第7話
暗い森に、携帯の無機質な呼び出し音だけが鳴っていた。班員は手を止め、Aは訝しげな目を夕凪に向けた。そして、当の夕凪は、
「うわ、ほんとに鳴った」
と、呟いた。帽子の男に緊急用と称して渡されて以来、鳴ったことはなかったのだ。
夕凪は慌ててバッグを下ろし、古い折りたたみ式の携帯を開いた。
「えっと。もしもし」
『坊主。今すぐ家に戻って、準備しろ」
「えっ!?」
『二度言わせるな。準備だ。いいな」
準備――逃げるために、そこに誰かがいた証拠をすべて消せ。
まだ仕事中なのに。
「あの、今、仕事中なんですけど」
『そんなもん、どうでもいい。邪魔する奴は黙らせろ。急げ』
それだけ言って、電話は切れた。夕凪は、二度、瞬きをして、バッグに携帯をしまい込んだ。
様子を窺っていたAが、呆然としている班員たちを睨みつけた。
「おい、何、手ぇ休めてんだ?」
「ご、ごめんナさいっ」
慌ててC-四三番が皆に穴を掘るよう促し、夕凪に訊ねた。
「あの、夕凪サン、大丈夫です?」
「えっと……Aさん」無視して、教育棒を吊っているベルトを外した。「僕、ちょっと用事ができちゃいました」
「はぁ?」
Aは眉間に深い皺を寄せた。
「いやいやいや。お前、仕事どうすんだよ。ほっぽってくのか?」
「えっと……じゃあ、今日だけでいいので代わってもらえます?」
「いや無理だろ! なんだよ、お前。いくらなんでもそりゃねぇだろ?」
「でも、急がないといけないみたいなんです」
夕凪は少しだけ苛ついた。帽子の男が急ぐと言っていたのだから、急がないといけない。仕事は大事だと教えられてもいたが、彼が『どうでもいい』と言ったのだから、準備の方が優先される。
Aは頭をボリボリと掻きむしり、夕凪に近づく。
「だったら、それ。その携帯貸しな。事務所電話して、代わりできる奴を……」
言って、Aは夕凪に手を差し出した。
何を言っているんだろうか、と夕凪は目を
「無理です。あと、急ぎなんです」
「いや、だから、協力してやるから、貸せつってんの」
語気を強めたAのこめかみには、青筋が浮いていた。邪魔する人だ。それに、どちらかと言えば、嫌いだ。黙らせなくては。
瞬間、夕凪は教育棒を引き抜き、踏み込んだ。Aのこめかみ目掛けて振り抜く。
「ぎゃぶっ」
舌でも噛んだのか奇妙な悲鳴をあげ、Aは手押された人形のように倒れた。顔貌が歪んでいた。
「えっと。ごめんなさい」
夕凪はAを見下ろし、小さく会釈した。
Aの喉から、こぽ、こぽ、と空気が抜けるような音が零れた。打ち上げられた魚のように何度か躰を弾ませる。口と鼻から溢れでた血液が糸を引いて垂れ落ちた。
刹那の間の凶行を目撃した班員たちがショベルを取り落とした。尻もちをついたのもいる。
夕凪は一番近くにいたC-四三番に微笑みかけた。
「ちょうどいいから、穴に捨てておいて下さい」夕凪は教育棒をホルダーに収め、クリップボードと一緒に、Aの腹の上に投げ捨てた。「これと一緒に。お願いできますか」
C-四三番は顔を汗まみれにして、頷いた。
「わ、わかり、わかり、まし――」
「あと」夕凪は遮るように言った。「このことは、内緒でお願いしますね?」
人差し指を唇に当て、笑いかけた。
C-四三番は生唾を飲み込み、繰り返し首を縦に振った。
「それじゃ、もう会うこともないでしょうけど、また」
夕凪はC-四三番に小さく手を振り、来た道を駆け戻り始めた。少しだけ名残惜しい。出会った初日に教育したのもあって、怖がられていただろうとは思う。けれど、以降は教育しないで済んだし、休憩時間に興味深い話を教えてくれた。
願わくば、長生きしてほしいものだ。
朝も走って、山道を登って、また駆け下りる。朝食を抜いた躰にはキツい運動だった。ぬかるむ泥土に時折足を取られながら、食べそこねたポテトサラダを思い返す。顔に傷のある男が恨めしい。彼は充分な額を置いていったつもりかもしれないが、空腹のせいで遅れて、帽子の男に見放されたりしたら。一万円では、まるで足りなくなるではないか。
『萌芽』の事務所に飛び込んだ夕凪は、失笑した。
「そっか」
昨日の女の子。彼女は三十万円を受け取れるという。なぜか、今、分かった。
需要と供給の釣り合いというやつだ。顔に傷のある男にとっては一万円で、夕凪にとっては十万円、スーパーにとって二〇〇円の価値しかなかったのだろう。
夕凪は廊下を駆け抜け、更衣室で服を着替え、作業服を丸めてバッグに押し込んだ。
「あとは……そうか。マグネット」
事務所に走った。廊下ですれ違った職員も、部屋にいた職員も、不思議そうに夕凪を見ていた。構わず、夕凪は出退勤のマグネットをポケットに突っ込み、部屋を出た。
背中に声をかけられたが、答えている暇はない。
夕凪はひとつ鋭く息を吐き、家までの道を走り始めた。
107,784円の命 λμ @ramdomyu
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