エピローグ
星の夜、再び
910年12月2日 嘆きの森の館
短い秋が森を通り過ぎ、霜が地面や窓硝子にとりつくようになると、あっという間に冬が来た。この季節になってから、広間の暖炉の前には客人の姿が多い。この冬は主が在宅だと聞いて、雪道も
客人たちが揃って驚くのは、この館に人間が同居していること。そして主の伴侶という娘が、魔族のうちどの種族とも判明していないということだった。
「そんな娘が伴侶とは、流石にあのクロイの子だね」
客人たちはお決まりのようにそう言い、現在の館の主であるヴィルカに呆れたような笑みを向ける。
すると主は、やはり決まってこう言いながら微笑を返す。
「私など、クロイに比べればごく平凡な
少し離れた所では、メイエがお茶の支度をしていた。
「
「冷たくて気持ちがいいし、
リリアと呼ばれた娘はそれでも言われた通り、窓から額を離して立ち上がり、メイエの側にきて座った。
「私も雪投げしたいなあ。お外がきらきら明るくて楽しそう」
「風邪が治るまではいけません。それに、こういう土地での冬の作法を覚えてからですよ。雪国に住んだことがないからお分かりじゃないんです。大雪の晩にモミの枝に登って一晩過ごそうなんてお考えになるから」
「だって見たこともないくらい綺麗な夜だったし、魔族が風邪を引くなんて思ってなかった」
「私もそう思ってましたよ、でも事実風邪じゃありませんか、小さい子供みたいに熱を出して。あの日来ていた
お行儀よくお茶を飲みながらリリアはくすっと笑った。
「メイエは
「私が魔女になるのではなくて、ただ、春になったら薬草園の作り方を教えてやってもいいと言ってくださったんですよ。鴉たちは草と見れば千切って遊んでしまうんだから向かないのですって。イールの薬屋も雪道では遠いし、自分である程度薬を作って備えておくのも良いかもしれません。それに彼女、あなたも是非来るようにと仰ってましたよ」
「魔女のおうちに? すっごく行きたいけど、ヴィルカがいいって言うかなあ?」
「聞いてごらんなさい。まああの方は、あなたには甘いですからね。きっと、いいと言うでしょうよ。雪が溶ければ近道が開くということですしね。でもあなたがいらっしゃるなら護衛も付けるかも」
ヴィルカはすぐ私のこと子供あつかいするんだもん、とリリアは少し
こうした仕草は、時にアルケそっくりだ。それでいて、全然アルケではない。この不思議ないとおしさ。
やがて階下が何か騒がしくなり、またお客さんが来たのかしらと話し合っているうち、ギィの呼ぶ声がし始めた。リリアは毛糸の上着を着込んで、メイエが止める間もなく廊下に出ていく。階段のところまで出ると、階下の広間に立派な鹿を担いだギィの姿が見えた。
「ギィ、お帰りなさい」
「よう、熱下がったか? でかいだろ、これで暫く肉の備蓄ができるぞ。バラしちまうから見に来いよ。いま裏庭で吊るすから」
「見たい!」
リリアは嬉々として階段を駆け降りたが、それより先にヴィルカがギィの前に出た。
「リリアはまだ風邪が治っていないだろ。見るなら暖かくして窓越しに。ギィは口のまわりが血まみれだ、人の姿でいるならちゃんと拭きなさい」
「お父さんかよ。鹿の角やらないぞ」
「私のじゃない。次に鹿が獲れたら角は
そうだった、と呟くギィの側に寄って、リリアはその長い髪や担がれた大きな鹿に顔を近付けた。
「ギィ、
「行くけど、まずこいつバラさなきゃなんねえし今日は無理。どうも明日は吹雪くみたいだから、明後日かな」
鹿の他にも何か仕留めて喰ってきたとみえて、ギィの髪は普段より色が濃い。大物を捕まえたせいか機嫌は良さそうで、ヴィルカがやや邪険に、早く出ていけという仕草をしても不愉快そうではなかった。
目覚めてすぐ聞いた時点では、リリアは、リリアになる前のことについて、ごく部分的にしか覚えていないようだった。
目覚めたとき、ヴィルカのことは食べ物をくれる優しい、珍しい人だと記憶しており、ギィのことはただ林檎をたくさん食べる人と記憶していた。タシャとして長年を過ごした旅芸人の一座のこと、自分に辛く当たったエラや一座の人々のことは全く忘れたわけではないようだが、ダージュで読み取ったアルケの記憶のことも含め、目覚めてから今に至るまで語ることはあまりない。
一度死んだとはいえ不憫だとメイエは悲しんだものだが、それも悪いことばかりではない、とヴィルカは言う。記憶が曖昧になったおかげで、生前のタシャに色濃かった、経験的な諦めや極度の疲弊のようなものが薄くなったからだ。
メイエの知らない生前のタシャは、あらゆる希望を摘み取られた後の、ただ無茶苦茶に使われて何も与えられず生きているだけの奴隷のようなものだった。毎日脅しつけられ殴られることを当然と思い、たったひと
それに比べれば、縮こまったところのあまりない今のリリアを見ているのは嬉しい、とヴィルカは言う。
エラの酷使に怯え、横暴な座長を恐れて、ただ奪われ痛めつけられるだけだった暮らしから、恐らく今のリリアは解き放たれている。
リリアが何になったのかは今もはっきりしない。
リリアは人間と同じ食事を
これはまだ原初の精霊とは言えず、繭を裏返し生死のあわいを越えさせた私という存在に呪われた状態なのかもしれない、とヴィルカは予想している。
じゃあ失敗だったんですか?と訊ねたメイエに、そうではない、とヴィルカは即答した。
「私の望みは最初から、ただあの子を死なせず、苦しい暮らしから引っ張り出し、飢えることなく伸び伸びと暮らせるようにすること。精霊どうこう以前に、リリアは私が生涯に二度と出会わないであろう伴侶だからです。
クロイの仮説を満たす結果になろうがなるまいが、あの子の苦しみが減りさえすれば、私はそれで構わなかったんですよ」
メイエと別れたヴィルカが図書室に行ってみると、リリアは窓に張り付くようにして外を見ていた。その向こうでギィが鹿を解体しているのだ。
この館に来てから、リリアは初めて見聞きするもの全てに目を輝かせて吸収しようとしている。本来こういう素直で好奇心旺盛な子だったのだろう、とヴィルカは思う。
そして、リリアが目覚めて最初に知りたがったのがヴィルカの名前だったことを、ひとつの奇跡のようにも思う。
それがひょっとしたら、血を飲ませた呪いの結果だったのだとしても。
「リリア。そろそろ火に当たらないと、風邪を悪くするよ」
「寒くないもん」
「寒くないような気がしてるだけだ。
ヴィルカが窓に寄ると、霜の花が咲いた硝子越しにギィと目が合った。ちょっと手を振ってやると、ナイフを掲げてから大袈裟に礼をして見せる。それを苦笑して見ているうち、リリアが腕の中にくっついてきた。
「ほら、やっぱり寒いんだろう」
「違うよ」
身体に腕を回して抱いても、もう何も怯えない。タシャとして暮らしていた頃とは違う。
リリアは、
「寒いんじゃなくて、お腹が空いたの」
仮にいつか、ヴィルカが先に死んだ場合に、リリアがどうなるかはまだ分からない。ヴィルカの生気を定期的に摂らないと衰弱してしまうのか、こういった前例はあるのかについては、また少し調べてみなければならない。
とにかく今、気持ちよく眠っている時の寝息のようにすうすうと、リリアがヴィルカの生気を食べている。
――そうだ。初めて会った時もこの子は、おなかがすいた、と言ったのだ。
「好きなだけお食べ。私を殺さない程度にね」
「うふふ。でも、これ以上はヴィルカが死んじゃうっていう時、私わかるのかなあ」
「分かるんじゃないか?」
生気を吸うのは好きにさせておきながら、まだ痩せて軽いリリアを肩に担ぐように持ち上げて、ヴィルカはゆっくり図書室を出ていく。
荷物みたいなその持ち方はどうなんでしょうね、とメイエはよく笑って言うのだが、一番安定して動けるのでついこうしてしまう。
ギィはほどなく鹿の始末を終えるだろう。切り分けたものは鴉たちが手伝って必要なところに貯蔵する。
台所にはさっきヴィルカが夕食を作っておいたから、鴉たちが食卓の準備をしているはずだ。
支度が出来上がる頃には来客がある予定。
メイエは食卓のための花を活けているかもしれない。
生活は続いていく。
名を呼び合い、食事を分け合って。
その生活の中に、これからはずっとリリアがいる。
ヴィルカの肩の上で安心し切って運ばれながら、リリアがふにゃふにゃとした声を出した。
「ごちそうさまー」
どういたしまして、と答えながら、ヴィルカは思う。
多分、この子に与えることそのものが、自分は嬉しいのだろう。自分はリリアを呪ったのかもしれないが、自分もまたリリアに呪われているのだろう。
ギィにも言われている。リリアをここに連れてきてからというもの、あんただって生まれ変わったみたいに人間臭くなったぞ、と。
そうなのかもしれない。
そしてまた、与えることを通して自分こそが救われているのではないだろうか、とヴィルカは思う。
呪い合うことで?
けれども、太古の昔、
ならばきっと、祝い合って生きていける。
広間の暖炉には、相変わらず火が明々と燃えている。
リリアを下ろして絨毯の上に立たせると、ねえ、と呼ばれた。
見上げる眼は夜色。
「ヴィルカ。私、ちゃんと覚えているからね」
「え?」
いつものような元気よく
「あなたが初めて食事をくれた時のこと――」
その声はやはり、あのアルケによく似ていて。
「――こんな人がこの世にいるものかしら、と思ったこと。スープを食べさせてくれたこと、死ぬんじゃないかと思うくらいおいしかったこと。あなたが私を
似ていると同時にアルケではない、人間ではない、長い
自分がこれを目覚めさせたのだ、とヴィルカは、今更ながらにはっとする。
こんな深い夜を。
こんな美しいものを、呼び覚ました。
この夜は私を
「もう二度と会えないと思った時、どんなに悲しかったか。私の人生はこのたった数日だけで終わるんだと思った。多分、絶望ってあんな感じ。
それからダージュに来てくれた時のこと。夢を見ているかと思った。夢でも死ぬ前に会えて嬉しかった」
「覚えてるのか……」
「眠る度に少しずつ思い出すの。それで私、もう一度、どんどんあなたを好きになる」
声が温かく震えていた。涙の海の温度で。
リリアは微笑んで、両手は胸の前でぎゅっと握っている。
「リリア、」
「ヴィルカ。私を見付けてくれてありがとう」
――絶対に分かる。ヴィルカ、よく覚えておけ。
――疑う余地がないくらい明らかに分かるんだ。
――ああ、これが自分の出会うべき相手だったのだと。
クロイ、とヴィルカは、心の中で育ての親の名を呼んだ。
あなたの言う通りだった。
私は、見付けた。
夕暮れ時、薄暗い楽屋テントで繕いものをしていた。
いや、もしかするとそれよりずっと前、あのアルケに出会った時から既に。
クロイはどこかでそれを予感していたのではなかったか。私と出会った遠い過去に、私からその未来を読み取ったのでは。
だから、朝昇り夕に沈む姿のない月、
いつか出会う相手はきっと星屑の眼をしているから。
星は、月のない夜に最も輝くものだ。
そして太陽がすべてをかき消す昼間、
新月と星屑。
お互い、出会うべき相手に出会ったのだ。
「お礼なんか要らないよ、リリア。私はきっと、君を見付け出すために長い間生きてきた。
やっと会えて嬉しい。君を死なせずに済んで、一緒に暮らせて嬉しい」
抱きしめたリリアの波打つ黒髪からは、
慕わしい夜の空気だ。それこそは魔族の
不意にリリアが背伸びをして、ヴィルカの肩に両腕を投げ掛けた。
リリアはもう、欲しいものを欲しいと示すことを恐れない。そんなことでヴィルカの機嫌を損ねるとは思っていないのだ。ヴィルカはあの
相手の親愛と自分の価値とを、今はもう信じている。
ヴィルカは少し身を屈め、リリアに優しく口づけた。どちらからともなく、小さな笑い声が漏れた。
「……あのひとしずくの味がする」
夢のようにあまい、ヴィルカの、月のひとしずく。
リリアを人の繭から呼び覚ました、
その奇跡の名残を求めるように、もう一度。またもう一度。繰り返し、柔らかく唇を重ねながら、リリアはうっとりと囁く。
「この世で一番、ヴィルカが美味しい」
これは褒められたな、とヴィルカは笑って。
そしていつもの言葉をまた繰り返す。
「好きなだけお食べ。私を殺さない程度にね」
(了)
月とリリアのひとしずく 鍋島小骨 @alphecca_
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます