香澄



 子どもたちの綺麗な声がすぐそこまで近づくと、香澄はもう耐えられなくなって便所へ駆け込んだ。

 客引きの老婆の幸子が、便所の扉を叩く。

「どうしたん?」

 彼女は不思議がるように声をかける。この街に沈んで何十年にもなる幸子には、香澄の心はわからないのかもしれないが、この家に入ってまだひと月もない香澄には、むしろ幸子の心が不可解なのであった。

「いやや」

 唇を尖らせて話す香澄の声は弱々しい。

「うち、こんな店の玄関に座ってるの、小っちゃい子らに見られるなんか……」

 あからさまに売春婦として、無垢な子どもたちに向かいあうのが、香澄はどうしても恥ずかしいのだった。

 このような祭りがあると知ったのも、つい先ほど、遠くから掛け声が響いてくるので幸子に何事か聞いて、それではじめて聞かされたばかりだった。

 愚図る幼子のように膝を抱えて便所にこもる香澄であったが、やがて幸子から叱りつけるように、

「祭りごとは神さまにかかわることなんやから、おぼこい我儘は言いなさんな」

 と言われてしまうと、どうしようもなかった。薄らと涙を浮かべさえしながらしょうがなく便所を出た彼女は、幸子に手を引かれて玄関に戻った。

 家の前にだんじりがやって来た。香澄は、スカートの裾を強く掴んで、前髪で顔を隠すように俯く。

 しかし、突然、どこかで聞いた声がした。

「おねえちゃん」

 意外そうにそう呟く、女の子の声だった。誘われるように顔を上げた香澄は、あっと声を出しそうになるほど驚いた。そこには、よく見知った女の子がいたのである。青いはっぴを着て鉢巻をした、髪の短い少女が、ビックリしたようにぽかんと口を開けている。

「小春ちゃん……」

 香澄は、彼女とこんなふうに顔を合わせるなんて想像もしなかったので、少しのあいだぼうっとしてしまい、それからはっと我に返って、再び強く俯いた。香澄が、子どもたちに会うのを恥じらうのも、小春ちゃんが原因なのだった。

 ちょうどひと月前、香澄は小春ちゃんに出会った。

 夕焼けが美しい頃に出勤のためアパートを出た香澄は、アパートの前の狭い道路の肩脇に、ぽつんとしゃがみ込む女の子を見つけたのだった。夢中になって石で道路に何か描いていた。ランドセルの上に小さなお尻を乗せて座っていた。

 香澄はふと、妹を想った。

 少女は、ついこのあいだ故郷で別れてきたばかりの妹と同じ年頃に見えた。妹も、よくこうして道に絵を描いていたと、香澄は知らず知らずのうちに微笑んだ。

 見つめられているのに気付いたのか少女が振り返って香澄を見上げた。怪しんだり、怖がったりするふうのない、純粋に不思議がるような面差しが可愛らしかった。

 あんまりいじらしい少女なので香澄はうっとりしていたが、しばらく目を見あわせているうちに、見つめすぎていると遅まきながら気付いた。きまり悪いような思いがして、それを打ち消すように少女へ笑いかける。しかし、少女はますますぽかんとしてしまい、香澄ももよりいっそう気恥ずかしく、慌てて彼女の隣にしゃがみこんで、

「なに描いてるの?」

 と話しかけた。そうすると、少女は子どもの純朴さで再び絵を描くのに夢中になりながら、楽しげに答えるのだった。

「あんな、このひまわりと、このひまわり、なかよしやねん」

 道には向日葵が二輪描かれていた。二つとも花の中心に顔があって笑っていた。

 香澄はほのぼのと胸のやわらぐようで微笑んだ。

「そうなんや。幸せそうやね、二人とも」

「うん。小春がつまんないからな、ひまわりにかわりに笑ってもらうの」

 向日葵の上に太陽を描きながら、少女はつまんないと言うわりには、せっせと手を動かした。石を握る小さくて丸っこい手がたどたどしく丸や線を描こうとしている。

 香澄はその時に小春ちゃんの名前を知った。

「小春ちゃんはなんでつまんないん?」

「だって」

 小春ちゃんは、ちょこんとした薄桃色の唇を、ふてくされるように突き出した。

「お家のカギわすれたから入られへんねんもん」

 いかにも子どもらしくいじけた横顔を、香澄は嘆息をもらすなほど愛おしく思いながら、きっと小春ちゃんの拗ねているのは、鍵を忘れたからというばかりではないのだろうと、不服そうな横顔に妹の心を映し見るようにして察するのだった。それよりもお父さんとお母さんが家にいてくれないこととか、他の友だちが遊んでくれないのがさみしくて、それをそうとは自分では気づけないのだろう。そういう小春ちゃんの心の幼さがまた愛くるしくて、香澄は胸をあたためられるのだった。

「なあ小春ちゃん、その石、ちょっとお姉ちゃんにかしてくれる?」

 香澄はそう言って小春ちゃんから石を受け取り、それで向日葵にリボンをつけてみせた。

「わあ!」

 小春ちゃんは、ぱあっと破顔した。

「リボンしてる! すごい!」

「そう、リボン。かわいい?」

 香澄が聞くと、小春ちゃんは華やぐ眼で向日葵を見つめながら、強くうなずいた。

「おねえちゃんすごい、リボンなんて小春、ちっとも描いたことない」

 小春ちゃんは夢みるように呟いた。そして、なにかを思いついたように顔を上げて、

「そうやっ、おねえちゃん、石かして」

 と急に言って、香澄から石を返してもらい、すぐに片方の向日葵の上に「こはる」と書いた。

「ええと、それからな、おねえちゃんはなんていうの?」

「お姉ちゃん? お名前?」

「うん」

「香澄」

 すると小春ちゃんはうなずいて、もう片方の向日葵に「かすみ」と書いた。

 二人の名前のついた向日葵のならんでいるのを見て、

「まあ」

 と香澄は感嘆の声を上げるのだった。

「うち嘘みたいに可愛い向日葵になっちゃった。ありがとうなあ、こんな魔法かけてくれて」

 そう言って小春ちゃんににっこりと笑いかけると、小春ちゃんもうれしそうにほっぺを綻ばせる。

「あんな、こっちのキレイに描けてるほうがお姉ちゃんやねん」

「まあ、なんで? ええの?」

「うん。おねえちゃんすてきやもん」

「そんなことないよ、お姉ちゃんなんか」

 香澄は子どもの誉め言葉だというのに赤くなって、それを打ち消すように、

「小春ちゃんはかわいいなあ」

 と、その短い黒髪を撫でた。子どもらしい細やかな髪で、天使の羽に触れるとこんなだろうかというようなやわらかさが掌を撫でた。

 それから、香澄は小春ちゃんの母親が帰ってくるまで一緒に遊んだ。同じアパートの一階に住んでいるらしく、お互いに部屋を教え合って別れた。

 すっかり日の没した頃にようやく仕事に行った。三度目の出勤が遅刻だというので幸子にひどく叱られたが、香澄はにこやかに聞いた。それで余計に叱られた。

 香澄は、その日の出会いで、すぐに小春ちゃんと親しくなった。

 時々、学校から帰ってくるなり遊ぼうと言って部屋に呼びにくるので、一緒に公園へ行ったりもしたし、朝はやく仕事から帰っていると登校する小春ちゃんにばったり会い、せがまれるがまま手を繋いで学校の前まで送り届けたこともある。

 このひと月に、何度かそういう交わりがあって、つい一週間ほど前のとある夕暮れ時にも、香澄は小春ちゃんとアパートの傍の公園で遊んでいた。

 小春ちゃんのリコーダーの練習に付き合ってあげた。はじめは小春ちゃんから聞いてとねだったのだが、その音色の生き生きしく澄んでいるのに香澄はすっかり癒された。あどけなく美しい音楽だった。茜色の広い空に冴え冴えと響き渡った。

 香澄は、その前の日に寝坊で遅刻して、また幸子に叩かれてまで叱られたばかりだったので、痛いのは嫌だから、リコーダーの音に身をまかせるのもほどほどに、口を開いた。

「ごめんな、小春ちゃん。今日はお姉ちゃんもう行かなあかんの」

 ぐずると思ってできるだけやさしく話した香澄だったが、小春ちゃんはあまり言われたことをのみこめないのか、首を傾げるだけだった。

「おねえちゃんどこいくん?」

「今からお仕事やねん」

「おしごと? おねえちゃんどんなことするの?」

 香澄はなんと答えるべきか迷った。

 売春婦といっても伝わらないだろうが、しかし他になんといえばいいかわからない。彼女は困りながらもなんとか答えようと、

「ええっとなあ……学校のほう歩いていく途中に、駄菓子屋さんあるやろ?」

「うん」

「そこを右に曲がったら、映画に出てくるみたいな、昔のお家いっぱい並んでるのしってる?」

「しんち、っていうところ?」

「そうそう。お姉ちゃんそこでお仕事してるねん。遅刻したら怒られるねん」

 だから、今日はごめんやけどもうバイバイな、と言おうとした香澄の手を、小春ちゃんが突然ぎゅっと両手で掴んだ。駄々をこねると思って、どうしたものかと香澄は困惑したが、そうではなかった。

 小春ちゃんは不安がるように香澄を見上げた。

「おねえちゃんあそこではたらいてるん?」

「え、うん……」

 予想外の反応に戸惑う香澄を、小春ちゃんはまっすぐな目で見つめる。

「お母さんが、あそこの女の人はきたない人らやって言ってた……」

 香澄は胸をつかれた。言葉を失った。

 小春ちゃんは涙をためて、香澄の手をいっそう強く握り、切ない声を継ぐ。

「お母さんな、あそこの人らとな、しゃべったらあかんって言ってた」

 そして、すがりつくように香澄に抱きついて、お腹に顔をきつく押し当てる。香澄は苦しいほどに感じながら、そっと小春ちゃんの頭を撫でた。

 小春ちゃんの声は鋭くふるえていた。

「でも、おねえちゃんいい人やんか。なんで? お姉ちゃんきたない人なん? 小春はおねえちゃんとあそんだらあかんの?」

 香澄はなんとも言いようがなかった。

 売春婦であることを、隠すこととも思わない、自分の浅はかさが恥ずかしかった。隠さなければならなかったと思って、かなしくもあった。

 その日、気まずいままに別れて、それから今まで、とうとう一度も小春ちゃんと話さなかった。

 夕方に小春ちゃんが訪ねてくることもなくなったし、朝の道でも、一度ばったり会ったけれど、互いに見つめ合いながら、すれ違った。

 香澄にとってみれば、自分は小春ちゃんのお母さんが話してはいけないと教えるような身分なのであれば、そうやすやすと声をかけられるはずはなかった。また、頭のわるい自分にはわからないけれど、やはり売春婦なんてものはどこかがおかしくて、小春ちゃんと触れあってしまうと無垢な彼女に悪い匂いをうつすのだろうかとも思い、怖ろしいような気がした。

 それだから、香澄は子どもたちの目の前に出て、男の人へ媚びるための、肌の見えすぎる装いと鮮やかな化粧をさらすのは、どうしようもなく恥ずかしかった。

 そして、小春ちゃんがそこにいるとなっては、今すぐ死にたいようでさえあった。

 きまり悪いのはむこうも同じことなのか、香澄が俯きながらも上目がちに小春ちゃんのほうを窺うと、玄関先に立つもう二人の男の子の後ろに隠れるように佇んで、なんともいえないような微妙な眼差しを香澄へと向けているのだった。

 幸子が歓迎するように口を開いた。

「今年もありがとうねえ」

 それから、香澄の肩をぽんと叩き、気さくな口調で続ける。

「この子な、つい最近うち来たから、今日はいつもより強めにお祈りしたって。多めに力あたえたって」

 香澄はただでさえ恥ずかしいのに、最近働きはじめたとわざわざ言わずとも良いようなことまで言われてしまって、居たたまれなく、下唇をぎゅっと噛みしめた。

「はい」

 しかし、ふと、硬直した香澄の耳に、聞き慣れた小春ちゃんの声がした。

「がんばって、心をこめて、おいのりします」

 はっとして顔を上げる。小春ちゃんは、美しくはにかんで、香澄を見つめていた。仲なおりしようと歩み寄る時に、子どもがみせる、なによりも無垢で眩しい表情だった。

 はずむ心を目で伝えるように香澄は真っ直ぐに見つめかえした。

 小春ちゃんのような幼い子にとっては、お母さんなんてとても大きな存在だろうに、そのお母さんがよごれていると断罪する私へ、彼女は手を差し伸べてくれる。それどころか私の仕事に祈りを捧げてくれるという。香澄はなにもかもから救われるようだった。小春ちゃんに髪を撫でてもらったりして、甘えたかった。

 小春ちゃんと二人の少年が、祈りの掛け声をあげてくれのを、香澄は惚れ惚れと聞いた。

 こうして小春ちゃんが子どもたちの代表者のように祈りを捧げてくれているのにも、色んなことを想い巡った。

 代表者を選ぶ折に、小春ちゃんは私のことを胸に浮かべて手を挙げてくれたのかと、香澄は想像した。子どものちいさな心で、お母さんの言葉や私とのいくつかの思い出と、一生懸命に向き合ってくれたのだろう。香澄はそう思うと、涙ぐむほどありがたかった。

 この役を引き受けたことで小春ちゃんはお母さんに叱られたりしなかったかが心配だった。そんなあれこれの想いを、またいつか小春ちゃんと顔を合わせた時に、話してみようと思った。小春ちゃんのような、妹と違わない年頃の少女が、真心を与えてくれた。今度は私が抱きしめる番だと、やさしい決意を胸の内に、香澄は微笑んだ。

 祈りが終わった。

 真ん中の少年が団扇を二つ幸子に渡す。香澄は静かな感動でぼうっとしながら、深く頭を下げた。子どもたち三人みんなにするようにして、しかし本当のところ、小春ちゃんを見つめていた。

「ありがとう。ほんまにありがとう」

 少年たちは、ぺこりと礼を返してすぐ、陽光にきらめくだんじりへと駆けていく。

 小春ちゃんも、それに続くように駆けていく。しかし、庇の影から飛び出したところで、小さな全身に陽を浴びながら、くるりと振り返った。

「がんばってね」

 彼女はそう言って、照れるように遠慮がちに笑った。そして、さっと駆けていって、子どもたちの群れに交ざった。

 だんじりが、ゆるりゆるりと動き出すのを、香澄は家の前に出て見送った。次の店へ、また清らかな祈りを捧げにいく。

 子どもたちが見えなくなってから、玄関に戻った。

 そしてふと、幸子が手にしている団扇に目をとめた。

 彼女は慌てて、

「それ、うちにもください」

 と、奪い取るように二つあるうちの一つを手に取った。

 さっきもらった時には、小春ちゃんにばかり心奪われていて、気づかなかった。

 香澄は、ひとり安らかに目を細めて、団扇を胸に抱いた。

 団扇の面には、かつて「こはる」と「かすみ」と名づけた二輪の向日葵が、仲睦まじげにならんでいた。


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