15. シルバーライニング

 着信表示は奈々崎麗美、俺が独り土下座に励んでいた時に電話があったらしい。身体の震えと同調したせいで、スマホの知らせを感じ取れていなかった。


 指がコールボタンを押すのを迷って上下する。失敗した、そう伝えるのは、自分の馬鹿さ加減をアピールするようで情けない。

 それでも最後には、話したいという欲求が勝った。彼女の声で埋めなければ、俺の中身は空っぽなままだ。


『もしもし。どう? 上手くいった?』

「……ダメだったよ」


 トナーが切れたこと、ループを見抜かれたこと、もう循環化が使えないことを訥々とつとつと話す。

 辛抱強く、口を挟まずに聞き終えた彼女は、徒労に終わった一日をねぎらってくれた。


『裏技は通用しなかったかあ。お疲れさま』

「ゴメン、せっかく教えてくれたのに……」

『元気無いわね。寝たら気力も回復するわ。ちゃんと食べてる?』


 そう言えば、今日は昼晩抜きだった。

 彼女に指摘されて、急に腹が減ってくる。空腹や眠気が脇に追いやられるほど、俺はずっと緊張していたのだ。


 三戒の三、健康を損ねてまで執筆するべからず。うっかりとプロローグを読ませたミスは、戒律を破った報いだろう。

 俺が反省する間にも、奈々崎さんの話は先に進んでいた。彼女の用件には、今夜の首尾を尋ねる他にもっと大事な報告があった。


『幻の第三版の記述、少しは分かったわよ』

「ホントに! 何て書いてたの?」


“羊たちの黙祷”や個人ブログでは、第三版の詳細は知り得なかった。記述された形跡はあっても、リンク先が全て意味の無い文字列に置き換わっていたと言う。

 この障害は、ラルサに消された『読ませる技術』に似ており、嫌でも羊の仕業を連想させた。


 次に彼女が頼ったのは、過去のページデータを保存するアーカイブサイトである。幸運にも、いくつかの記録は可読データとして残っていた。

 断片的だが、荒俣が後進のために記してくれた貴重な終章を奈々崎さんが読み上げる。



◇◆◇


 ミューズを留めたい者は、の者に血肉を与えるべし。

 契約は決して損なうことなかれ。

 瑕疵かしは厳罰を招き、去りしミューズと再びまみえるのは至難の業なり。

 ミューズの顰蹙ひんしゅくを買えば、暗雲の中を漂う。


 契りし我らは同舟の宿縁。

 ゆめゆめ割り砕くべからず。

 後に続く者が同じてつを踏まぬよう、ここに記す。


◇◆◇


『どうも、荒俣は二回、羊に怒られてる気がするわね』

「二回?」

『第三版が出る直前に一回。出た後に二回目。どっちも記憶喪失の噂が立ってる』

「そんな何度も忘れて、よく作家が続けられるね」

『続けてない。第三版以降は、新作を出してないわ』


 厳罰・・、か。

 荒俣彦々は、ミューズを求める立場でこれを書いている。一度目のミスを反省し、注意書きのつもりで第三版を増補したのだろうが、これが羊の憤激を招いたのだろう。


 契約を損なわないように、という覚書は、契約破棄の方法をも推理させてしまう。

 破棄、そのやり方は――。


『どうかな。ヒントになりそう?』

「うん、考える材料が増えたよ」

『ならよかった。また明日も電話するね』

「あ、ありがとう!」


 感謝の言葉は、本心からのものだ。情報も嬉しいし、何より優しいロートーンの声が落ち込んだ気分を散らしてくれた。

 電話を切り、食事にしようかと立ち上がったものの、疲れから頭の回転が鈍い。


 寝よう。スッキリしてから、今までの事を整理する。シャワーも浴びず、下着すら着替えず、俺はシャツとチノパンを脱いだだけで布団に入った。


 夜の十時から朝の七時まで、泥の様に眠る。

 腹が空き過ぎて起きたのは、久方ぶりの経験だった。





 インスタントラーメンでは足りないし、料理するのも面倒。となれば、コンビニに行くのが手っ取り早い。

 キンと冷えた冬の田舎街を、コートとマフラーで防寒し、小走りで急ぐ。


 コンビニに着くと弁当コーナーへ直行し、ハンバーグ弁当とサーモンサンドを取って、バンドエイドもカゴに入れる。

 薬は売っていないので、包帯を追加した。手に巻けばサポーターの代わりになるだろう。


 帰り道を歩きながらの思索が始まり、部屋で豪華な朝飯を平らげる最中も、ずっと考えを巡らせた。羊との契約、これをは誤解していたのではと思い直す。


“鏡に手を当てて祈れば、ミューズが現れる”

“ミューズを留めたい者は、彼の者に血肉を与えるべし”


 呼び出すのと契約するのが別ならば、この二つは矛盾していない。

 鏡に血を滴らせたことは、ずっと頭に引っかかっていた。左の親指から流した血で、契りが結ばれる。いや、忘れていただけで、同じ行動を過去にもやっていて不思議じゃない。


 どちらにせよ、俺は自分の血を以って契約した。それが契約のスタート。

 では、契約とは何か。

 呼び出しただけでは、羊はどこかに行ってしまう。ラルサ自身も言っていた。


“過密スケジュールだから。全員回ったら、一日が終わっちゃう”


 ミューズを求める者たちの間を、気ままに飛び回る羊がラルサだ。なのに、今は俺に執着する。


“仕方ないじゃん。契約しちゃったんだから”


 そう、それが契約。あの羊は、もう飛び回れないのでは? あちこちで食い散らすことが出来なくなり、俺に餌を頼るしかなくなった。

 だから、俺が書かなければ――


“これじゃ飢え死にしちゃうじゃん”


 こうなるわけだ。

 羊と契約者とは一蓮托生、何としても書かせたいのが、ラルサの本音なのでは。書くのを止めれば、を食べると脅す。嫌なら二百万字を書いて、契約を成就させるしか……。


 二百万字、この数字の根拠もラルサの言葉だけ。

 本当に契約満了になるのか、怪しいものだと思う。羊に確約されたことはなく、質問ははぐらされてきた。


 剣夏美の著作は、全部で五百万字。東野ミシンは七百万字を超す。プロ作家たちが今まで書いた量を奈々崎さんに尋ねたところ、彼女はそう概算してくれた。

 羊の課題をクリアしても、彼らが未だ書き続けているのならいい。しかし、それだけ執筆しても契約が切れないのなら大問題だ。


 言霊ことだまを集めるミツバチ、そんな想像もする。無数の羊が、この瞬間も世界中で言葉を収集して飛ぶ。彼らを束ねる女王蜂が、実は本物のミューズなのかもしれない。


 作家になりたい人間なら、それでも共存関係を築けるのだろうが、俺に付き合う義理はなかった。

 さあ、どうする?


 白いコピー用紙を前にして懸命に考える。

 シャーペンを持ち上げ、顔をしかめてまた放した。右手に巻いた包帯を見つめたあと、おもむろにノートパソコンの電源を入れる。


『あなたの知らない二百万字の世界』


 珍奇な実録記が、画面に表示される。

 この日記もどきを、もう一度改稿する作業が始まった。





 午後七時四十分、壁にもたれて座り、最終確認を行う。

 羊と対面する前に、できる準備は済ませた。夕食もしっかり取り、頭も冴えている。部屋のあちこちを指で差して、漏れが無いかチェックする。


 シャケパワー、OK。

 包帯、OK。

 原稿、鏡、OK。

 照明、フック、全てOK。


 足りないのは、もう一押ししてくれる気合い、そして覚悟。スマホを耳に当て、呼び出し音に耳を澄ます。


『もしもし?』

「波賀です。もう一回、あの、お礼を言っておこうと思って」

『そんなのいいのに。ねえ、波賀くんは大学に来てないよね?』

「うん、もう必須は何も残ってないから……」

『明日、出て来ない? もっと話を聞かせてよ。晩御飯、奢るよ』

「う、うん、ありがとう!」


 翌夕の五時、中央時計台の前で待ち合わせ。忘れない・・・・ように、バンドエイドの説明書の端へメモを取る。原稿用の紙を使うのは、何となく躊躇われた。


 履修している講座名、レポートの課題内容、学食のオススメメニュー。その後は他愛のない大学ネタを話して通話を切る。

 羊の話でなくても、これで充分な応援になった。


 七時五十六分、あと四分。

 いつもなら、ラルサに声を掛けられて初めて八時を迎えたと知ることが多かったが、今夜は鏡から目を離さずにじっと出現を待つ。


 いざ待ち構えると、一分間が経過するのも長く感じた。まして四分、微動だにしない俺は、ただ手を握り締めてジリジリと邪羊との対決に備える。


 ラルサに言うセリフは、何回も心中で繰り返した。大丈夫、賭けなのは最初から分かってる。勝率は不明だけど、推論には自信がある。


 鏡の真ん中が、こんもりと盛り上がった。定刻通り、満を持しての羊の登場だ。黒い毛の塊が、挨拶代わりに不満を述べる。


「今日は遠いね。そんなに離れなくていいのに」

「これでいいんです。話がしたいから」

「それに暗いよ。真っ暗はイヤって言ってなかった?」

「そちらの好みに合わせました。落ち着いて話せるでしょ」


 苦しい言い訳だとは自分でも思う。だが、原稿さえあるなら、ラルサもしつこく咎める気は無さそうだ。


「今日のご飯は?」

「有りません」


 黒い毛の中に浮かぶ二つの赤点が、輝度を増した。


「聞き間違いかな。原稿が無いなら、酷い・・よ?」

「まず、話です。俺が書けなくなって困るのは、ラルサですよね?」


 赤い光が、警告灯のように瞬く。

 俺の意図を推し量りかねて、羊の言葉は暫し途絶えた。次に口を開いた時、ラルサはいつぞやの尊大な態度で恫喝する。


「調子に乗るなよ。何が言いたい」

「契約した者が書かなければ、食事が手に入らない。そうですよね?」

「だったら、どうだと?」


 俺の住む一室は、照明を消しただけとは思えない闇が覆い始めていた。

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