケを連呼する。


「何を書かせても魚、それもシャケばかり。何度、シャケを題材にした? シャケ、シャケ、サーモン。他は綺麗に消えたのに、シャケだけが貴様の脳にへばり付いたままだ」

「一体、なんで……」

「一昨日の女だろう? すっかり忘れても、女が好きな魚は覚えているとは」


 よりによって、彼女自身でなく、好きな食べ物だけが脳に刻まれた。

 結果、奈々崎さんの好きなサーモン、それを自分の好みであるかのように錯覚する。シャケマニアになったのは、ごく最近からの話だと告げられた。


我々・・を呼び出すには強い願望が必要だ。誰かに言葉を読ませたい、という願いが。お前の執着は、あの女に向けたもののようだな」

「ああ……」

「前回は大した量を消していない。循環化さえ忘れればよかった。それでも女を忘れたのだから、その程度・・・・の存在だろうに、全く人とは分からん生き物だ」


 彼女との記憶は少なくて当然だ。まだ数えるくらいしか、顔を合わせていないのだから。しかし、その彼女に読ませたい、それが羊を呼び出す必要十分な燃料となった。

 書きたいという思いだけでは、ラルサを呼べない。相手を定めた願いこそが肝要なのだ。


「記憶が残るのは手加減したせいだ。それをわきまえよ、人間め」

「リセットは、ラルサだって嫌なんだろ?」

「事ここに至っては、やり直しも仕方あるまい。今度は全部消す。シャケすら残さずにな」


 真っ白にする気か!

 羊の消去力には穴がある、そう考えた交渉だった。もし本当に全忘却が可能なら、俺に勝ち目は無い。話し合いでの解決を選んだのは、失策だったのか。


「全部忘れたら、書けなくなるぞ!」

「最近の記憶、二ヶ月分ほどだ。消しても執筆には問題なかろう」


 黒い毛が膨れ上がり、赤以外の光を暗く潰して行く。壁際に座る俺に向かって、邪羊は悠然と足を踏み出した。

 鮮血の光線に照らされた黒い触手が、俺に触れる寸前で止まったのを受けて、怯えながらもラルサへ忠告する。


「や、やめた方がいい」

「やめて下さい、だろう。いや、何か裏の手でもあるのか……?」


 この時ほど、自分の迂闊さを呪ったことはなかった。ほんの一瞬の視線の動きを、羊は目敏く見咎める。


「その黒い箱、ノートパソコンだったか。契約方法でも書いたか?」

「い、いや、違う。そんなものは書いてない」

「次は誤魔化し方も勉強しておけ。胸の小さな板も、ついでに消しておくか」

「やめろ。や、やめてくれぇ!」


 身の安全を保証するはずの切り札。午後を費やして書いた実録記は、こうしてあっさりと見破られた。触手は手書きの原稿へ伸び、ノーパソとメモリーを黒く覆う。


 さらに長く伸びた黒毛は胸ポケットにも侵入して、その中のスマホも包んだ。虫の這い摺るような感触がシャツ越しに伝わり悪寒に震える。


 吐き気を催す気色の悪さは、その直後、頂点に達した。最も太い触手が顎の下から体内へ潜り込み、俺の脳を直接つかむ。


「あ、頭……」

「頭の中を、掃除してやろう。また明日は説明からだな」


 赤眼で射止め、触手で握り潰す。ラルサの本気の消去能力を浴びた俺は、力無く畳につっ伏した。


「頭……」

「心配するな。すぐに終わる」


 無視覚筆法も、リスタート・メソッドも脳内で砕け散る。機械化迷彩が、玉石混淆法が、会話重点主義が、次々と記憶から失われていった。

 シナプスはちぎれ、ニューロンは切り刻まれる。奈々崎さんの声が、母親の渾名が、散り散りに薄れて消えた。


 ギュルギュルと笑う羊は、小さな声で呟く俺の口許へ歩み寄る。

 この期に及んで、命乞い、いや記憶乞いでもするつもりかと、滑稽な契約者の姿にラルサは失笑を禁じ得ないみたいだ。


「頭の……」

「頭がどうした。痛いか? ギュルッ」

「頭の上に……気をつけ……なよ」

「ん?」


 俺は右手の力を緩めた。

 握り締めていた二本の紐、包帯を切り裂いて作った紐が、押さえを失ってシュルシュルと巻き上がる。


 壁に差し込んだ何本ものピンをガイドにして、包帯はかつて鏡があった壁から天井に、最後は照明を吊していたフックに繋がっていた。

 二本の紐の先には、高級紅鮭缶が二個ずつガッチリと結ばれている。


 勢いよく自由落下する四つの缶。二重の衝撃が、真下に置かれた赤い鏡を襲う。

 ビシッ!

 割れるガラスの破砕音を聞いて、振り返ったラルサが叫んだ。


「貴様っ! 無理やり破棄するつもりか!」

「リ……」


“ゆめゆめ割り砕くべからず”


 契約を損なわないように、荒俣は警告した。では、解約したい場合はどうする? そうさ、割り砕けばいい。

 何を? そんなもの決まっている。


“鏡ならどこからでも出られるんだから”


 最初にラルサが告げた言葉が、最大の手掛かりだった。出るだけならどの鏡でも構わないのに、ラルサは赤い鏡に拘って持ち帰らせる。

 別にこの鏡に曰くがあるわけじゃなく、これが契約した鏡だからだ。


“撮るのも触るのも禁止にしよっか、鏡”


 そう、ラルサは鏡に触ってほしくなかった。


“床を掃く時くらいはいいよ”


 ヒントはここまで、あとは勘頼り。割るタイミングはいつなのか。

 羊が出現している間に破壊する、この予想は正しく、俺は賭けに勝った。

 鏡へ走り戻った羊は、歓喜の声を上げる。シャケの力で鏡面にヒビは入ったが、砕けてはいない。


「惜しかったな。契約はまだ有効だ。全部忘れてしまえ!」


 鮮血の赤が、部屋の中に充溢する。だんだらに照射された触手が、大蛇の如く狭い空間で跳ね回った。

 現在の赤い鏡が、どれほどラルサにとって重要な物か、俺が知る術は無い。しかし、推測だけなら可能だ。


 鏡は血を与えた契約のゲート。これを割られると、羊は呼び出された事実すら打ち消され、俺との縁を失ってしまう。そうだろ?


 腹を空かせたまま、虚無を彷徨うなら尚良し。散々と脅してくれたお礼はさせてもらう。

 砕かれる前に記憶を消し去ろうと、邪羊の全力が俺を襲った。 


 概要重複が、主体分裂が、引用偏重主義が、泡となって弾けて失せる。必死で学んだ増文の技術は、痕跡も残さず脳裡から吹き飛ばされていった。

 もう何も覚えていない。たった一つを除いて。


繰り返しリピーティッド……増殖技法ライティング

「なっ!」


 左手の紐が解き放たれた。紐の先は超重量級だ。その重さに、その技法に、俺は著者へ感謝した。

 東野ミシンの『書く物語』が、鏡の上に立つ羊に目掛けて垂直に落ちる。


「ギュアッ!」


 衝撃は繰り返す。

 今度こそ、ガラスは激突に耐えられなかった。ラルサの潰れた悲鳴と共に、細かな破片が四方に散る。


 枠から外れた鏡の欠片が赤光を反射するが、それも直ぐに闇に沈む。

 光を生んでいた邪悪な生き物は、砕けた鏡面へと吸い込まれて行き、いつの間にか気配は消えていた。





 俺が立ち上がったのは、真っ暗な深夜だった。何をしていたのか、どうして寝ていたのかを考えて、痛みにこめかみを押さえる。

 思い出せない。


 壁を頼りに、よろめく足で照明のスイッチへと向かう。手探りで明かりを点けると、部屋の惨状に呆然とした。

 なんで鏡が割れてるんだ?


 紐で括られたシャケ缶や、散乱する白いコピー用紙も気になるが、ガラスの破片を片付けるのが最優先だろう。

 玄関に新聞紙を敷き、箒で危険なゴミを掃き出す。大きなガラスは枠ごと新聞で包み、包帯のような紐で縛って脇によけた。

 時刻は午後十時前、日付は――。


「今日は何日だっけ……?」


 スマホはエラーで固まっており、再起動すると初期画面が立ち上がった。自動時刻合わせで日付は分かったものの、他のデータは何も入っていない。


 大量のコピー用紙も全て白紙。試しに電源を入れたノートパソコンは、起動すら拒否された。

 この冬の自分の行動が、何一つ記憶から引っ張り出せない。途方に暮れて机の前にへたり込む。やけに右手が痛いが、この原因も理解不能だ。

 実家に電話しようと、再びスマホを持った時、目の端に自分が書いたメモが映った。


“明日十七時、中央時計台前”


 明日って、明日だよな。

 いつの話か、それすらあやふやだが、とても大事な約束だと感じた。





 翌日、大学へは朝から出向いた。

 課題の提出状況が不明で、不安になったからだ。事務室や掲示板を巡り、一通り履修科目をチェックすると、ようやく一息ついて学食で休憩した。


 大好物のチキンカツを食べながら、スマホをいじくってデータを確かめる。何度試そうが、アドレス帳も通信記録も新品同様だった。


 五時までは長い。

 親に連絡を入れ、大晦日に帰る約束を済ませれば、もうやるべきことが見つからない。学食と学内図書館の往復も、すぐに飽きてしまった。


 大体、書物は嫌いなのだ。なぜか部屋にあった分厚い創作論も、自分の欠点を指摘されたようで嫌味に感じた。

 あまりに暇なため、四時を過ぎた時には中央時計台の前に移動する。寒い外気に晒されながら馬鹿みたいに突っ立つ俺へ、程なくして声が掛けられた。


「波賀くん、早いのね」

「え、あ、んー……」


 しどろもどろになった俺を見て、学友らしい彼女は思いっ切り怪訝な顔をする。

 知り合いらしいが何を言えばいいか分からず、名前を尋ねるのは失礼、そんな配慮で余計に言葉に迷ってしまった。

 口をパクパクとさせるのを見て、彼女は何かを悟ったらしい。


「まさか、覚えてない?」

「う、うん……俺を知ってるんだよね? さっぱり事情が分からなくてさ」


 綺麗な人だな、と思う。知的で頭の回転が速そうな女の子だった。一度口を開きかけた彼女は、途中でかぶりを振って当初の目的へと立ち返る。


「晩ご飯、奢る約束したでしょ。行こう?」


 立ち話には、この場所は寒すぎた。歩き出した彼女を慌てて追いかける。


「実は、何にも記憶が無いんだ。昨日の晩、気付いたら鏡が割れてて、それで……ここで待ち合わせたメモだけあってさ」

「割れてた? そう……」


 一瞬、立ち止まった彼女は、少し微笑んで俺の顔を見た。


「話してあげるわ。お話、好きでしょ?」

「いや……」


 小説も物語も、好きだと感じたことは少ない。しかし、彼女の話なら、好きになれそうな気もした。


「まずは話を聞かせてよ」

「そうこなくっちゃ。長いわよ」

「どれくらい?」

「んー、百万字くらいかな」


 頭の割れそうな数だ。目を丸くした俺の顔が可笑しかったのだろう、クスクスと笑われる。


「あの……君の名前、教えて欲しいんだけど」

「えー、ひどーい!」

「マジで覚えてないんだって。頼むよう」


 ちらつき出した粉雪の中、笑い続ける彼女と、両手を合わせて懇願する俺は、クリスマス前の街へと繰り出していった。





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あなたの知らない百万字の世界 高羽慧 @takabakei

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