ひまわり
しゃくさんしん
葵
三角座りをして足の爪を切る葵が、服も着ないままでいるのが、なんとも可愛らしかった。
「爪は綺麗にするのに、乳をさらけ出すのには恥じらいもないんか」
そう言って笑うと、彼女は布団に寝転がる私を、ちらと見やった。
「だって、綺麗な服着るんも脱がしてもらうためみたいな仕事やねんから。裸で爪切るのもなんもおかしくないやん」
拗ねるような面差しなのに、声音には恨めしい陰翳が纏わりついておらず軽やかなのが、葵らしい物言いだった。いじけることが自らのあどけない顔つきを美しく見せると知っていて、長い花街暮らしにそれが癖になっているのであろう。
ティッシュの上に切り落とされる真白の爪が、窓から差し込む夏の真昼の陽ざしに明るんでいた。
「ここ最近うちがおらへんかったん、なんでか教えてあげよか」
葵は膝に顎を乗せて、まだ甘ったれるような口ぶりのままで言った。
確かにこの半月ほどは、この家に来ても、葵は休みだと客引きの老婆に言われて仕方なく帰るばかりであった。
それでも、遊郭といえばこの辺りにしかないから、慣れ親しんだ艶やかな家並みを慕い、散歩がてら何度も足を運んだ。また、この機に乗じ久しぶりに、葵の他の女と遊んでみようという心もないではなかった。しかし、私もここに足を運ぶようになって十七の頃からもう十年になるから、どこの家の老婆とも顔なじみであるし、ここ五年ほどは葵と深い縁なのも知られていて、どの家もどの女も、他人の客は取るまいと遊ばせてくれなかった。
そのようなことも葵は既に聞き知っているらしかった。
「あんたがうちのこと忘れてご機嫌さんやったあいだ、うちがどんな思いでおったか」
「なんやねん急に湿っぽいこと言うて。金かして欲しいんか」
「あほ」
葵が笑いをこぼしながら私の肩を叩く。そのはずみに切った爪が散らばった。
「もう、あんたのせいで」
「しらんわ」
自分の言ったことに、葵は自分で、ふふ、と笑みをもらし、それから思い出したように、
「ああ、そうそう。だから、うちがおらへんかった理由、しってる?」
「しらん」
「志野さんから聞いてへんの?」
志野さんとは、この家の客引きの者である。葵のいない理由が気にかかるのは当然であったが、聞くのも野暮のように思われて私は何も切り出さなかったのだ。
「聞いてへんよ、そんなこと」
私があしらうように言うと、葵は、急に真面目な顔になった。
「うちな、あんたの子どもおろしてん。入院したりな、しんどかったりな、それで休んでてん」
彼女は沈んだふうに呟いた。無論、私は信じなかった。言葉とは裏腹の幼さを、彼女の口ぶりからなんとなく感じられた。
彼女なりの気を惹く嘘と、私には聞こえた。
だいたい、子ども一人おろすのに半月も休むわけはない。私の子どもをおろしたと葵から聞くのも、これで三度目である。
爪を磨いている葵の、右足のくるぶしのぽうっと血色よく色づいていて愛らしいのを私は眺めながら、彼女も嘘を信じてもらえるなどとは思ってもいないだろうと分かっていた。おそらくは、嘘をつく心をも私は快く眺めると見抜いているのだ。
きっとこの様子では、どこぞの男と恋愛のままごとでもして、しかしすぐに熱も醒めて、この街に帰ってきてしまったというところだろう。そう推察するのであるが、私は騙す気もなく嘘をつく葵に、惚れ直すようでさえあった。
磨いた爪の粉をふうと吹きながら、白々しく物憂げにしている葵は、捨てられるなら捨ててみろと微笑んでいるような傲慢と、すべてがばれるならそれでいいともらす投げやりさで、美しかった。長く娼婦の生活に沈んだ女がきまって孕む、だらしなく荒廃した魂だった。
「あんたの爪も切ってあげよか」
つれない態度から打って変わって、気をほぐそうとするようだった。彼女のいつもの、駆け引きともいえぬような、拙い手管であった。
私の足を、葵の膝の上に置いた。ぱちんと音がしたのに、爪の切れる感触がなかった。
あれ、と思っていると、またパチンと鳴る。爪を切る音ではなくて、外で音がしているのだと気が付いた。拍子木の音らしい。
私は、久しぶりに耳にするようで、郷愁に流れていきながら、
「なんや、なんで拍子木なんか」
「しらへんの? 今日お祭りやねんで」
「祭り? どこで」
「どこで……」
今度は爪を切る感触と音がした。葵は、少し考えるように沈黙してから答えた。
「子どもらがだんじり曳いてこのへん練り歩くねん」
「子どもらが? だんじりを?」
「うん。だんじり言うたかて、子ども用の小さいやつ」
私が葵に聞き返したのは、彼女の答えが思いもよらなかったからであるが、それは子どもがだんじりを曳くことに驚いたのではなかった。
子どもたちの祭りが、艶めかしい街のすぐそばであることに胸をつかれたのであった。
しかし、次第にだんじりの近づいてくる気配があるのには、また驚かされた。そーりゃそーりゃという掛け声と、拍子木の爽やかな音が、ぐんぐん膨らんでくる。
寝転がっていたのを、上体を起こして、私は言った。
「もしかしてこのへんにも来るんか?」
「そうやって言うたやんか」
「いや、そうじゃなくて、このへんって、遊郭にも来るん」
「うん。ほんまに知らへんの? 毎年やってるで」
十年ほどこの街に通って、なぜ自分は今まで知らなかったのか不思議であったが、それよりも、子どもたちの夏の白昼の祭りが遊郭という艶めかしい土地と繋がることに、心を捕らわれた。
かような街のよごれた道を、夏の空に響くような子どもたちの声と拍子木の音が通りすぎるというのは、異様な光景に思えた。それが美しいのか、醜いのか、幸福なのか、不幸なのか、それは目の当たりにしてみなければわからない。
「ここの下も通るんか?」
葵はうなずいた。
「通るどころか、昼から開けてる家には一軒一軒回って、商売繁盛かなんかの掛け声してくれるねん。団扇くれるねんで」
私はますます、子どもたちが来るのを待ち望んだ。
祭りの音は近づいて、太鼓の音も加わっているのが聞こえてきた。
爪を整え終えた足に、葵の吹きかける息が、暖かくもあり、くすぐったくもあり、別に言葉もなく笑っていると、すぐそこで、聞き慣れぬ掛け声がした。べーらべーらべらしょっしょい、と聞こえる。
「なんやあれ」
「ああ、新地のなか入ったんやわ」
「なんで?」
「普通の家は通り過ぎるだけやけど、お店とか会社とかには、玄関の前で止まってあの掛け声やってくれるんよ」
「あれがさっき言うてた、商売繁盛の掛け声か」
「そうそう。あれが聞こえてきたいうことは、もう新地のなか入ってるから、もうすぐ来るで」
私はあることを思い出していた。
あの掛け声をどこかで聞いた気がしていたが、いつだったか、布団太鼓を見かけた時に聞いたのだった。
しかし、子どもたちはだんじりを曳いているらしいのだから、なんともいいかげんな祭りである。こういう街に相応しい鷹揚さといえばそうかもしれない。
掛け声が、すぐ隣の家であげられているように聞こえてくると、葵はにわかに脱ぎ捨ててあった水色のキャミソールを着た。
「どないしたねん、急に」
「どないしたもなにも、子どもら裸で迎えられへんやんか」
「お前が迎えるんか」
「当たり前やんか。うちらのために掛け声あげてくれんねんから、玄関で志野さんとお茶出したげんと」
服を着終えた葵は、鏡の前で髪を整える。
「ごめんやけど、あんたちょっと待っといてね」
「俺も一緒にお茶出すよ」
「あほか、子どもらの前に女と客で出て行かれへんわ」
「お手伝いさんとでも言おうか」
冗談めかして言うと、葵は自らの見え方を確かめるように、色んな表情を作っては鏡に映しながら、
「子どもらかてここがどんなところかしってるのに、騙されてくれへんよ」
「しってんの」
「そらしってるよ、このへんの子らやねんから」
「じゃあ、俺はお前の兄ってことにしよう」
「そんな、唇赤くしたお兄ちゃん、嫌やわあ」
葵が鏡越しにこちらを見て、くすくす笑った。言われた意味が一瞬分からなかったが、私の唇に彼女の口紅が移っているのだと気がついた。
唇を拭う私をよそに、葵は部屋を出ながら、言い残していった。
「そんなに気になるんやったら、窓から見とき。あんまり目立たへんようにしてね」
彼女の階段をおりる足音がして、そのすぐ後に、下から子どもの威勢の良い声が響いてきた。私は慌てて窓を開けて、少しだけ頭を出した。家の前に小ぶりのだんじりがあり、なかに乗って太鼓を打つ子らが見える。だんじりの周りにも青いはっぴを着た子どもたちが群がっている。
真昼の激しい日差しで戸外は明るい。だんじりの荘重な色あいや、子どもたちのはっぴ、彼らの褐色の肌など、眩いほどに鮮やかだ。
玄関先に、とりわけ幼く、鉢巻をした、三人の少年少女がいた。男の子が二人、女の子が一人、親に言われてやっているような無邪気さで、声を揃えて、べーらべーらべらしょっしょいと歌い、拍子木を打ち鳴らす。乾いた音色が、晴天の暑気を軽やかにふり払うようにこだました。
葵が彼らと話す声も、ぼんやり聞こえてきた。
「ありがとうね。お茶飲み。お菓子も持って帰り」
今まで聞いたことのない、包み込むようなあたたかい声色であった。
私は思わず口元がほころんだ。
あの女にも、そういう声を発する時があるのだ。私のような男たちに傷めつけられるばかりの日々ではないのだ。この世のどこにも幸福はあるとさえ思えた。
葵は三人以外の子どもたちにも、手招きでもしたのだろう、太鼓を叩いていた子どもたちはだんじりから降り、他の子どもたちもみんな玄関のほうへ駆けてきた。太鼓の音が止んだかわりに、子どもたちのはしゃぐ声がわいた。
少しして、子どもたちはまただんじりのほうへ戻っていき、まだざわつきながらも、掛け声とともに曳きはじめた。徐々にばらばらの声も揃っていく。
玄関先に、葵がキャミソールのままサンダルを履いて出てきた。陽ざしの強く照りつける道端に佇んで、子どもたちの後ろ姿を見送っている。小さくていじらしいだんじりは、上から見ていると、子犬が覚束ない足取りで歩むように、ゆるゆると進んでいく。
子どもたちの去っていくのを葵は少し眺めてから、こちらを仰ぎ見た。太陽が眩しいのか、片手を額にかざしている。微笑みを浮かべ、小さく手を振った。すごくあどけない、罪のない仕草だった。私が手をあげて応えると、満足げにうなずいて、家のなかに戻った。
部屋に上がってきた葵は、団扇を一つ手に持っていた。
「それか、あの子らがくれたん」
「そう。見て、絵まで描いてくれてるねんで」
私に添うように寝転んで、彼女が団扇を渡してきた。
白い団扇で、空と、海と、二輪の向日葵が描かれていた。海面から茎をのばして咲いている向日葵は、どちらもリボンをつけていて、笑顔だった。
子どもの絵などなかなか見るものでもなく、溌剌とした生命そのもののようで見入っていると、葵が座って服を脱ぎだした。
「なんで脱ぐねん」
「だって、せえへんの? 今日はまだ帰らへんやろ?」
「まあ、そうやけど」
私はまた団扇に目を戻した。
葵が裸になって横になった。そして、私に身を寄せて団扇を眺めながら、明るく言った。
「あの子らが商売繁盛祈ってくれたことやし、あんたにも心つくさんとあかんね」
いつにない葵だった。子どもたちに励まされて、幸せそうに身体を明けわたす、その美しさに私は胸うたれた。
彼女は私の手から団扇をとって、純粋な絵に目を細めた。少しのあいだ、そうしてから、私の胸のあたりを扇ぎはじめた。私の欲情を、おだやかに待つふうであった。
さらさらと心地よい風に安らいで私は静かに目を閉じた。
太鼓と、拍子木の音色と、子どもたちの健やかな掛け声が、遠くからぼんやりと響き渡っていた。
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