菫
店を退いてもう一週間が経ってから、私は常のものぐさのせいでようやく部屋も引き払い、この街を去ることになりました。キャリーバッグ一つをひいて、駅のほうへ歩いていると、ふと遠くから子どもたちの掛け声が聞こえてきた。
まつりの声は、この街を浄めてくれるようで昔から好きです。故郷へ帰る日にそれが聞けて私は少しうれしくなりながら、ああ、この声を聴くのも何度目だろうと、自然に心がこの街の思い出へ流れてゆくのでした。思い出したいようなことは、これといってないのですけれど。
十八でこの街に身を沈めて、かれこれ十年ほどですから、たのしいこともあったのでしょうけれど、思い返されるのはかなしいことばかりです。ある日から抜け殻のようになった私ですけれど、はじめの頃は、男を玩具にして華やいでやると、たいそう息巻いていました。むしろそういう日々にこそ忘れたいことが多いようです。気の抜けてからはすべてが流れていくばかりでしたけれど、突っ張っていれば傷も逃れようなく深く、また敵も多くつくりました。
あの頃の私は、恋心をうそぶくのは私のような女には当然のこととはしましても、口から出る言葉や身の素振りのすべてを嘘に塗りかためたようでした。子どもをおろすためとか悪い客に騙されたとか言ってお金を騙し取ることも珍しくありませんでした。ましてや時には、あなたと結婚するためにこの仕事をやめたいがそのためには店に借金を返さなければいけないと、深い真心まで弄んだことも何度かありました。
そのために危ない目にもしばしばあいました。けれど私は一度たりとも謝ったことがありません。どれほど傷付けられても、私は絶対に頭を下げず、かえって罵るのでした。色めく街の女の嘘を真に受けて、手をあげるほど取り乱すなど恥ずかしくないのか、と。
ある人に疾走する車から縛られたまま放り投げられて本当に死にかけました時にも、私は薄れゆく意識のなか、情けない男と叫びました。
今から思えば、どうしていつもあんな風に燃えていたのでありましょう。自分のことながら不思議でなりません。幼い頃よりの男勝りが大人になっても続いていたのでしょうか。男に喰われてなるものかという、ただその一心だったのでしょうか。私はさながら高速で回転する独楽のように、痛めつけられても痛めつけられても自分ではどうすることもできないように考えもなしに回転し続けるのでした。
そういう荒廃した日々のなかで私のたった一つの慰めは、掌にも乗る小さな仏さんでした。路頭の物売りからたった百円で買った、軽くて木の色も浅くいかにも安っぽいものなのですが、そのお顔が無垢な少年のようでなんとも可愛らしいのでした。私は毎夜眠る前にその仏さんに手を合わせて、その日についた嘘の数々を吐き出しました。その時には何気なくそうしていたのですけれど、きっと私は自分で自分が怖ろしく救いを求めていたのでしょう。虫のいいことです。私はきまって仏さんを枕元に置き、見守ってくれていると思いながら眠りました。
仏さんを見せた人が、たった一人だけいます。週に一度は来てくれた方で、奥さんも息子さんもおありだというのに私のようなのを買いにくるわけですから、例に倣えばろくでもないものなのですが、この人が私のお父さんだったらと可笑しな想像さえ誘う、とてもおだやかな方でした。
どうして仏さんを見せたのか私にはわかりません。もっといえば、私はあの人に心を寄せていたのかどうかも、またはっきりしないのです。偽りの心を売り渡す日々に真実の魂を捧げていた私ですから、自分が恋をしているのか否かなどわかりようもありませんでした。自分の嘘を私自身でさえ見抜けなくなっていました。私はあの人を好きなのか、好きじゃないのか。そんな、聞きようによっては少女じみた悩みを、汚辱の果てに抱えたとは、今となってみればどこか喜劇的でもあります。
私は私の心を掴まえたかったのでしょう、あの方にはとりわけ狂ったように無茶なお願いばかりを突き付けました。
あの方が私を愛してくれているか試すという単純な思いもあったでしょうが、それよりもむしろ、私はあの方を愛おしく思いながら、そうするより他に身のあずけようを知らなかったように思います。ありえないほどのお金をせがんだり、家庭を捨てるよう迫ったりして、私は愛をしめしていたのです。相手を壊すほどに甘えることと、お好きに抱きしめてくださいと囁くことは、私にはほとんど同じに思えます。きっと、偽装した愛を免罪符にして男の人に甘えてきたせいで、愛情と依存がいつの間にか見分けられなくなってしまったのでしょう。奥さんを殺してとナイフを渡したりしたのも、仏さんをあの方にだけはお見せしたのも、同じ切実な心でした。
あの方は、ある厳しい冬の夜ふかく、私の住むアパートの前の木で、首を吊りました。
私はその日、朝と夜とのまざりあう頃合いに帰りました。雪がふっていました。道に積もらないようなやわらかい粉雪なのでしたが、あの方の黒い髪には薄らと積もっていました。首にくくった縄から、もう一本の細紐が垂れていて、その先には、あの仏さんが結ばれていました。
それからというもの、私は生きているような死んでいるような、どちらともつかない有様です。かなしい、といえばもちろんかなしかったのですけれど、すっかり疲れきってしまったのです。この世の底に堕ちきった心地がしました。
口さがない人もあるもので、どこからどう広まったのかはわかりませんけれど、あの方を殺したとさえいえるこの私を面白がって買いにくる人がたくさんいました。
昔から馴染みの方が、こんなふうにも言いました。
「お前は男を殺していっそう美しくなった。男からの怨念なんてもんは、女にとっては一等の化粧やな」
私は、そう言われた時に、この街で生きるのはほとほと嫌になりました。
とはいえここを出て生きる術を考えるのも億劫で、だらだらとそれからも長いことここに暮らしてきたのですが、父の葬儀の報せで久々に故郷へ帰り、そこで母と再会しました。昔は激しく憎んだ家と母ですのに、齢をとるとは面白いもので、不思議と心安らかに過ごせるのでした。母は私がなにも言わずとも色んなことを察したらしく、帰ってきたいならいつでも帰ってきなさいと言ってくれました。私は二つ返事で帰ると告げました。
色々と思い出すにつけても、この街が嫌になってくるようで、自然と歩みは速まります。
とある角を曲がります。すると、ちょうど少し先から、子どもたちがだんじりを曳いてこちらに進んできました。
道の端によって立ち、通り過ぎるのを待ちながら、頬を赤くして一生懸命に声を出す綺麗な子どもたちの姿を眺めます。そして私は、ふっと息の詰まるような驚きに刺されました。あの方の息子さんがまじっているのです。
彼がそうだと私にわかるのは、昔にあの方に写真を見せてもらったこともありますし、そしてなにより、あの方をそのまま小さくしたようにそっくりなのです。まだ小学生になったばかりとも見える幼さですけれど、本当にあの人に似ています。
ついに会えなくなったあの方と瓜二つの少年がいる、それは話しかけたいほどにうれしいのですけれど、話しかけたりなどできるはずのない罪が私にはあります。汗に濡れた髪が額に張りつく横顔を眺めながら、私はただ立ち呆けるしかありません。
しかし、通り過ぎると思われただんじりは、私のすぐ前で止まりました。道の向かいに店があって、そこにお祈りを捧げるようです。あの方の息子さんは、息を弾ませながら地べたに座り込んで、首にかけたタオルで顔を拭っています。
一声だけでもかけたいけれどどうしようもなく、もどかしい想いで彼を見つめていますと、不意にそばで大きな声がしました。
「おい、菫やないか」
ひょっと声の方を振り返りますと、大きな男性がにやにやしながらこちらに歩み寄ってきます。この辺りの町内会長で、何度か私を買いにこともあるおじさんです。
それにしても、白昼の道端で大声で源氏名を呼ばれるなんて、子どもたちが店に祈りを捧げてくれるような、昼と夜の溶け合うこの街では、あんまり珍しいことでもありませんけれど、あの方の息子さんが近くにいると思うと少し嫌な気分にもなるのでした。
私は、顔の曇りそうになるのを抑えて、
「ああ、ご無沙汰しております」
と頭を下げました。
「いやあ、元気してたか」
「はい。おかげさまで」
「そうかそうか。最近はお前の顔も見に行けてなかったから」
おじさんは祭りの高揚からか快活に話し、ふと私のキャリーバッグに目をとめました。
「なんや、どっか行くんか」
そう聞いて、しかしすぐに思い出したように、
「ああ、そうか。もうやめるんやてな」
「はい。ありがとうございました」
「いやあ、寂しなるなあ」
「またまた、思ってもないこと」
私が冗談ぽく言うと、おじさんも大きく笑います。私はにこにこしながらも、仕事をやめてなおこんな気を惹くような軽口をたたいてしまうのを、きたならしい癖だと思って自分が自分で疎ましいのでした。
さっさとここを去りたくて、話の切り上げ方を考えていると、不意におじさんの後ろから少年の声がしました。
「ミチルのおっちゃん、おれジュース飲みたいからお金ちょうだいや」
おじさんの振り向くのと同時に、私もそちらを見やります。あの方の息子さんでした。そばで見るとやっぱりあの方に似ています。声まで似ているように聞こえます。
「なんやお前」
おじさんが辺りを見回しながら言います。
「オカンどこ行ったんや。オカンに言うたらええやないか」
「お母さん暑い言うてもう帰った」
彼の話す姿にあの方の面影を見ながら、私は胸の高鳴るのを痛いほどに感じます。
「我慢せえ。もうすぐどっかでお茶出してもらえる」
「でも喉かわいたんやもん。お茶じゃなくてジュース飲みたいし」
そう言って不服そうに土を蹴る、その姿の今すぐ抱き上げたいような愛くるしさ。私は考えもなく気が付くと口を開いていました。
「ねえ、こっちいらっしゃい。私がお小遣いあげる」
「ほんまに?」
途端に顔を華やがせて駆け寄ってくる様子にも、不思議と卑しさがなく好ましいばかりです。
「おい菫、ええんか?」
おじさんが言います。その声で、私ははっとします。おじさんはあの方と私のことを知っているのか、怖ろしくなっておじさんのほうに視線を向けますと、どうもそのようなところはありません。
私はほっとして、安堵を包み隠すように微笑みを浮かべました。
「はい。熱中症にでもなっちゃ可哀想ですし」
「せやけど」
「いいんですって」
私はおじさんの遠慮するのを打ち消すように言いました。
「今日で私はここを出るんですから。最後にはいいことをさせてください」
咄嗟に出た言葉でしたけれど、いくらか真実のようにも感じられました。
少年の掌に五百円を置いてあげますと、彼は眼を大きくしました。
「こんないっぱい、いらへんよ。ジュース百円で買えるもん」
「ほんなら他の子にも買ってあげ」
私は彼の頭を撫でました。撫でられながら素直にうなずく少年は、無垢そのもので、胸がときめきます。
おじさんが隣から笑い交じりに口を挟みました。
「せやけど、ほんまやったらこっちが祈る側やのに、悪いなあ」
私の身の上を仄めかすような物言いが、冗談のつもりでしょうけれど恥ずかしく、苦笑するばかりでなにも答えられませんでした。
あの方の息子さんは、まだ幼いですから私よりも羞恥に黙り込みます。それがまた美しいので、私も揶揄いたくなってしまって、彼の頬をやさしく撫でてあげました。すると、もとより赤らんでいた頬がいっそう鮮やかに染まって、みるみるうちに熱くなり、そして身体に電気の走ったように、
「お小遣いありがとうございます」
とだけ早口に言って走り去ってしまいました。その後ろ姿を私は見送りながら、彼の初々しさに胸がすっかり洗われるようでした。
おじさんに挨拶をして、私はまた歩きはじめました。
しばらく歩みを進めていると、だんじりのほうもまた曳きはじめたらしく、遠くから拍子木と掛け声が響いてきました。天から降るような清純の音楽を、私は聞くともなく聞きながら、ふとあの方との、とある会話がよみがえってくるのでした。
あの方が私を買いにきた、ある時、こうして祭りの音が聞こえてきました。私の膝を枕にして、あの方は眼をつむったまま聞き惚れるように、
「そうか、今日は祭りか」
と呟きました。
私は彼の顎を、髭が気持ちいので触りながら、
「あなたの息子さんも曳いてるんじゃないですか」
と、もちろんその時にはまだあまりに幼かったですからそんなことはないのですけれども、意地悪な冗談のつもりで言いました。
すると、あの方は意外にも、柔和に頬を緩めました。
「それはいい夢やね」
「いい夢?」
「うん」
「なにがいいんですか、こんな不埒なことしてるところに、お子さんの罪のない声が聞こえてきて……」
「おれなあ、この祭り昔から好きなんよ。この街のよごれた間違いを全部ひっくるめて許してくれてるみたいでな」
「都合がよすぎますよ」
「一年に一回ぐらい、そういう日があってもええやろ。子どもらの無垢な声で、俺ら大人のどうしようもない罪が清められていく、そんな日が」
あの方の言葉に流されて、その時私はぼんやり響いてくる祭りの声を、天使たちが讃歌を口ずさむように聞いたのでした。
わけのない涙が流れて、あの方の頬に落ちました。彼は目を開くと、何も言わずに私の背中に手を添えてくれました。私は涙に濡れた声で呟きました。
「子どもたちにそんな力があるでしょうか」
「あるよ」
彼は慰めるように、静かな口ぶりで、言ったのでした。
「うちのチビも、もうすぐ曳くようになる。その時にここで、二人で祈りの声を聞こう」
私は、あれから数年経ち、あの方の言葉を思い返しながら、涙ぐむよりも、晴れやかな心地でした。私はキャリーバッグを引いて歩き、遠くに子どもたちの声を聞きながら、少年の姿を想い浮かべてとてもおだやかな気持ちになるのでした。
この気持ちをあの方と分かち合えないと思うと、やはりかなしさも胸に広がりました。しかし、彼との約束通りこうして子どもたちの声を聞いているのですから、泣いてしまいたくはありません。青く澄み切った夏空を見上げて歩くのでした。
私は、遠くから聞こえる子どもたちの声に、涙も過去もあずけるような想いでした。すべてを、悪い夢だったと捨て去って、洗われた心でこの地を旅立とうと願いました。
ひまわり しゃくさんしん @tanibayashi
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