歌舞伎町の嬢王

KisaragiHaduki

歌舞伎町の嬢王

 母さんは、本当にどうしようもない人間だったなぁ、と私は時々思うことがある。

 

 母さんとの思い出はとても少ない。いや、少ないというより、無い、と言った方が正しいだろう。

 私は生まれてからこの方、母と外出したことや、家族で休日を過ごしたことがなかった。

 何故か? 答えは簡単だ。母さんは、私のことを心の何処かで、疎ましく思っている節があったのだ。母さんは、ホステスのママ。それも、歌舞伎町で一番売れているホステスのママだ。きっと母は仕事の邪魔にしかならない私を、邪魔に思っていたのだろう。


「……お母さん」

 私は消え入りそうなほどに小さな声で、客と談笑している母に声を掛ける。

 母は私に気が付いていないのか、豚のような風体の男に、こびへつらった顔で笑いかけ、猫撫で声で話をして、お酒をグラスに酌んでいる。

「……おかあ、さん」

 私はもう一度、自分が出せるだけの大きな声で母に呼び掛けた。が、しかし。私が一生懸命に出したその声は、母親たちの笑い声に掻き消されて、誰にも届かない。

 これ以上やったところで無駄だろうな。

 そう理解した私は踵を返すと、店の外へと出た。

 道の隅まで移動し、其処に在る石垣の上に座ると、私は膝を抱えた。

 夏とはいえ、身に着けているものが流石に薄手のワンピースとキャミソールだけでは寒い。私は寒さを紛らわすため、目の前の道を行く人々へと目をやった。

 

 スーツ姿のサラリーマン、でろでろに酔っぱらっているホームレス、彼氏と腕を組み、楽し気に歩く女の子、風俗のお姉さん。

 私はいつも通りの風景に大きな溜息を吐くと、今度は、店から出てくる人々に視線を移した。

 サラリーマン、医者、医者、政治家、医者、医者、政治家……。

 あまり変わり映えのしないラインナップだ。歌舞伎町一売れている、といっても、そんなに芸能人や、有名人が訪ねてくるわけでも無い。そもそも、そんな有名人達は、パパラッチを警戒してか、歌舞伎町自体に近寄らない。

 まぁ、そんなもんだろう。私は石垣の上に立つと、その上で、くるくる、と、まるでバレリーナの様に回って見せた。なにを考えているわけではない。そうしている間は気分が落ち着いたし、寒さからも、退屈からも逃れることができた。

 だから私は回るのだ。無心に、ただひたすらに、心無いバレリーナ人形、のように。


「りんご、ちゃん」

 その声で、そんな私の動きは停止した。いや、停止せざるおえなかった。

 ふらつく体のバランスを取る。あの動きは大好きだが、この感覚は嫌いだ。

 そうしたのちで、私は前を見る。其処には、不思議そうに私を覗き込む男が居た。

 私は彼を睨み付けると、無愛想に石垣の上に座り込んだ。

 彼は、安田一治やすだ もとはる。母さんの彼氏で、若手の議員。どういう訳か毎週金曜日に、母さんの店を訪ねてくる。

「偶然だねぇ、何してたの」

 にっこり、と愛想笑いを浮かべているのであろう一治さんは、こちらへじりじり、と近付いて来る。

「回って……ました」

 不快だ、というように眉間に皴を寄せ、私は淡々と答える。

 この人は嫌いだ。そう彼に聞こえないようにつぶやいた後、私は彼から視線を外す。

 この男は、顔ばかり良い。一つ一つのパーツがくっきりとしたその顔を見れば、誰だって彼をタレントか、アイドル歌手だと見違えただろう。

 この男は、そんな容姿を利用して、母さんを誑かしているのだ。誑かしている、という確証だってある。私は見たのだ。店のすぐ近くにあるホテルに、彼と若い女性が、入っていくのを見たのだ。

 母さんを誑かしやがって。私は小さく呟くと、その怒りを込めて彼をまたにらんだ。だが、彼はもう其処には居なかった。

 彼はきっと私の返答があまりにも面白みのないものだったからか、私からとっくに興味を失い、その場から離れて行ったのだろう。

 私は、大きな溜息を吐いた。

 静かに目を閉じる。目に浮かぶ、母さんとの唯一の思い出である、九十九里浜。母さんは、父さんと離婚したあの日から、私のことを見てくれなくなった。笑いかけてくれなくなった。

 嗚呼、私が、いったい何をした、というのだろう。母親から愛されず、母親の愛人には嘲笑われ――。私は顔に膝をうずめ、そのまま耳をふさいだ。そして、眠りの海へ、音もなく、静かに沈んでいった。


 それから母さんと私は、変わり映えのしない日々を送った。

 母さんはいつもと同じようにスナックを経営し、毎週金曜日に一治と会い、性行為を行った。私は私で日中を過ごし、夜になるとスナックの脇にある路地裏でただ無意味に時間を過ごした。

 私としては、早く大人になりたかった。速く大人になって、ひとり暮らしをして、この家から離れたかった。

 

 私が十五歳になったその日、私のそれ、は思わぬ形で叶うこととなった。


 ――母の蒸発に真っ先に気が付いたのは、母のスナックで働くボーイ、だった。

 その青年は前日、店の休憩室に忘れ物をしたらしく、その日の朝、誰よりも早く出勤した。そして、そして――、もぬけの殻になった店舗を、目撃した。

 母は、あの男、一治と駆け落ちし、更には夜逃げしたらしく、私は置いてけぼりをくった。

 聞くところによると、一治は母と駆け落ちした同時期に政界から身を引き、海外……それも紛争の続く地域で、恵まれない子供たちを支援するための活動をしているらしい。


 つまり私は、母とその愛人に、完全に捨てられたのだ。

 その日から私は、暫しの期間人々の叱責と罵倒に、苦しめられるように、なった。

 母から給料を貰えなかった従業員。母の店に通っていた客、母に一度金を貸した、という闇金業者。

 私はそれらに、毎日、毎日、毎日毎日毎日毎日毎日――、責められるのだ。気の休まる様な日は無かった、といっても過言ではないだろう。

 

「あ」

 預金通帳を見ながら、私はそう無意識に声を挙げた。

 ――私のなけなしの預金が、もう尽きかけていたのだ。いや、それはしょうがないことだった。闇金業者に毎日金を返し、続々とやって来る元従業員たちに未払いの給料を払い、挙句の果てには空っぽの店のテナント代を払い。

 そんな生活を続けていれば、すぐに二十万ぽっちの貯金なんてすぐになくなる、というのは、誰だってわかっただろう。

 しかし、私には、そんなことを考えられるほどの余裕が、無かったのだ。

 毎日、いろいろな種類の人間に罵倒され、貶され。それで、自分がやったことでやられるのならまだ、解る。幾分か納得がいく。だが、自分のやっていないことでそうされるのだ。心の余裕はだんだんとなくなり、今にも発狂しそうだった。

 そんな中で、金の計算まで出来る人間が、何処にいるというのだろう。其処まで考えて、私の思考はオーバーヒートした。考えれば考えるほど、焦ってしまう。焦ってはいけない、焦ってはいけない。

 私は深呼吸をすると、こめかみを指でぐぐっ、と押した。この行為にも、別段意味はない。こうしたほうが思考が晴れやかになるから。ただそれだけだ。

 

 私はどうしたら効率的に金を稼げるだろうか。それを真剣に考えた。

 まだ十五歳の私は、スナックやガールズバー、風俗店、キャバクラなどで稼ぐのは無理だろう。昔、母が店をやっていた頃ならゴネで入店で来ただろうが、今の私は、借金漬けの少女。業界の鼻つまみ者だ。

 普通の店でアルバイトをするのも年齢的に不可能だ。私は考える。考えて、考えて、考えて、考えた。

 しかし、答えという答えは一向に出ず、ただ、喧しい蝉の声だけが当たりに響いた。

 

 私はその後、また、回っていた。回りながらも、どうすれば効率的に、かつ高額のお金を稼ぐことが出来るのだろうか。ということを考えていた。

 突如、私の動きが止まる。まるで壊れたオルゴールの様に。私は、回りながら、ある答えを着想したのだ。

 その方法はあまりにも低俗で、貧欲で、下品で、最低な方法だった。しかし、私には、もうそれしか、手段が遺されていなかったのだ。

 

 あの石垣の上。私は人の波を見つめる目をじっ、と凝らしていた。

 風俗に入っていく人。私はその姿にぴくり、と反応すると、その男を呼び止めた。

「おにいさん、風俗よりも、とっても安いのに本番ありで出来ますよ、どうですか」

 そう、私が、導き出した答え、というのは『ウリ』、もとい売春、だったのだ――。


 私はそれから、何度も、何度も見知らぬ男と身体を重ねた。

 千円ぽっちだった預金は、一万円となり、五万円となり、十万円となり、二十万円と膨らみ、私はその金で闇金に借金を返し、未払いだ、という従業員たちの給料を払った。

 

 あっさりそれらは完済し、私は、誰からも責められず、縛られない生活を、送れるようになった。当初私は喜び、自分のやりたい子を好きなだけ、誰にも遠慮せずに行った。私は何でもできる。ショッピングも、読書も、何でも。何度も、何度だって、そう喜んだ。

 だがしかし、何故か私は、また数日程経つと、売春を再開した。何故か? 答えは単調である。私には、売春で巡り合った男しか、自分を愛してくれるような人間が居なかったから。

 

 売春で私を買った男は、私を愛してくれた。髪を撫でて、体に触って、甘い言葉を掛けてくれた。私にとってそれは、どんな娯楽よりも楽しく、どんな体験よりも刺激的だったのだ。

 

 私は何度も何度も知らない男達から金を貰い、体を重ねた。その都度貯金は増え、その都度私は幸福になれ、その都度私と身体を重ねた男達の数は増えた。

 そんな生活を送って八年。いつしか私は、その有り余る貯金と、知り合いとなった男達を利用して、母に復讐してやりたい。そう考えるようになった。


 私が、あの憎き母に復讐できる方法はただ一つ。店を再開させること。そして、母が運用してきた時以上に、店を流行らせる、ということ。


 昔、母が暖簾を挙げていたテナント。其処に私は、ある業者から買った家具をずらり、と並べた。

 煌びやかなシャンデリア、柔らかく、トランポリンのように弾力があるソファ、丈夫で、黒く輝く黒曜石のテーブル。それらを数品並べるだけで、店は煌びやかに、派手になった。

 他にも様々な所を改築した。ハツカネズミのような汚らしい色の壁は黒く、何処か怪しさのある色に変更し、人が居ないのに開閉する自動ドアは、古き良き木のドアに変更した。

 気が付くと、母があの時代に経営していた店の面影は、もう何処にもなく、ただ、美しい、怪しい夜の店が其処に有った。

 私はそれに心から悦び、その雰囲気を守るために、たくさんの光源、家具を購入した。

 だがしかし、問題は人だ。ボーイ達は、母時代に雇っていた青年たちを数人、雇うことが出来た。しかし、女の子達がなかなか集まらない。

 最近は誰でも気軽にお小遣いを稼げる時代らしく、スナックに入ってまで稼ぎたい、という女子は減少しつつあるらしい。


 私は、ある男に連絡すると、『今日は特別』という嘘を吐いて、無料ただで男に自分を抱かせた。

 その男は、派遣会社を運用している、という、海野という名の男だった。

「……あのさぁ、私。店を、もっかい開こうと思うのよ」

 ベッドの淵に座り込み、間抜けな格好でズボンを履く男の背に、私はぽつり、と呟いた。

 男は首をこちらに向けると、気だるげに声を挙げる。

「良いんじゃなーい……言っとくけど、俺、金出さないよ……他の人に頼んで」

 男から出た言葉は、そんなそっけない物だった。私は、まぁ、予想通りだよな、と口内で呟くと、自らの携帯電話を手に取り、画像フォルダを開いた。

 其処に有るのは、私と男との性行為の様子を撮影した数十枚の画像。男はそれを見て、ん? という間抜けな声と共に、首を傾げる。

「海野さん……、既婚者だよねぇ。子供もいる……隠してるつもりだった? バレバレだよ」

 ちら、と私は男の左手の薬指を見た。くっきり、と残る、指輪の痕跡。それが婚約指輪の痕跡だ、ということは、子供だって解っただろう。

「奥さんの電話番号とメールアドレスと、お子さんのメールアドレス、抑えてるんだぁ、私……実は……」

「息子さん、かっこいいね……天使さんみたぁい……ねぇ、歳……私と同じくらい……?」

 ふふふ、と含み笑いをする私。男の顔がだんだんと青ざめていく。男は慌ててズボンの腰ポケットから財布を取り出すと、数枚の一万円札を素早く取り出した。きっと、私が次の瞬間に言おうとしている言葉を理解したのだろう。

「いくら?! いくら、いくらほしい?! いくらでもやる、だから……黙って、いてくれ……」

 弱弱しくそういう男。私は今にも笑い出したいのを我慢して、男に告げる。

「お金は要らないけど……海野さん、キャバクラ、運用してたよね?」

「女の子ォ、数人……紹介してほしいんだぁ……」

 その日、依頼、海野は私に連絡を取らなかった。私を愛してくれる人が一人減った、というのは悲しかったが、代わりに数人の女の子が、私の店に入る、ということが確約されたのは、嬉しかった。


 それからの一年間、という歳月は、短いようにも感じたし、長いようにも感じられた。私はその間、宣伝や従業員集め、役所への手続きや、税金に関する手続きを、ざっと、ではあるが終わらせた。

 それらは、かつての援交相手に頼れば、簡単に終わらせられた。とても、とっても簡単に、終わらせられた。

 今日が開店のひだ、と考えると、いまだにそわそわとする。

 そんな自分を落ち着けるため、私は大きく息を吸うと、ドアを僅かに開いた。そして、そのわずかな隙間から、店のドアのノブに掛けられた『closed』《準備中》という看板を裏返し、文字列を『open』《開店中》というものに変更した。

 ドアを閉め、私はフロアに円陣を書いて集まる女の子数十人達に発破をかける。

「今日は開店初日です。この店は、私の母からある、古き良きお店です。みなさんには、その店の顔となり、働いてもらいます。そのことをしっかりと自覚して、頑張ってください」

 はい、という威勢のいい返事。私はにっこり、とほほ笑んだ。

 あの男……海野が回してきた女の子たちは、皆が皆プロ意識を持った、解語の花、であった。あの男は、それほど、妻に援交をばれるのが怖い、ということだろうか。

 くふふ、と私が一人で笑った時、カウベルの気持ちのいい音が、店内に響いた。入り口のドアが開いたのだろうか。

 私は振り返る。其処にはやはり、私の援交相手と、その仕事仲間と思しき男が居た。私は男に媚びるときの笑みを浮かべながら、その男に近付く。

「来てくれてありがとう。とっても嬉しいわぁ」

 ――そんな、心にもないことを言いながら。


 その後も、続々と客はやって来た。その大半は、私の援交相手と、その連れだったが。

 

 私は、客の数を数えながら、笑いを堪えるのに必死だった。

 母が店を経営していた時、一日にやって来た客は千人ほど。しかし、私が経営した途端、 一日にやって来た客は、この時点で千五百人。

 ――母に、勝利した。私はガッツポーズをとると、この店を……私のお城をもう一度、ぐるっ、と見回した。

 綺麗。綺麗。とってもきれい。怪しくて、艶やかで。薄暗いだけの母さんの家とは、月とすっぽんだ。

 嗚呼、まさに私はこの街の女王。悪い魔女を打倒し、この場所へやって来たの。

 そんな妄想をしながら、私は店内を歩いて回る。その足取りは興奮からか、千鳥足で、酔ってるの、ママ。と酔っ払い達に言われるほどだった。

 

 今夜からはこの街で、あたしが、女王。

 私はくすくすと笑い、そんなことを考えながら、その晩を過ごした。

 

 が、しかし。その次の晩も、その次の次の晩も、その晩に店を訪れた客は、二度と、店を訪れることはなかった。どういうこと? 私は赤字まみれの家計簿と睨めっこしながら、声は出さずに静かに唸った。

 初日に来てくれた客がその後来てくれない、というのはよくあることだ。しかし、私の場合は、来てくれない、だとか、そういうレベルじゃない。

 全く、のだ。私は当然困惑し、初日に来てくれた客に連絡を取った。


「あ~、うん。ちょっと……忙しくて……ね、うん」

「ねぇねぇ、ところでさぁ、その内会えない? ちょっと溜まっちゃってさぁ」


 客から帰って来たのは、茶を濁すような答えだった。

 

 自然と私は、嫌なことを考えて、しまった。

 もしかしたら、かつての……母が経営していた頃の客が、私に関する悪い噂を流しているのではないか。もしかしたら、母を知る人間が、私と母が母娘である、という噂を流しているのではないか。もしかしたら、もしかしたら、もしかしたら……。

 嫌な仮説が、頭をよぎる。それらすべてに、確証があるわけではない。あくまで、私の、妄想だ。

 私は手で顔を覆い、大きな歎息を吐いた。このままでは、店は一か月と経たずに潰れてしまうだろう。その場合、私はどうなる? また、あの時の……惨めな売春婦に戻るだけだ。

 どうすればいい? 私はいったい、如何すればいいのだろうか。悶々とする私の思考を、「お母さ、ん」という、幼い少女の声が阻止した。

 私ははっとして顔を上げる。其処には、幼い頃の、私が居た。私は驚く。目の前のこれは、幻覚だろうか。いや、考える必要はない。目の前のこれは、明らかに幻覚だ。

 幻覚は、私がこっちを見たのと同時に、嬉しそうに微笑むと、タタタ、と足音を立てて、店の外へ飛び出そうとした。

 私は立ち上がり、その背を追った。あの幻覚は、何かを私に伝えようとしているのだろう。そう考えての行動だ。

 幻覚は、私に歌舞伎町の中を右往左往させた。

 私は何度も、何度も息を切らし、何度も、何度も転びそうになった、だというのに、幻覚は、一度たりとも怯むことなく、時には明るい笑い声を浮かべながら走り続けている。何? 何が目的なの? 私のそんな問いかけに、幻覚はやはり答えない。

 

 気が付くと幻覚はいつの間にか消え、私はただ、黄昏の歌舞伎町に一人、取り残された。

 辺りを見回す。辺りにあるのは黒色のゴミ袋が散乱したゴミ捨て場と、『真実ヴェリテ』という名のBARがあるのみ、だった。


 私は絶え絶えの息を整えると、そのスナックのドアを、そっ、と開いた。

 

 ウイスキーの臭いと、何処か懐かしい、暖かい空気が、私の肌を撫でる。

 ジャズの甘い音楽と、ガラスコップを磨く音だけが響く、静かなBAR。私はほっ、と息を吐くと、カウンターに立つ、マスターと思しき人物を見た。

 まるで宗教画などで見かける天使の様に明るい色で、ふわふわとした髪。ぱっちりとした瞳、其処らの女性モデルなんかよりもよっぽどに長い睫。高い鼻、薄い唇……。

 私と同年代ほどの美青年が、其処には居た。胸が高鳴る。私はその場で硬直してしまい、ただ青年のことを見つめることしか出来なかった。

 青年はというと、始めのうちこそ私のことなど微塵も気づかず、夢中でコップを磨いていたが、やがて私の視線に気が付くと、さわやかな笑みを浮かべて、「いらっしゃいませ」と、甘い声で、言った。

 私は、まるでロボットの様にぎこちない動きでカウンター席に座ると、自らの正面に居る、青年の顔をちらり、と見つめる。

 やはり、正面から見ても、青年の顔は美しかった。私は注文もせずに、ただうっとりと、恍惚の表情を浮かべてしまっていた。

「あの……ご注文は」

 そんな青年の声で、私ははっとする。

「じゃ、マイアミをお願い」

 適当に、知っているカクテルの名前を言ってみる。酒はまり得意ではないが、こんな美青年を見ながら酒を呑む、というのも良いかもしれない。ぼんやりとそんなことを考えていると、カクテルはもう、目の前に出されていた。

「あぁ、あ、ありがとう」

 軽く礼を告げた後、私はカクテルの入ったグラスを持ち上げ、中に入っている液体を一口、たった一口だけ飲み込んだ。

 いやでも視界に入ってくる青年の美しい横顔。それに意識をもっていかれているせいか、カクテルの味は、全く、と言っていい程、解らなかった。

 私はそのたったいっぱいのカクテルを呑み終えると、席を立った。この青年がいるだけで、気が気でなくなってしまう。

 私はレジの前に立ち、自らの懐に仕舞った財布を取り出した。そして、その中を覗き込み、言葉を失った。

 中に入っていたのは、黄金色に輝く五円玉のみ。なぜ、これっぽちしか入ったいないのか、その原因を考えて、私は、今さっきまで自分が、店の財政について悩み、自らの生活費についても悩んでいた、ということを思い出した。

 なるほど、財布の中身を、この五円玉以外、すべて出してしまっていたのか。私は納得すると同時に、困窮した。理由が分かったはいいが、それでお金が増えるわけでも無ければ、誰かが助けに来てくれるわけではない。

 私はその場から逃げたしたい、そんな気持ちになった。


 青年は、そんな私の様子が正常ではない、ということを察知したのか、私の財布を覗き込み、あー、という声を漏らした。

「お金……足りないんですか?」

 はい。私は弱弱しく頷く。

 青年は一瞬、困惑の表情を浮かべたが、またすぐに爽やかな笑みを貼り付ける。

「……じゃあ、ツケておきましょうか?」

 そんな青年の優しい言葉に、私の口はかっれにえ、という言葉を吐きだした。

「お姉さん、良い服着てるし、その財布だって、ブランドものでしょう? お金なさそうには見えないし……」 

 だからお金は、次来てくれた時で良いですよ。青年はそういって笑みを浮かべた。まるで、聖人のような笑みを。

 私はありがとうございます、と深く体を折り曲げ、礼を述べると、青年に何度も、何度も感謝の言葉を述べながら、その場を後にした。

 出来る限り音をたてないように、外へ出る。

 そして、其処に広がる景色に、私はああ、と声を漏らす。視界にいっぱいに広がるビル、民家、屋台、人間、空。それらすべてが、黄昏の色に染まって、キラキラと輝いていた。私はまるで幻想のように美しい景色が見れた、という喜びと、素敵な人に出会えた、という嬉しさで胸をいっぱいにした。気分は、おとぎ話のお姫様。優しい王子様に、綺麗な王国。それらが私を護ってくれる。そんなルンルン気分で私は、来た道を引き返して、店に舞い戻った。

 

 しかし其処に有るのは、現実のみだった。何時まで経っても客がやってこないスナック、という――。

 

 私は、客足を増やすために、自分が出来ることはなんでもした。

 援交相手に何度も連絡を取ったし、道端でポスティングだってした。母のかつての客にも店に来るよう頼んだ。だが、客足は一向に増えず、むしろ減る一方だった。


 私は苛立ち、店の開けていない昼間は、あの青年のバーに、入りびたる様になった。青年は、私のことを拒まず、ただ、私が望んだ酒を、気が利いた一言と共に、出してくれるだけだった。


「もうさぁ……!! みんな、解ってないのよ!! 母さんはかつて、歌舞伎町の女王、とまで呼ばれたのよ? その娘の店よ? 素晴らしいに決まってるじゃないの……!!」 

 本日三杯目のウイスキーを飲み干し、私はそんな限りなく愚痴に近い弱音を、口から零した。

 青年は何も言わず、ただ頷いている。

 私はグラスを勢いよくカウンターに叩き付けると、「マスター、おかわりぃ!!」と大きな声で叫んだ。

「あまり呑み過ぎはいけませんよ」

 青年は一言、そう一言だけ私を諭すと、カウンターに叩き付けられたグラスに、四杯目のウイスキーを注いだ。

 私はそれを暫く眺めた後、はぁ、と重苦しい息を漏らした。

 店の経営だってうまくいかない、かつて何十万円もあったはずの貯金はもう殆どない。店の経営の為、闇金と言われる金融機関に手を付けてはいるが、そこでの借金はもうどんどん膨らみ、いまや私一人で返せるような額ではない。 一体どうすればいいんだろう、私は。

 うんざりとした私は、ウイスキーを一気にまた飲み干すと、席を立った。その途端、ぐらり、と後方へバランスを崩してしまった。なんだろう。酒の飲み過ぎか? 私は壁に手を突き、体の角度を修正すると、青年に手を振った。

「あぁ……今日も、ツケで良いですよ」

 青年はにっこりとほほ笑みながらそういうと、私に小さく手を振り返してくれた。

 

 実をいうところ、私はこの一年間、青年の店……『真実ヴェリテ』の支払いの大半を、ツケで払っていた。 

 初めてあの店を訪れた次の日、私はなけなしの所持金、数万円を持って、また店にやって来た。

 厭なことを忘れたくて、酒を一杯だけ呑もうと思ったのと、先日ツケてもらったお金を払おう、と考えてだった。

 

 一杯だけ、一杯だけ……。そう考えていた筈なのに気が付くと私は、二杯、三杯、四杯、とどんどん呑み進めていた。

 その間の記憶は殆ど……というか、全く、と言っていい程ない。

 知らぬ間に私は、十万円程、酒を呑み続けていたらしく、困ったような顔でレジの前に立つ青年と、汗を滝のように流す、自分が居た。

 財布の中に入っていた現金はたったの五万円。十万円には到底及ばない。私はひとまず財布の中に入っている現金、五万円を青年に付きだすと、その中にある小銭を掻き出した。小銭は五百円玉が五枚と、一円玉が七枚。それしかない。

 私はそれもレジの上に置くと、あぁ、と弱弱しい息を漏らした。一度目のみならず、二度目、三度目、と持ち合わせが足りないなんて……。

 自分の情けなさと、恥ずかしさで、泣きたかった。顔から火が出そうだった。私は俯き、その場で蹲る。

 青年はあはは、と苦く笑うと、「いいですよ」と甘い声で、私に声を掛けた。

「いいですよ――、今回もツケで。いや、何回でも、いいですよ。お姉さんが払える日に、まとめで払ってくれれば、良いです」


 私は、それから一年間、青年のそんな優しい言葉に、甘えて来たのだ。

 

 そして、初めはたったの十五万だった借金は千百万まで膨らみ、青年の店に対するツケは五百万まで、増えた。

 私はもう、憔悴しきっていた。理由は、言わなくても解るだろう。店の経営は火の車、借金は膨らみ、いつ家が差し押さえられるか解らない状態。 

 そんな状態に陥った自分が情けなくて、私は、また大きな溜息を吐いた。


 それから間髪入れずに、青年の手によって、カウンターに何かが置かれる。 

 それは、錠剤だった。カラフルな色合いと、何か文字が刻まれているところを見ると、お菓子の様にも見受けられる。

 私はそれをテーブルの上に置いたままで、青年の方を見る。

「なぁに、これ」

 青年はそっけなく「精神安定剤」と答えると、私から視線を外し、さっきまで磨いていたガラスコップを手に取り、また磨き始めた。

「……最近、お姉さん、悩んでるみたいだったからね。それ、飲んでみたら?」

 私はふーん、と鼻を鳴らすと、その錠剤を光で照らしてみる。カラフル。昔よく食べた、ドロップスが脳裏をよぎる。

「ありがとう」

 そう軽く礼を言うと、私はジップロックの中に入れられた薬を、ジップロックごと懐に仕舞った。その日は、その後三杯ほど強いウイスキーを飲んだのち、家に帰った。

 

 家は今日も空っぽで、ただ空虚な部屋と、冷たい空気が、私を出迎えた。

 私は誰も居ない空間に向けて「ただいま」と呟くと、靴を脱ぎ、リビングへ足を進める。

 そして、スーツを脱ぐと、リビングにある古びたテーブルの上に、件の錠剤入りのジップロックを置く。

 本当に、本当にきれいな色。私は台所で水を汲むと、その錠剤を二錠、掌の上に乗せた。

 錠剤を口に入れ、その後水でそれらを流し込む。スーッと、視界に掛かっていた靄が晴れるような、そんな感覚がした。

 

 瞬きする間もなく、私の目の前に広がる景色は、一変した。

 薄暗く、ただただ空虚な自室は無くなり、まるで御伽噺に出てくるような、キラキラの宮殿が、其処に現れた。


 私は、その宮殿の中心にある、大きな玉座に腰掛けている。

 ニコニコ顔で、たくさんの兵士たちが私の前にずらっ、と並ぶ。


 私は、これはいったい何なのだろうか、と考えた。

 しかし、口と身体は私の意思と相反して動く。


 私の指は、一番左側に居る家臣を指差した。その家臣は、なんだか、あの海野、という男によく似ていた。

「お前は、首を吊りなさい」

 そう私が指示すると、家臣は近くの銅像にロープをつるし、首を吊って、死んだ。

 

 私は愉快でたまらない、というように笑い声をあげた。実際私自身笑いたい訳では無かったし、何一つとして愉快なことなどなかったのだが、自然と私の口は、私の声は、笑い声をあげる。

 私が瞬きをした次の瞬間、もうその広々とした宮殿は消え失せ、ただ薄暗い部屋のみが、私の視界に広がった。


 私は何とも言えない不快感と、爽快感に包まれ、部屋のソファに、ただぐったりと座り込んでいた。

 今のは、いったい何だったのだろう。私はいつの間にか寝てしまっていて、今のは夢だったのだろうか。それとも、この薬の副作用で、何か幻覚でも見ていたのだろうか。

 其処まで考えて、私は目を閉じた。今のが何だったのかはどうでもいい。明日までに、お店の売り上げを増やすための策を考えなければならない。

 

 そう、そう確かに決意したはずなのに、いつの間にか私は、泥の様にぐっすりと、眠ってしまったのであった。


 ――それから私は、何度も青年の店に通い、青年からその薬を貰い、店に行く。そんな生活が暫し続いた頃、私の精神はもう、すっかり擦り減ってしまっていた。

 店の経営は全く改善されない。それどころか借金は膨らみ、店の店員も、かつて母の失踪に気がついた男、その人のみとなってしまった。

 私は、青年の薬を頼りに日々を生きていた。お先真っ暗で、その日暮らし、という言葉の良く似合う生活だったが、その薬を飲んだその瞬間のみ、気持ちが晴れた。視界に掛かっている靄も晴れ、とても楽になれた。


「その、お姉さん。申し訳ないんですが、今日からこの薬、有料にさせて下さい」

 青年がある日、そういった。青年は腑に落ちない、というように口を尖らせる私を見ると、びくびくとしながら、そのわけを語り始めた。

 

 青年のバーは、元より経営が困難な状態で、新規の客が定期的にやって来るが、常連は私を除いて一人もいない。

 唯一の常連である私が、金も払わず、ほぼツケで酒を呑んでいたことより、ただでさえ難しかった経営はほぼ不可能、という状態に陥ったらしいのだ。そして、せめてもの収入になれば、と考えて、私に今まで無料ただで渡している精神安定剤を、有料にした、という訳らしい。

「……で、いくら?」

 私はもう薄っぺらい財布を取り出しながら、青年に問い掛ける。

 青年は少し考えこんだのち、二本、私に指を突き出した。

「――二十万円で、お願いします」


 青年のそんな言葉を聞いた時、目の前がズ――――ウウウン、と暗くなっていく様な気がした。財布にあるのは、たったの一万円。それも、私のなけなしの金だ。


「ごめんね、ちょっと待ってて……」

 青年にそう詫びを入れ、私は外に出た。携帯電話を取り出し、普段金を借りている金融会社に電話を掛けてみる。

 トゥルルル、という機械音ののち、男の低い声が耳に響く。

「……なに、梨見さん。また金?」

 男の機嫌が悪い、というのは、ぶっきらぼうなその口調と、苛立った声から考えれば、すぐにわかることだった。

 私は恐る恐るはい、と返事をすると、いくら、と問い掛ける男に、さっき青年が条件として出した金額を述べた。二十万。はたして闇金業者は、金を貸してくれるだろうか。私はびくびくとしている。 

「いいよ。銀行口座に振り込んでおくから。……その内返してよね」

 ありがとうございました。私は電話の前でお辞儀をすると、近くの銀行に走った。

 ATMで預金を確認する。二十万。確かに振り込まれている。

 私はそれらを下すと、また青年の店、『真実ヴェリテ』へと走った。

 

 店はがらんとうとしていて、青年は退屈そうに携帯電話を眺めている。

 

「にじゅ……二十万、もって、きた……」

 肩で息をしながら、私は青年に二十万円の入った封筒を手渡す。

 青年はそれを両手で受け取ると、にっこりと、嬉しそうに微笑み、私にまた、数粒の錠剤入りのジップロックを手渡した。

 去り際に私は、青年のその笑顔が、何処か私を嘲笑っているような、そんな気がしてならなかった。


 私は薬を飲み、店に出て、また青年の店に通う、そんな生活をまた、一か月ほど繰り返した。

 もう闇金は家にまで取り立てに来るようになり、私は青年の店で夜を明かすことが多くなった。

 

 青年は、私の呑み代は変わらずツケにしてくれたが、薬には二十万円を払わせた。二十万円、四十万円、六十万円。薬の値段は安い、とはいえなかったが、それでも買いたくなるほどの魅力があった。

 

 ある日、青年がいった。

「……お酒のおつまみに、アンパンは如何ですか?」

 それは、何の変哲もない茶色いアンパン、であった。私は軽く礼を言うとそれを受け取り、一口齧った。漉し餡だった。漉し餡は大好きだ。

 私は二口、三口、と食べ進めていくにつれて、やがて私は違和感を覚えた。奇妙な味がする。奇妙な味、といっても、まるで草や花を食べているようなあの味。それが微量ではあるがするのだ。そして、手足が痺れてくる。

「なんか、てと、足が……ビリビリするんだけど」

 そう私が口走ったその瞬間、青年はにやり、と笑みを浮かべた。私は成すすべもなく、ガタン、と音を立ててカウンターから崩れ落ちる。

 私はうまく動かない手を、青年に向かって伸ばす。青年はそれに気が付いてか、私の手を掴むと、ニタニタ、と私のすぐ近くに屈みこんだ。

 そして携帯電話を取り出すと、一枚の写真を私に見せる。

 それは、首を吊っている中年男性の写真だった。

「なぁ、ババア。これが誰か解るか?」

 青年は今までとは全く違う荒っぽい動き、荒っぽい口調でそう言った。私はその変化に驚き、困惑しつつもまじまじとその中年男性の顔を見る。

 こけた頬、ぼさぼさの髪、虚ろな目。少なくとも、私の知り合いにこんな男性は居ない。

 私が首を横に振ると、バシン、という鈍い音と共に、私の頬に鈍い痛みが走った。それから数秒後、私は自分が殴られたのだ、と理解する。 

「嘘吐くんじゃねぇよこの糞ババアがよぉっ!!」

 木の床を、青年は蹴る。

「これはおめぇに脅され、自殺に走った男……海野の死に顔だッ――ばかっ!!」

 海野。その名を聞いた途端、私の胸はどきり、となった。


 海野は、私が脅したのち、妻に離婚を告げられた。詳しい理由は妻に届いた、一通のメールだったという。

 そのメールは、『りんご』という名の女性からで、捨てメールアドレスで、図書館のPCから届いていた。内容は、画像数枚。ただの画像ではない。海野と、顔を隠した女性が性行為に及んでいる、という……所謂、はめ撮り、だ。

 海野の妻はそれに激怒し、離婚を告げた。そして、彼の息子は母親に引き取られた。

 

 離婚の原因の噂は、職場まですぐに広がった。不倫、援助交際、それらを進んで行うような社員は家の会社においては置けない、と、海野は会社をクビになった。


 家族を失い、職を失い。海野が自殺するのに、そう時間は掛からなかった、という。


「……それと、私と、貴男と……いっ、たい……なにが?」

 私は今一つ回らない下を一生懸命に動かして、青年に問い掛ける。

「……俺はよぉ、その海野……って野郎の息子なんだよ」

「親父が死んで直ぐ、お前のことを知った、歌舞伎町でスナックを開いている若い女、りんご。かつて援効してたこともある……こいつだ、って思ったよ。こいつが、親父とお袋の離婚の原因となるメールを送ったのは、ってな」

 はぁ、っ。はぁ、っ。

 呼吸が苦しくなってきた。いまいち頭が回らない。青年が何か言っている、ということは解るのだが、青年が何を言っているのか、脳が考えることを拒否している。

 ぜぇはぁと息を切らし、今にも死にそうな私の顔を、青年は踏み付ける。


「お前に渡してたあの薬……あれ、麻薬な。歌舞伎町、ってのはすごい街だなぁ、あんな危険な薬物が簡単に手に入れられるんだからよぉ。そして、お前の店の悪評を流したの。それも俺だ。適当な嘘を吐いたら騙されてやがるんだからなぁ……くっそ笑えるだろ?」

 

「なっに……店が、店は……あるもの……店を……残して、失踪したら……警察が……あっやしむわ……」

 私は今残っている生気を搾り取ってそう言ったが、青年は全く怯まない。それどころか、憐みの目で私のことを見てくる。

「……お前ェ――店、今日……行ってねぇだろ」

 え? 私は擦れ擦れの声を絞り出す。店が一体どうしたというのだろう。

「俺さぁ、お前の店……空っぽにしてやったよ。闇金業者と協力してな。お前の店で働いてたやつ……、今頃慌ててんじゃねェ?」

 嘘だ、嘘だ、嘘だ。声こそ出なかったが、私は何度もそう呟いた。がっくり、と体中の力が抜けるのが解る。

 ぼんやりと、天井と青年の顔を交互に見比べる私は、ふと母のことを思い浮かべた。

 店の中を空っぽにして、居なくなる……これじゃあ、母さんと一緒ではないか。私は顔を踏みつけられながら、そう感じた。

「じゃあな」

 そんな青年の声と共に、私の顔を踏みつけていた筈の足が私の顔を外した。代わりに、青年がどこからか持ってきたアイスピックが私の顔を撫でていた。

 目を見開く。アイスピックはそれを感じ取ったのか、目元まで這ってくると、私の瞼を軽く突いた。そして、いったん上へあがると、私の目を勢いよく突いた。

 意識がだんだんと遠くなる。   

 

 ――あぁ。神様。

 私が一体何をした、というのでしょう。売春だって生きていくためにやりました。麻薬だって、知らず知らずのうちに飲まされていただけです。私は、いったい全体、どんな罪を犯したのでしょうか? 教えて下さい、神様――神様――あぁ、神様――。

  

 

 自分の心臓が、止まるのを感じた。

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歌舞伎町の嬢王 KisaragiHaduki @Kisaragi__Haduki

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