最終話 港町レナート

「何だと!」

 食堂パンチェレイモン・ホールに、アンナの声が響いた。テーブルがガタンと揺れ、僕のトレイの上のマンナヤ・カーシャが少し飛び散った。

「だから、さっきも言っただろう。その言葉遣いを直せ。この不良オンナ」

「もう一遍言ってみろ!」

「何遍も言ってるだろ」

 最近、レナート校の生徒たちは二人の喧嘩に食傷気味で、パンチェレイモン・ホールがざわつく事もない。そもそもユーリは必ず僕を間に狭んだ位置に立つ。今朝もアンナの正面に座っている僕の背後に立って、アンナの素行の悪さについて苦言を呈してきた。

「お前は曲がりなりにも我がギンツブルグ家の一員になったんだ。少しは自覚を持ったらどうなんだ」

「ふざけるな。私はあんたを兄さんだなんて認めないね。同い年じゃないか」

「双子みたいなもんだろ。俺だって父さんが言わなきゃ――」

「私はねえ、炭鉱夫の家の子だって事に誇りを持ってんだ。ギンツブルグ家なんてクソ喰らえだ!」

「ク……!」

 二人の言い争いは必ずアンナが勝つ。

 アンナの亡き母レオナは、身籠もった事を騎士団長イサークに告げる事なく、その前から姿を消し、炭鉱の町ニーナに住む両親の元でアンナを産み、育てた。アンナの素性を知ったイサークはアンナをギンツブルグ家に迎え入れる事にしたが、アンナは頑としてそれを受け入れない。

「わあ、こわーい」

 だいたいいつもヴェロニカはそう言って手を頬に当てる。

「そんな事より早く並ばうぜ」

 食べる事ばかり考えているイグナートは、秋になってますます太ってきたようだ。

 そろそろ来るかなと思った時には、タキシードを着てシルクハットを被った毛むくじゃらの彼はもう僕の肩に乗っていた。きっとこうなると思って、ホールの片隅で自分の出番を待ち構えていたに違いない。

「何で喧嘩してんの? 何で何で? 仲良くしようよ」

 ウンタモ寮長は短い足で僕の肩を鷲づかみにしている。だから僕は前屈みにならないといけない。ウンタモ寮長は意外に重たいから、僕にとっては結構な重労働だ。ウンタモ寮長は長い腕をにゅうっと伸ばして、アンナとユーリの手を取った。

 毎朝繰り返されるお決まりのやり取りの間、僕とジェミヤンは黙って食事を続けている。ただ僕は、前屈みの状態のままスプーンと口に運ばないといけないので、なかなか大変だ。


 * * *


 昨夜の事だ。

 アンナ、ユーリ、ヴェロニカ、イグナート、そして僕の五人は、ジェミヤンに呼ばれてレナート石炭ラボに集まった。

「これを見て」

 ジェミヤンはそう言って、散らかったテーブルの上にひどく傷んだ本を置いた。

「コルネーエフ文書か」

 ジェミヤンは僕に向かって相槌を打った。

「そう」

 コルネーエフ文書は魔剣に突き破られたせいで、真ん中に穴が開いている。

「いつの間にかページが増えてたんだ。一番最後に」

 ジェミヤンはコルネーエフ文書を捲り、最後のページを開いた。僕たちはそのページを覗き込んだ。そのページは破れていなかった。そして、薄く浮かび上がるような絵が描かれていた。

 それは深い森の絵だった。そして、枝葉の向こうに、若い男女の姿が見えた。二人に猫が寄り添い、その横で羊が草を食んでいた。そしてその周りには幾人もの子どもたちが!

 暖かく、幸せな絵だった。僕は胸が締めつけられるほどの言いようのない喜びが、心の中に湧き上がるのを感じた。


 * * *


 レナート校の正門と校舎を繋ぐ欅並木は焦げ茶色に色づいている。日に日に落ち葉も増え、石畳も何もかもが焦げ茶色になっていく。僕の隣を自転車で走るアンナの焦げ茶色の髪が欅並木に溶け合って、目に映る世界のすべてがアンナで一杯になっていく。

 アンナの首に巻かれた黄色いマフラーの先が風を受けている。髪が風になびき、ペダルを漕ぐ膝に蹴り上げられて制服のスカートが揺れている。秋になってもアンナの肌は日に焼けている。きっと冬が来ても変わらないのだろう。アンナが僕をチラリと見た。木漏れ日を浴びたブラウンの瞳が透き通った輝きを放つ。僕の視線に気づいたアンナはニコリと笑った。

 並木道の途中でジェミヤンとすれ違った。ジェミヤンは、騎士の町ライサへ通じる地下通路の電灯の明かりが揺らめいていたのがよほど怖かったのだろう、火力発電の安定化の研究に没頭している。分厚い本を何冊も抱えたまま、ジェミヤンは手のひらをヒラヒラさせた。僕たちも手を振って応えた。


 ルジェナ飛行場に隣接しているイラリオン飛行船商会の白い建物が丘の上に見えてきた。

 アンナは最近、レシプロエンジンの改良に余念がない。より速く、より遠くまで飛べるエンジンの設計やテストを繰り返している。

 僕は操縦技術の訓練に明け暮れている。オルガ号の事件の後に知ったのだが、ブラックイーグルの隊員のフォードルは、ミロンおじさんの息子だった。エドアルト隊長の頼みで、フォードルが僕の教官を務めている。エドアルト隊長はレオナ号を無事に着陸させた後、すぐにワシミミズクに戻ってしまったので、人間の姿の隊長とは会えずじまいだった。フォードルが言うには、隊長は好んでワシミミズクの姿をしているらしい。大空を自由に飛びたい一心のようだ。


 イラリオン飛行船商会の建物の前で、僕たちはキキィッと音を立てて自転車を停めた。

「ネストルじいさんがいないって、まだ信じらんないな。呼べば蒸気自動車の下から出てきそうな気がする」

 自転車を降りたアンナが溜め息混じりに言った。

 この丘から、港町レナートの町並みがよく見える。港も海も空も美しく輝いている。

「私たち、間違ってたんじゃないかなって思う時があるんだ」

 僕はアンナの言葉を黙って聞いていた。

「トポロフの魔女は、子供たちの魂を助けたかっただけなんだと思うんだ。親に捨てられて、寂しいまま飢えて死んでいった子供たちを助けたかったんだよ。子供たちが閉じ込められた鏡の中の世界と、私たちがいるこの世界を逆転させてしまう事で、その子供たちの魂が救われるのなら、そうすべきだったのかもって思ったりする」

 アンナは小さく微笑み、言葉を続けた。

「大人の都合で子供に悲しい思いをさせちゃいけない。私、そういうの許せないよ。私がトポロフの魔女だったら、きっと同じ事をする」

「アンナだったらもっと酷かっただろうな」

「トポロフの魔女は若い時にネストルじいさんと出会った事で、幸せを知ってた。だから暴れる羊を止めたんだと思う。──ん? 今何て言った?」

「いや、何でもない。幸せを知ってたから踏み留まる事ができたんだろうな。滅ぼそうとしたこの世界に、希望を見つけたのかもしれない」

「私、親はいなかったけど、じいちゃんとばあちゃんが私を大切にしてくれるから、幸せをたくさん知ってる。そう言えば、じいちゃんからまた手紙が来てたな」

 アンナはそう言うと、ジャケットの内ポケットから一枚の手紙を取り出し、僕に渡した。僕はそれを広げた。手紙にはただ一言「ばあさん危篤」と書かれていた。

「じいちゃんは嘘つきで、寂しがり屋なんだ」


 丘の上を静かな風が吹き抜けていく。風の音の中に、蒸気機関の音が遠く聞こえる。風の匂いの中に、石炭と水蒸気の匂いが紛れている。イラリオン飛行船商会の白い壁に日差しが反射して、僕たちを照らしている。僕の大好きな日々がここにある。

「ほら、見て」

 アンナが遠くの空を指さした。

「空は落ちてこなかった。君が最後の魔法使いにならなかったから」

「俺は、魔法を使えない魔法使いだからね」

「そう?」

 アンナは両手を前に差し出した。

「今、ここでこの景色を見ているのは奇跡だと思う。君がいなかったら、私はここにいなかった。君はどんな魔法を使ったの?」

 そう言って、アンナは悪戯っぽくクスクスと笑い声をあげた。

「君の勇気は魔法そのもの。君といる毎日は、まるで魔法のよう」

 僕はアンナの横顔を見た。アンナが僕の視線に気づいた。

「君は、ただの魔法使いじゃないな」

 アンナは綺麗なブラウンの瞳を僕に向け、ニコリと笑った。



                               了

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それはまるで魔法のような 〜ジュブナイル・スチームパンク・ファンタジー〜 月生 @Tsukio

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