名古屋 リトルワールド ~福建省高山鎮ルート 悲恋殺人事件

@takagi1950

第1話 出会いの時

名古屋 リトルワールド~福建省高山鎮ルート 悲恋殺人事件


                               織田 はじめ


1.出会いの時


中国の経済成長は順調で、08年中国の貿易額は前年度より17.8%増加した。金融危機でやや減速したが、2009年のGDP伸び率も9.2%に上方修正しGDPは日本を抜いて世界2位になった。2011年も高成長が続いていたが、インフレ懸念が持たれて経済の引き締めが行われていた。中国に住む勇次は、中国国民は経済発展を謳歌しているように感じていた。


長い手紙の別れから2年が経過した。勇次は約束の2011年8月8日 午前8時に向けてポケットに真理亜に送るダイヤの指輪を無造作に突っ込んで、福州市内の自宅をバイクで6時に出た。2年間の滞在で多少は慣れた中国独特の暗黙の交通ルールにしたがって、高速道路を時速80キロで飛ばして7時15分には石竹山の前に着いた。

気持ちが高揚しているのか、なぜか走ってロープウエー乗り場に向かった。

とにかく上手く説明出来ないが何故か無性に気持ちが焦った。

ロープウエーの頂上には7時30分に着いて、45分には待ち合わせの石橋の前にいた。しかし、真理亜の姿はない。一瞬、不安がよぎる。

気持ちを落ち着かせるため、これまでプールの飛び込み台で訓練を続けてきた成果を幅40cm、長さ3m、高さ約15mの「約束の石橋」に向かう。即ち、この橋の先にある島に二人で一緒に行って、抱き合うと幸せになれると言われているで試してみる。

行きは少し上りだったが、なんなく行けた。直径3.5m程度の島からの眺めは一味違っていた。眼下に石竹湖とダムが見えた。山の下から吹く風が爽やかだった。少し休んで帰ろうと軽く足を出した時にズボンの裾が石橋にひっかかりよろけたが辛うじて戻ることが出来た。恐怖心からというよりも油断の産物だった。少し心が曇った。


勇次が石橋で躓いた時、真理亜もビトンのバックに大学の卒業証書と大手旅行会社の社員証を大事に入れて石橋に急いでいたが、予定より遅れており大型バイクの後ろで焦っていた。

運転手に、

「急いでもっと早く」

と強く大きな声で言うと、運転手は怒りの声に焦って後方確認を十分に行うこと無くスピードを上げて、急に路線を変更すると同時に、後ろから来たトラックと接触し、真理亜は宙を舞って道路に放り出された。

真理亜は小さく、

「ユージ・・・・・・勇次・・・ゴメン・・・」

と聞こえるか聞こえないような低く絞りだすような声とともに動かなくなってしまった。

髪型が崩れるのを嫌ってヘルメットを被っていなかったこともあって、ほぼ即死だった。

バイク運転手の後方確認不足による路線変更とトラック運転手の前方不注意が原因だ、二輪は遠くにいて小さく見える傾向があり、実際の距離より遠くに見えるため、距離を見誤ったことと自身のスピードが速かったので、交わしきれなく衝突したのだった。最近、福清ではバイク、自転車と自動車の事故が増えているが、その典型的なケースだった。警察は簡単な事情聴取で事件性の無い単純な交通事故として処理した。


警察から病院に母親が呼び出され、検視後に遺体を引き取って高山鎮の自宅に引きあげることになった。今日、朝早く綺麗に化粧をして髪を整え、颯爽と出かけた娘の変わり果てた姿を信じられなかったが、これが現実だった。

母は気丈夫にも娘の遺体を粛々と引き取り故郷に帰っていった。葬儀が終わるまで決して涙を出さない、弱みを見せないことを誓って。


中国は交通事故の多い国である。そこには日本人には理解出来ない中国独特の交通ルールがある。なんせ信号は守らない。歩道を車が走る。更にブレーキを踏むよりクラクションを鳴らすことの方が多いし、横断歩道でも歩行者に横断する意思がないと見ると、赤信号でも車が突っ込んでくる。ある種、人間の判断で動くので効率的な面もある。

こんなことも有り市民の間では「一日に1回は交通を見る」と言われている。

「誰も横断しないのに。横断歩道で待つのは時間のムダ」

「周りを意識せずに歩道をゆっくり歩いたり、悠然と運転しているのは許せない」

と言う土地柄であり大勢の市民の共通意識である。

日本流の交通安全意識が定着するには時間が必要だろう。


勇次は真理亜の身に起ったことなど、まだ知る由もなく、自分の油断と幸運に感謝していた。さすがに9時を過ぎると不安が募って来た。気持ちを紛らわせるために山の頂に登ることにした。

30分で頂に到着し、そこで、石竹湖に向かって大きな声で、

「真理亜」

と呼ぶとこだまの様に

「ゆうじさん・・・」

と小さな声で聞こえたように思った。

そこで急いで、山を降りて石橋に向かった。でもそこに真理亜はいなかった。

ロープウエー乗り場を何回か往復したが、やはり居なかった。何処かに真理亜が隠れて、意地悪をして、その様子を見ているように思えてお堂の後ろなども探したが居なかった。

嫌なことが起ったのでは、という不安というか思いが心の中に広がり、それを必死に打ち消していた。心の葛藤の中で12時まで待つことを決心した。


残された時間はあと30分だった。【真理亜、どうして来ないんだ。二人でいい人生を一緒に送ってくれないのか?それは俺に死ねと言っているのと同じだよ。早く来て俺に顔を見せてくれ。そして沢山話をしたい】

と心底から思った。真理亜が自分を拒否することは考えられなかった。

当然だが、30分経過しても真理亜はこなかった。自分で決めた時間である12時が来たので諦めて山を降りることにしたが気持ちは複雑だった。

流れる涙を止めることが出来なかった。周りの人々の目は気にならなかった。


諦めることが出来ない勇次は、未練たっぷりに高山鎮のもうひとつの思い出の場所に向かうことにした。

急いで山を降りて、250CCの日本製バイクに跨り、国道を時速100キロで飛ばした。45分で高山鎮の西江村にある西江堂に到着した。入り口は閉まっていたが、近所の管理人に鍵を借りて中に入った。中は2年前と変わらず中央に大きな銅像が有り、隅には俵が2個、これも以前と同じ様に置いてあった。

それを退けると取っ手つきの50センチ角の石があった。これも以前と全く同じだった。何も変わっていないことに安心するとともに過ぎ去った時間の長さを感じた。


1)真理亜との結婚


かって真理亜との結婚を決心し上司に報告に行った時、信頼する中国人の表情は曇った。直接、言葉に出して良くないとは言わなかったが、

「両親と良く相談して慎重に判断されましたか」

とか、

「中国人との結婚は、まだ若いんだから日本に帰って少し冷却期間を置かれても遅くないと思いますよ。時間が愛を深めるという言葉が日本にも有るでしょう」

とも言われたり、最も信頼する10歳の子供がある30代の進歩的な女性の同僚も、

「三宅さん、はっきり言いますが、あそこの女性はやめたほうが良いですよ。苦労するのは目に見えてますから。あなたの結婚対象の女性じゃないですよ。日本に可愛い彼女が居たんじゃないですか。あなたの友人としてもう一度良く考えることと、1年間の猶予期間を持たれることをお勧めします」

と言って、ウインクを返して来た。

日本の両親も余り良い返事をしなかった。勇次は言い出したら聞かない性格であることはわかっていたので反対の言葉は無かったが、唯一、

「一度、家に連れて来なさい。頭から反対はしないから一緒に食事をして話をしましょう。それ位はしてくれるでしょう」

と優しく言ってガチャンと意思を込めて電話を切った。

 これが結論だった。


勇次も中国での生活が2年以上経過し、福清のことはそれなりに理解し、真理亜は一般に言われている、この地方の若い女性とは違うことも分かっているつもりだった。真理亜の母には言っていないが、名古屋の友人からの知らせで東山大学を卒業し、日本で一番大きな旅行会社である日本交通旅行社の名古屋支店に入社したことも知っていた。

でも逢う事は約束もあって控えていた。

真理亜への思いが勇次の研究活動のドライビングフォースとなり、昨年発表した論文は、学会で最も権威がある「濱田歴史論文賞」と昨年創設された歴史地理学研究の最優秀論文賞である「佐川郵便賞」を受賞して若手の研究者としての評価も高く、帰国後は沖縄先端大学の准教授への就任も決まっていた。

33歳の若さでの就任はいくら地方の私立大学とはいえあまり前例がないことだった。

大学の同僚となる連中も、自分が中国女性それも中国福建省福清市高山鎮出身の女性と結婚すると言うと驚くだろうが、それは自分が楯となって守るつもりだ。 その自信はあった。幸い、真理亜は8年前に来日したが、不法滞在等法的に問題のあることもしておらず、マッサージや風俗産業に従事したこともない。

但し、大学に通いながらスナック等で働いた事は事実であるが、日本の警察も目をつぶって半ば公認している状況であり、犯罪に問われることは、普通にしている範囲ではほとんど無い。違法行為といっても、人に危害を与えるような犯罪行為をしたわけではない。

不法滞在している人でも日本人と結婚をしていれば、名古屋入国管理局に出頭すれば、正規のビザや外国人登録証を持っことが出来る。


真理亜はとても気が効いて、思いやりがあり、倹約家で真面目な性格で大学も卒業し企業にも就職した。

友人や中国の新聞情報によれば、福建省福清市の事を悪く言う人が多く、事実悪い面が多いことも確かだが真理亜を見ていると、中国人に持っている思いやネットに書かれている内容は真理亜には当てはまらないことも多い。

勇次は真理亜を信じているし、もちろん利用されているとも思っていない。

日本の友人が、

「いつかは逃げられてしまうよ。金目的、永住権取得目的の結婚なんじゃないの」

と冗談半分で言っても聞き流した。

当たり前だが福建省福清市出身の女性は全員嘘つきではないし、信じられる女性も、たくさんいると反論したかったが敢えて言わなかった。実績で証明しようと思った。


まともな人があんな中傷を書き込むわけが無い。だいたい落ち着いて考えたら、出身地で人を判断できるわけがないと心に言い聞かせた。

彼女は国にも殆ど帰らずに、おそらく送金のために8年間、真面目に働いたのはたいしたものだ。勇次との恋愛だって最初はひょっとしたら、もしかしたらちょっとは打算的なものがあったかもしれないが、それは誰にも分からない。勇次にも理香の事を思って心の迷いがあったのも事実だ。日本人同士だって結婚に対しては打算的になることも有る。


【自分は結婚したいほどに真理亜のことを愛しているんだ。恥ずかしながらべた褒めで、べた惚れだ。自分を信じなくてどうするんだ?】

と心に言い聞かせた。

反対されれば、反対されるほどに彼女のことを大事にしてあげたいと思った。その思いが回りの人に自然と伝わったこともあって最初、反対していた女性の同僚も、勇次の気持ちが固いと見ると、

「彼女、大事にしてあげて下さいネ」

と祝福してくれ、一人ずつ理解者を増やしていった。

また、中国人の男と結婚した日本人女性は、

「日本人男性と中国人女性の結婚ではいろんなトラブルもあるようなので、あなたが疑心悪鬼になる気持ちも分からなくもないですが・・・。でもすでに結婚を決心しているんですよね?良い奥さんになるようにお互いに努力してくださいね。そのためには心から信じてあげてくださいよ。せっかくご縁があって一緒になったのだから、末永く幸せに暮らしてくださいね」

という励ましも受けた。


多くの人から色んな意見を聞き、自分を心から信頼してくれているのが、ヒシヒシと理解できて中国での2年間がムダではなかった事を理解出来たのが、最も大きな成果だった。これからは、真理亜を信じて良い旦那になって幸せにする事に全力投球しようと決意した。


真理亜と出会ってから2年が経過し、その間、劉 暁波が中国在住の中国人として初のノーベル賞受賞者となった。

2010年9月7日には、中国船籍の漁船と日本国船籍の巡視船の衝突があり両国関係がギクシャクしたこともあった。

更に、上海国際博覧会が上海世博園で開催された。また2011年版の日本の防衛白書には、中国の海洋進出が続く南シナ海の領有権問題について「東南アジア諸国との間で主張が対立している」とし、中国の動向に対して強い警戒感を示している。

そして、つい最近では中国浙江省温州の高速鉄道脱線事故があった。そこで活躍する日本製のトラクターの力強さは見ていて頼もしかった。



勇次は、西江堂の真ん中にある小さな椅子に座って銅像に向かった。

「真理亜どうしたんですか。なぜあなたは来ないのですか?」

と2回声を出して問いかけ、3回声を出さずに問いかけたが、返事は返ってこずに静寂が勇次を支配した。自然と涙が一筋流れ声を出して泣いた。


暗いお堂の中で、緊張感から解き放たれたのか椅子に座って眠ってしまった。その眠りの中で白いワンピースを着た真理亜が空を飛び勇次に【貴方もこっちにおいで、一緒に遊びましょうという合図をする】ので飛び上がろうとするが足が重くて飛び上がれなかった。数回飛び跳ねた時、周りの騒がしい聞き覚えの有る声で目が覚めた。


そこには真理亜の母親がいて、暫くすると白い棺が運び込まれた。勇次は胸騒ぎと悪い予感がして棺の中を見るとそこには、真理亜が横たわっていた。

最初、頭が動転して何が起こったか理解出来なった。

目の前にあるものを見たくなかったし信じたくなかった。

「真理亜、早く起きるんだ。こんなところで寝ている場合じゃないだろう。早く立って俺のところに来い」

と叫んだ。

手を取り頬を叩き、目をさまそうと試みたが無駄だった。かろうじて閉じていた目が開き、勇次を弱弱しく見ているように思えた。涙がでて止まらなかった。もう自分の意思ではどうにもならないようになっていた。

誘われるように母も自分への誓いを破り、涙を流して堂内に響き渡る大きな声を出して泣いた。

「真理亜はなんで死なないといけないんだい。若くて綺麗で花の時に、皺一つないんだよ肌には。順番が違うと思うよ。マリアさん何を見ているんだい。私を換わりに何故選んでくれなかったんだい。不公平だよ。綺麗な花を途中で切ってしまうなんて。今日朝、綺麗に化粧して飛び跳ねるように出かけて行ったのに・・・・到底納得できないね。私は・・・・あなたを怨むよ」

と言って泣き崩れた。

悲しみが小康状態になり涙が収まると真理亜がこのようになった経緯が母から話され、自分が石橋で危うく落下しそうになった時間に真理亜が交通事故で亡くなったことが分かった。勇次は無神論者ではあるが、何かの因縁を感じないわけには行かなかった。


母親は一泣きしたこともありすっかり冷静になり、葬儀の段取りを決めて近所の自宅に帰って行き、自然と勇次が真理亜の側に一人でいることになった。二人になると急に寂しくなり、棺おけの蓋を開けて真理亜の頬に指でキスをした。

もう真理亜を抱き締めることは出来ないが、その分、思い出が甦って来て満たされ、長くて暗い夜が二人の時間を作った。

「真理亜、何故一緒に私を連れて行ってくれなかったんですか。私は悲しいです。私はあなたを一生の妻として生きて行くことを誓います。私をあなたの夫として見守っていて下さい」

と涙を見せる事無く、真理亜の手を取ってゆっくり語り掛けた。


翌日、中国式の葬儀が始まった。

最初はお堂の中でお経があり、これは日本と同じだ。その後、お堂の前の庭に出て和尚さんを先頭にお経を唱えながら行列で街を練り歩く、これは今の日本ではやらないが田舎に行くと墓地まで歩いて行く風習が残っている。

次に、紙で作った船、即ち長崎のさだまさしの歌う精霊舟のようなものが出てきて、中に乗っているのは、これも紙で作ったお金だ。さすがに現実的だなと思ってしまった。自分は本当のお金をこの船に乗せてやりたいと思った。良く見ると船の中は蓮の花の形になっている。

そして、最後に紙で作った家、よく見えないけれどテレビや自動車まであった。多分、これまで住んでいた家をそのまま再現しているのだろう。

たまらず、勇次は手に持った論文と真理亜に送る予定だった指輪を其の中に置いて冥福を祈った。一瞬、棺の中から声が聞え、真理亜が、【ありがとう】と言っているように思えた。

しかし、目敏くこの様子を見た母親は勇次の目に留まらない様に、密かに指輪を棺の中から取り出して目立たないように棚の上に無造作に置いた。


勇次は、これと同じような儀式を高知県の田舎、平家落人の村で見たことがある。ここでは個人が生前に使っていたものを参列者が持って決められたところまで歩いて行き、そこで集めて燃やしてしまう。あの世に行っても生活に困らないようにとのことと古老から聞いた。

不遜だが、記念に写真に撮りたいと思ったが、さすがにそれを言い出すことは出来なかった。

はたして、高知で見たと同じようにお経が終ると全てを燃してしまった。

これであの世に行っても現世と同じ生活が出来るのである。燃えている火の中にお経を唱えながら、参列者は紙の札を燃やした。其の中で二人の産物である勇次の論文も燃え上がった。


この後、関係者で食事をするようだが、さすがに勇次は此処まで付き合うのが精一杯で涙を堪えることが出来ずに、母親に先に帰る事を告げるが、強く止められた。食事を食べていると霊柩車が来て、真理亜を乗せて走り去った。

誰も積極的に見送らなかった。見送りに勇次が出ようとすると、

「もう別れは終わった。見送りは故人に現世への未練を起こさせるからやっては駄目なんだよ」

と日本語の分かる参列者の一人が教えてくれた。

2時間後に全てが終わったのか、真理亜は灰になって帰ってきた。もう真理亜は真理亜でなくなった。勇次は真理亜が天国で喜んでいるとは思えず、まだ自分の周りで道に迷っているように思えて、見つけて手を取って一緒に歩きたいと思ったし、またそうするべきだとも思った。

それを考えるともうこの場所にいる事は出来なかった。


お母さんに日本に帰る事を告げると、

母親は気丈夫にも、

「真理亜のことは残念だったけど、娘のためにも良い仕事をして、あんたが活躍している姿を見せてやって欲しいネ。そして、日本と福清の架け橋になってくれるのが、真理亜への最大の・・・・供養だからね。明日からは未来に向かって働くんだよ」

と抱き合って涙声で励ましてくれた。

この言葉を胸に研究拠点にしている、福州市の福州歴史資料館に帰って、資料を自宅に持ち込んで眠りに就いた。


2)真理亜と理香


真理亜の葬儀から帰って勇次は浅い眠りの中で、初めて真理亜と逢った名古屋のリトルワールドの地に立っていた。

奇しくもこの日、日本の混迷を象徴するように新政党、みんなの党(代表渡辺喜美)が結成された。日本では、2大政党に集約されることなく小党が乱立し意見集約を阻害して前に進めずに迷路をさ迷っていた。

そして、時代の寵児とマスコミが持ち上げた、堀田 健一が経営する“トランス・コンタクト社”が3ヶ月前に東京地検特捜部の捜査を受けたが、今日倒産したとの報道があった。まさに落ちた偶像である。


ところで、リトルワールドは、愛知県犬山市にある、世界の家と暮らしをテーマとした野外民族学博物館である。大阪府吹田市の万博記念公園内にある国立民族学博物館は屋内展示が主であるのに対し、こちらは屋外展示主体で展開したものであるが、かなり大規模な屋内展示館も併設されている。


地球には、さまざまな民族が暮らし、独自の文化を創造し、発展してきた。近年、「国際交流」、「異文化理解」などの言葉をよく耳にするが、こうした中、世界のさまざまな民族の文化に触れ、理解を深めることがますます求められているので、時代に合致したアミューズメントである。

123万平方メートルの敷地を有し、世界で初めての野外民族博物館として昭和58年3月に開館した。

世界各地から集めた4万点の民族資料と22カ国、31施設の野外展示家屋を有し、『生きた博物館』として、世界の生活や文化に手軽に触れ、学ぶことができ、そのすばらしさを味わうことができる。

歴史地理学を学んだ勇次にとっては創造性を掻きたてられる施設で、楽しさを満喫できるが、それは一部のマニアのみで、一般的な人気は無かった。


三宅 勇次は沖縄県の県庁職員で今は姉妹都市関係を結んでいる中国福建省福州市の福州歴史資料館で働く31才の男である。

今日は、大学のゼミの後輩である成瀬理香と一緒で、商社に勤める28才の女である。

二人は、同じ大学の大学院で歴史を学んだ仲であり、歴史地理学を専攻する講座を選択したのが縁で5年前に知り合い交際を続けている。

理香は早く結婚したいと思っているが勇次は迷っていた。

理香には今日、ちょっとした計画があった。


リトルワールドに11時に到着し、まずサーカスを見ることにする。レベル的には色々意見はあるが結構楽しませてくれる。

横にいる理香の手を握りながら勇次は最前列に座るカップルが気になっていた。と言うのは、カップルの女性が名古屋の繁華街金山のスナックで働く真理亜だったからだ。隣の男には見覚えがなかった。

真理亜も理香と同じように白いワンピースを着ていた。

サーカスの途中で会場からの飛び入りを募る場面が有るが、真理亜が参加した。鞭で紙を切る物であるが、真理亜は鞭を怖がることなく、やってのけて拍手喝采を受けたが、飛び入りが怖がらないのはショー的には失敗だった。

真理亜がステージを降りる時に勇次と目が合って目で挨拶した。


この時、真理亜と勇次は真理亜のカップルに熱い視線を注ぐ一人の男がいることに気付いていなかった。

ショーの終了後、二組のカップルは思い思いの場所に向かった。

勇次たちは、思い出の地である沖縄の石垣島の展示に出掛け、真理亜達は循環バスでまず園内を回って全体像を把握してから屋外展示を回りだした。


園内には3つの占いコーナがあり、夫々が挑戦してみた。

ブータン国の占いをしたのは、真理亜と峰観のカップルだったが、二人の占いは正反対だった。

真理亜:ダイスの目は、1-4-3で大吉と出た。占いを書いた紙には【このダイスの目を振り出した人は、威勢良く多くの人に喜ばれる身なれば、この上とも善根を積み、其の果報がつきざるようにすべし、今たとえ運悪きことあるも、その身の徳あらわれ時をえて立身出世すべし。運気最高、足元すくわれぬように注意すること】と書いてあった。

一方の峰観は、

峰観 :ダイスの目は、4-3-6で凶。【このダイスの目を振り出したる人は、始めあしき後よし、しかれども始めあしき時に心得なくつつしまざれば、その時、身を失い後よき時節に合うこと適わず。よくよくつつしみて時の来るをまつべし】とあった。

占いについて思いは有ったが二人は敢て言葉を交わさなかった。


また、勇次のカップルは台湾占いをした。ここの占いは複雑で、2段階になっており占いの真偽をもう一度占って、それが真ならば本当の占いとなる。

その結果、2回のやり直しが有って、

勇次 :中吉、名声がえられるがまだ途中である。人生の転換期、新しい世界が広がる。

理香 :吉、人生の変化点、自分から仕掛けることは凶、待てば素晴らしい出会いがある。

と出た。


しかし、理香と真理亜はこの占いに満足せずに、今度はインドネシアの誕生曜日占いにチャンレジした。掻くも女性は占いが好きな人種なんだろうかと男たちは思った。

理香 :日曜日で吉、未来に幸せが待っている。それまで耐えることが大事。焦りは一番の凶とガルーダは言っている。

真理亜:火曜日で中吉、人生の開花期、これまでの苦労が報われる。但し、ガルーダは好事魔多しの喩えあり、乗り物には注意すること。

と出た。

占いに拘ったが、二組とも民族衣装を着たり、和食から世界の民族料理まで、幅広くメニューを揃えるお国料理を少しずつ食べ、夜の花火大会を楽しんで満足感一杯で帰ろうと思って、理香がトイレに向かった。

ここで小さな事件が起こった。

理香がトイレから出て勇次のところに向かおうとした時に、見知らぬ男からナイフで腕を刺された。

「キヤー・・・・・・」

という人とも動物とも聞き取れる高い悲鳴に近い声がした後に、低く良く響く、

「・・・・助けて・・・」

という声を理香が発したのが、近くの野外レストランで缶ビールを飲んでいた勇次に聞えた。

それほどに鋭い悲鳴だった。花火の余韻に酔った耳にもはっきり聞えた。

勇次は足早にトイレに向かい、倒れている理香を見つけ、

「理香どうした・・・」

と聞いている時に、

一人の男がトイレの奥の茂みに走りこんで行くのが見えたが、腕から血を流し半ば気を失った理香が気になって追うことが出来なかった。

騒ぎに気付いて駆けつけた真理亜が冷静に、携帯電話で警察に通報して大騒動になったが、それはこれから起る事件の序章だった。

救急車で横たわる理香を見つめながら、理香が倒れていた場所から走り去った男のことが気になった。真理亜と一緒にいた男の歳、格好や服装に良く似ていたのだ。

肝心の真理亜は急用があるからと言って警察に連絡してから、早々にその場所を離れ、もちろん救急車にも乗らなかった。

勇次はなぜかこのことは警察はじめ関係者には言わなかった。

警察官は、理香に犯人に心当たりは無いかと聞いたが、

「暗いのと咄嗟だったことから犯人は見ていないです。それに見覚えの無い男ですから」

と言ったが、執拗に犯人の事を聞くので、勇次は、

「理香が見ていないと言っているんだから、いい加減に信じて下さいよ」

と少し強く言うとようやく聞くのを諦めた。

また、勇次には、

「警察に連絡した人は・・・・」

と聞かれたが真面目には答えず生半可な返事をするので、一時は理香を刺した犯人では、という疑いも持たれた。

幸い、病院に運ばれた理香の傷は浅かった。勇次が付き添った。

当日はこれ以上の進展はなかったが、翌日になると状況が一変した。


翌日の早朝、理香を訪ねて警察官が現れ、理香に犯人への心当たりを再び聞き、そこに居た勇次に対しても昨日の状況をくわしく聞き、更に一枚の写真を見せた。

警察官が、

「この男に見覚えはないですか」

と言うので、

二人は、写真を見たが頭が坊主で60歳位の男だった。

「知らない。この人犯人ですか?」

と聞くと、それには答えず続いて、

「犯人には心当たりは本当に無いの」

「昨日、電話した女性を本当に知らないの」

と理香と勇次にまた聞いたが、勇次は理香が居たので正直に答えることが出来なかった。

ひと通り事情聴取を終えた後に、警察官はこの男が昨日、理香が刺された場所から500メートル離れた茂みの中で死亡、多分殺害されているのが見つかった事を告げた。

二人は想定外の出来事に大きな衝撃を受けて絶句して顔を見合わせた。


部屋を出た警察官に続いて勇次が出て、そこで今度は、正直に真理亜が電話をしたこと。更に真理亜と一緒に来ていたと思われる男が、理香が倒れている時に茂みの中に走って消えた事を素直に言った。

警官は、

「お前、今頃なにを言うんだ。なんていう発想なんだ。警察を信頼していないのか!他に何か隠していないのか」

と部屋の中にいる理香にも聞えるかも知れない程度の音量で一喝した。

当然、理香にも聞えたが、それは言わなかった。

この勇次の発言によって、当然、真理亜はじめ関係者にも事情聴取が行われ真理亜と一緒にいた男にも事情聴取を行うことになったが、男の所在はわからなかった。新聞に書かれた情報では中国に逃亡したという説が有力だった。

これ以外に事件の進展は無く、勇次と理香の仲はなんと無くしっくり行かなくなり、勇次が訪問しても逢うことを拒否した。勇次に何か秘密が有ることを敏感に察知したのだった。


気持ちを整理したくて、勇次は中国帰国の日も近づいたこともあって思い切って、駄目元で真理亜が勤めていた店を訪ねて事情を聞いて見ることにした。


3)真理亜と彼氏の会話


事件当日、リトルワールドから自宅に帰った真理亜はシャワーを浴びて一段落した時、雨に濡れた江 峰観が帰って来た。シャワーを勧めて、新しい服に着替えさせてビールを飲んでリラックスした所で、

「峰観、いったいどうしたの。何で逃げたの・・・・」

と聞くと、

「・・・・・・」

と男は沈黙した。

真理亜はだいたいのことは把握していたが、彼の口から事情を聞きたかった。インターネットで薬の個人輸入関係の仕事をする組織に加わっている事は知っていた。

アメリカでの失敗に懲りて、そこを離れ日本の華僑を頼って旅行者として入国し、そのまま不法滞在者になった。

彼には損を早く取り返したいという思いが強くて焦りがあった。金を早く儲けて故郷に帰りたかった。大金が出来ないと中国には帰れないと思っていた。アメリカでは自分に許される以上の失敗をしてしまったことは自分自身が一番良く知っていた。自分の甘さを思い知らされた。


なまじ才能が有る分、時間を待つことが出来なかった。

そして、身近にあった現金を使ってコンピュータを使った株取引、即ち、デイトレーダーとなって株式投資を行う決心をした。

時代の寵児とマスコミが持て囃す、掘田 健一すなわち略称ホリケンが主催するセミナーに参加して勉強し、ホリケンから、

「皆さん、株式投資に参加しても失敗しますから話しだけにして下さいネ。必ず、失敗して無一文になりますから。儲けるのは私たち良く勉強したほんの一握りのプロ中のプロだけですから!成功者は1割程度ですよ皆さん」

と言われれば言われるほどに株投資への意欲が高まって金儲けのDNAが騒いだ。特に、ホリケンの挑発的な言動は負けん気が強く、人一倍自信家の峰観を刺激して株投資に突き進ませた。



高い費用を払ってセミナーに参加し勉強したとは言え所詮は素人の域で、プロにかかってはホリケンが言う通り赤子の手を捻るという状況だった。

最初から思った以上の損失を出してしまい、それを補おうと更にのめりこんで挽回不可能な状況になってしまって、まさに本当に自分が入るための墓穴を掘った。


もうどうにもならなくなって、名古屋に逃げてきた。追っ手がくる事は予想出来たのでリトルワールドで傷害事件があった時に、自分を殺そうとした追っ手が、その姿を刺された女性に見られたので刺したと早合点して逃げたのだった。余りにも深読みだったが、この頃は下を向いた男を見ると追っ手と思った。それ程まで峰観は精神的に追い込まれていた。

「何で逃げたの?」

「組織の連中が追っていると思って反射的に逃げた」

「そんなに困っているのか?」

峰観は今日、真理亜と二人で現実を忘れて自分の夢である世界旅行を満喫出来て、もう覚悟は決まったつもりだったが、まだ現世に未練が有った。

「リトルワールド楽しかったね」

「アルベロベッロの店の立ち飲みコーヒー屋が現地のバールといった雰囲気で、イタリアン達の好物、パスタ、ピザ、ジェラートやエスプレッソなど定番イタリアメニューが美味しかった。お前と一緒にもう一度行きたかった」

「ほんとだね、あの時は楽しかった。沢山写真も撮ったもんね」

「そうだね。もう一度あの時に戻りたい」

という話を聞いて、

「良かったネ一緒に楽しい時間を過ごせて。私は、中南米の衣装やペルーの民族衣装、先住民インディオのものを着て一緒に写真を撮ったり、フラメンコドレスの試着も楽しかった。また、バリの衣装 レゴンダンスの舞踊衣装には、皮で出来た冠や胸飾りなどに、金粉をふんだんに使っていて私の雰囲気にぴったり、日本の着物にあたる伝統衣装は、南国らしい色使いで私には超似合っていると思ったよ」

「淑民には良く似合っていた。」

「ありがとう。」

「一日で世界旅行が出来るって本当だった。もう満足した」

「良かった。でこれから如何するの」

と聞くと、

「命危ないから早く遠くに行きたい。明日には東京から青島経由で上海から福清に帰る予定だ。わざと遠くから福清に入る。巧く行けば、上海で事業が出来るかも知れないんで」

「なにを夢のようなこと言っているの」

「本当に生きたいなら日本の田舎に行って、中国人との接触を避けて日本人に成りすまして、静かに生きるしかないと思うけどね。福清は絶対駄目だと思うよ。死にに行くようなもんだからね」

「分かってる。でも・・・・」

「他の場所が良いと思うけどね。そうしたら・・・・命は大事にして欲しい。私のためにももっと生きて」

「俺のこと今でも好きか」

「・・・分らない。でもお願いだから長く生きて欲しい。別れは悲しい」

「ありがとう淑民、もう俺は命を諦めてる。でも、もう一度だけ息子の国邦に逢ってみたいんだ」

と言う言葉を聞いて真理亜は一瞬、息が止まった。因みに淑民とは真理亜の戸籍名である。

「あんた、国邦が自分の子供だと知っていたの?」

「ああ知っていた。お前のお姉さんから聞いた」

「そうだったの」

「俺もアホじゃないから雰囲気でわかったんで問い詰めたんだ」

と言って勝ち誇ったように語気を強めた。

ここまで言われるともう返す言葉は無く、真理亜の手元にある全財産である20万円を渡すと、峰観は礼を言って淡白にその場を離れた。

真理亜の目から一粒の涙が落ちた。

帰り際に、真理亜が、

「峰観、今度逢ったら、今日見た16世紀末ごろから発達したアシエンダ領主の邸宅に行って、左端についているカトリックの礼拝所でまた結婚式を挙げようね。そして前庭で、盛大に披露宴をするんだよ。いいね」

と言うと

後ろを向いて手を振って無言で出て行った。

その足取りは軽かったが、峰観と真理亜の気持ちは複雑だった。現実を忘れての楽しい会話だったが、二人はこれが言上の別れになると薄々感じていた。


4)真理亜の事情


勇次は、真理亜を訪ねる決心をした。色々あったので当然、店には出ていないと思ったが、予想に反して真理亜は店に出ていた。

勇次と真理亜はリトルワールドを含めて3回目の出会いである。

2週間前に中国から一時帰国した勇次を歓迎すると言われて、二次会で入った店で出会った。この時は大学の同級生に誘われて仕方なく店に入ったが、真理亜を見て一目可愛いと思ったが、少し喋っただけでメール交換もしなかったが、顔ははっきりと覚えた。


「どう警察から色々聞かれた」

と聞くと最初は沈んでいたが、やがて饒舌になり事件のあらましを話し出した。

話によると、

「殺された男の身元は不明」

と真理亜は言った。

更に警察から真理亜も、死体の写真を見せられて見覚えが無いかと尋ねられたが、

「男の頭髪は無くて、顔も見たが思い当たる人はいなかった。」

ときっぱりと言った。

また、一緒にいた男は

「幼なじみで特別な存在では無い」

と嘘を言った。

そして、

「もしかしたら理香さんは私と間違って刺されたんではないかと思う時もあるの。だって、同じ服を着ていたから」

と言った。

「なんでそう思うの」

「何と無く・・・・・色々あるから・・・」

と話しの途中で真理亜は、感情が高まったのか次第に涙声になり勇次の肩に持たれ掛かって泣いた。

「どうしたの・・・」

と聞いても答えず、ただ泣きじゃくった。

真理亜が愛おしく可愛いいと思った。理香に持ったのとは全く違う感情だった。


理香には悪いと思ったが、店が終わって食事に行った。誘わずにはいられない程に真理亜に興味を持ったし、真理亜もそれに素直に従った。

真理亜行き着けの中華料理店だった。

その店で勇次は、

「自分は沖縄県の職員で、今は沖縄県との友好都市である中国福建省との交換研究員として、福州市の福州歴史資料館で仕事をしている」

と言うと、真理亜は、

「自分の故郷は福州の隣の町、福清市だよ」

と告げた。勇次はこの街を良く知っていた。

と言うのは、中国での研究テーマが[神戸華僑社会成立に及ぼす歴史地理学的考察]だったからだ。

ということで、話しは弾み明け方になってしまった。

真理亜が、

「これからどうする」

と聞くので勇次は、真理亜を抱きしめてキスをして胸をじかに触った。膨らみと弾力が気持ち良かった。真理亜が強く唇を求めてきたのでそれに答えた。

その状態で暫く抱き合い10分後に何事もなかったように無言で別れた。

勇次は、この日の出来事は真理亜の営業なのか、勇次への何らかの好意なのか分からなかったが、強いインパクトを与えた。

この時は、理香には持ったことの無い感情を抱いたが、時間が経過すると自然に忘れるかと思ったが、思わぬ出来事が起こった。


駅で買った新聞に、理香が刺された日に殺された男を殺害した犯人として、真理亜の幼なじみが、中国に既に逃亡しており、中国に対して犯人を引き渡すように要求したと言う記事が小さく出ていた。

しかし、真理亜は違う考えを持っていた。

理香を刺して茂みに駆け込んだ男の後ろ姿が、自分のなじみ客である下田 信一郎に似ていたことが気になっていたのだ。それが人、間違い説の理由だった。

一緒にデートし勘違いさせた罪を払拭するために、最近、真理亜に起ったことを警察に出頭して語った。

その内容は次のようなものだった。


5)ストーカーの親戚


真里亜は信一郎から最後の話し合いと言って呼び出された。

何回目かの最後の呼び出しだった。真里亜は今日こそは自分の思っていることを包み隠さず話すつもりだし、これからはもう逢わないことをハッキリと宣言する算段だ。もうこんな関係が約半年続いていた。

一方、信一郎はなんとか関係の修復を図ろうと考えていた。

「こんにちは、今日も綺麗ですね」

「ありがとう。どこに行きます」

「個室の京料理がいいな」

「個室より中華の火鍋に行きましょう」

と意見が異なった。信一郎は京料理に興味はなく、ただ個室で真里亜を口説こうとし、真里亜はそれを拒否して淡々と客とホステスの関係を維持しようとしていた。


結局、押し問答の末、

真里亜の予期せぬ強い言葉、

「中華行かないなら帰る」

という一言で、中華料理に行くことになった。

食事をしながら信一郎は、

「最近、冷たいね。何かあったの」

と聞くので

「あなたの態度が悪いから最悪だね・・・・」

「どこが」

「私の嫌がることばかりやるから。電話攻撃、メール爆弾、待ち伏せ、追いかけ……」

「好きだから」

「私は嫌い、普通の客とホステスの関係に戻りましよう」

と言うと無言で、真里亜は信一郎を無視して背を向けて帰りかけると手を取って引き戻した。

仕方なくテーブルに戻って食事を続けた。

 ここまでされても信一郎は今、少し関係はギクシャクしているが、恋愛に良くある倦怠期で真理亜に愛されていると思い彼女と思っていた。いま少し時間がたてば再び仲良くなれると心底から考えていた。悪気はなかった。真理亜のためにそうせずにはいられなかった。

暗い、味気のない食事だった。真里亜は意識して化粧もせず地味な服で声のトーンも落として暗い感じで対応した。

信一郎が自分から去っていかせるための演出だった。


無言の食事が終わり、

「さあ店に行こうか」

と言うと、

「行かない」

と予想した回答が返って来たので、

「分かった。これで別れましょう。あんたが私を振ったんだから本望でしよう。もう逢わないようにしよう。私もあなたのデータを消すからあなたも消しなさい。」

と言って、信一郎に付け込む隙を与えずに足早に店を出た。

更にメールは着信拒否にし、店も名古屋市内から離れたチェーン店の他の店に移り、自宅も引き払って一時的に店の寮に入ったが、信一郎は大学前で待ち伏せし、後をつけて新しい店にやって来たが、店長の計らいで席に就くことはなかった。

この時、真里亜は真剣に店を辞めることも考えた。卒論の仕上げや就職活動もあり、お金の問題が解決すれば実行可能だった。

仕送りは当面出来ないが、百万円程度の蓄えはあるのでいざとなれば決心しようと思ったが、その時は、そこそこの会社への就職がマストとなる。

それから一週間、信一郎の入店は無く、ストーカー行為は収まったように思った。それはこれから起るであろう激動のための暫くの静寂だった。


真理亜はリトルワールドで信一郎らしい人物を見たことを警察で話すべき、と決心して思い切って警察に出頭して、信一郎のことを話した。その信一郎のことで、ちょつと気になる事件があったことも話したが、警察は信一郎のこと以上にこの男に興味を示した。


真理亜は、

『信一郎との関係が決定的に拗れる前、すなわち約8ヶ月前頃から、真理亜は誰かに生活を見られているように感じていた。一時は、信一郎かなと思った。商売柄、信一郎のみならずストーカーはある程度仕方無いと思っているが、気になるので街角を素早く曲がって停まった。

すぐに初老の男が走って来たので捕まえた。男の頭はロマンスグレーで強い黒ぶちのメガネをかけていて異様な雰囲気だったので身構えて、はっきりと顔を見る事が出来なかったが、気力を振り絞って、

「あなた誰なの何で私をつけるの」

と聞いたが答えずにいるので

「警察に連絡するよ」

と迫っても無言だった。真理亜には見覚えの無い男で処置に困ってこのままこの男が早く消えてくれることを望んだが、男は動かなかった。男には男の目的があった。

暫く沈黙が続いたが、

ここで男が語り出した。

「あんたが付き合っている下田という男だがね」

と言ったが、動転してすぐには誰のことか分からなかったが、暫くすると最近よく店に顔を出して指名してくれる男の名前だと分かった。

「信一郎さんがどうしたんですか?」

「アイツとはあまり仲良くしないで欲しいんだ」

「何で、あんたがそんな事言うの親戚の人でも・・・」

と聞き返した。

信一郎も最初は、ポテンシャルの高い上客だったが、段々とストーカー行為に近いこと即ち、追いかけ、待ち伏せ、電話が増えて対応に苦慮していた。もうこれ以上付きまとうと切ろうと思っている客だった。

ところでポテンシャルとは、客が自分にどれだけお金を出せるかの指標で、収入の大小ではなく借金してでも自分に出してくれる金の額だ。

「俺は信一郎の叔父なんだが、酒で身を持ち崩してこんな生活しているんだが、偶然、アイツがあんたに付きまとっているのを見て気になったんだ。それであんたを見張っている。アイツが変なことしないように」

「そんなに彼のこと思っているんだったら直接、彼に言えば良いのに、何でそれが出来ないの」

と問いかけると沈黙した。

真理亜は変な人も居るもんだ。早くこの場を逃げないといけないと思った時、男が、

「あんたからアイツを諭して欲しいんだ、早く私を忘れて普段の生活に戻りなさいて。あんたのことなんか好きでないとか、好きな彼氏がいるとかなんとでも言い方はあるだろう。経験もあるだろうし」

と言われてしまうと、一言言いたくなった。

「私も迷惑しているんだからどうにかならないの、叔父さんが注意してよ。今みたいなことしていると俺と同じようになるよ・・・・とか。効果有ると思うけどね。」

確かに一理あったが、男にはそれが出来ない事情があった。

「そうだな。それが出来たらどんなに良いか。でもな、あいつはもう数件のサラ金に借金してお前につぎ込んでいる。其のうち会社を辞めることになるだろうと思う。その辺はお・・・・・・似ている」

と言って口を閉じた。

「叔父さん、分かった。教えてくれてありがとうネ。私も頑張ってみるから叔父さんも頑張って下さい」

と手を取って言った。

それだけ言うと素早くその場を離れた。男は去っていく真理亜を何時までも眺めていた。


そして真理亜は信一郎との関係を完全に切ることを決心し、携帯電話のデータを消して自分から連絡出来ないようにし、最初の着信拒否設定をした。更に営業的には大きなマイナスだが店のマネージャーに信一郎を入店禁止にするように言う決心をした。がストーカ行為は完全には収まらずに、山谷は有るもののある種エスカレートしていった。

という内容を警察に語った。


この情報を聞いて、警察は、信一郎に関心を持ち、更に真理亜が言ったこの男との関係に興味を示した。というのはリトルワールドで殺された男の身元は持っていた運転免許証と健康保険証から飯田二郎(60歳)と半ば特定出来ていたが、念のため指紋照合やDNA判定を行ったが過去データがなく確定出来なかった。更に身元を確認する身内も唯一姪がいたが、40年以上逢っていないので、自信を持って本人と確定することは出来なかった。

しかし、

「右の背中にある米粒大のイボには見覚えがある」

と言ったのが身元確定根拠となった。但し死体の引き取りは断ったので、死体は焼却し無縁仏として処理され、特別身元不明者として捜査資料と共に血液と指紋を保存されることになった。

勿論、歯型確認、医療機関の記録も調べた。歯型確認については、25歳までいた故郷の歯科医に逢ったが、歯科医は既に廃業しデータは無く、医療機関の受診も故郷を出て以降はここ3年間分しかなかったが歯型、医者の診療記録と死体に齟齬はなかった。血液型もB型で一致した。


しかし、真理亜から信一郎の情報を得て、殺された男との関係を再度調査することになった。しかし、信一郎と死亡した男の関係は分からなかったが、捜査の過程で信一郎の父親は阪神淡路大地震で行方不明になりその後、死亡が認定された事が分かった。

念のために信一郎の母親に死体の写真を見せたが、躊躇無く見覚えが無いと証言した。

真理亜の証言により、重要参考人として信一郎を調べようとしたが、事件当日以降に失踪していることが分かり有力容疑者と認定したが、中国への峰観の引渡を既に要求済みであるという面子を意識して、新聞発表は当面行わないことにした。

警察は信一郎が真理亜と理香を間違えて刺したのではと類推したが、面子のために会社の金を使い込んだという所謂、別件で指名手配した。会社はほんの数万円の使い込みであり被害届けを出す事に躊躇したが、警察の圧力に負けた。


さて勇次は、中国への帰国の日、ホテルで身支度を整え理香の家を再度訪問したが、理香は会いたくないと言って頑なに勇次に会うことを拒否した。

この時、勇次は 自分の心が読まれている事を確信した。

「すみませんね。本当に我がままな娘で、私からゆっくり話してみますから暫く時間を下さいね」

と事情を知らない母親に言われて、恐縮し丁重にお礼を言って理香の家を出て、新幹線で大阪に向かい関西空港から深釧航空の飛行機で福州に帰って行き、日本での2週間の休暇が終わった。


 帰国した翌日、理香から電子メールが入った。

その内容は、

《勇次さん、この前は素っ気ない対応をしてスミマセン。それでも良いかなと思ったんですが、やっぱりそれは寂しいと思ってメールを書きました。あなたの何事にも真っ直ぐに取り組み、誠意を持って対応する姿と濁りを知らない澄み切った目が大好きでした。黙っていてもこの状態が永遠に続くと努力を怠った自分を恥じています。

これからは純真な真理亜さんを大事にして幸せになって下さい。私も頑張ります。もう流す涙は全て出したので、私にはもう流す涙も時間も有りません。私も新しい世界に一歩踏み出します。》


という内容だった。感の鋭い理香は、勇次が真理亜に関心を持った事を鋭く察知したのだった。


6)理香と勇次の別れ


理香は美人で気が優しくて思慮深く、結婚すれば良妻賢母になると思っていた。それは付き合いの長い勇次が一番良く知っている。ちょっとした気の迷いで交際相手と別れるという女性ではない。

基本的には勇次の心変わりではあるが、理香の諦め方が余りにも淡白だったので驚いた。

彼女とは大学院時代に知り合って交際が始まった。勇次の就職先である沖縄にも尋ねてきて身体の関係も出来て愛も深まった。ところが、別れを言われてしまった。

二人はお互い他の相手を探さず真剣に交際し、本格的な付き合いに発展したが、勇次がほんの少し他の女性に心を迷わせたことが発覚したことが原因で別れることになった。

人一倍プライドが高い彼女の気持ちを傷つけたことも事実で、理香はもう自分ではひとりに決めたと思っていたのに、勇次がまだ一人に絞りきれていないことがわかって、そんな人は許せないと思ったのだった。


理香は大分以前からもう自分一人に絞ってくれていると思っていたのに他の女性に興味を示した勇次の態度が一瞬の迷いでないことを察知していた。

自分が刺された日、理香は酔った振りをして勇次に決断を迫るつもりだった。

理香も彼との交際を真剣に考えるまで複数の人と会ったりしていたが、彼との結婚を考えてからは他の男性との交際は控えていた。

勇次との別れを母親に相談した時、

「長い付き合いだからその程度のことならもう少し時間を取って考えれば良いんじゃないの」

と復縁を勧められた。

しかし、

「信頼できない。もう会いたくない」

の一点張りで、自分一人で別れを決めた。


信頼する女性の友人達からは、

「ちょっと放っておいて待つのも良いと思うよ。 待っていたら必ず帰ってくるから」

とか、

「同時進行しながら相手を選ぼうなんて人、信用できませんね。友人関係なら我慢できるけど、 二股かけるような人は信用できません」

と同情したり、

「恋愛と言うもんは、そういうことも有るからあなたも新しい恋をしたら。逃げる相手を追いかけても、あなたが惨めになるだけだから。キープ女に成り下がるのだけはやめて欲しいな」

とか色々言われたが、一度決めると他人の意見で揺れる性格では無かった。


結局、家族や年頃の友人に今できることは、理香の話を黙って聞いて、そっと見守ることだけだった。そして、やがて友人達は他人のことより、自分の足元をしっかり固めることに専念した。

勇次との別れを決断した今、理香は自分が待ってさえいれば、結婚は確実だと思う発想は間違いだったと思うようになった。待ち続けた結果、結婚できるかどうかは、勇次が自分でいいと判断してくれなくてはならない。

これは余りにもリスクが大きい。もっと、積極的に行くべきだった。沖縄での夜にもっと迫らなかったことを後悔した。


考えれば考えるほど、自分の考えが甘かったと思い、時間が経てば経つほど結婚したいと思っていた気持ちを踏みにじった勇次の行為は許せなくなった。

彼女の判断は正統で、勇次は、

「まだ決められない」

理香は、

「待っています」

「やはり君で」

というストーリーの展開を夢見ていたが、結果的には、

「やはり君で」が「他の娘となりました」と言われてしまった。

理香は、友人から真理亜が通っている大学を聞いて訪ねて行って、勇次が関心を持って付き合っている女性、真理亜をそれとなく見に行って最終的に別れを決めた。

かって通いなれた通学路を、下を向いて足早に歩いてその場を離れた。



 勇次が中国に帰って1週間ほど経過した頃だろうか、自宅に帰ってポストを見ると理香からの手紙が届いていた。そこには、

【勇次さんこの前は素っ気ない態度を取ってすみません。電子メールでは心が通じないと思い筆を取りました。言うまでもなくあなたの優しさは分かっていますが、嫉妬と言う魔物が私に取り付いて自分の気持ちをコントロール出来なくなって、あなたに冷たく当たってしまいました。本当に許して下さい。あなたとはもっと上手くつきあえたと思いますが、何か歯車が狂ったみたいで、あなたとの世界を構築出来なくなってしまいました。

私の努力が足りなかったと思います。

これからはお互いに今度の経験に学んで新しい恋に生きましょう。

今度、会ったときはこれまでのことが夢物語のように話せることを願っています】

と伸び伸びした端正な字体で書かれていた。


この手紙を受け取って勇次は、電子メールで理香に、

《理香さん手紙を読みました。あなたの気持ちが理解出来ずにスミマセン。私の至らなさであなたに悲しい思いをさせたことに責任を感じます。私がもう少し大人だったらあなたに悲しい思いをさせずにすんだと思うと自分が恥ずかしくなります。理香さんも新しい恋をして真新しい人生を歩んで下さい。》

と涙を流しながら書いた。


考えてみるとお互いに平凡な人生を歩むべき所を真理亜の出現によって、狂ってしまったのかもしれない。

お互いに至らぬ点や誤解も有ったが、これで一区切りついたのは事実だった。

勇次は、自分の心の迷いや心変わりが招いた結果で有り、そのための悲しい別れで勇次は自分の不甲斐なさを知ったが、今回の手紙とメールのやり取りで踏ん切りがついた。


これで新しい世界に踏み出せると思った。












2.福州歴史資料館


中国に帰ってから勇次は、沖縄県からの使節団や宮古島からの交流団体の受入れが有り慌ただしく時間を過ごした。実のところ研究より団体の接待に取られる時間のほうが多いのが現状だったが、自分に不足している人との関わり方を勉強する場として利用したので、それはそれで満足していた。


受入れ客の応対をする合間の時間に中国に初めて来た時の事を思い出した。

関西空港での出国審査も無事終わり、飛行機に乗りまずは一安心した。そして、飛行機の中で福清出身の学生と、

「ここ何処ですかね」

「瀬戸内海じゃないですか」

「良くこの飛行機使います」

「ええこれで5回目、でもこんな綺麗な海を見るのは初めて」

という会話で知り合い、バスまで案内してもらうことになった。学生は李 邦憲と名乗って、

「今、再勉強中なんです」

という言葉が新鮮に聞えた。

勇次は入国審査に時間がかかった。男の一人旅が怪しいのか?係官に何回も顔を見て首を傾けられる。

学生もバックの匂いが怪しいと警察犬に嗅ぎ分けられて一悶着あって足止めされている。

気持ちの中で「怪しい人と係わったか?」と葛藤する。


彼が入国審査に時間を取られている時、日本人と思って物売り、中年の厳つい男やタクシーの客引きやら最後は若い女性まで加わって勇次の争奪戦が始まった。勇次は、適切な言葉を発することが出来ず気合負けして立ち止まってしまった。周りには多くの人が居るが誰も助けてくれなかった。途方にくれた時、例の学生が帰って来て仕分けをしてくれた。

学生は少しのやりとりで入管から解放されたとのこと。大学から魚粉サンプルを持ち出したが、これが麻薬と間違われた。とのこと。優しい人を疑ってしまった自分を恥じた。


彼のおかげで無事福州のアポロホテル行きのバスに乗ることが出来た。

本当は空港から福清へのバスを見ておきたかった。でも助かった。

バスは高速を走るが街は暗いし日が暮れるのも早い。光がない分、広告塔は色彩を派手にして明るくみせているように感じた。


福州に到着後、福州市内でタクシーを拾うのに苦労した。タクシーの屋根には日本のパトカーのようにライトが付いているので、最初タクシーが傍に来た時、パトカーが来たと思い身構えた。次は白タクと普通のタクシーの区別が付かない。思い切ってタクシーに乗る。中国にはタクシー乗り場がない。学生がくれたホテル名を書いた紙が役立った。

タクシーの運転手にその紙を見せて行き先を告げた。

道路にはバイクが多いが、夜なのにライトが付いていない。横断歩道も人優先じや無い。信号のある横断歩道も同じで、勿論、安全地帯では無い。


タクシーに乗っている時、心臓はドキドキ。運転手と客は檻で分かれている。運転手はタバコと携帯を慌ただしくする。段々と不安が募った。運転手も喋らない客を不安に思ったことだろう。

15分後に無事ホテルに到着したのは良いが本当に長い時間だった。料金は12元と表示されているので、20元を渡すが釣りは5元しかくれなかった。3元は中国語が分からない外国人料金と考え抗議することは出来なかった。でも無事ホテルに着いて一安心した。


ホテルではデポジットでもめた。一種の保証金のようなものだが、意味が分からなかった。

英語で、デポジットとして

「1000元を払え」

と言われて、宿泊費と勘違いして

「既に日本で宿泊費は払っている。もっと調べて欲しい」

と根底には中国への不信感も有って大きな声で抗議したが、日本語の少し分かるスタッフが現れてデポジットの意味を理解した。英語力のなさと自分の大人気ない対応を恥じた。

しかし、宿泊料金500元に1000元は高すぎる。と思ったがこれも今では楽しい思い出となった。

浅い風呂に入ってから街を散策。亜熱帯で暑いのか女性は肌の露出が大きい。短パンが多い。ちょっと古いが飯島 愛ちゃんスタイルだ。結構、可愛い人も居る。携帯電話、メールも問題なく日本につながった。

この時の何とも言えない思いは今でも鮮明に覚えている。


また、市内循環バスに乗った時の厳格な人の発言も思い出深い。勇次が初めてバスに乗った時、お金即ち、1元を後払いと勘違いして払うのを忘れた。それを20歳台の青年がバスを降りる時に声高に運転手に指摘した。

暫くして、運転手に呼び止められて5元払うことを請求された。勇次は自分のミスで本当に申し訳ないことをしたと思い。中国語が分かれば良かったとも思った。運転手は怒った相手が、無言ではさぞかし不愉快だっただろう。

勇次を日本人と思ったのであれば、

「日本人てやっぱりあんなもんか。学校で教えられたように常識がないんだ」

と思ったと考えると、この出来事は、早く中国語を覚えなくてはいけないと思うきっかけになった。

 余談だが、この時に勇次は5元払ったが、本当は2元で、3元は運転手の小遣いになった。


これらの失敗は今では懐かしい思い出だが、ホテルのスタッフとは、この時の出来事が縁で親しくなって沖縄県からの客はもっぱらこの福州水上大酒店に泊まらせることにしている。

なお、大酒店とはホテルのことである。

ところで著しい発展をとげる中国ではあるが、それはまだらで上海、北京に比べると福州の発展は遅れていた。

それは、朝の交通ラッシュに現れている。

朝、食事前に街を散歩するが、小学校が近くにあるのか交差点に警官が多い。母親が電動バイクで子供を送ってくる。クラクションの喧噪の中を歩く。勇次は苦手だった横断歩道の利用にも多少慣れてきた。今日、気付いたが電動バイクに二人の子供を乗せている人も多くて一人子政策が怪しい。

それにしてもクラクションを鳴らしながらの信号無視の運転は、人も車も気が抜けない。運動神経が磨かれ野生が蘇る。

勇次は運動神経が磨かれて運動不足防止には最適だと前向きに理解した。


夜、街に出ると無点灯のバイクに奥さんと子供を載せた3人乗りが多いことも知った。上海、北京のように高級外車を買えない人の自家用車がわりだ。

ちなみに、中国入国1週間以内に感じたことを箇条書きにすると、

○街が暗い。

○一流ホテルに飲食店、バー、ナイトクラブが有り、男女交際にフロントは寛容。

○ホテルの部屋に男女別の精力剤、コンドームが置いてある。

○若くて魅力的な女性のルームサービスが夜、6時頃に行われ、物売りもする。

○風呂はシャワーでバスタブが無い。

○街の女性はミニスカ、タイトスカート、短パンの人が多い。色が白い人は少ないが、その人は背が高くて概ね美人だ。

○店には偽札をチェックする機械があり。札を通して確認する。

○翡翠は高くて最低でも500元する。

○勿論、話し声は大きい。

○食べ物は概ね日本と同じ。

○大きい川で網を下ろして鯉を取っている人がいて、沢山の見学者がいた。スーパーに魚の水槽がありその前で子供の写真を撮っていた。福州でも自然に飢えている人がいる。

○一人子政策のわりには子供が多い。

○噂のマッサージ店は見つからない

○ホテルでは外出時にキーをフロントに預けない。シングルの部屋のベッドが異常に大きくダブルサイズの2倍は有る。そしてフロントは人の出入りに無関心で誰でも出入りが出来る。

○テレビのNHKはNHK以外の意味の無い番組を放送していた。

○効率的な運転。クラクションで相手に注意を促し、道を確保し横断歩道でも人が動かないとみると信号無視もいとわない。運転神経と鋭い感受性が磨かれて野生が蘇る。夜はさぞかし大変だろう。

○今や男尊女卑は崩れている。女性は、表面上は大事にされ威張っている。

○中国人はお札を握りつぶして持つから札が異常に汚い。そして汚い札から釣りにして返す。

○トイレが異常に少ない。銀行、百貨店、ホテルにもないからいざと言う時に困る。特に田舎ではトイレチェックは欠かせない。


という事になる。

日本と比べると中国人には特に衛生観念、公共性という点からは課題も有るが、街は活気に溢れて元気があった。

勇次には日本人が思っているより、将来多いに発展する要素を潜在的に持っているように思えた。この姿を見ると真理亜の友人、峰観が大きな成功を夢見る気持ちも理解出来た。


福州に帰り1ヶ月が経過し腰を据えて本格的に研究に取りかかろうとした時に、予期せぬ嬉しい訪問を受けた。

受付からの何か意味ありげな、

「三宅さん日本からのお客様」

と言うたどたどしい日本語に促されて階段を下りながら、誰が来たのか想像しだが、一人を除いて結論を見いだせなかった。


果たして入り口に待っていたのは真理亜だった。

自然に笑顔になった。

勇次の顔を見るなり親しげに抱きついて来て驚いたが、何故か離したくなかった。気持ちを整理して真理亜に外に出るように促して公園を歩いた。

二人は公園の中にある本当のマクドナルドで軽く食事を取りながら話した。

真理亜は、

「福清市高山鎮の実家の父が病気で里帰りしたの。3年ぶりだね。色々あったし・・・」

と言う主旨の話を長々とした。

そして、単刀直入に、

「一緒に高山鎮に行って父親を安心させて欲しいの」

と言った。


話しがつながらないので更に聞くと、父親は末期の癌で、あと6カ月の命であり父親に信頼出来る恋人を紹介してやりたいと言う。

勇次は話しがあまりに良く出来ていて安物の小説のように思えて、最初余り乗り気でなかったが、自身が癌で祖父母を亡くしたことと、興味を持つ可愛い真理亜が、眉に皺を作って必死に頼むのを見て親孝行と思い引き受けることにした。


話しが決まると真理亜は快活になり、明日からの5連休に高山鎮を訪問して真理亜の実家訪問と勇次の研究テーマのフィールド調査をすることで話がまとまった。


真理亜を馴染みの福州山水ホテルに送っていくとホテルのスタッフが変な顔をして勇次を見た。

真理亜のチェックインを終えてホテルを出る時もニヤニヤ笑った。


夜の10時頃に勇次にメールが入った。

真理亜からだった。

《今晩は、今日はありがとう。驚いた!非常識な行動許して下さい。でも今、真理亜は超寂しいです。》

と書いてあった、

《今日は楽しかったです。真理亜と居ると楽しい。また明日よろしくお願いしますネ!》

と返すと直ぐに、直接的なメールが帰って来た。

《勇次、今あなたにたまらなく会いたい。回りの人たちは楽しくやっているよ!大きなベッドで一人で寝るのは寂しい!》

これを受けて、

《真理亜の気持ち分かりました。明日も頑張りましよう。いいですか!》

と少し話しをずらした。

その後、

《勇次、了解》

《OK、真理亜》

というやりとりをしてメール交換は終わった。勇次の気持ちは限界近くまで膨らんで眠れなかった。


1)高山鎮


高山鎮は日本にいる華僑の故郷といわれる土地柄で、最近までは密航者が多かったが、さすがに最近は真理亜に代表されるように正規のビザを持った留学生や商売人が多くなっている。


約束通り10時に勇次がホテルに現れて、チェックアウトを行っていると真理亜がフロントに降りて来た。

胸が大きく開いた赤のタンクトップに白の短いパンツという当地の普段着だったが、胸が大きく開いている分、真理亜が挑発しているように思えて目のやり場に困った。

勇次は、強い興味は有ったが、これまで本当の意味で真理亜を一人の女として意識しておらず、只の飲み屋の女性としか見ていないことに気付いたが良く見ると、

上背があり色白で、腰を上に取って空に向けて足を高く上げて、故郷を闊歩する女は化粧抜きで無造作に髪を頭の上で丸めているが見栄えした。

背の高い真理亜がヒールを履いて歩く姿は,周囲の目を惹き付ける。

「あなたの歩く姿は見栄えするね。見ていて惚れぼれするよ」

「あなた口上手ね。でも嬉しいな、それ本当に本心から言ってくれているの。日本人得意のお世辞ですか」

「マジ本心。日本人は誠実で嘘つかないから。特に俺は・・・」

「了解しました」

というテンポの良い短い朝の挨拶代わりの会話が有った。

日本滞在が長く、感性や立ち居振る舞いは、もう中国の田舎都市高山鎮から出てきた女性とは、とても思えない程に洗練されていた。

周りの環境や小さい時からの教育と努力もあり日本語も殆ど完璧だった。真理亜の周りにいる中国人も中国人と思わなくなっていた。化粧方法は完全に日本流だ。


しかし、これまでの短い付き合いの中で、本人も認めるようにその性格は鮮烈で、日本社会にとけ込んではいるが、不正に対しては、例えそれが日本人であっても決して許さないところがあるようだ。

彼女の言い方によれば、

「日本で苦労してきた。その結果、自分がやってきたことを日本人がまともに出来ないと途端に怒り出したくなる」

と言う。このあたりはせっかちで短気な福清女の性格そのままである。この性格が可愛いという客も多いが、徹底的に怒らせ水を掛けられたことや、尖閣列島の帰属を巡って客とマジで論争したこともあるという。

スタイルが良く、聡明でセクシーで強烈な性格を持った異国の女、真理亜は勇次を夢中にされるには十分な素材で友達以上恋人未満の興味を持たせた。


真理亜の故郷、福清市は、人口約120万人、台湾の首都台北の目と鼻の距離にありフェリーも運行されている。

名古屋から直通便は出ていないので、関西国際空港に出てそこから飛行機に乗って、空路、福州長楽空港、ここから車に乗り換え1時間で福清に着く。乗り換えの時間を入れると名古屋の自宅を出てから7時間ぐらいを要する。

勇次は中国は近いと思っていたが、このような地方都市に行こうとすると、さすがに大国で容易なことではないことが分かった。


真理亜は、6年前に日本へのビザがおりた時、勇躍家族に見送られて福州長楽空港、関空、そこから新幹線で名古屋に着た。勇次と同じように始めて日本でタクシーに乗った時は不安だったという。

この福清は、京都にも同じ名前の寺がある黄檗山萬福寺法席の隠元でも有名であるが、高山鎮がある半島地帯はインターネット情報によれば俗に「九陵一水あるいは一分田」とも言われており、大きな川や溜池がなく全体に山や丘陵に囲まれていて、農業が発達せず有力な産業も無いことから、昔から貧困地域であり、清末から華僑として合法、非合法に、苦力と呼ばれる単純労働者を海外に送り出した歴史を持っている。

その時、複雑な入り江で構成される高山湾が官憲の目を逃れて利用されたと言う。このときに養ったノウハウが互助組織である蛇頭に蓄積され、近年までの密航に利用された。


このような経緯から真理亜が生まれた福清市は人口120万人に対して世界に点在する福清華僑華人は約50万人と言われ、中国改革解放後の日本への移民は約2万5千人で、かってはその半数が非合法滞在と言われていたが、最近は少なくなっている。

半島には多くの鎮、いわゆる日本でいう村落があるが、真理亜の故郷、高山鎮西江村は福清地区の中でも芋類しか取れない全く痩せた土地で、歴史的に海を頼って生存してきたので、海外に渡って困難に耐えた。積極的に海外に出ていく冒険心と開拓精神を持っている。


特に、数百年の歴史をかけ海外へ散らばっている福清人の「移民の環」が、改革開放以後に再び機能を発揮するようになった。真理亜も、もって生まれたDNAと家族への深い思いやりが、日本へと駆り立てられたに違いない。


二人は、タクシーで福州南バスセンターに向かいそこから高山鎮を目指した。福清での足としては、路線バスが最も手軽な交通手段で、かなり田舎のほうでも頻繁にバスが運行されているので便利だ。問題は時刻表が無いこと、何時に来るのか、何時につくのか全くわからない。

でも本数が多いので少し待てば必ず来る。市内循環料金は概ね1元(夏は空調料で1元プラス)、かなり安く庶民の足だ。

次に、タクシー。早朝から夜遅くまでかなり多く走っているので手軽に乗れる。運転手は2交代らしく夕方の交代時間には、空いていても方向が悪いと乗車拒否される。初乗り8元はちょっと高い。

運転マナーが悪いので、イライラしている時はときどき腹が立つことがある。

客が乗っていても、煙草を吸うし電話をかけるし飲食はするし交差点では新聞を読む・・・・、でも中国人にとっては当たり前のことで誰も怒らない。

急発進、急ブレーキ、無理な割り込みも平気でやる。混雑時には対向車線も平気で走る。心臓の悪い日本人は乗らないほうが懸命だ。

今では多少慣れたが日本に一時帰国して帰って来た時にはカルチャーショックを受ける。

若い人には、バイクに人気がある。バス停には客待ちしているバイクが屯しているが、違法ではない。

客用のヘルメットは殆どの場合用意していないが、雨の日は雨合羽を用意してくれるし、日傘がついているバイクもある。田舎の方では2人まで乗せてくれる。初乗り5元、交渉しだいで安くなる。タクシー料金の半額程度で、渋滞が多いとタクシーより早く便利だ。

最後が、輪タク。自転車や小型のバイクに2人乗り座席をつけたものだ。日本でも戦前にはあったもので、少し田舎に行くとたくさん走っている。高級外車の間を縫って走っているのを見ると、時代のギャップを感じ、中国には2つの国があるように思ってしまう。


ところで、高山までの高速バスに乗ると、それまで喋らなかった真理亜が、

「おとなしいネ!」

「真理亜が喋らないから」

「この服、驚いた」

「ちょっと」

「良かった。怒っているのかと思った。」

「怒ってないよ!今日も楽しく行こうネ。でもその服、お父さん驚かないの」

「大丈夫、私は親に信頼されているから」

と言う会話から話しが弾んだ。

真理亜は話を逸らさない才能が有り、話題が豊富で勇次を楽しくさせてくれる。話題はお洒落、大学、家族、高山鎮、友人だった。時間が早く過ぎた。良い悪いがはっきりしていて裏表がないうえに感謝の気持ちを素直に表現するので付き合っていて気持ちが良かった。


2)峰観の失敗(デイトレーダーの生活)


最近、中国でも所得格差が広がり社会問題になっている。

「収入の多さで幸福度合い決まるか」

という設問に肯定的な見解が14%有った。この記事を見た勇次は「実態と違うもっと多いはずだ」と違和感を持ったが、読み進めると収入が多くなればなるほど、逆に少なくなればなるほど「強くそう思う」が多くなっており、月収3000(4万5千円)元程度の中間層だけではむしろ「強くそう思う」が少なくなっている。(出典:「中国消費者の生活実態リサーチ中国白書2006-2007」)

 この現象には納得した。即ち、中間層は現状満足派が多いということだ。


新聞によれば、預金は月収の19%と案外高い。勇次の周りにいる普通の中国人に「お金持ち」の最低水準を聞いたところ、全体的には月収1万元がひとつのラインとなっている。

既に峰観はこのレベルを超えていたが、彼はこの100倍を目標に置いていた。


峰観はアメリカで失敗し、日本に逃げてきた時、中国製の医薬品の個人取引を行う中国の地域組織のグループに加わった。インターネットで一般市販品より1/2程度の値段で日本の顧客から薬の注文を受けて売る商売である。

注文はインターネットで受け、薬は患者が嘘を言って日本国内で不正に医者から入手した物や中国から輸入したコピー薬を使ったが、個人輸入の危険性や規制の強化で国内での薬の入手が難しくなり先細りになった。

ちなみに主に買われていた薬は睡眠薬、ED薬、各種媚薬、ビタミン剤、痩せ薬の類で正規に入手しにくい薬である。


商売が先細りになり、焦りから峰観は組織には無断で、株のインターネット取引にかかわる事を決心した。峰観には自分は選ばれた人間で、必ず勝てるという気持ちというか変な自信があった。

なお、デイトレードとは、主に個人投資家による株式・債券などの日計取引である。主に株式・債券取引やFX、商品先物取引、CFDなど市場流動性の高い取引において行われるが、峰観は株式取引に係わった。


1日に1回もしくは複数回の取引を行い、細かく利益を積み重ねる売買手法である。しかし場合によっては、1日で数百万円~数億円の利益を得られるが失う場合も有る。他のトレード手法と比べ即時性、ゲーム性、ギャンブル性および依存性が強いとされる。

利益をあげ続けるためには、時代の寵児、ホリケンが言うように高い熟練度を要するが峰観はこの取引にのめり込んだ。


IT革命と共に日本でもデイトレードが一般人に浸透しはじめ、書店ではデイトレード関連の参考書籍が棚を埋めるようになり始める。マスコミにはカリスマトレーダーも登場した。この頃、手数料の値下げがあり参入を加速した。

口座さえ作れば誰でもできるので、初心者でも入り込みやすい。一種のオンラインカジノと割り切った楽しみ方も出来るが、初心者にはギャンブル性や依存性が大きいため、9割が資産を失うと言われる。


峰観がデイトレに挑戦する理由は、「デイトレに勝機を感じる」ためと自分に言い聞かせた。

目論みが外れて参入当初から大きな利益を出すことも無く、小さな利益を重ねていた。その時、前場最後の取引を終えて峰観は一息ついていた。手数料を引くとわずかな利益だけど、なんとか5連勝達成かと思いながら余韻を楽しんでいたが、2時間後に襲った株価のイレギュラーな動きへのパソコン操作のミスで1ヶ月間の利益を全て吐き出した。

取引は成立しないはずという予断と油断が生んだミスだった。

具体的には、自分が思っていない方向に株価が動いた時、取り消しのボタンを押したが、

「取引が成立しました」

とパソコンに表示され、しかも、株価は恐ろしいほどのスピードで自分の意思とは違って急落して行った。頭が混乱して適切な判断が出来なかった。 まさに底なしの泥沼に嵌った。

1時間で300万円の損を出してしまった。


ここから更にどん底への道が始まった。

この損を取り返すため、峰観は「150万円」の資金を追加することを決めした。これで資金は「400万円」となり4億円まで動かすことが可能になったが損を増やした。

いまから思うと、もっとも来てはいけないこのタイミングで「堀田(ホリケン)ショック」がやって来たのだった。

株取引2ヶ月目の「想定範囲外、許容範囲外」の出来事で、たった3日で「薬取引で稼いだ金の全額」の3倍近い金が飛んでいった。

もう立ち上がることが出来ないショックを受けた。

ギャンブルに負けた人が損失を取り戻そうとして、戦略もなしに大穴を狙って破滅していく典型的なパターンだった。努力が実らない結果への自分への怒りというか焦りから心の平安を失っていた。

失った金額が、自分一人では補うことが出来ない負債額だったし、その金が組織の金だったために、命をもって償わないといけない取り返しの付かないことになってしまった。


ところで峰観が目指した、金持ちのイメージは、IT関連の500名規模の企業を経営しホンダアコード に乗って背の高い綺麗な奥さんをもらって「お手伝いさん」、「財テク」、「お受験」を経験することであった。

これが大それた夢と見るか、小さな夢と見るかは見解の分かれるところである。


ここで紹介した峰観の行動に中国の陰を観ることが出来る。真理亜は峰観の行動には必ずしも賛成していなかったが、否定もしなかった。自己責任で行動すれば良いと思った。でも勝負して失敗した峰観には、優しく自分の出来るだけのことをしてやろうとだけ思った。その行動が二人のリトルワールド行きだった。

そして、いま新しい世界に踏み出そうとしていた。

これ以外にも真理亜には普通の女性には経験出来ない色んな過去を背負っていた。それが段々、明らかになってくる。








3.真理亜の努力


 真理亜、本名 李 淑民は祖父、父母の後ろ姿を見て育ったので、小さい時から海外志向を持っていた。笑い話であるが、3歳の時に母から聞いた片言の日本語で、

「私は中学出たら大阪に行く」

と言ったという笑い話が親族の間で有名だったという。

 志は中学に進学しても衰えず中学・高校時代は日本語クラブに入って日本語を磨いた。なお、当地では高校まで進む人は少ないと言う。家は貧しかったが、何故か地元の有力者が支援してくれた。

 高校時代は日本語クラブの責任者になり、学校を代表して福建省の日本語弁論大会に出場して入賞したこともあった。

この時のテーマは、「日本への夢、私の願い」で、日本留学にかける思いとそこで漁業を勉強して故郷の海に応用し、発展に寄与したいという内容であったと言う。

真理亜は今でもこの時の内容を空で言えると言うのでためしに言ってもらったら、自慢するだけあってすらすらと言葉が出て来た。


そんな事もあり高校卒業後、日本留学の推薦も受けたが、費用が工面できなくて権利を保留した。

看護助手として人民軍の317病院で働きながらお金を溜めたが、日本円で月2万円と現地では破格の給料ではあっても、月1万円貯めるのが精一杯だった。将来に閉塞感を持ったとき、海産物や養殖会社のオーナの息子である江 峰観に出会って恋に落ち純潔を奉げた。

二人はイタリアに7日間の新婚旅行に出かけ、こんな世界があるのかと衝撃を受けアルベロベツロの街ではとんがった屋根の家で牛と一緒に生活するという環境は、中国と同じだと真理亜は興味を持った。そして、10年後に子供を連れてこの地を再度訪問する事を誓った。

真理亜の純真な心はこの恋は永遠に続くものと信じて疑わなかった。


周りの人間も若い二人を祝福したが燃え上がるのも早い分、気持ちが醒めるのも早かった。特に夢とお金を持った男の興味は一つの所になかなか留まらないものであるが、峰観も例外ではなかった。新婚1年目には大きな成功を求めてビジネスに目が向き、アメリカへの留学に興味が移った。夢と現実を巧く調和させる事が出来なかった。

「本当にアメリカに行くの、私はどうなるの」

「お前のことは忘れてない。幸せにしたいと今でも思ってる」

「貴方の態度からはそういう風には見えない。もう私に興味を失くした。私に魅力無いの・・・」

「俺を信じて欲しいんだお前も、ビジネスも夢も大事だ」

「そうは思えない。ビジネスに向いていて私を見ていない。新婚1年でもう他に興味を持つのか。私を可哀想とは思えない」

と迫られると、一呼吸置いて、

「お前と話しても進歩がない・・・・。ステージが違うな。」

と言って席を立った。未来を案じる真理亜一人がそこに残された。


峰観はアメリカで最新のITビジネスの基本を学んで中国で起業するという計画である。真理亜から見ても幼稚な計画だったが誰も止めなかった。ビジネスを良く知る父親は失敗するとは思っていたが、今後伸びるには取り戻せる失敗も必要と思っていた。

真理亜にも其のことを話し、夫を理解するようにと諭し真理亜も受け入れたが、この時と同じく始まった女遊びには我慢できなかった。

このような経緯でお互いの気持ちは急速に冷えた。途中、回復の兆しもあったが、其の時はもう二人の気持ちは冷え切っていて修復出来なかった。

夫の峰観がアメリカに去った1ヵ月後に、妊娠を知った。この時は、既に離婚を決意して実家に帰っていた。今後の対応、堕胎費用の工面に悩んでいる時に5年前に結婚した姉から一つの提案がもたらされた。


姉は、真理亜と姉妹とは言え容姿は似ていないが、商才に長けて結婚して5年が経過し便利屋という日本で言うコンビニを数件経営していたが、子供に恵まれずに肩身の狭い思いをしていた。

姉の提案は、

「淑民、お前の子供を私にくれない」

と言うもので、そう言われて意味が理解出来ない真理亜は、

「どういうこと」

と聞くと、二人で上海に言って一緒に生活して、そこで真理亜と姉が入れ替わり、即ち真理亜が姉の健康保険で検診を受け、真理亜の子供を姉の実子として産むというものである。高山を離れると殆ど顔見知りが居ないことを利用し、必要な金は姉が出した。

お互いの困った点、即ち姉には子供が居ない、真理亜は子供の処置に困っているという点を解決出来、更に誰にも迷惑を掛けないし、二人が黙っていれば誰にもばれないというメリットがあった。

 姉の話を聞いてもきょとんとしている真理亜の背中を姉が更に押した、

「淑民、この計画が巧く行けばお前に5万元あげる、それに親族から10万元支援してもらえるようにするから」

という言葉は決定的だった。いわゆる「援養児」という発想である。

二人が同意すると、上海に6ヶ月も行けば大金を手に出来るという話を聞いて1ヵ月後に高山を出た。その時に姉は妊娠してお腹が出てきた工作をし、反対に真理亜は妊娠が目立たない服を着た。念を入れるため、3ヵ月後に姉は高山に帰って綿を詰めて膨らませた大きなお腹を親戚に見せて歩いた。二人は上海の片隅でひっそりと隠れて暮らし、姉は水商売で働いた。


1)一人っ子政策


「計画生育」のスローガンを記した看板が上海の街に溢れている。一人っ子政策は、中国で改革開放政策が始動した1979年に始まった人口規制政策である。正式名称は「计划生育政策」という。出産または受胎に計画原理を導入し、幾何級数的な人口の増加に法規制を加えた。この政策の効果によって現在の中国本土では少子化が進行している。

漢民族の伝統に従うと、男子が親の面倒を見ることになる上、特に農村部においては肉体労働を積極的に手伝ってくれる男児の出産を希望する農民が多いため、妊娠時に性別検査を行い、胎児が女子の場合は中絶手術を行うケースが多発していた。このため、結果として男女比が偏っている。

一人っ子政策の下に生まれ育った「80後」(バーリンホウ、1980年代に生まれた人)が成人に達しているが、上述したとおり男女比がいびつなため、男で結婚できない者が急増している。


そして、中国の一人っ子は両親と祖父母の6人(全員存命であった場合)の大人から一身に愛情を受けて育ったため甘やかされ、小皇帝(女児の場合小公主)とも呼ばれ、それ以前の世代とは異なる価値観を持っている。

人口抑制を進めた結果、2015年頃を境に労働力人口が減少に転じ、人口ボーナスが消滅するという統計もあり、中国経済へ深刻な影響を与える可能性も指摘されている。

但し、高山鎮を初めとする田舎では完全に一人っ子政策が定着しているとは思えない現象に出会うことが多い。


ところで、中国の都市部の病院では医師にランクがあり、病院の入口に掲示されている。患者は医師を希望することができる。高いランクの医師は外来診療費も高くなるが、知識・経験・実績等の面で優れている。保険証として医療保険カードまたは社会保障カードが利用され始めている。それぞれが月給の一定割合を積み立てる機能を持つ。このカードにお金の積立機能を持たせている理由は、中国では医療費は一旦全額を自費で立て替え払いするシステムであり、病院で外来診療を受けるためには、患者は受付時にまず「前払金」を支払う必要がある。前払金を支払うことができなければ、診療を受けることはできない。この時点で「医療費は全額を自費で一旦立て替える」ことが前提である。決して庶民にとって安い負担ではない。診療後、申請により保険金が支払われる。

現在、高齢化と少子化を受けて国民皆保険制度の再構築が急ピッチで進んでいる。


姉妹二人には口には言えない苦労もあったが1年が経過し、真理亜は無事子供を産み、姉はその子供を自分の子供として抱いて故郷に凱旋し、変わりに真理亜は15万元の金を手に入れた。子供を姉に渡す時はさすがに湿っぽくなった。

子供に授乳すると愛情が湧き子供を手離すことを躊躇するようになったが、

「子供は渡さない」

「約束が違うよ」

と赤ちゃんを取り合い、赤ちゃんが泣くのに合わせて姉妹も泣いた。

何回か言葉のやり取りが有り、

「でもやっぱり渡さない」

と言った時に姉が、

「お前の夢はどうしたんだい・・・。生活出来るのかい。子供は身近なところにいるんだから。そして、お前の夢を私にも見せておくれよ、きっと両親も喜ぶと思うよ。親孝行したら・・・・」

という姉の現実的な言動もあり、姉の子供なので伯母として身近で成長が見れると思うとふっきれて気持ちが長く落ち込む事はなかった。

それでも子供を捨てた罪悪感からか胸の張には悩まされて泣いた日が何日もあった。

それに耐えれたのは「なにより、将来を見たい。親孝行したい」という思いだった。

15万元の金を元手に日本留学の道を自ら探り、自分で名古屋の日本語学校への入学を決めた。この時、ビザの取得には高校での日本語弁論大会での入賞と卒業時の留学資格認定が役立った。事実、この時、既に真理亜は日本の中学生程度の日本語能力を有していた。


21歳で日本にやって来た。日本語学校を1年で卒業し、名古屋の有名私立大学である東山大学に入って歴史の勉強を始めた。当初は水産への思いが強かったが、自分には理系の頭は無いと思い文系に転換した。途中、学費が払えずに1年間の停学処分を受けたこともあった。ちなみに勇次の彼女もこの大学に学び、大学院は名古屋市立大学に進んだ。


3年生になった真理亜は、日本に来てから中華料理店などでアルバイトをしながら睡眠5時間で頑張ったが、大学に進学した時点では日本に持ち込んだ15万元は底をついていた。

そこで仕方なく、水商売に踏み込んだ。最初は仕事に慣れず、金にもならずに学費が払えない状況になった。

金が無く友人からの借金も出来なくなり、一日1食の生活で心身ともに疲労困憊していた。

この時に出会ったのが、例のストーカー信一郎である。彼は苦労して一流大学を卒業しメーカに就職したが人付き合いが悪くて30歳を過ぎても男女交際の経験はなかった。そんな時、大学の友人に誘われて入ったスナックに真理亜がいて夢中になった。

金に困っていた真理亜に取って信一郎はうってつけの存在に見えた。

即ち、真面目そうで一流企業に勤め、金を持っており、女性経験が少ない・・・・と言う点からセックスしても安心で、金も手に入れることが出来ると打算的に考えて巧みに援助をしてくれるように仕掛けて最終的には、信一郎から、

「淑民。お前が好きだから一緒に長くいたい。今度、箱根に一緒に行きませんか」

と言わせて、

「大学と店を休まないといけないので一緒に行きたいけど行けない」

と返し、

「俺が援助する」

「お金の援助は嫌、友人としてブランドのバックとか時計が欲しいな」

「わかったカルチエの時計を一緒に買おう」

「ありがとう。楽しみです」

というやり取りが有り、客としていや友人として始めてセックスをして結局時計ではなく金を手に入れた。真理亜は愛情の無い客とセックスすることには躊躇したが、【失う事がなければ何も得る事は出来ない】と自分に言い聞かせて、それからも数回関係を持って、年間120万円の学費の半分程度をこれで補った。

真理亜は、全く善良な行為とは思っていないが、この選択には後悔していなかった。しかし、結果的には大きな代償を払うことになる。


仕事のために身体を売ったのはこの時だけで、それ以降は信一郎のことを除き、水を得た魚のように巧みに水商売を泳ぎ、売れっ子になった。最初は中国パブなどで働いたが、より実入りがよい日本のクラブに移って収入が安定した。

大学も4回生になり、あとは卒論を残すのみとなった時に、今回の事件が発生して躓いた。好事魔多しとはまさにこのことである。



真理亜の自宅訪問にあたり、聞いた事を簡単にまとめたが、これは彼女の本質のごく一部だろうと思った。乗合バスで綺麗な高速道路仕様の道路を時速90キロ程度で走り、約1時間で高山鎮に着いた。

途中、もっと山が険しくて道も悪いのではと思っていたが、予想に反して山は低く直線の道路は良く整備されていた。但し、農地は全くなかった。

バス停に着くと、すぐにバイクと三輪車が寄って来る。ここにはどうやらタクシーは無いようだ。真理亜は三輪車の運転手と話をして、勇次を促して一緒に乗り込んだ。15分で三輪車は止まった。そこは西江村という所で、村の中心には西江堂という小さな御堂が建っていた。この下がすぐに港であることを考えると、これは海の安全を願う建物かもしれない。真理亜に聞いたが確かな回答は無かった。

目の前に高い壁に囲まれた5階建ての大きな建物があった。

「ここだよ真理亜の家は」

と言われて勇次は、これが噂の日本御殿かと思った。囲いの外からベルを押すと中年の女性が出て来た。

「お母さん」

「淑民」

と呼び合い抱き合って、暫くしてから中に案内されたが、母親が、既に娘から聞いていたのか、

「三宅 勇次さんでしたかね。よく来ていただけましたね私の故郷に」

 と綺麗な日本語で話されたのには驚いた。

「お世話になります」

と冷静を装って返したが、頭の中では高速でコンピュータが回転していた。


 居間に通されて 父親と面談した。真理亜から父親の余命は6ヶ月と聞いていたので、もっと弱っていると思っていたが、顔色も良く一瞬、真理亜に騙されたかなと思ったが・・・・・。

 父親は、

「三宅さん。ようこそ我が家に・・・」

と言ってから後は、中国語になった。

暫く聞いてから、

「中国語出来ないので日本語で話します」

と言うと、夫々を真理亜が通訳した。

「私は沖縄県の職員で、いまは福州市で仕事をしています。淑民さんとは良いお付き合いをさせてもらっていますので宜しくお願いします。」

「淑民と妻から話は聞いています。娘を宜しくお願いします。私の言えることは唯一それだけです」

「ありがとう御座います。これからも仲良くしたいと思います」

と言うと、

「淑民は見栄えは良いが、中々難しい女だから苦労すると思うよ。本当に良いのかい。」

と変化球を投げてきたので、

「ええ分かっています。綺麗な花には毒もありますし色々な虫も寄ってきますから」

とこちらも変化球を投げ返すと、

「良かった。三宅さんなら伝説の蒼い馬を巧く乗りこなせそうだ」

と言ったので、笑みを返すと父親はもっと大きな笑顔を返してきた。


聞けば、父親はインドネシア、インド、タンザニアへの出稼ぎ経験がありこの家の建築に貢献したと言う。蛇足だが、これらの国の建物はリトルワールドでも再現されていて不思議な縁を感じた。母親は、これも以外だったが日本の大阪で生まれた在日朝鮮人で10歳の時に親戚を頼って母と一緒に中国に渡って、そこで夫と知り合ったという。更に祖父母は南米のペルーやアメリカへの出稼ぎ経験が有るというからこの家は3代に渡る出稼ぎの成果といえた。



2)真理亜の家で食べた料理


暫く初対面の挨拶が有り、父親の指示で料理を食べることになった。海が近いこともあって海鮮料理だ。まず、大きな貝が出て来て、この貝の中身は楊枝を使って取り出し、スプーンですくう感じで食べた。次に、大きめの海老、鉄板牛肉、豆腐と野菜のスープ、魚介類がたくさん入ったビーフンが出てきた。母親が作る料理はどれもおいしかった。


2時間の食事が終わると、勇次は真理亜に促して、外に出て海でも見たいと言った。福清には風力発電所や原子力発電所もあると聞いていたので興味があった。

でも、母親に、

「今日は家でゆっくり話して、明日、淑民と一緒に街に行ったら」

と言われ、外に出る事は断念した。


 父親は食事後に勇次と少し話をした後、

「貴方に逢えて安心しました。年寄りだから同じことを何回も言うが淑民は難しい女だけど結構いい女だからね仲良くして下さいネ」

と言うので、

「お父さん安心して下さい。きっと末永く幸せにしますから」

と言うと通訳の真理亜が少し驚いた表情になったが、一通り挨拶すると疲れたのか妻にサポートされて自分の室に消えた。

「これからどうするのもう俺の役割は終えたと思うけど」

と聞くと、

「お礼にあなたの研究のために街を案内する。海も見たいでしょう?私が色々調整するからフィールド調査したらどうですか?それにさっき言った言葉は本当なの・・・・」

とここでも父親と同じように変化球を投げて来たので逃げることが出来なくなって、

「自分でも何を言ったか良く覚えていない。なんて言ったの?」

「そうですか・・・残念だね。私を見て良く考えて」

と上を向いて強い口調で言ったので、

「分かった真理亜の考えに従おう」

という事になり、高山鎮と三山鎮の海岸を中心に真理亜が、交渉して半日300元でチャータした三輪車で回ることにした。


夜中になって、ここで真理亜が勇次の研究に興味を示した。

「それで研究テーマはどうなっているの」

と聞くので、概要即ち、

「今回の小旅行での最大の目的は[神戸華僑社会成立に関する歴史地理学的考察]を書くための資料集めであり多くの資料を獲ることに専念してみたいと思っている。」

と告げて、次の様な構成であると紙に書いて説明した。

構成は、

1.はじめに

2.地形、標高、海流

3.海外雄飛を促した背景

①歴史的背景、②経済的背景、③政治的背景-国内事情

4.倭寇

5.移民、移民の神戸への移動と定着

6.今後の道

と書くと、最初は静かに勇次の話を聞いていた門外漢の真里亜が、勇次の論文について提案と言うかクレームを付けた。

「これはしごく平凡だね。読んだ人の心が動かない」

「学術論文は小説じゃないんだから。それでいいだろう。しっかり書けていれば」

と強がってみたが、この議論は真里亜に理が有った。

更に、添削して現地でのケーススタディーを入れて、実際に経験した人の意見を入れるように紙に綺麗な漢字で追記した。

「これで完璧」

と自画自賛したが、勇次の目から見ても良い出来になった。

勇次は心の中で、「こいつ以外にセンス良いな」と思った。

そして、調査中には実際に適切な人も紹介して実行力があることも示した。でも紹介された人々の口は一様に重かった。真理亜は時間が解決すると言ったが、それは事実だったことを後に知ることになる。


 議論も終わり、眠りに就くことになった。寝室は2階の大きな部屋だった。ちなみに両親も2階、真理亜は3階だった。窓から見る夜空は星で輝いていた。翌朝、8時に下に降りていくと3人は既に食事中で、その中に勇次も入ってパンを食べた。


3)東瀚鎮蓮峰の海


食事後、予定通り街に出た。午前中はまず新市街地にある偽ケンタッキーで温かい豆乳5元と揚げパン3元を買って昼食に当てることにした。店を出た時に真理亜が一人の中年女性に頭を深く下げたので、

「あの人誰」

と聞くと

「近所の伯母さん、小さい時から良く知っている」

「綺麗な人だね。この街には似合わないと思うけど」

「そうあの人は、今、福州のマンションに住んでいる、日本やアメリカにも行ったことがある」

と言って話題を変えるかのように口を閉じて、早く行こうというように意思を込めて腕を強く引っ張った。

「今度、紹介してくれる」

と言ったが、

「かってにしたら。私は明華が嫌いだ」

「そうあの綺麗な人、明華でいうの」

と聞いたが、無視した。

旧市街地を散策後、高山バスターミナル近くにある地元の小バスターミナルに移動し近距離バスで5元、所要30分ほどで東瀚鎮蓮峰に移動し、勇次は海を眺めながら遠くの日本に思いをはせた。真理亜も何を思ったのか長く海を見ていた。

ここは福清市の最南端、台湾はもう目と鼻の先だ。


珍しく小雨と少し風がある中、気にせず真理亜と二人、新しい建築物と古い建物が入り混じる漁村を見て歩いた。良い雰囲気で完全に恋人ムードだった。

漁師さんから、

「どこから来たんだ。ここには何もないよ。まあ、夏には泳げるけどね・・・」

と言われたので勇次が中国語で、

「海を見に来ました」

と言うとよけいに怪しまれた。

村内には密航者がいたら通報しようという張り紙が貼って有った。二人は密航者に間違われたのだろうか?最後は犬にも吼えられて密航者扱いされた。勿論、中国から外国への密航である。

勇次は、この言葉を聞いて、此処は密航者が船出する海ではと思い、真理亜に、

「ここが密航の海ですか?」

と聞いたが

「・・・・・・」

と答えなかった。

最近、真理亜は都合の悪い質問には意識して答えない傾向にあることを知った。

丁度、雨も止んだのと腹が減ったので、古びた船の中にシートを敷いて座り、偽ケンタッキーで買ったパンと豆乳を飲んだ。二人で会話しながら食べる昼食はお互いに思った以上に美味しかった。


食べながら、勇次は真理亜の性格を分析してみた。一般的な中国人女性の好みのタイプは、外見よりも内面重視で性格重視。極論すれば外見はほとんど気にしない。とてもキレイな女性がごく普通の男性と付き合っている、これはよくあることだ。

また、年上が好きで、顔より身長の高い男性が好きで、この点では勇次は182センチの身長であり、おメガネに適っている。背の高い男性が、カッコイイ男性の第一条件のようだ。

性格はいたって真っ直ぐ 一言で表すなら感情も真っ直ぐ。喜怒哀楽がハッキリしている。そして金も大好きで金のない男とは結婚出来ないと思っている。

 あるとき勇次が、

「金より愛が欲しいな。愛があるなら金なんていらない」

と言うとすぐさま、

「そう、あなた金嫌いか、要らないなら全部、私におくれよ。愛を沢山、沢山あげるから」

と面と向かって単刀直入に言われてしまって、開いた口が塞がらなかった。


真理亜は水商売を経験している割には、恋愛には純情で晩生とまではいわないが用心深い。付き合ったらそのまま結婚というケースに憧れている。この時は、不覚にも真理亜が子持ちの×イチだとは夢にも思っていなかった。

また、両親を大切にする優しさがあり、これは真理亜だけに限らず、中国人は本当に両親を大切にする。

だから結果的に勇次と付き合う事になると思ってすぐに両親に紹介した節が有る。

しかし、プライドが高く、優しい真理亜も自分の非は決して認めない。ケンカになってもほとんど謝らない。勇次のように包容力とウイットがあり、何事にも笑って許してあげられる男でないと長く付き合いを続けるのは難しい。短い付き合いのなかで、勇次も簸たすら耐えることを覚えた。

行列で順番を守らないので、

「皆、並んでいるから真理亜も順番守ったら」

と言うと、

「私には時間が無いんから前に行く。並んでいる人も急ぐんだったら自分の位置を守らないと。油断する方が悪いね」

「それじゃ優しい人がかわいそうだろう」

「それはそうだけど、自分のポジションは自分でしっかりと守る。これが基本だね。その方が効率的だから」

「それでも・・・」

「急ぐ人は優先される・・・・。これ自然でしょう・・・。それに誰も怒っていないから」

と言われて論破することが出来なかった。



多くの中国人と同様にお喋りが好きだが、恋愛では告白は男性から言って欲しいと思っている。勇次も自分の気持ちを整理するためにも近いうちに何とかしないといけと思っていた。

此処からは想像だが、結婚したら家事は分業制、仕事は辞めない。共働きになると思う。

真理亜の困った習慣は、ゴミのポイ捨てでゴミをゴミ箱に捨てる習慣がないので、ゴミを道路にポイ捨てしてしまう。勇次が、ゴミのポイ捨て禁止を、そのつど教えて少し変わって来たが、基本的には治っていない。

また、テーブルマナーも悪くて、ひじをつきながら食事をしたり、箸の使い方が下手だ。レストランで足を組みながら、時には肘をついて食事をし、帰り際に座ったいすを直さないのには驚いた。また、トイレで手は洗うがハンカチを使わないので、カルチャーショックを受けた。

ハンカチはアクセサリーのようで、注意すると、

「使うと汚れるから。使ったら買ってくれる」

と言われたのには驚いた。醸しだす雰囲気とは大きく違うのでショックを受けた。

背は勇次の方が13㎝高いが、年齢差、容姿はあまり気にせず、勇次の自然な気配りがうれしい様で、素直にいつも愛していると言う。余り【好き、愛してる】と言われると重みがないので何とかしないといけないかなと思うが、それでも言われると素直に嬉しい。

二人は、当人達が意識している以上に急速に関係を深めていた。もう恋人と言ってもおかしくない雰囲気を醸しだしていた。


中国では結納金の制度が今でも生きているので、もし結婚する時は彼女の意向を受けてマイホームを買ってやるつもりだ。彼女の両親もきっとそれを望んでいると思う。

今のところ、二人でいる時は、猫をかぶっているのか想定以上に気は強くは無さそうだが、彼女と母親とのやりとりの話などを聞くと、やはり自己主張が強く頑固なところがあることは理解している。

まだ付き合い始めたばかりだが、勇次がカタコトの中国語をたまに話すと、

「それだけ話せれば、私の両親に正式に挨拶出来るね」

と東瀚鎮蓮峰から高山鎮に帰るバスの中で自然に言った。

日本だと結婚を前提に両親に紹介するが、中国では付き合う時には両親に紹介するのが一般的なことも知った。この部分に日本人はギャップを感じるが、中国人は良い意味で両親を大切にし、両親に隠し事をしない。紹介したからと言って100%結婚と言うわけでないが、結婚を意識する可能性が高いのは事実だ。


海を見た後は逆経路でバスに乗り14時過ぎに高山の町へ帰って来た。遊びの時間は終って、これから本格的に街の調査だ。


4)海外志向


これまでにも触れたが、福清市は華僑の故郷であるとともに、そこでマスターした技術を応用した密航のメッカでもあり、いわゆる蛇頭という住民互助組織も存在する。

密航とは、正規の出入国手続きを取らずに他国に渡航をすること。すなわち、航空機や貨物船に紛れ込み、あるいは渡航先の上陸資格を持たない船に乗船して渡航することをいう。


古くは貧しい移民希望者が、20世紀に入ると政治的迫害を受けた亡命者や経済的困窮から母国を脱出する手段として用いることが多くなった。こういった者の中には国外での就労を希望している場合もある。

20世紀後半になると、各国の入国管理や身分証明制度が強化され、空港や港湾の警備体制が近代化されるとともに、海でも輸送される物資の量的な増大に伴い隠れる手段が少ないコンテナ船へと変化していった。このため船舶では船員など関係者と内通していない限り密航は不可能となっている。パスポートの偽造などによる偽装出入国が増加している。ただし、アメリカや日本のように入国審査で指紋採取を実施している国家ではパスポート偽造という手法での密入国は困難になっている。


日本への中国人密航者のほとんどは福建省出身者であり、海上保安庁が検挙した者も9割以上を福建省出身者が占めている。

勇次が集めたインターネット、新聞、雑誌など各種情報を集約すると密航の背景としては、次のようなことがあげられている。


①福建省には海外に華僑を送り出してきた長い歴史があり、改革、開放政策前は非国民的存在であった華僑の名誉が、その後回復され、かつては貧しい農民であった華僑は故国への巨額の投資により英雄扱いされるようになり、一種の華僑神話が生まれた。このように、海外で成功している者も多いことから、外国への夢、出国ブームが浸透し、海外へ出なければ面子が立たないと言われる程、気軽に海外へ出ようとする土壌がある。また、入国先での地縁、血縁による支援も受け易いという人的関係も一因となっている。


②中国と日本には非常に大きな所得格差があり、中国の平均月収700元(約1万円)~800元(約1.2万円)に対し、日本は約30万円(約26倍)と言われている。密航者の月収は300元(約4,500円)~1,000元(約12,000円)と言われており、日本で月20万円の収入を得て、1年働けば月収300元の者は中国での44年分、1,000元の者は13年分の収入を得る。


③日本をはじめとする先進国では、安価な労働賃金で雇用出来るほかに、いわゆる3Kを敬遠する世相から密航者や不法滞在者に対する労働力需要がある。


④蛇頭と呼ばれる国際的密航請負組織が日本に活動基盤を整備し、韓国の組織や日本の暴力団と手を組むなど組織的に活動して資金源として密航をビジネス化している。密航料は、10年春頃までは日本円で約300万円と言われていたが、最近では、密航請負組織間の競争によるのか200万円程度に値下がりしている。


なお蛇頭とは、主に中国福建省を拠点とする密入国を斡旋するブローカー犯罪組織である。英語圏ではスネークヘッドと呼ばれている。

1980年代初頭から中国人密入国に関与して有名になった。組織の結束が強く事件が発覚しても全容解明にいたらないことがほとんどである。福建マフィアといわれることもあるが密入国以外に各種凶悪犯罪と結び付けられて語られることが多く、必要に応じて中国マフィアや日本の暴力団の手を借りることもある。

また、表の世界でいわゆるフロント企業として活躍している人もいる。

真理亜の周りにもこの組織に係わる人間がいるが、日常は普通の市民生活を行っているので直ぐには犯罪組織の一員とは見えない人もいる。


軽食を含めて4時間を掛けた高山鎮の調査は準備が十分出来ていないわりには、真理亜の協力もあり勇次が思っている以上に進んだ。なにせ顔は小さいが顔が広くて勇次が望む場所や人を次から次に紹介した。

但し、真理亜が紹介した人の口は一様に堅かった。

「西江堂の役割と建築・運用資金はどこから出ているんですか・・・」

と聞いても、

「昔の海岸線はどこあたりでした・・・。神戸に行った人はいます。」

「日本に親戚はおられますか」

と聞いても無言で笑うのみで答えず、一緒にお茶を飲むばかりだった。

真理亜は、

「あなたの責任じゃないよ。中国人は初対面の人は信用しないからね。何回か逢っているうちに段々と本当の事を喋ってくれるから。今日の出会いを大事にしてお願いだから」

と言って慰めてくれたが、これが事実である事を後に知ることになる。


帰りにお礼として何かプレゼントすると言うと、真理亜はオールドマーケットに案内した。そこには、雑踏と人々の営み、会話と共に写真で見た昭和20年代の日本が再現されていた。


5)真理亜の値引き交渉


勇次は初めて古い市場、いわゆるオールドマーケットに入った。いつも買い物はスーパーマーケットで済ませている。古く汚れたコンクリートで囲まれた薄暗い市場の中で、売り手には日焼けした怖そうな顔の人が多かったので躊躇したが、真理亜がいると思うと自然に足は進んだ。

暗闇の中に目を凝らすと、生鮮野菜や肉、魚、果物、衣類などが販売されていて、常設の市場とその周辺の道路に有る店や屋台を覗き見た。思った以上に面白い。日本にないものが多くあり、また同じものであっても、形や大きさが違うものもあった。


3人の女性が背中に籠を背負っている。

勇次が不思議に思って見ていると、

「あれは子供を背負うための専用の籠なの。私もあれで育った。居心地が良くて大きくなっても中々出られないんだよ」

「それで真理亜はどれくらいいたの」

「2年・・・」

と言って指を2本出した。

道端で魚を売っている人の扱っている魚はどれも大きい。川魚なのか、それとも海の魚なのか分からなかった。客の求めに応じて、魚を捌いている。うろこもきれいに取ってくれるようだ。 捌いた魚の残った骨やうろこを袋に入れてもらって、持って帰る女性もいた。何にするのだろうと不思議に思った。

真理亜に聞いたが答えなかった。

勇次は、振り向いて後ろを見た時に、誰か多分女性だと思うが身体を隠したように思えたが、直に気のせいだと思い直した。真理亜に伝えようと思ったが自信が無いので言わなかった。勿論、真理亜もとっくに気付いて誰かも知っていた。


甘いケーキのようなものも売っていた。客の求めに応じて、切り分けている。鶏を油で揚げているが、これも初めて見たが程よく揚がっている。

中国では家庭でもどこでも造花が飾られているが、街中で売られている。「生花は高価ということもあって、買わないのだろうか?」と勇次は思った。


真理亜に付いて常設市場の更に奥に入った。野菜、肉、海産物、衣料品などが所狭しと並べられている。

真理亜が言うには、

「この市場では、日常生活に必要なものは何でも売っている」

と言うのも満更嘘では無い。

野菜類がかなり豊富で、ブロッコリーは日本のものより2倍はありそうだ、牡蠣が大量に売られている近海の海で獲れるのだろうか、これは小ぶりだ。

豚肉の大きな塊が店頭にぶら下げられている。これは中国ではよく見られる風景だ。客は必要な分だけ切ってもらって、購入している。

中国では昔の日本と同じように何でも物を大事に使っていて、修理屋がどこに行っても店を開いている。路上の修理屋も多い。自転車から機械類、靴など何でも修理してくれると、真理亜は日本人には出来ないだろうと思って自慢ポク勇次に言った。

勇次の視線の先に、場違いな男女の集団があった。不安を喧騒が打ち消してくれた。


不安から逃げるように、もっと奥に進むと、真理亜が目指す生花を営む店が数件あった。真理亜は、花鳥市場と言ったが・・・。以後は、真理亜の情報だが、1番人気は何と言っても蘭花。胡蝶蘭は花茎1本が50元、花茎5本の鉢が300元、とちょっと高い。シンビジウムは花茎1本が20元、花茎5本が150元。と言うところだ。

福建省は観葉植物や生花の1大産地で、余り知られていないが日本にも大量に輸出されている。

日本で別名、幸福の木と呼ばれるドラセナ・フラグランス・マッサンゲアーナやアナナスの大きな鉢が80元。花の値段は高くて日本の値段と余り変わらない。よって造花が多くなる。

チョッと変わったところではミリオンバンプー(中国語では”富貴竹”)、飾りをつけた宝船が 贈り物として人気があるそうだ。


ところで、なんと言っても市場での楽しみは値切り交渉、日本人だと分かると値段をつりあげてくるので真理亜がこれに当たった。

真理亜はシクラメンに狙いを定めたようで、花が7~8本出ている大きな鉢に絞って値切り交渉を始めた。


真理亜「この花はいくらなの?」

店員 「美人のお姉さんにおまけして50元だよ」

真理亜「本当に高いよ・・・・本当に」

店員 「本当だよ・・マジ本気・」

真理亜「ほんとうむちゃくちゃ高いよ」

店員 「これ45元でどう?」

真理亜「・・・・・(無言)」

店員 「あなたがいくらで欲しいかはっきり私に言ってごらんよ(ここで攻守が交替。相手もやるものだ買い手の本気度を測っている。真理亜も降参か?)」

真理亜「向こうの店では綺麗な花が30元だった(はったりで口から出まかせ・・・相手の出方を観る高等戦術。私も良く使う)」

店員 「うちのは向こうより綺麗だから・・そう思うだろう・・。」

真理亜「だったら向こうの店で買ってもいいの・・・・・。(立ち去る振りをする)」

店員 「そうしたらいいね。どうぞ・・」

真理亜「本当にいいの・・・じゃーね。また」

店員 「わかった、わかった。あんたには本当に負けたよ30元でいいよ」

真理亜「じゃあ、お礼に赤と白二つ買うから50元でどう(完全に真理亜の勝利と思いきや実は店員の勝利。ここまでの値切りは想定の範囲内。半額までは覚悟していた)」


そして、真理亜は結局2鉢を50元で買った。それを自分から母へのプレゼントとして贈った。さすがに金には厳しい中国女性だ。その態度には、中国女の財布の紐は堅いんだよ、なめちゃいけないよ・・・。と勇次に言っているように思えた。ここで真理亜の完全勝利が確定した。


夕方の6時過ぎに真理亜の自宅に帰って来た。何日も泊まると迷惑かなと思って、挨拶をしてホテルにでも泊まろうと思ったが母親が、

「食事でもして行きなさいよ」

というので

「じゃあお言葉に甘えます」

と返し、お父さんを交えた4名の食事になった。母親から食事が次から次へと運ばれて来ても真理亜は全く手伝わないので、昨日と違って余裕が出来た勇次が、

「手伝わなく良いの」

と言うと、

「良いのよ、これはお母さんの役割だから」

と全く取りあわない。

父親は体調が悪いことと日本語が分からないこともあり余り喋らない。

唯一、

「今日も仲良く行けました。今日も泊まっていって明日も一緒にいて一度くらい喧嘩しても良いと思うけどね。それを是非とも見てみたい」

と言うので、

「お父さん、小さな喧嘩はもう何回もしています。いつも私が謝っていますから安心下さい」

「そうか。それは良かった。大変良いことだ」

と満足したように言った。

 そのやり取りを満面の笑みで母親と真理亜が無言で見つめていた。


料理当番を終えて、母親が話しに加わってから会話が活発になった。それには、アルコール即ち当地のビールである冷えていない常温の春雪ビールが用意されたことも有るが、母親が直球で、

「あなた淑民のどこが好きなの」

「一言では、それは中々ね・・・・」

「そうだね。まだ良く分かっていないか性格が・・・・」

と言うと真理亜が、

「勇次さんをそんなに攻めないで真面目な人なんだから・・・・」

「ところで峰観のこと知っているの」

母親が聞くので

「ええ・・・・・」

中途半端に返すと真理亜が、

「勇次さんは知っているから心配しないでいいの。分かった・・・」

となにか意味の有るような返し方だったので心に引っ掛かったが、酒の酔いがそれを忘れさせた。勇次の気持ちの中には自分が知っている以上の何かが何かが有るという疑惑が広まった。


 

食事後、少し雑談に加わって聞き役に回っていた父親が自分の部屋に消えた。

その時を待ったように勇次が、

 「今日、誰かが僕たちを見張っているように思ったけど何か有るんですか?」

と聞くと、真理亜は、

 「あなたは何も心配しなくていいから。それは私の問題だから・・・。」

と言って、怒って食堂に消えた。

 「お母さん何かあるんですかね」

心配そうに聞くと、

 「いいから気まぐれだから直に戻ってくるから。頭が冷えるまで一緒に飲んで色々話しをしよう」

意味不明のことを言って、ビールを勧めた。 

そこからは母親の独壇場で、

「勇次さんも朝鮮人苛めたんだ・・・・」

「私の時代にはそれほどでもなかったと思いますけど。反対にいじめられました。でも父親の時代には結構酷いことをしたと思います」

「そうだね。あなたの父親の時代なら苛めたと思うよ。私と同じ年代だ。それで中国に来たんだからネ」

「すみません。でもいまでは父親の世代も反省していますョ。」

「苛めた方はそうだけど」

「本当にスミマセン。構えて心しないといけないと思います」

と言うと何時の間にか戻った真理亜が、

「それが時代なんだから仕方無いと思うよ。未来志向で行かないと」

「そうだね未来志向か・・・」

と勇次が躊躇しながら返すと、それに納得出来ないのか母親が、

「日本語でうまく言えないけど、やった方は忘れても、やられた方は結構忘れ無いからね。それは覚えておいて欲しいと思うよ。特にあなたのようなエリートは上から目線になるから意識して発言しないといけないよ」

勇次は半ば笑いながら意識して柔らかい声で、

「お母さんは厳しい批評家ですね。僕たちが出会った名古屋のリトルワールドにも韓国の農家と貴族の家があるんですけど、韓国に行かれたことあります」

と聞くと

 「私は韓国に行った事がないんだ。日本から直接此処に来たからネ。それに、もうここは私の故郷そのものだから。私は蹴られてもここを動かないよ」

と言うので、勇次が持っているイメージを語った。


「貴族の家の母屋には、主人の部屋と奥さんの部屋が棟を分けてあるんですが、これは男女7歳にして席を同じくせずという儒教の教えに基づくものなんです。部屋の床にはオンドルが通っていて床暖房が出来ます。でも普通の農家にはそういうものは有りませんよ」

「私より良く知っているんだ。それは是非とも行って見てみたいね」

と言うと笑って手を振って真理亜に話すように促した。

「勇次さん。高山鎮はどうですか?イメージと実際は大分違いますか」

「概ね想定の範囲内ですが、唯一真理亜、いや淑民さんの存在が大きくて、答えをまとめるのに苦労しています。」

と言うと二人が手を取って笑った。

それから勇次が中国経験、福清、高山、三山の思いを中心に語って真理亜親子がわいわいとチャチャを入れた。

夜は更けて行った。

母親が、

「私が結婚する時は、鎌に鍋に懐中電灯が花嫁道具の全てさ」

「私が結婚する時は、ローン無しのマンションに車とゴールドカードかな」

と言うので、

「それはちょっと厳しいな。せめてお母さんの線でお願いします。それに愛情は無いの」

と言うとお母さんが大きく笑って真理亜は小さく笑った。


6)中国のキリスト教


勇次は、真理亜という名前が気になってお母さんに、

「真理亜という名前はどうして付けたんですか」

と聞くと、

「この子の御祖父さんがペルーの農園に出稼ぎに行った時にクリスチャンになってね、帰ってきて生まれた子供にマリア様から名前を貰って真理亜って付けたんだね。でも戸籍上は苛められるといけないので淑民にした。でも真理亜は教会に馴染まなかったね」

と言うと、

「そう私は、嫌だった。教会の人にはなんか自分は他の人とは違う、という目線があった」

と言ったが、勇次も父親がクリスチャンであり教会に通った記憶があるが、同じ思いを持った事を思い出した。


中国ではカトリック系のキリスト教は”天主教”、プロテスタント系のキリスト教を”基督教”又は”耶蘇教”、と呼ばれている。昔の日本と同じなのが不思議だ。信者数は約1億人程度で、中国の人口の約1割である。

中国へのキリスト教の伝来は唐の太宗の時代(紀元628年~)、東ローマ帝国から シルクロードを通って伝わったという事で、当時の都 長安には教会があったという。


文化大革命では全ての宗教が弾圧を受け、キリスト教の宣教師も海外に逃れたようだが、民衆の信仰は根強く・・・。改革解放後は急速に信者の数が増えているという。事実、主な街には立派な教会が有る。ここ高山鎮の教会も立派でオールドタウンの中で一際輝いていた。


新聞によれば、高山鎮には負けず嫌いの特性があり、それは「紅眼病」とも言われる。近所の家の裕福な様子を見ると嫉妬で血が頭に昇り眼が赤くなるという意味である。例えば隣りが新築すれば我が家も負けてはならじと頑張る。この辺りの鎮には相当裕福な家が群集しており、いずれも4層、5層の豪邸を構えている。どこもそこも数百平米を超える延べ床面積がざらで、住居というより館といったほうが適切かもしれない。真理亜の家もそうして代々家を立派にして来た。

母が言うには、

「すごいねえ。本当の金持ちの家は、それに比べたら私の家なんか犬小屋みたいなもんだね」

と言うと、真理亜が、

「見栄で建てているから外見は立派だけど中はまだ内装も出来てないところも多いよ」

と言った。


なる程、真理亜の家も屋内に入ると、1階はがらんとした空間に食卓とマージャン卓と椅子が置いてあるだけだった。建物全体で家具やインテリアには殆ど費用を掛けていない。

驚いたのは寝室が上層階にあるのだが、緩勾配とか段差の解消とか手摺設置等はまったく考慮されていないので、これでは年寄りにはきついと感じた。それに構造体そのものと間取りの取り方のどれをとっても気密性に欠け、断熱素材らしきものが無いので屋内にいると寒さを感じた。

南方の高山鎮では暖房設備などは必要ないのだが室温はけっこう冷えている。


話は弾んで、もう帰りのバスは無いし母親の言葉も有って泊まることになった。早く切り上げてリラックス出来る近くのホテルに泊まりたいと思ったが、巧く話に乗せられて飲みすぎて時間が分からなくなった。真理亜親子は最初からそのつもりだった。

母親の進めもあり、昨日とは違って3階の客室に案内された。昨日より上等で大きな部屋だ。この階に部屋は3つあった。参考にと思い4、5階も案内してもらったが、4階も3室あり客室兼物置という風情で5階は内装もされておらず完全に物置として利用されていてネズミが運動会をしていた。


窓から見る高山の町と海は綺麗だった。酔った勢いもあり案内してもらった真理亜を引き寄せてキスを迫ると真理亜は拒まずに素直に受け入れた。暫くそのままで海を眺めてから一緒に勇次が与えられた部屋に入った。ちなみに真理亜の部屋も同じ3階にある。

「一緒に寝てくれるの」

「あなたが望めばそうしますけど。お望み・・・でもプロポーズ込みでお願いします」

と言って笑って勇次が座るベットの横に座って兆発した。

「両親が心配するから・・・」

「もう子供じゃないから。両親は私に色々言わない。自己責任だから、でも避妊は確実にして下さいネ。準備出来ているの」

「出来てない」

「でも大丈夫。ここにちゃんと準備出来ているから」

と言って箪笥からコンドームを一つ取り出して見せた」

「了解。必要な時は連絡するから」

と言って、

「悪いけどビール1本だけ持って来てくれない」

と真理亜を部屋から出させた。


中国のビール消費量は4081万kl全世界の消費量の23%で、2位のアメリカが2503万klで14,1%だから、ダントツの世界一だ。これでも一人当たりの消費量としては56位だから、まだまだ増えそうだ。ちなみに日本は7位で611万klで3.4%。

中国のビールの歴史はまだ浅く、黒龍江省ハルビンにロシア人が設立した哈爾浜啤酒(Harbinハルビン・ビール)が中国最初のビール工場だ。続いて山東省青島にドイツが租借地の産業振興策として設立した青島啤酒(Tsingtaoチンタオビール)である。

早くから輸出に努めていたこともあり、現在でも世界的に最も有名な中国メーカーだ。

現在最大のメーカーは1994年に設立された華潤雪花啤酒(雪花ビール)中国人自身が創めた最も歴史あるビールで、19省に60工場を持つ大メーカーだという。

福建省の地ビールは雪津啤酒、アルコール度数3,1%の薄いビールだ。中国のビールはアルコール度数が低く、勇次は4%以上のビールを見たことがなかった。一つ気になるのは、ビールを冷やして飲むという習慣が無いこと。普通に頼むと常温のままのビールが出て来る。


これは中国医術の”冷たい飲み物は身体に悪い”という教えが影響しているようで、コーラも普通に頼めば常温のものが出て来る。

最近のレストランでは冷蔵設備も整い”我要冰的(冷やしたのを)”というと冷えたのを出してくれるようになったが・・・。小さい食堂はまだまだで、ビールに氷を入れて出てくる。


ビールに限らず中国の飲酒文化として有名なのが”乾杯”だ・・・。日本だと宴席の最初と最後に乾杯をし、あとはマイペースで飲むが・・・。中国の宴席では必ず誰かを指名して乾杯をしなければならない。自分だけで勝手に飲んではいけない。

ビールのコップは日本より2回りくらい小さい。

10人ぐらいのテーブルだと一人1回ずつでもあっという間に一瓶空になってしまう。ある種、沖縄宮古島にあるオトーリと言われる習慣と似ている。



話は脱線したが勇次が通された部屋は、家具も少なくシンプルで一つだけ置かれた箪笥に2枚の写真が飾られていた。それは真理亜と例の峰観のツーショット写真。もうひとつは、中年夫妻と2歳くらいの子供と真理亜の集合写真である。酔った頭で思考を働かせるが結論が出ない。

そんな時、真理亜が冷えたビールを2本持って部屋に入って来た。

乾杯して飲んでいると、真理亜が、

「この部屋どう思う」

「良い部屋だね。綺麗でシンプルで・・・・」

「そう此処はね、私と峰観が新婚の時に生活した部屋!」

と一気に言ってのけた。

勇次が動転した気持ちを抑えて冷静を装い、

「告白はそれだけですか?他になにか例えば貴方は殺人犯とか蛇頭の情婦だとか・・・」

と嫌味を言うと、

「それもいいけど。この部屋、気になっていたでしょう。この写真の二人の関係。そう二人、昔は夫婦でした。でこれが私の子供で今は姉に育ててもらっているの。疑問に思っていると眠れないと思って、大サービスで告白した。感謝してくれる」

「ありがとう。これで良く眠れます。段々と真理亜の本質が分かって嬉しい」

「これでも結構、勇気いるんだよこの話」

「見かけによらず色々、有るんだ。可愛い顔に似合わず・・・・・。」

と多少皮肉っくぽく返すと、

「怒ったの・・・。私の勇気のある告白」

「いいやある程度、想定内だから。苦労しているんだ。あんたも・・と思って」

「ありがとう。だから優しくして。過去は過去、未来を見ないと未来志向、未来志向・・・・」

「悪い、俺も真理亜好きだけど、まだそこまで心の準備出来ていない。今日は此処までにしてほしい。」

と言うと、

「分かった。押し売りはしないから。このビール飲んだら部屋を出て行くから必要になったらメール下さいネ。24時間何時でもOKだから。それともう一つの秘密を言うね。今日、二人をつけていた人ね。私も知っていたの。貴方が怖がると思って。あれは峰観を探して私を見張っているの、きっと女ボスの明華の部下だと思う。これで熟睡でしょう」

と言って笑うので勇次も合わせて仕方なく弱弱しく笑った。

「色々あって大変だけどこれくらいは克服しないと、私とは一緒にはなれないよ父も言っていたでしょう。難しい女だって・・・・。良く考えといて、私も貴方が好きだから」

と言うと二人でビールを再び飲み出して、30分もするとそれがなくなると、真理亜は部屋を静かに出て行った。それ以後、部屋には入ってこなかった。二人とも中々寝付けなかった。


翌日、朝6時に目が覚めたので下に降りて行くと夫婦は既に揃っていた。

ニヤニヤしながら、

「おはようございます」

「良く眠れましたか?」

「ええ熟睡できました」

と答えると更にニヤニヤして意味有りげな顔をした。お茶を飲んで時間を過ごしていると真理亜が起きてきて、

「お早うございます」

と言って食卓に座ると母親がお粥を持って来て真理亜の前に置いた。それを合図に朝食が始まった。

父親は体調が悪いのか粥だけ食べて部屋に引き揚げ3人だけの食事になった。素材を生かした母が作る朝食を美味しく食べ終わると8時になっていた。



今日は三山鎮を中心に高山鎮と沙鋪鎮の海岸を精力的に回って、福州に帰る予定である。

食事後、二人は揃って調査に出かける準備が終った時、勇次が、

「あのーお母さん、色々お世話になりました。今日は福州に帰りますので。本当に色々お世話になりました」

と言うと、真理亜が、

「ええもう帰るの。今日も泊まっていってよ、明日も調査しようと思ったのに。まだ、休みあるのに」

とストレートにクレームを付けた。

「でもあまり迷惑かけても。ご両親への挨拶も終わったしあまり長居いしても」

「何にも迷惑でないからもっとゆっくりしていって下さいよ」

「ねえ、おかあさん」

というので勇次が困った顔をしていると母親が助け舟を出した。

「三宅さんは福清市の石竹山に行かれたことあります」

「いいえまだ行っていません」

「それなら明日、行かれたら淑民が案内しますよ」

と言うので母親の提案に乗ることになった。母親の指示で真理亜が市内のホテルを用意して手はずを勇次に教えた。

9時に真理亜の家を出た。其の時には父親も出て来て三宅の手を握って、

「真理亜のことを宜しくお願いしますよ」

とだけ言って強く手を握った。思ったより力強かった。


家の前に三輪車が迎えに来ていた。街を眺めながら三山鎮に向かった。

その中で、真理亜が、

「本当に帰るの。一緒に送っていこうか?」

「いいよ一人でいけるから、明日は宜しくお願いします」

「寂しいな。一人で大丈夫か本当に。変な人も居ると思うよ」

「真理亜ほど変な人は居ないと思うな。あんたは掴みどころのない鰻みたいな人だから」

「真理亜、鰻大好き。ここで養殖しているよ今度、一緒に食べようね。今日でもいいけどどう?」

「明日お願いします」

と軽口を言っていると三山鎮に着いた。


三山鎮も基本的には高山と同じ。街は高山より小さいが開けていてタクシーも有った。

街を散策しながら、真理亜に、

「ところで今日のホテル大丈夫」

と聞いた。

「本当にいいホテルだからね。真理亜が必要な時は、24時間何時でもどこでも対応いたしますけど。でもその前に告白してね!」

と決まりの言葉を繰り返した。

「良いサービスご苦労様です。また必要な時にお願い致します」

「本当に大丈夫」

という為口を言いながら街を見て回り、街外れの高台にある鹿山寺まで三輪車で約30分かかった。鹿山寺の仏像はすべて粘土で出来ていたようで、すべてにひびが入っていた。もう廃寺か?この現実は余りにも悲しかった。

足を伸ばして、白歐村の海に出た。もう誰もつけて来ていないみたいだ。さすがにここまで来ると海の色は澄んでいて綺麗で漁船が何艘か港に泊まっていた。


再び街に帰ったが、ハエが一杯ついた蝿取紙の横で魚を売る、汚く野性的だが魅力的な市場とその横に立つ綺麗で大きな教会のコントラストが印象に残った。将来、中国にキリスト教が蔓延する予感?がした。

ここでも教会は高くて立派な建物で4階建ての宿泊施設を建設中だ。街は高山よりもある種の都会性が有るのに臭くて、汚いのは残念。街の一角にスーパーと市場。市場は高山と同じように低い古びたコンクリートで区切られていてその中で豚肉、魚、貝、海産物、牡蠣、野菜、果物などが売られている。

そこで働く人のパワーを写真に撮りたかつたが、物珍しそうに撮るとそこで生活している人のプライドを傷つける様に思えて面と向かって撮れなかった。

三山の街は高山に比べて美人は少ないと思った。


次に、沙鋪鎮に向かった。ここの海は遠浅で・・・海が綺麗と聞いていたが、その通りだったが、町のいたるところでマージャンではなく、トランプの“闘地主”をしているのが印象的だった。

「最近は麻雀よりトランプが流行なの、それなら女の人もやり易いから」

とは真理亜の意見。

「今日は、誰もつけていないけど」

「そうだね、でも油断は禁物だからね明華はしっこいからネ」

と念を押した。


7)高山鎮の街のカーチェイス


夕方の4時になり高山に戻って、真理亜と二人で高山の街を三輪車に乗って調査をしている時に、後ろから必用に着いて来る車が有った。勇次には最初、何が起こったのか分からなかったが、街の中を走り回っても必至に追ってくるので危機感を感じた。三輪車の運転手も何が起こったの分からず真理亜の大きな声に押されるように必至に運転していた。

この状態が15分、市場の周りを2周りすることになった。それでなくても喧騒が支配する場所で追い掛ける車に衝突された籠が壊れて、売り物のニワトリが道路に飛び出したり、牡蠣売りや豚肉売りの屋台がひっくり返されて多くの人が騒いでいる。人々が逃げ回り砂塵が舞い上がり、いたるところで男女が輪になって喧々諤々の状態になっていた。

もう騒乱状態と言っても過言ではない。

喧騒を尻目に必至に逃げたが市場の中心でもう逃げ切れないと思ったのか、真理亜が、

「勇次、早く降りて私に付いておいで」

と言うので三輪車から降りてオールドマーケットに逃げ込んだ。その後を二人の中国人の男が追った、周りの売り物を蹴散らし巻き上げて迫った。蹴散らされた品物が市場の中を舞い砂埃がその後を追った。追っ手は、現地の人間でないために内部の様子を良く分からず、段々と距離が離れていって振り切れるような状況になった。

勇次と真理亜は暗いマーケットの中を走り裏通りに出て、そこに停まっていた2台のバイクタクシに乗って広い通りを西江村の方に走り出した。

あいにく、この様子を狭い道からやっと出てきた二人の男に見つかり、男たちはバイクを奪い自分で運転してクラックションを激しく鳴らしながら勇次たちを追った。周りの人々はこの騒動に巻き込まれないように必至に逃げ回った。いたる所で悲鳴が聞かれたが、二人の男は気にする様子も無く必死に追ってきた。なにかに魂が動かされているように。


 幹線道路のカーチエイスは大型バスや三輪車、屋台を巻き込んで大混乱になったが、瞬く間に距離は縮まって来た。

これと前後して、バイクに乗り馴れない勇次は、距離が縮まったことでプレッシャーを受けたのかバイクから転び落ち悲鳴を発した。これを見た真理亜が寄って来て、

「どうしたの情けない男だね」

と言うが早いか手を出して勇次を立ち上がらせ、近くに有る西江堂に逃げ込んで、何か細工して入り口を開き中から鍵を掛けた。追ってきた男たちはその前から携帯電話で誰かに連絡しているようだった。また、一人の男に鍵を取りに走らせた。

勇次は中々、今の状況を理解出来なかった。

「どうなってるの真理亜・・・」

と聞いても答えず、仕方ないので郷に居れば郷に従えの教えに従って、真理亜の行動を見守ることにした。

真理亜はお堂の隅の小さな俵を動かして、その下に隠されている50センチ角の取って付きの石を見つけ出してそれを持ち上げると穴があり地下道につながっていた。

驚いている勇次を尻目に真理亜に従って穴に降りて、今度は勇次が真理亜の指示に従って、敷石をひっくり返し、少し浮かせてから俵、中にはほとんどものが入っていないのか軽い、を置いてから石を動かして綺麗に蓋をした。

これで堂のなかからは抜け道は全く分からなくなってしまった。

真理亜が言うには30分は中に入ってこないと言う。それは即ち、扉を開く時間を遅らせるのがこのお堂を管理する管理人の仕事の一つだと言う。また、堂に入った管理人が自然に俵を移動させる隠蔽工作をすることもあるという。

どうして入り口を開けたの

「それは秘密。貴方は知らないほうが長生きできるから」

「そうですが。また一つ秘密が見えて来た。次は女親分ですかネ」

「そう私は女ボス」

「恐れ入りました」


と言いながら地下道を降りて、その先へ背中を屈めて20m程度進むと鉄製の扉が見えて来た。それは内側から開くように出来ていた。用心しながら開けて外に出ると、地蔵風石造の裏側に出た。外目からは地蔵さんを掃除するための道具入れの場所という趣である。この地蔵さんの横に大きく“南無阿弥陀仏”と書かれた石碑があった。彼の地に縁がある空海の影響だろうか?


真理亜は、ここで携帯でバイクタクシーを呼んだ。5分でバイクが来てそれに乗って三山鎮に行って、公営バスに乗り換えて福清バスターミナルに向かった。

直ぐに日焼けした女性の車掌が二人分の20元を取りに来た。ホットパンツにサンダル履きとラフなスタイルだ。せめてミニスカートにして欲しい。

少し余裕が出来たので真理亜に、

「これどういうこと。どうなってんの!」

「組織の仕業だね。仕方ないよ我慢して下さいね。すみません。私と付き合っているから仕方ないね!」

と言うと眠ってしまった。

横から見る真理亜の眠った寝顔が可愛かった。ティッシュで汗と汚れを取ってやった。少し化粧がはげてモザイクになった。30分でターミナルに到着し、真理亜が現地の人には余り馴染みのない順華君悦大酒店に電話を入れて予約を確認した。宿泊者は一人だというから、勇次は安心もしたがちょっと残念な気もあった。


部屋に入るためにエレベータに乗ろうとすると、真理亜も付いて来るので、

「どうしたの泊まるのは俺一人だろう」

「良いのこのホテルは、一部屋に何人泊まってもいいんだよ」

とこともなげに言ってのけた。

部屋に入ると、

「まずシャワー」

と言ってシャワールームに消えた。そこは擦りガラスになっていて真理亜の裸がぼんやりと見えて、たまらなくセクシーで勇次の男が硬く反応した。

一人余韻に浸っている時に、電話が鳴った。フロントからだった。

「三宅さんですか?ロビーにお客さんがお見えです」

と言うが心当たりが無いので不思議に思ったが電話に出ると、

「私、峰観ですが、真理亜の元の夫です。少し話しがあるので下に降りてきてくれませんか。お願いします。面識もないのに無理なお願いとは思いますが是非とも逢って下さい。お願いします」

と必至の様相で訴えるので、仕方無く下に降りて行った。

フロントの横に、若い男が立っていた。

リトルワールドで見かけた男だ。


「三宅さん私です。峰観です。」

と言うので、そちらに目をやり真理亜の夫いや元夫の訪問を受けて勇次は狼狽した。何故か、福清市内に入ってから確かではないが、高山とは違う男に追われているような気がしていたのが現実になった。

峰観に硬い表情で近寄ると、改めて

「三宅さんですよね」

「はいそうですが!やはりあなたですか。どうも誰かに見られているような気がしていたんですが」

「そうですか気付かれていましたか」

「福清の街に入ってから車でつけていだでしょう!」

「さすが鋭いですね」

という会話から本題に入った。 


この男、すなわち真理亜の元の夫が言うには、自分は夢を実現するためにアメリカに行ったけど、大きなうねりに巻き込まれて自分の力を発揮できなくて無力さをつくづく感じたという。

多分、リーマンショックの事を言っているのだろう。そして、自分の失敗で親の事業も怪しくしてしまった。それを挽回するために場所を変えて日本に活躍の場を求め、一時は巧くいったが、最終的には仲間割れを起こしてしまって、しまいに自分一人が悪者になってしまった。と少し自分を取り繕う嘘を言った。


この話の後は日本になった。

「金を持ち逃げしたのは私だけじゃないよ」

「それならそれで警察に出頭して全て言えば言いのに」

「日本の中国の警察」

「どちらでも」

「そんなのどちらでも駄目、特に中国はね。警察に行っても組織が許してくれないんだ。だから俺はもうだめ。覚悟、決めているからそれはいいんだけど、淑民のことと子供のことが気がかりでね。」

「子供には両親がついているだろう」

といったが、それだけでは駄目で誰か強い後ろ盾が必要と言い、勇次に是非ともなってくれと言って譲らなかった。あまりにも熱心に言うので、

「何で、そこまで」

と聞くと

「淑民があなたを信頼しているから。あんな淑民を見たこと無いなあと思って。俺にあそこまでしてくれたらアメリカに行かなくても良かったかなと。でも俺に力がなかったんだなあと、車で後を追いながらつくづく思った。」

「正直、淑民は良い女だと思うけど、まだそこまで気持ちは固まっていない。でも、これから一緒に考えてみたいと思っている」

「それでも良いから俺と約束してくれ」

とあまりにも真っ直ぐに必至に言うので、その勢いに負けて、

「分かった、私の全力を尽くす事を誓うよ真理亜と子供のために」

と言うと安心した顔になり勇次に握手を求めたので握り返した。峰観には一仕事を終えたという満足感があった。


 帰ろうとする峰観に勇次が声を掛けた。

「日本で、あの事件があった時に何か見なかったですか?」

と聞くと、勇次が予想していないことを喋った。

その内容は、男を追っていくと突然、坊主の男が出てきて、絡み合い倒れて暫くしてから若い男と何かを話し合いだしたという。

「確か、お父さん。ついで、なんか名前みたいに一郎か雄一郎と言ったように思う。そして激しく口喧嘩になって、やがて仲良くなって若い男と年寄りの男は別れて反対の方向に歩いて行った。」

 と言う。

「それで本当にお父さんて言ったの」

「言ったように思うお父さん、おとうさんて・・・・」

「それと二人は最後は別れて歩いて行ったんだね」

「ええ歩いてね。坊主頭の男を見送ってから別の方向に歩いて行った」

「ありがとう。この情報はあの事件を解決する重要な情報になると思うよ本当にありがとう。それに貴方が刺したという容疑も晴れると思いますよ」

「宜しくお願いします」

と言ってまた握手をした。勇次は、こんどは強く手を握った。

峰観は真理亜と息子国邦の幸せをお願い。勇次はそれに加えて峰観の無実証明を行うことを誓った。


更に帰り際にもう一度、

「早く警察に出頭して罪を償った方が良いと思いますが、もう一度考えて見て下さい。私がここから警察に電話しましょうか?中国の警察が心配でしたら私と日本領事館に一緒にタクシーで行ってそこで出頭しましょうか?」

と言うと、満面の笑顔を返してホテルを出て行こうとした。

その時に更に一言、

「真理亜と子供のこと本当に本当にお願いします」

と言った。

これが勇次が峰観を見た最後になった。



8)遍路中のIT社長の殺人事件


この時、日本の四国では一つのドラマが展開されていた。

信一郎は誤ってとはいえ実の父親を刺してしまったことに、慄いて心は定まらなかったが、新聞記事で父が死亡したという記事をみて警察に行くのが更に怖くなった。しかし、所詮は真面目で几帳面な性格なので、大胆なことは出来ずに、うつ状態になり高速バスに乗って逃亡した大阪でビジネスホテルを渡り歩いて、ひっそり暮らしていた。犯行の夜から朝にかけてカードで2回に分けて55万円の貯金を下ろしたが、これが全財産だった。

最近は、費用を節約するためにネットカフェで過ごすことも多くなった。朝出される食べ物を持ち帰って一日の食事にする生活だった。昼間は公園や図書館で過ごした。

そんな時、ネットカフェの壁に“悩んだ時は遍路に行こう!”というポスターが貼ってあるのを目にした。大学時代の友人が遍路に行って帰って来てから、成長した人間になっていたような記憶が蘇った。

信一郎も【俺も遍路に行けば人生が変わるかも】と思って軽い気持ちで遍路に行く事を決心した。


翌日、大阪駅前から徳島駅行きの高速バスに乗り鳴門で降りて、そこから電車で第一番の札所である霊山寺を目指した。

途中電車の中で40歳前後のちょっと小太りの男から

「霊山寺はどこで降りるんですか?」

と聞かれ、

「私もそこに行くんで一緒に降りましょう」

と言って一緒に降りて道案内に従って寺に着いたが、大きな心の変化はなかった。

ここで男とは別れたが、後で考えて見るとどこかで逢った男だと思い暫くして、最近までテレビによく出ていた男であることが分った。

そんな出会いも有ったが、誰に聞くことも無く、見よう見まねで朱印帳を買って普段着で歩き始めた。2日歩いて8番札所の熊谷寺に来た時、うどん屋で体調を崩して倒れてしまった。

初老の店主が親切な人で事情も聞かずに、2階の部屋が空いていると言って寝かせてくれて薬まで持って来てくれた。2日間ここで養生すると体調は戻ったので、遍路を続けようと思ったが暫く御礼に手伝いをしてからと思って、

「おじさん、私に恩返しさせて下さい」

と言うと、

「良いよお前さんに手伝ってもらうことなんてなにもねえな。早く行けよ・・・」

と言っていたが、

「ちょっと考えたいこともあるんで、是非とも此処で休ませて下さい」

と素直に心の思うままにお願いすると、店の主人は、

「これも何かの縁か、弘法大師の巡りあわせかもしれんから暫く居てもいいよ。でも2週間以上はだめだからね。それに出て行く時は挨拶すること。これが約束出来たら置いてやる」

と言って店に置いてもらった。

店に置いてもらう時に、店主から、

「挨拶は元気に、人から話しかけられた時は一生懸命、積極的に聞いて応対すること。そう傾聴するんだぞ。傾聴とは耳と目と心を傾けることだからな」

とだけ言われた。自分の弱点を鋭く突かれているように思って身が震えた。

翌日から朝5時に起きて夜5時まで働く生活が始まった。朝起きると練ったうどんの塊をビニール袋に入れて足で踏んだ。其の作業に2時間かかったが、適度に汗が出てきて心地良い朝を迎えることが出来た。この作業後のうどんはこれまで食べた、どの食事より美味しかった。


これ以外の信一郎の仕事は、店での注文聞きだった。これまでは客に注文を自分で書いて貰ってそれを主人が作ってカウンターに置くと、客が自分で取っていくという、いわゆるセルフサービスの店風にして運営していた。

客に注文を聞いて、出来上がったうどんを客に届けてお金をもらうのが勇次の役割である。

この仕事に慣れた3日目に電車で一緒だった男が訪ねて来て、

「たらいうどんお願いします」

と言った。

信一郎に気付いた健一は、

「どうも、あの時は、元気ですか大分、陽に焼けられましたね」

と聞くので、

「ええまあどうにか。頑張ってますね。あなたも頑張って下さいネ」

という会話があったが、それ以上は男から話はなく、即ち、堀田 健一は300円のうどんを美味しそうに食べて満足した表情で店を出て行った。帰りがけに御接待と言って千円札をくれた。素直に受取った。男を店の外まで見送った。しかし男は後ろを振り返る事無く胸を張って元気よく歩いていった。

 堀田は遍路開始に先駆けて、3日間霊山寺近辺に留まって、寺に参拝しながら自分と向かい合ったので出発まで時間が掛った。


この日から2日後に、信一郎は主人に、

「色々お世話になりました。元気も回復しましたので遍路を再開したいと思います」

と言うと、

「分かった。最後まで元気で行くんだよ。途中で諦めずに皆と良く話をして聴いてな。決して先を急ぐんじゃないよ」

と言って祝福してくれた。

翌日、朝いつものように足踏みをして、うどんを食べて、挨拶して出て行こうとすると、

「ちょっと」

と言って呼ばれ、

「これ持っていけ」

と言って封筒と小さな本を渡された。

「こんなのもらえません」

「いいんだ。これも弘法大師の導きだから、いい縁が出来たんだから頑張れよ」

と言って店の外まで見送ってくれた。

渡された封筒には2万円が入っていて、本は般若心経だった。これを読みながら歩いた。

遍路、最初の難所である焼山寺越を克服し、徳島市内に入り20番鶴林寺に向かう参道で、信一郎は堀田に追いついた。

「今日は、お元気ですか」

と声を掛けると

「どうも良く合いますね。縁が有るんですかね、あなたとは」

「本当ですね」

という会話になり、鶴林寺に参拝後、一緒に山を登って大龍寺に向かった。ロープーエーも有ったが二人とも無性に歩きたかった。

歩きながら二人は、これまでの出来事や遍路に出た理由を語りあった。但し、信一郎はリトルワールドのことは語らなかった。堀田は贖罪を得ようと思っているのか全てを正直に語った。

「私は人の話を聞かない自分勝手な男でしてね。なまじっか力があったから人生をなめていたと思います。世界は自分中心に回っていると。いつも上から目線で、自己責任で能力の有るものが金儲けして何が悪いと思っていた。私に聴く力があれば違う世界があったのではと思います」

「でも経済活動ですから仕方ないんじゃないです?法律も破ってないし」

「そういう面も有ると思うけど、謙虚な気持ちが無かったと思う。弱肉強食で何が悪いと肩で風切って回りを蹴散らして自信満々で歩いていたからね。グルメ三昧、金は使い放題で本能に忠実に生きていた。」

「羨ましいな。それでいいんじゃないですか。自分が努力して稼いだ金をどう使っても」

「そうなんだけど、周りの人に生かされているという感謝の気持ちが無くて奢っていた。それの罰を受けた。いま少し倫理観があったらと・・・・後悔先に立たず」

「堀田さんは人間が、出来ていますね」

「知っていたんですか私を、この驕った心に罰を与えられたんです。法律的には私は悪いこともしていないし、検察は間違っていると思いますが、私の驕り昂ぶった心を正してくれたんだと、今では感謝していますよ。本当に・・・・」

とこともなげに言ってのけた。信一郎は、さすが時代をリードした人物だと感心した。

それ以後も堀田は饒舌に思いと心境を語った。信一郎はうどん屋の主人の教え通り一生懸命に聞いた。


誰かに自分の思いを聞いて欲しかったのだ。話したことで、堀田の気持ちは軽くなり飛び跳ねるような歩き方になって、心の闇から解き放たれたことが目にも見えるようになった。


ここで堀田が、

「人の心って判らないですよ。昨日まで神様みたいに言っていた人が、次の日には鬼になって攻めるんですから。綺麗な女性も手のひらを返すし、でも金で付いて来ているんだからしかたないけどね。こんな肥満の男に・・・」

「そうですかそんなことが有ったんですか?」

「あなた、私の名前知っていたから詳しいこと知っているんでしょう。」

「ええ少しは知っていますよ。時代の寵児さんですものね」

「まあ落ちた寵児ですけど。木から落ちた人間てとこかな。サルは木から落ちても猿だけど、木から落ちた人間は犯罪人ですからね。2ヶ月間収監されましたよ。また、拘束されるかもしれないけど。国会議員か経済連の幹部だったらこんなこともないと思うけどね。私よりハッキリした犯罪を起こしても執行猶予ですからね・・・・」

と言って、具体名を数名あげて今の思いを淡々と本音で語った。

堀田は天国と地獄、陽の当る道から日陰に、自由から拘束、称賛から罵声と裏表の人生を短期間に経験して人間不信に陥っていたが、最近はそれでも人間を信じて生きるしかないと思うようになったという。信一郎は、まさしく正・反・合のヘーゲル・マルクスの弁証法そのものだと納得した。

その時に堀田が言った、

「何が怖いと言っても人間ほど怖いものは無いからネ。歩いていると野犬は怖いけど騙さないからね。最初から怖い顔をしてるから注意する。その点、人間は優しい顔で平気で騙して、水に落すからね。でも遍路の難所で人間とすれ違うと嬉しくて安心するし、無性に挨拶したくなる。おかしなもんだと思うけどね。人間は人間の中でしか生きれないのかなあとね・・・」

という言葉が印象に残った。

その他にも、思いを歩きながら堀田は語り、信一郎はうどん屋の主人の教えに従って素直に積極的に堀田の話を傾聴した。

「信一郎さんは本当に素直な人なんですね」

と言われると照れくさかった。


10時間も一緒に歩くと一体感が出て来るのが実感できた。それから3日間一緒に歩いて一緒の民宿に泊まって兄弟の様な関係になった。

二人は23番の薬王寺まで来ていた。あすは最御崎寺まで長距離を一気に歩く難所越えだった。

宿舎の風呂に一緒に入って夕食時に、他に宿泊者が居ないことを見て取って、考え思いあぐねた末に

躊躇しながらも信一郎が思い切って、

「堀田さん、実は私、犯罪人なんです」

とポツリと言って経緯を語った。堀田は静かに話を聞いてから諭すように静かに語った。

「信一郎さん。あなたの親を思う気持ちよく分かりました。警察に出頭して素直に気持ちを語ればそんなに重い罪にはならないと思いますよ。女性を刺したのは一時の気の迷い。

遺恨で刺したのではないんでしょう。気の迷いで起こした過ちは、相手に憎まれることも少ないと思うし。

また、お父さんも殺意を持って殺したんではないし、情状酌量されると思うから是非とも早く出頭しなさい。これも縁ですから、私も一緒について行くから。明日早く一緒に行きましょう」

と言うと、いつのまにか自動販売機で買って来たビールを注いだ。資産何百億円の男と一緒に自動販売機で買ったビールを飲むのも趣があった。


信一郎は胸につかえたものを出したので、久し振りのビールが美味しく喉を通った。それから二人で痛飲した。堀田は人の気持ちのいい加減さと真摯さを、信一郎は父への思いを語った。そして、部屋に帰ってそれまで切っていた携帯電話の電源をオンにして、母に電話を入れて心境を語りたいと思ったが今日は控えた。

 胸につかえていたものが取れて、新鮮な空気が吸えて精気を取り戻したような気持ちになった。


翌日、信一郎は5時に起き堀田の部屋を訪ねてドアをノックしたが返事が無いので、ドアノブを回すと回るので開けて中に入ると、そこには堀田が仰向けに倒れており、近寄って抱きかかえると胸にナイフが刺さっておりぐったりした状態から既に死んでいると実感した。

驚いたが、血まみれでナイフが刺さって死んでいるのが可愛そうに思えて、胸にささっていたナイフを抜き取ってテーブルに上に置いて、手を合わせてから般若心経を唱えながらシーツで血を拭った。

暫くそこに座って堀田に語り掛けたが、我に帰ると自分は犯罪人であり手配されている身であることを意識して部屋に帰って、リュックのみを持って部屋を出て足早にJRの駅を目指した。

頭が真っ白になり思考が停止し、少しでも早くこの場所を離れたいと思った。

しかし、四国からは出たくなった。弘法大師に包まれていたかった。


2時間後、堀田の遺体が発見された民宿では、騒動が持ち上がっていた。警察が来て事情聴取と現場検証を始めていた。当然、現場から姿を消した信一郎が疑われて部屋に残された品物も押収され、部屋に残された指紋のついたコップ類も持っていかれた。

当日、昼のテレビで第一報が放送され、堀田とかかわりのあった人間のコメントが流された。そして翌日の新聞には、状況が詳しく報じられたが、犯人はほぼ信一郎に絞られた様なトーンで書かれていた。新聞によれば、信一郎にはリトルワールドでの傷害及び殺人の容疑があり、遍路の途中で親しくなった堀田に其のことを知られて殺害したという基調の内容だった。

どこの新聞社も同じような内容でテレビも同じだった。次に信一郎の過去や事件の関係者の談話も有ったが、どれも信一郎にとっては悪い内容だった。

唯一、うどん屋の主人の

「真面目でいい人間だったよ」

と言うコメントのみが救いだった。


この時、信一郎は西国88箇所の最後、大窪寺の近辺を歩いていた。本当は四国を離れるのが正解だったが、それが出来なかった。逆打ちで遍路を続ける事を決心してJRを乗り継いで此処に来ていた。  

変装のためもあって頭をそり、遍路衣装を着て父と堀田の冥福を祈りながらの旅だった。

数日が経過し、もうこの頃になると更に日焼けして逞しくなり般若心経も空で上手に言えるようになり、すれ違った人は本当のお坊さんと思って手を合わせる人も多くなった。信一郎はそれに必ず返して深々と頭を下げた。


警察の捜査は進んでいたが、堀田殺しの犯人については、捜査陣の見解は分かれていた。信一郎が犯人という人間が多かったが、三分の一位くらいの人間は、堀田の過去の経済活動に対する陰の部分を重視し、闇世界の人間の仕業という意見も根強かった。

堀田殺害事件の成果として、名古屋のリトルワールドでの殺人事件で殺された男には、2箇所ナイフで刺されていることが既に分かっていたが、今回の事件で派遣されたベテラン敏腕刑事の助言を受けて証拠書類が慎重に再検証された結果、1箇所目と2箇所目で刺され方が違うことを指摘した。

即ち、1箇所目は右手でやや正面下前から腹部に、2箇所目は鋭角的に上から下へ腹部を刺されていることを指摘し、犯人は相当背が高い男かまたは自分自身で刺したものであるということになった。しかし、自分自身で刺したという点については、犯人の偽装との少数意見もあった。

既に2箇所目の刺し傷が致命傷であることは分かっていた。

信一郎は身長165cmと小柄で、この男の身長とほぼ同じである。


信一郎は捜査の進展を知る由もなかったが、順調に遍路を続け、45番の岩屋寺に来ていた。段々と気持ちと身体が軽くなっていくのが自分でも自覚出来るようになっていた。


4.予期せぬ展開


ロビーでの峰観との面談を終えて部屋に戻るとまだ、真理亜はシャワールームにいた。

「あいついつまで風呂に入っているんだ。いい気なもんだ」

と小さな声で呟きながら我に返って苦笑いをして、冷えていない青島ビールを一人で飲んでいると、ようやく真理亜が出て来た。

「本当にお待たせしました。身体綺麗に綺麗、綺麗に洗って来たからね」

「それはどうもありがとうございます。意味分らないけどご苦労様でした。それでどうするの・・・」

「それはどうもで・・す。貴方もゆっくりどうぞ」

と言うので風呂に向かった。

シャワーを浴びながら、

峰観が来たことを真理亜に報告しようかとも思ったが、頭と気持ちを混乱させるのではと思って言うのは控えた。

勇次が思案するまでもなく、真理亜は今日、峰観が勇次を訪問する事は知っていた。というより真理亜が、勇次に分からないように今日の昼間に時間を取って、訪問するように携帯電話で勧めたのだった。真理亜が大人と言うか一枚上だった。しかし、この通信の一部を明華のグループに傍受されて今日の追跡の原因を作った。


また、真理亜は勇次が峰観と逢って帰って着た時は部屋にいたが、気配を察し慌ててシャールームに消えたのだった。真理亜は真理亜で勇次に気を使っていた。

そんな事とは知らずに、この日の夜、思案を重ねたが峰観と逢ったことは言葉には出さずに、意識して明るい顔で普通の会話をした。



1)初めての夜、真理亜とのセックス


今日は色々あって、二人とも疲れていたのでホテルで夕食を済ませた。約50種類の料理がありアルコール類以外は食べ放題のバイキングで、それが100元だった。でも何故か二人とも食欲はわかなかった。いつもはもりもり食べる真理亜も余り口にしない。

「どうしたの食欲ないね。疲れたの」

と聞くと、

「今日は色々あったから。あなたはどうなの」

「俺は元気だよ」

と言って腕を曲げて力瘤を見せて笑窪ができる微笑を返した。勇次もこれから起こるであろうことを考えてやや緊張していた。それが真理亜にも伝染していた。

軽く食事を済ませて早々に部屋に引き揚げた。


真理亜はすぐにテレビをつけてベットの上から見ている。素早く勇次が横に座った。

「ねえ、これどんなテレビ」

「中国のテレビいやシャープの技術を真似た中国製薄型のデジタルテレビ」

と言って勇次を笑わせ、暫く見て雰囲気から、

「息子の恋愛と嫁姑問題かな」

と言うと、

「そうだね女の戦争、これから私も経験すると思う。あなたのお母さん優しい人」

「優しいと思うよきっと。でもまだそこまで行ってないと思うけど。でも仲良くやっていけると思うけどあんたとは・・・・」

「バカだね。まだ、そんな関係じゃないでしょう?でも乗りがいいね・・・」

「それはそうだけど色々考えておかないと」

と言うと真理亜が部屋の照明を消して、テレビの光だけとなり薄暗くなった。ほの暗い光の中で見る真理亜の横顔が綺麗で妖艶に見えた。


「真理亜、可愛いからこっちにおいで」

と言うとその言葉に素直に従って肩に寄りかかって来た。キスをしながら、服の上から胸を触った。

「高いよそれは・・・」

「今日は良く頑張ったね。これからまた新しい世界を楽しもうか」

と言うと、それには

「・・・・・・・」

と返事が無かった。いつもは輝いている目力も消えて可愛さ満点の女になっていた。透け気味のレースっぽいワンピースがよく似合っていた。

「いいね、笑窪と唇が・・・・」

「・・・・・・・・」

答えずに静かに目を閉じた。異常におとなしいので少し調子抜けだ。

「自分で脱ぐ」

と聞いても答えないので、勇次が脱がすことにした。ワンピースの下は予想に反してフリルとリボンの付いた淡いピンク系の下着だった。ブラジャーは日本製で白系統の小さなカップに細い縦縞の青のストライブが入っていた。まず、少し焦らしぎみにトップを下着のうえから刺激してから、ホックを剥がして一気に取った。そこにはお椀型の形の良い乳房があった。真ん中に小さな突起があって既にそこの産毛は立ち上がっていた。

口の中に入れて唇で数回刺激してから、中指と人差し指で軽く刺激すると小さく身体を捩った。

「ぁ~あ・・ん」

という声が漏れた様に思ったが、日頃の声に比べて小さかったのが予想外だった。肩越しに乳首を刺激しながら左手で下半身を下着の上から刺激した。更に下着の上から一番デリケートなところに唾をタップリつけて舐った。何かがかすかに反応するのが、舌の先に感じられた。


真理亜が自分の手でパンティーをずらす仕草をしたので、勇次はそれも一気に脱がして軽く放物線を描いて放り投げた。真理亜の意思を表現すように黒々とした力強い陰毛が大事な所をガードしていた。唇でそこにキスをするともう濡れているのか、独特の果汁臭、マンゴーの香りがそこを支配していた。一呼吸置いて中指を浅く入れると、やはりそこは独特の粘りをもったゼリー状の液体で満たされていた。

シーツに垂らさないか心配になる。それを意識したのか、足を強く締めて自分で身体を仰向けに反り返らせた。少し距離を置いて見る白い肌にブラジャーとショーツの跡が刺激的だ、

「物凄く可愛らしいよ」

「真理亜、恥かしい、もの凄く恥かしい。貴方に見られるのが・・・とても・・・」

と言うので、更に刺激するために、男を出して四つん這いにして尻を突き出させた。全てが丸見えになり勇次を更に刺激した。この風景を少し楽しんだ後に横向けに倒して上に乗っかった。

「何か言えよ真理亜、寂しい・・・」

「もういいでしょう早く・・・・お願いだから。意地悪はしないで・・・」

と言ったが、それは無視して続けた。

スラットとした白い身体にボリューム感タップリの腰と臀部は男を刺激するには十分だったので自分を制御出来なくなっていた。

真理亜は始めてなので、おとなしくしているのか、全く自分から勇次に触ってこない。

「少し身体、触って、ここ」

と言っても反応は無くガッカリしていると、自分からキスを返してきて、それが首筋から胸に降りてきたが、そこで止まったので、右手で右の胸を強く掴むと、右手で背中を強く叩いて抗議の意思を表現した。


唇でようやく頭を出し掛けたクリトリスを刺激して、興奮度合いを高めて、更に中指で最近、雑誌で読んだいわゆる潮吹きのポイントを刺激したが、それは起こらなかった。上に行くように促したが、それには応じず、

「お願いもう十分に感じたから・・・・」

とうっとりした力のない目とか細い声で言うので、枕元においたコンドームを自分で素早く装着して指で入り口を刺激した後、静かにゆっくりゆっくりと中に深く入ってそのまま留まった。動こうとするとその動きを真理亜が抑えた。

手が離れたのを確認してゆっくり深く動くと真理亜も少し反応し、深く挿入して腰を回転させて意識してクリトリスを刺激すると真理亜は勇次が予想するよりも大きく反応した。

「あ・・・・そこが・・・良いのそこが・・・」

と今度は、はっきり聞き取れる中国語で勇次に自分の意思を表現した。其の声に刺激されて勇次は腰の回転を中心に真理亜を刺激すると二人の興奮は最高潮に達し、真理亜が声を出して体の力を抜いたのに少し遅れて、真理亜の体の上に力無く倒れ掛かって二人の愛情交換は終わった。

そのまま暫く重なったままでいて、先に真理亜が立ってバスルームに消えた。ベット越しに見る真理亜の体に水が当たり、はじけて肌が輝く様に興奮を覚えた。

この興奮を鎮めるために勇次もシャワールームに入った。そこで、お互いの性感帯を刺激して楽しんだ。


体を拭いて二人ともバスコートを着て勇次が真理亜を抱いてベットの上に運んだ。テレビは、恋愛映画から日本でいうムサシ風の番組に変わっていた。水着の可愛い女性が障害物を克服していくゲームである。日本と違うのは、登場する女性が美人でビキニの水着でステージのクリーア毎に豪華な賞品がもらえることである。さすがに中国というのが勇次の感想だ。真理亜は、テレビを見ながら必至に応援している。

「アアもう少しだったのに。私なら問題なくクリアーだね・・・」

と一人で盛り上がっている。

勇次がワインを持っていくと、

「ありがとう。今日は優しいね」

「真理亜が可愛くて、それに感じさせてくれたから。ありがとうの気持ち」

「それ変だよ。そんなことで褒めないで欲しいな。真理亜が恥かしい」

「ごめん。そんな気持ちじゃないんだ。真理亜に真実の愛情を感じたから」

と言うとウインクを返して腕を抓った。

1本のハーフサイズのワインはすぐに無くなり、ムサシも終わってニュースの時間となった。アナウンサーが声高に必至に喋る。


退屈していると真理亜がチョッカイを掛けてきた。

「どうしたの急に無口になって」

「余韻に浸ってる」

「そうか、それも良いけど真理亜は寂しいね」

「どうして」

「もっともっともっと仲良くしたい」

と言ってくすくすと笑った。これが、真理亜の宣戦布告だった。


真理亜は、想像通りにいわゆる日本人好みの清楚系美人と情熱系美人の面を持つ男好きのするタイプで、誰にも優しくするので男に誤解を与えてストーカ被害に逢い易い女である。事実、それが縁で二人は知り合った。

正直、勇次はさっきのセックスで疲れていたが、好みの美貌の女性が優しく男性を刺激すると自分の心は簡単に懐柔されてしまうことを知った。勇次に抱きつき、ペニスを優しく握りしめると、すっかり勇次の脳味噌はH色に変色し、次の瞬間には真理亜のクリトリスを舐めていた。膣の中に舌を入れるとさっきとは違う甘い香りがした。さっきとは完全に違っていた。今まで経験した事のない匂いだった。

真理亜が何か悪魔の仕掛けをしたに違いないと思って、

「真理亜、何かここにした」

と聞くと

「分かった。さすが敏感だね」

と言って小さく笑った。

「何したの、変なもの入れた」

「変なものじゃないよ。中国3千年の秘術だから安心だよ、これからも楽しみだね」

と意味深長なことを言うと、勇次の男性をチュパチュパと意識的に音をたてて舐め始めた。しばらくすると最高調寸前に達して、真理亜の舌にザーメンを出しそうになったが、辛うじて止めた。上機嫌になった勇次は、今度はターゲットを真理亜に変えた。

いわゆる中出しの快感責めで本気の誘惑をすることにした。当然、真理亜が拒否すると思ったが受入れ、官能的に反応し後ろから数分間、激しく突きあげるという野獣の交わりの後、二人は同時に果てた。直に勇次は妊娠の心配が心を過ったが、その時は結婚しようと反射的に心に決めた。いわゆる“授かり婚”も悪くないかと思った。

出合ってから交際までの時間は短かかったが、結婚しても良いと思うほどに心は真理亜に傾いていた。

何故か、このあたりは理香とは決定的に違っていた。納得出来る理由は見出せなかった。

終わった後、真理亜は清楚系のイメージとは異なり、普段以上に可愛いし、全裸になってベッドに横たわっていると考えるだけで、また興奮してきた。やはり謎の多い女性なのかもしれない。

真理亜に刺激されて、最後に飛ばしすぎて真理亜を驚かせたかもしれないと思ったが、真理亜はしたり顔でベットに横たわっている。やはり薬のせいだろうか?

興奮のためか肌がやや赤みを増して神秘的だ、顔もピンクぽくなってセクシーだ。普段見ることが出来ない肌の色で風呂上りの香りが発せられていた。


勇次は、真理亜にすっかり嵌ってしまった。女優張りの整った顔に似合わず、夜はセクシーで勇次を刺激し妄想を誘発した。まだ初々しい感じが残っている女体で、セックスも必至に頑張っているのが可愛かった。真理亜の性格からして変に色気を出さずにしっとりしたセックスも楽しめる女だとも思った。

真理亜はセックスの最中にもなるべく自分の顔が綺麗に見えるように巧みに気を使ってライトと角度を意識しているように思えた。

勇次は少し考え過ぎかも知れないと思ったが、そんな思いも知らず真理亜は気持ち良く眠っている。

仕方無く、冷蔵庫からビタミン飲料を取り出して飲んだ。快い疲労感を誘因してすぐに眠りに落ちた。


2)早朝の青空市場


翌日、勇次は5時に目が覚めた。ダブルベッドの2~3倍は有ると思われるベッドの片隅で真理亜が小さな寝息を立てて眠っている。

真理亜を起こさないように静かにベッドを抜け出したつもりだったが、真理亜はなにかを感じたのか2回寝返りを打った。更に注意深くベッドから抜け出してシャワールームに向かった。ちょっと低めのシャワーが気持ち良かった。段々と温度を上げて行った。体温が上がるに連れて昨日の記憶が蘇って来て男が反応した。やはり薬のためか真理亜が良かったのか、と考える自分を知って恥ずかしくなり改めて真理亜への関心の深さを知った。

シャワーを浴びて部屋に戻ると真理亜はベッドの上で、テレビを見ていた。テレビ好きだ。

「おはよう」

「ニーハオ ツウー」

と形どうりに挨拶した。

「早いね」

「あなたがガサガサするから寝てられない。」

「それはすまん。申し訳ない」

「それは[し]の次「まん」だろう」

「どういうこと」

「[し]の次が[す]だから、[すまん]」

と意味の分からない駄洒落を返して、ちょっと真面目に、

「嘘だよ。それで身体大丈夫」

「どういうこと」

「昨日、大サーカスしたからさ」

と言葉でじゃれあって、真理亜がお茶を入れて雑談をして真理亜が勇次にキスをした。

勇次が

「散歩に行こうかと誘うと」

「この格好で」

「そうその格好で良いよ。俺なら、化粧しなくても綺麗だから良いよ。服は着るだろうが」

と言うと肩に掛けたガウンを投げて来た。ピンクのブラジャーに白の小さめのパンティーの前の膨らみがまぶしかった。何故か用意の良い事に替えの下着を用意していたのだ。

二人は素早く身支度を整えて街に出た。

勇次はワイシャツにジーンズ、真理亜は黒のミニスカートにだぶだぶのTシャツだ。屈むと下着が丸見えになる。不思議に何故かつい目がそちらに行く。

「見えるぞ」

「良いのサービス、サービス」

「ありがとう」

の会話があった。


朝市はホテルから歩いて10分位の所に有り、道路の一車線を300メートル近く占有し三列に店が出ていた。中央付近に小学校の運動場程度の古い市場が有った。

その入り口に銀製品を扱う店があり、真理亜がそちらに目を向けたことを勇次は見逃さなかった。それとまた誰かに監視されているような気がしたが、思い過ごしと自分の考えを否定した。そうしたかった。

真理亜は水を得た魚のように古くて、けっして綺麗で衛生的でない市場の中を歩き回って店の人との会話を楽しんでいた。真理亜の表情は輝き光っていた。

写真に撮りたいと思ったが、市場の人の日常があると思うと携帯のカメラでも向けることを躊躇した。


二人は市場の中を二回周りし外に出たが、出口で真理亜が腕を引くのでそちらに行くと、さっきの店が有り、今度は勇次が腕を取って店の中に入った。

すぐに真理亜の目はブレスレットにいった。お気に入りの物を取って腕に付け、勇次に見せた。その行為を二度行ったのを見て勇次は財布から300元出した。店主は偽札判定機に札を通し、本物であることを確認して、真理亜にブレスレットと保証書を渡した。真理亜は直ぐに腕に付け、勇次の腕を取り、感謝の気持ちを表現するかのように力を込めた。

この時、真理亜も誰かに見られているように感じていたが言葉にはしなかった。


ホテルに戻り真理亜はシャワーを浴びて化粧をして朝食に向かった。

バイキングだった。メニューが豊富で面食らったが、味の良さに負けて食べ過ぎてしまった。真理亜も勇次以上に食べたがまだ余裕が有るようだった。


ホテルをチェックアウトとして、荷物はロッカーに入れて、真理亜の希望でホテルの前から市内循環バスに乗って石竹山を目指した。ちなみに中国のバスは、合図をしないとバス停でも停まらないのでタクシーの様に手を上げて止める。そして、降りる時は運転手に声で降りる意思を表示しないとバス停でも停まらない。


3)石竹山へ


福清市では、タクシーは3キロまでの基本料金が4元、それ以降1キロ1元。福清市は鉄道が無いため、人々の足は安い輪タク・3輪バイタク・2輪バイタク・バスが主流であったが、2004年から本格的にタクシーの導入が始まったという。


ホテル前の市内循環バスで30分、福清市の西にある小高い山が石竹山だ。ダムの建設で造られた人造湖である石竹湖の景観も素晴らしく、福建省10大風景区に挙げられる観光地だ。

山の中腹にあるのが石竹寺で、唐の時代(紀元847年)に建てられた古い寺院だ。

ケーブルで登るが機械が古くて恐怖感が襲った。それを紛らすため真理亜にキスをした。

真理亜が、

「こんなところで変なことすると神様が怒るよ」

と言いながら、最後は自分から舌を入れて来た。突然風が吹いて、揺れそれによって二人の興奮が更に高まった。

それが終って、一時して勇次が、

「胸も見たい」

と言ったが、さすがにそれは無視した。

案内の資料によれば、この寺は道教が主体だが、仏教の観音様や儒教の孔子も一緒に祭られているという、道・佛・儒教が混在した不思議な寺院である。建築物の他に、巨大な岩の洞窟の中に作られたお堂もいくつか有る。


途中に ちょっと不思議なものがあるので良く観ると「四洲大聖殿」と書いてあり、それに続く参道の太い鎖に沢山の鍵が付けられてあった。ここには観音様の化身とされる仙人が祭られていて、

「願い事をか叶えてくれる鍵というそうです」

と真理亜が言った。

その他に、獅岩堂、石像では中国一と言われる観音様があるとのことだ。風水の占術に使われる羅盤すなわち方位盤を現した8角形の建物もある。


二人がこの寺で一番興味を持ったのは、15m程度の高さの所に有る細い石橋、即ち幅30センチ、長さ3メートル程度の先に小さな島があり、ここの島に二人で一緒に渡って抱き合うと幸せになれると言う。

勇次が、

「そうか約束の島か」

と言うと真理が、一緒に行こうと言うので向かったが、勇次は全く足が出なかった。真理亜は簡単に島に渡って帰って来た。

「駄目だねこれじゃ一緒になれないよ!」

と言って拗ねた。

勇次は面目がなかった。それから暫く真理亜は不機嫌だった。

歩いて山を降りている間中、自分の不甲斐なさが情けなかった。

それを観た真理亜が、

「気にしているの。大丈夫、私が直してあげるから。今度来た時は一緒に島に渡りましょう」

「・・・・・」

「その言葉、可愛いね本当に・・・」

と言うと元気が湧いて来た。


次に輪タクに乗って、古黄檗山万福禅寺に向かった。この寺は、唐代から続いている由緒ある寺で、「黄檗木」という木からその名が来ていると言われている。臨済宗発祥の地の一つとしても知られ、かの隠元禅師即ち隠元隆琦が住職を務めていたことでも有名になった。

また隠元禅師は日本における煎茶道の開祖ともいわれている。ほかに日本に伝わったもののなかでは「普茶料理」、「インゲン豆」や「蓮根」、「木魚」などが有名だ。


日本の京都・宇治市にも「黄檗山万福寺」があるが、こちらは「鄭成功」が仕立てた船に乗ってやって来た隠元禅師が江戸時代(1661年)に幕府の協力を得て開山し、「新黄檗」として現在に至っている「黄檗宗」の寺だ。

勇次が隠元和尚の事を話しても、真理亜は全く知らなかったと言ったのには驚いた。

「貴方よく知っているね。中国人よりも」

「真理亜が勉強していないから。今度、宇治の万福寺を見に行こう」

と言うと珍しく、

「宜しくお願いします」

と強い太陽の下で素直に言ったのが可愛いかった。


境内のあちこちに日本に縁のあることが書いてある碑が見られた。

建造物も明朝様式で中国のお寺らしさを感じさせてくれる。街の喧騒からは離れていて、静かな山の上にあり、更にお寺さん独特の線香の香りが漂い、とても落ち着いた気分にさせてくれる。

勇次はここでも誰かに見られているような気がした。振り向いた時に男が身を木陰に隠したのを見た。同じ事を真理亜も感じていた。また追い回される危険を感じた。今日は本当に殺されるかもしれないと。その恐怖を真理亜の存在が薄めてくれた。


勇次は、今感じている恐怖心を素直に真理亜に言い出せないまま、次に回ったのが「弥勒岩」、別名瑞岩山。福清市海口鎮に位置している。福清から約10キロメートルの山麓にある。石の仏像は西暦紀元1341年に建立が始まって、明の洪武の年まで(西暦紀元1368年)に完成した。

高さ6.8メートル、幅8.9メートル、ひとつの塊の花崗岩からその場で磨かれて出来上がっている。

真理亜が、

「胸をはだけて腹を出して、耳たぶは肩まで、笑顔が可愛いらしい」

と巧いこと言った。

勇次も見た者に心配事を忘れさせてくれそうに思った。この石仏像は中国で最大の立体弥勒仏像で、すでに国家級の文化財保護の部門に編入されていると案内板に書いてあった。

勇次はこの像の一部が破壊された時、地元出身のインドネシア華僑が大金を出して修理した事を国際ニュースで見たことを思い出した。

ここで二人はお互いに仏像に自分の願いを語り、内容はお互いに言わなかったが、勇次は真理亜への愛を、真理亜は家族の幸せを願っていた。


最後は、龍江橋に向かった。建築が宋政3年(西暦紀元1113年)に始まり、宋宣6年(西暦紀元1124年)まで十年もかかって完成した。この橋は梁式の石板橋で、全長476メートル、幅4.6メートル、非常に堅固で、保存状態も良好で現役として使われている。福建省の四大古橋と言われている。

この橋の前で二人は今日始めてツーショットの写真を撮った。その中には、南無阿弥陀仏の碑と沖縄でよく見られる石巌當が写っていた。


今日は福清市内の名所の目ぼしいところを見て回った。ちょっと疲れたので、あとはホテルに帰ってシャワーを浴びて、夕食を食べて、真理亜を自宅に帰そうと考え直した。

もうお互いに心の揺れはないと思ったが、ある程度は予想したことではあるが、裏組織の力を知ることになって再度心が乱れることになる。


4)真理亜の悲しみ、息子国邦との別れ


海口鎮からの帰り道、真理亜の表情が暗いので、

「どうしたの。また近いうちに会えるから」

と言っても返事がなかった。

「どうしたの。気分悪い。」

と聞くとようやく

「一緒に行って欲しい所があるけどいい」

と言うので、

「真理亜の行きたいところならどこでも」

と言うと顔に輝きが少し戻った。

勇次は内心、高い買い物ならどうしょうとか、峰観に逢いに行きたいと言ったらどうしよう等々で頭が混乱したが、どんなことでも受け入れようと思うと気持ちが落ち着いた。

「どこに行きたいの?買い物。プレゼントするよ」

「ありがとう。でもどこでも本当に付いて来てくれるの」

「真理亜の行きたいところならどこでも本当だよ」

と語気を強めて言うと、

「子供に会いたい」

とポッリと言ったので勇次は、

「国邦ちゃんのところ」

と返すと小さく頷いた。


姉が経営する便利屋は福清市内の融華大酒店の近くに有った。

真理亜が一人で店に入って行って、15分後に店から出て来てすぐに姉も出て来て路上で話し込んでいる。

真理亜が大きな声で姉を攻め、最初は冷静だった姉も段々と大きな声になった。この状態が10分は続いただろうか?話し疲れたのか、真理亜は姉に背を向けて勇次の方に歩き出したので、勇次も歩み寄った時に姉と目が合ったので小さく頭を下げた。

優しい笑顔が返って来た。


真理亜は、勇次の胸に飛び込んで思い切り泣いた。勇次の肩が涙で濡れた。

「真理亜もういいんじあないの」

「もっと早くその言葉をいいなさいよ」

と言って人差し指でお腹を突いた。

そして、

「子供を捨てさせられた」

と言って、姉夫妻との会話の一部を喋った。

それを聞いて、

「いいじゃぁないか。その方が子供に取っても幸せじゃないか」

「冷たいね。いつも冷静だね」

と言って、また泣いた。

「けじめがついて良かったじゃあないの。今後は、俺のことだけを考えてくれよ。そして沢山俺の子供を産んでくれ」

涙で濡れた顔を上げて、

「それずるいネ。私が弱っている時に。でも勇次それってプロポーズと思って良いの」

と聞くと、

「真理亜、構えて言うけど、そう思ってくれても良いよ。あんたと末永く仲良くしたいから」

「ありがとう。あなたの子供を産む。沢山ね!」

と言って抱きついて来た。

もうこの時、涙は無かった。

勇次は、真理亜を強く抱き抱えた。

真理亜はここでも、

「ありがとう」

と笑顔で言った。

そして、

「でもこんな時にプロポーズするって違反じゃないの」

と言って、大きな声で肩を震わせてまた泣き出した。こんなに泣く真理亜を始めて見た。



真理亜から後で詳しく聞いた話しでは、姉に子供に会って抱かせてほしいと言うと、それを聞いた姉の亭主が出て来て、

「余りこちらに顔を出さないようにしてくれよ」

と言って、更に、

「抱くのはこれが最後にしてくれ。子供大きくなったので変に思うといけないから」

「私の子供を抱くの何がいけないの・・・」

「国邦は俺たちの子供だ。あんたとは関係ない。周りをうろちょろされるのは迷惑だ」

とも言った。

姉は亭主を怒ったが、そこで夫婦喧嘩になり、たまらず外に出て来たが、後を姉が追って来たと言う。


路上では、姉から

「国邦のことはもう忘れて、今の生活を大事にしなさい。新しい生活をするには子供は負担でしょう。これは淑民のためなんだよ」

と言われて、頭では理解出来ても感情的には理解出来なかったと言った。


勇次が、

「真理亜、もう過去を振り返るのは止めよう。過去は変えられない。誰でも触れられたくない過去があるんだよ。ここは得意の未来思考で行こう!」

「ありがとう」

「もう真理亜を泣かせないから」

と言うと、笑顔が戻り、

「さっき、何でもプレゼントしてくれると言ってたね。本当だよね」

「本当だよ」

と言うと勇次の腕を取って早足で足を高く上げて歩き出した。

カルフールの横の万国有名店。すなわち欧米有名ブランド品を売っている店に案内した。

真理亜はここで5千元のルビーの指輪を買った。

「高くてゴメンなさいね!でもこれは婚約指輪だからね。いいでしょう」

と言われると何も言えなくなってしました。

「真理亜、実は俺も赤いルビーの指輪が好きなんだ。感性が同じだから嬉しかった。俺もあれを買ってやろうと思ってた」

と返すと、ウィンクが返って来た。


楽しく買い物をした後はお決まりの食事。

「安くて美味しい店に案内するね」

と言って案内した店は、カルフールの前にある一品どれでも10元の店だ。春巻き、水餃子、羊串、フカヒレスープ、五目チャーハン、五目ラーメンに缶ビール3本で120元だった。

分け合って完食すると二人ともお腹がぽこんと膨れてしまった。


どちらともなく、

「ちょっと散歩してからホテルに帰ろうか」

と言うことになり、少し遠回りして歩いていると大きな川が有り、ベンチと噴水にネオンまであった。

恋人たちのメッカらしく沢山のカップルがいた。

「私達も頑張りますか!」

「いや今日は大人で行こう!」

と意見が一致した。

広場では女性達がグループで一心腐乱に踊っている。みんなプロ並みに上手い。

真理亜も飛び入りで参加するが相当旨い。

結局、真理亜は30分踊った。

「ああいい気持ち」

「汗をかいた真理亜は、顔が引き締まって、いつにもまして魅力的だね」

「ありがとう。気分転換出来て生まれ変わった。」

「じゃあニュー真理亜さん帰ろうか」

と言うと黙って付いて来た。


歩きながら、真理亜が勇次に語り掛けた。

「あなた、昼過ぎから尾行が居なくなったの気付いた」

「ああ知っていた」

「あんたにしては上出来だね」

「どうしたんだろう。俺たちのアツアツに負けたんだろうか!」

「何か悪いことが起きなければ良いけど」

「俺が真理亜に悪いことしてやる」

と言うと固い顔になった。

「もう脳天気だね。付き合いきれない。男はいいね気楽で!女は損だな。男は勝手だ本当にどうしようも無い動物だネ」

と言ってからホテルに着くまで一言も喋べらなかった。


歩きながら、勇次はちょっと羽目を外し過ぎたかなと反省した。峰観のことを気にしていることにもっと敏感になるべきだと後悔した。自分の軽率な発言が恨めしかった。口から出た言葉は帰ってこない、考えてから喋る癖をつけないと、と自分に言い聞かせた。

こんな状態で真理亜を返したく無いと思い直した。

「泊まっていく」

「・・・・・・・」

「そうしろよ・・・」

「・・・・・・・」

相変わらず無言だったが、勇次の判断で泊まらせる事にした。


 ホテルに再チエックインして素早く部屋に入った。勇次の心配をよそに、部屋に入ると陽気になった。真理亜も少し言い過ぎたと思って仲直りの機会を探していたのだ。

真理亜が不意に、

「たった一人の男を思い切り愛し切って見ようかなって思う。素直にそんな気持ちになれるだろうか」

と言うと日頃の勇次からは考えられない殺し文句を言った。

「お互い役に立つ関係じゃなくて、お互いにとって無くてはならない、巧くいえないけど不可欠な存在であり続けたいと思う。二人でないと始まらないだろう。一緒に歩んでくれ真理亜」

と返すと、

「今日は、婚約祝いも兼ねて思い切り行こうか」

とストレートに言うので、

「お前と一緒に居ると後ろ向きの思考が、前向きになるな、それが真理亜効果かな」

と言うが早いか真理亜が勇次に迫って来た。


真理亜は、

「言葉遊びはこれくらいにして、さあ今日も思い切り頑張ろうか!」

と言ってシャワールームに消えた。

今日も擦りガラスに映る裸体が鈍く光り輝いていた。



5)深まる愛情


今日、市内観光をしている間に、プレ新婚旅行の気分になり二人の気持も醸成されて一つになった。そして、真理亜が子供との再会を拒否されたことによって真理亜を一人にする事が出来なくなった。本当は、今日は分かれて真理亜は実家に、勇次は福清に帰る予定だったが、もう離れられなくなっていた。少し冷えた青島ビールをゆったりと心行くまで飲んだためか心地良かった。

真理亜ともっと長く一緒にいたいという気持ちが強くなった。

シャワールームから出た真理亜に換わって勇次が入った。

すぐに出てきた勇次に真理亜が、

「おお早いね・・・」

「お待たせしちゃいけないと思って・・・・」

「でも今日も色々あったね」

「真理亜といれば退屈しないね。未知との遭遇だね。頭が刺激されて発想が豊富になるよ。いい論文が書ける予感がする」

「そうだろう。真理亜と付き合えば成功するよ。文化は辺境に生まれるというだろう異文化との接触が既存文化にトランジット的な変革をもたらすんだよ」

「それどこかで聞いた。勇次も福清に来て人生観変わっただろう。良い論文がかけると思うよ」

「私もそう思う。だから頑張る!」

「そうだねお互いに良いところを吸収して素直に人生生きようね。他の人の評価は気にせずに」

「分かった。色んな人の意見を聞いて自分の頭で考えてみる。風説は信じない」

「ありがとう。じゃあ自然に帰ろうか」

というとテレビを消して部屋を暗くして勇次に迫って来た。

絡み合いながら勇次は真理亜の腕を取りながら、自分にとってはある意味では“情熱のいやし系”と思ったし、扱い憎いところも有るが良いお嫁さんになりそうだなと、ぼんやりと思った。

基本マイペースだが、テキパキとこなす時とゆったりしている時、いわゆるONとOFFを巧く使い分けていた。そして純粋で素直な性格だ。厳しい生活の中で、今の性格がどのように育ったのかに興味が移った。結論は見出せなかった。まだ十分に真理亜の全体像を把握できていないことが原因だった。

それはさておき、真理亜は素朴な環境で育った清涼剤と思うことにした。


ここで真理亜が怪しいものを目敏く見つけた、洗面所の横に置いてある小さな箱のことに話題が移った。真理亜によると、中国語で「素晴らしい夜のために」と書いてあり、男性用と女性用があるという。値段は25元という。

真理亜が、

「どうするこれ」

「どういうこと」

「面白いかなと思って。疲れているでしょう色々あって。日本人はあれに淡白だって聞いたことがあるから、昨日と連続で大丈夫かなと思って」

「馬鹿、俺は大丈夫だ真理亜も良く知っているだろう。それにお前に失礼だろうが。薬のんでやるなんて。お前に魅力が無いみたいで。俺は嫌だな」

と言ったが、その言葉を最後まで聞かずに、真理亜は、

「1時間前に飲んで下さいて書いてあるんで直に飲もうと」

と言って怪しい得体の知れない液体を飲んでしまった。

「ああ美味しい。元気が出てきた」

と言って、机のところに行って、冷蔵庫からワインを取り出して二つのグラスに注いで一つを勇次に渡して乾杯した。もうこの頃になるとすっかり自分の素を出して普段の態度で接するようになっていた。

「あなたも早く飲んで。あれ試してみたいから」

と言って洗面所に向かい、男性用を取ってきて勇次に渡した。

今度は素直に飲んだ。

暫く指輪を話題に雑談しながら勇次が、

「さーあ1時間経ったら頑張ろうか」

と言うと真理亜の後ろに回って背中を触って上着を脱がせた。


「まだ早いよ。もう少しテレビ見よう」

といってテレビをつけると噂の番組が放映されていた。

この番組は、男女の出会いの番組で、金持ちの中年男性が金持ち自慢をして、それを受けて若い水着姿の20代の綺麗な女性が特技を披露し、7対7の意見交換の後にカップルになるというものだ。それにしても中国のテレビは水着が好きだ。男性が女性にプロポーズして女性が受け入れればカップル成立となり交際が始まる。会話が過激で、人生感、セックスライフ、金への思いを赤裸々に語るが、視聴者は誰も言っていることを本気に取っていないと言う。勇次は違うのではと思った。ショーを楽しんでいると言うのが、制作者の言い分だが真意の程は明らかでない。

中国語は分からないが、テンポと顔の表情が面白く勇次も見ていて楽しかった。隣で下着姿の真理亜が笑い転げている。

チラッと横目で見た。引き締まったウエストと形の良い乳房が勇次の男心を必要以上に刺激したが耐えた。


真理亜がテレビを楽しんでいる間、勇次はメールのチエックと明日の仕事の段取りを付けた。真理亜が静かになった。1時間の番組が終わったのだ。

真理亜が勇次のシャツを脱がして胸に触れた。そして乳首にキスをした。勇次が返した。そこから真理亜の本格的な攻撃が始まった。勇次はコンドームが無いことに気付いたが、もう躊躇しなかった。 真理亜は勇次の服を脱がせて素っ裸にして舌で乳首を舐めて指で玩んだ。更に、そそり立ち硬直した一物を手で強く数回握ってから口の中に運んだ。

勇次はこれまで女性から、この行為をされた事はなかったので興奮した。危うく口の中に放出しそうになったが、辛うじて堪えた。いつもより感じ方が敏感なように感じた。

「真理亜、いつもと違うか?」

と冷静に聞くと、

「違うと思う。なんか敏感になっている。これからが楽しみ」

「お前は、いやあんたは冷静だな。真理亜のその性格が羨ましいよ」

「そうだね。私は冷静だよ。日本に帰る前に正式に私の両親に挨拶に行ってくれるよね」

と突然、現実に引き戻すようなことを言って、勇次が黙っていると拗ねたので、

「もう挨拶しただろう。家にも泊まった。もう婚約者だと思っていると思うよ」

と返したが、

「あれは只の友達としての挨拶。私をお嫁さんに下さいて言って欲しいの分かった」

と言うので、自分の気持ちに素直になり、

「分かった。来週一緒に行って結婚のこと両親にお願いしてみる」

「えーもう結婚・・・」

「それでいいんだろう」

と言うと元の快活さが戻り、自分からキスをして来てキスの雨を浴びせた。


一段落すると今度は、勇次が攻めた。

ブラジャーの上から乳首に渦を巻くように刺激して、隙間から手をいれて荒々しく乳首を摘んだ。真理亜は少し痙攣した。形の良い膨らみを腫れ物にさわるように扱い、強弱を交えて触れたが真理亜は右の胸の感度がよい事を知った。

と言うのは、真理亜は自分の手で勇次の左手を掴んで自分の右胸に導いたからで、其の延長で乳首を優しく撫でると体が震えるのが密着した下半身で感じることが出来、そして小さな声で、

「ありがとう・・・」

と言った。


次に右手でショーツの上から恥丘いわゆる恥骨の辺りを刺激した。真理亜は恥丘の中央部が感じるタイプの女だった。中央のあたりを刺激すると激しく体を捩った。ここに性感帯があるようだ。男女が激しく求め合った時、一番激しく摩擦しあうのは恥丘なので、そこが敏感になるのだろう。言い換えれば、セックスは恥骨と恥骨のぶつかり合いという表現も出来て、刺激されてDNAに刷り込まれて敏感になるのだろう。

ピンクのショーツを脱がせて恥骨の辺りを4本の指で静かに指を立てて5分程度刺激してからクリトリスに手を添えると、そこは熱くなっており一部が露出し、入り口まで粘りのある愛液が溢れ出てきて、今にもこぼれ落ちそうになっていた。

そこに唇をむけようとすると、それを拒否するように手で隠した。

そこで仕方無く、右手の人差し指で恥丘を刺激し、中指を適当に曲げてその尖った所でクリトリスに刺激を与え薬指と小指で子宮を暖めた。


勇次は真理亜の反応を楽しみながら意識して左胸を攻めて、クリトリスへの刺激を避けて、反応を見たいと考えていた。真理亜は自分の気持ちが高まらないので焦って、頭の中は混乱していた。其の混乱は段々と大きくなり、遂に自分の思いを中国語で、

「勇次、ここをもっと触って」

と自分の手で攻めて欲しいところを示した。

素直に勇次は真理亜の望むところを手と舌で誠意を込めて攻めた。

真理亜の体が暖かくなるのが指先にも感じられた。何とも言えない香りが周りを包んだ。二人とも体温がいつもより高いように感じた。そして真理亜の体はいつしかパールピンクに染まっていた。

暫くして、

「ああ~ッツ あーあ・・・来る・・来る・来た・・・」

という声が出た。これに反応するように、

「真理亜の襞襞が絡まってくる。もっと締めて・・・」

と言うと更に入り口の刺激が深まった。


ここで勇次が万感の思いを込めて、

「真理亜、今度は俺の子供を産んでくれ、日本では何人でも子供が産めるから」

と言うと興奮が更に高まったのか、


「分かった。勇次、貴方の全てを私に下さい」

と言うとまた声にならない声をだして身体が大きく痙攣し乱れた。

クリトリスは完全に露出していた。人差し指で触ると痛そうな表情をしたので舌で軽く刺激した。

すると真理亜から小さな声にならない声が連続して漏れた。

「真理亜いくぞ良いか・・・・」

と言っても、もう声は出さず、体を不規則に振動させている。

真理亜の上に深く重なり、子宮にペニスを深く静かに挿入した。いつもより膨張しているように感じ血流がドドドと勢い良く脈打ち、真理亜のあそこは昨日より襞の膨張が大きいように感じた。これが薬の効果だろうが?勇次が動くと襞が纏わりついて大きな刺激を受けた。


もう避妊のことは全く頭に無かった。今、この時を大事にしたいと思った。真理亜が体を倒すように手で合図したので、それに従うと器用に体をねじって勇次の上に回って恥骨を擦り合わせるように動きだした。

声が段々と大きくなって興奮しているのが勇次にも分かった。大きく3回動いて停まったので終わったのかと思ったが違っていた。

真理亜は体を倒して今度は勇次が上に回った。ベッドの広さと真理亜と勇次の体と思考の柔らかさが、これを可能にした。

「いいぞ真理亜、頑張れ頑張れもっと頑張れ」

と言うと、

「集中、集中・・・・」

と言って励むので、ちょっと変化球を投げてやろうと思って、身体を横に倒して後ろに回って四つばいにして激しく突いたが、すぐに拒否されて結合を解き、足を肩越しに回してオーソドックスな形に戻して優しく静かに深く浅く攻めた。


二人にもう周りは見えなかった。二匹の蒼と白の狼は、本来の姿である原野に生きる弱肉強食の動物に返った。


この時、真理亜の携帯電話が鳴っていたが二人はセックスに集中していた。

真理亜の足を肩に持ち上げて深く挿入すると一層大きな声が出た。少し距離を取ってクリトリスを右手で刺激すると膣の中から液体が溢れ出てきた。その量に驚いていると真理亜が不自然な動きを始め、何やら意味の分からない事を言い出した。

その声につられて勇次は激しく不規則に上下左右に動くと、真理亜は意思を持たない軟体動物のように不規則に体を動かし意識を失った。

それを見て勇次も自分の中に溜まった全ての物を深く、真理亜の中に放出した。暫くそのままでいると勇次のものが小さくなるにつれて、それまで栓をされていたものが、炭酸のように真理亜の膣の中から溢れ出てきて、ベッドの或る一ヶ所はべとべとになってしまった。

真理亜が意識を失っているのを確認して、勇次はシャワールームに入って汗を流した。火照った体を冷やすために温ぬ目のシャワーを楽しんだ。

シャワーを浴びながら真理亜の白い肌が、胸から下半身に向かって伝播し段々とパールピンクに変わっていく様を思い出すと男性が反応した。


ガウンを着てベッドに戻ってもまだ、真理亜はベッドの上で余韻を楽しんでいた。

冷たいワインを口移しに注ぎ込むと、目を覚ました。

「どう疲れた」

「疲れた。でも本当に良かった。新しい自分に生まれ変われたと思う」

「これからあなたと二人で生きていく決心が出来た。キリスト教徒じゃあないけど、あなたとの出会いをマリア様に感謝したい気持ち。これまでの苦労が吹っ飛んだ。一緒に新しい人生を歩もうね」

と言うので、

「分かった。そうしよう」

と言うと強く真理亜の手を取って抱き寄せてキスをした。携帯電話は相変わらず受信を知らせる光を発していたが二人は気付かなかった。

勇次はよろける真理亜の手を取って、バージンロードを歩む新郎新婦のようにバスルームに導いた。

さすが、中国3000年の秘薬と中国の懐の深さを感じずにはいられなかった。

この時、勇次と真理亜は新しいステージ、世界に入ったと思った。


勇次は、ようやく真理亜の携帯電話が光っているのに気付いて、画面を見ると真理亜の母親からだった。

恐る恐る出ると

「もしもしお母さんですか」

と日本語で返すと

「なんだ勇次さんですか。あんた達、いったい何しているの携帯にも出ずに、真理亜も一緒かね、真理亜はどうしたの」

と少し怒ったような口調だったので、ちょっと身構えて、

「ええ今、シャワーに入っています」

「そう至急だから電話に出るように言ってくれる。峰観が死んだって」

と言った。


峰観とは面識があり真理亜の元の夫である事は勇次も知っていた。つい昨日、話したばかりだ。

シャワールームに携帯電話を持っていって事情を話した。

真理亜は、暫く話してから、

「分かった直に帰るから」

とだけ告げて慌ただしく体を拭いて服を着て部屋を飛び出した。

後を追った勇次が、

「一緒に行こうか」

と言ったが真理亜は、

「また連絡するから今日は、一人で帰る」

と言った。

ホテルを出て、タクシーを止めて乗り込み高山へ帰って行った。勇次は一人残されてなすすべが無かったが、歩道を走る車のクラクションで我に帰ってホテルの部屋に戻った。

興奮して寝付けなかった。

今日、尾行された男か其の仲間に殺されたのか?と頭の中でぐるぐるとまとまらない思考の到着先を探していた。

確実に何かが一つ終わったと思った。

暗い道路を全速で走るタクシーの中で真理亜も同じ気持ちだった。どちらも自分たちの犯したかもしれない罪の大きさに慄きながら。



翌日、勇次の目覚めは悪かった。昨日は朝6時に起きてホテルの近くで開催される朝市に真理亜と二人で出かけて行き、都会のど真ん中に日本で50年前にあったような風景があることに驚き、ここでは一つの国に二つの国、即ち上海・北京と福清、カルフールと市場、が有るように思ったことがもう何年も前の事のように思えた。

この市場に売られているブレスレットを真理亜にプレゼントすると、「超嬉しい。一生大事にする」と言って人ごみを気にせずに抱きついて来たのが、どこか異次元で起った出来、何年も前の出来事の様に思えた。

現実の問題として当面、逢う事は難しいと思ったが、週末の再会を期待して自宅を目指した。


結局、峰観の葬式では目を合わせたが、真理亜との再会は適わず、真理亜と一緒に集めた資料の整理に没頭しようと思ったが、その意思を無視する様に、名古屋で開催される国際会議のサポートをするようにとの沖縄県の指示を受けて帰国することになった。


6)峰観の葬儀


勇次と峰観が福清のホテルで別れた翌朝、アモイ沖合いで男性の死体が発見され、夕方に峰観であることが分かったという。死体は、峰観の両親に引取ら荼毘に付された。葬儀には勿論、真理亜と国邦も目立たない程度に参列し、勇次も密かに参列した。

この葬儀が行われる数日前、真理亜は義父の江陽峰と峰観が電話で話をしたと義父から聞かされた。

その会話は概ね次のようだった。


父親と息子の峰観とは物心ついた時から仲が悪かった。

と言うのは、実の母親は峰観が7才の時に鬱病になり自殺した。

子供ながらに自殺の原因は父親にあると思った。

それが疎遠の大きな原因だった。

更に、父の再婚が決定的に二人の関係を悪化させた。


中学、高校は家を出て寮に入り卒業後は上海の大学に通った。

早く家族が欲しくて大学を卒業するとすぐに淑民と結婚した。

子供を早く作って一家で生活したかったが、アメリカでのビジネス成功の夢を捨てることが出来なかった。

アメリカに行く時には父親に支援してもらった。が心からは信じてはいなかった。

しかし、日本での失敗は致命的だった。組織の金を横領したのだ。最初はすぐに返すつもりだったが思惑とは異なり事態が予想以上にマイナスに働いた。そしてもう後戻りが出来ない状態になった。


最後のつもりで父親に電話した。

その内容は、

「お父さん。ご無沙汰しています」

「元気にしてるのか?」

「ええどうにか生きてます」

「そうか無理せずに頑張れよ。支援はいくらでもするから。そこは安全か」

「多分安全と思う。貴方が守ってくれたら」

「子供を守らない親が何処にいるか。お前は俺の宝物だぞ」

と大きな声で言われると流れる涙を止めることが出来なかった。

父親も涙声になり、

「警察に行ったらどうだ。助けてくれないのか」

「助けてくれないと思う。だって掟を破って組織に逆らったんだから到底、許してもらえない。それは親父が一番良く知っているだろう。今まで何人も見て来ただろう。そんなことを」

「でも時代が変わったから」

「時代は変わっても組織は変わらない。仲間も何人か死んだ。身内には甘いね。鬼になれないか」

「馬鹿言うな。冗談言うな。もう一度、日本に行って日本人として静かに暮らしたらどうだ。偽造パスポートやビザ、日本の戸籍なら何とかなるかもしれない」

「ありがとう。考えてみる」

とは言ったが、生き延びることが難しいことはお互いに理解していた。それを踏まえて現実味の無い夢の会話だった。

「長い時間が掛かるかも知れないけど、時間が解決することもあるから」

「それも考えてみる」

と短く返すと、父は

「わし以外の身内、親しい者には決して連絡しないように、淑民にも絶対連絡しないように。必ずマークされているから。特に携帯は危険だから」

「分かった」

「安全のためもう家には電話も連絡もしないように」

「分った・・・」

と言うと「親に捨てられたと思って」涙声になってしまった。

「自分を大事にするんだぞ。決してお前を見捨てないから」

「ありがとう。これまで育ててくれて、親孝行も出来なくて」

「こちらこそ感謝の気持ちで一杯だ。お前に良く似た孫も見せてもらったし・・・」

それからも暫く雑談が続いたが、最後に、

「淑民と国邦のことをくれぐれも頼む」

と何回も何回も繰り返した。

父親とこんなに真剣に話したことはなかった。


父親と話して峰観は気持ちが安定し微かな希望を持ち、もう少し生きてみようかとも思った。しかし組織の手は確実に迫っていた。

何故、父親がこれだけ組織に拘るかというと、かって下部の最小単位の責任者であったことがあり組織には精通していた。心を鬼にして制裁を下したこともあった。


峰観は生きることを考えだすと急に街を歩くのが怖くなって部屋から出れなくなった。食べ物がなくなり仕方なく買い物に出ても周りが気になり落ち着かなく、無性に喉が渇き、精神が不安定になり大きな声を出したり、唾を道に吐くことが多くなった。

この症状は段々とエスカレートし、昨日からはエレベーターにも乗れなくなった。更に、気持ちが嵩じてホテルのスタッフともトラブルを起こしてホテルから追い出された。

力無く夜の街を歩く峰観の姿が有った。

勇次とホテルであった時に冷静に見えたのは一重に真理亜と子供への思いからだった。



そして、峰観の葬儀が終わり、今後の身の振り方を巡って真理亜、母、義父との会話が有った。

葬儀が一段落したのを受けて義父が真理亜と母を呼んで、

「淑民。今日はご苦労様でした。ところでこれからどうするんだ」

と聞かれて、

「お父様、こんなことになって本当に申し訳有りません。お許し下さい。私がいたらなくて」

「いいやお前の責任では無い。息子の峰観に才能と器量がなかったんだ。これも運命だったんだ。責任は全て俺にある」

と慰めた。


真理亜の母が、

「江 陽峰さん。娘はもう既に息子さんと離婚していますし、子供もいないことから日本で勉強を続けさせたいと考えています」

「わしもそれが良いと思う」

「孫の顔も見れたことだし。立派に育ててくださいね。そうか姉が育てていたね」

と言うと二人は驚いた顔になった。

義父は全てを知っていたのだ。

ここで母は、

「息子さんの霊を一年間守らせます」

と言うと義父は、

「そうしてくれると嬉しいですね。息子もそれで許してくれると思うな」

と言って複雑ながら満足の表情を示した。


最後に義父は【今回のことは残念なことだが峰観がしたことは許されないことなので、組織を恨むこと無く、部外者にも色々と情報を入れることなく、親族の中で耐えて悲しみを共有しよう】と、諭すように語ったのが印象的だった。


葬儀が終わっての帰り道、母が、

「お前、本当にこれからどうするの。あんな男に義理立てする必要はないんだから、直にでも三宅とかいう日本の男と結婚するんだろう」

と聞かれたが、答えなかった。


気持ち的には、二人のことが直接的な原因では無いが、元の夫が亡くなったのは事実で、このまま勇次との関係は続けるには抵抗も有ったが、別れるのも嫌だったので少し冷却期間を置き、お互いが成長するようにしようと思った。


こんなこともあって真理亜との再会は中々実現しなかった。そんな時に、名古屋で急遽、華僑関連の国際会議が開かれることになり沖縄県も参加することから勇次もサポートするようにとの指示が県庁から届いたのだった。

忙しい出国準備の合間を縫って、真理亜にメールで

【峰観のこと残念でした。今日から仕事で名古屋に行きます。また帰ってきたら話ししましょう!余り気を落さずに元気出して下さい。】

とメールを入れたが返事は無かった。

心配になって電話もしたが、それにも出なかった。


 峰観の死から2日後に早くも父親の陽峰は動いて、自分の車の中で、明華と話していた。

待ち合わせ場所を事前に決めておき、自ら運転する車で拾ったのは5分前だった。

話は、車を進めながら行った。

「呼び出してすまなかった。逢っているのが分かるとまずいかと思ってこの様にした」

と江陽峰が語りかけ、

「ご配慮ありがとうございます。助かります。それにしても本当に色々迷惑かけます。お気持ち落としのないようにご慈愛下さい。」

「ああ、それならいいんだ身から出た錆だからね。仕方のないことだ。出来の悪い息子を持つと苦労するけど、それが気持ちの支えだった。でも、あんたには迷惑かけて本当に申し訳ないと思っている」

「いい息子さんだと思いますけど」

「ありがとう。出来の悪い息子を持つと本当に大変なんだよ。因果なもんだよ。子供のないあんたには理解不能だろうね。」

「すみません人生経験がないもんで。それはそれとして私の力不足で本当に迷惑をおかけしました。色々恩が有るのに巧くお返しできなくて」

「それは言わずもがなだよ。私もその当たりは色々経験しているし、反対の立場に立ったこともあるんだから」

という会話になり、明華の小さな時のことから5年前に組織を引き継いだ頃の話まで昔話に花が咲いた。

陽峰が運転する白のベンツが福清市郊外に出て車の数が少なくなった時、速度を更に落とし低速車線に入った。

「明華さん。お願いがあるんだが」

「私に出来ることならなんでも」

「そう言ってくれるとありがたいんだが、一人の日本人を殺して欲しいんだ」

と言われた時、真理亜と付き合っている日本人かなと思い、その時は断わろうと思った。

「堀田なになにとかいうこの写真の男なんだが・・・」

といってインターネットから取り出したと思われる一枚の写真と簡単な経歴を書いたものを出した。

目を通してから、

「一体誰ですかこの人は、それに理由は・・・・」

とやや困惑したような声で明華が言った。

暫くして、

「こいつが峰観を地獄に導いた男だ」

と言って、経緯を述べた。話を聞いた明華は、この男が特に悪いことをしたとも組織に迷惑をかけたとも思われなかった。

答えに躊躇したが、それを見越したように、A4の袋に入った資料を渡した。権利書の類の束だった。

「それが今、俺が動かせる全財産だ。それと引き換えにその男を殺してくれ」

と意思を込めた大きな声で言い切った。

「この男と息子さんが何か?」

「そう、その男が息子を株取引きに引き込んで、人生を破滅させた。型をつけないと息子に申し開きが出来ない」

というので

「そこまで拘らなくても、大きな心の負債を背負われることになりますよ」

「良いんだそれでも。それを背負って息子に逢いたい。それが俺の贖罪だ」

と言って譲らなかった。何回かこの問答が繰り返されて、最後に

「わしがあんたに組織を譲ったことを忘れないで欲しい。あんたに取ってマイナスの資料も持っているんだぞ」

と開き直って言われてしまっては、もう逆らうことが出来なかった。

根負けした形で話を聞くことになった。

しかし、歯止めを忘れなかった。

「ただ、こんな重要なことは組織に相談しないと決定できないです」

と言うのが精一杯でそれを受けて、

「分かった。良い答えを待っているよ」

と返した。

それからは、普段どおりの穏やかな会話になって、明華が車を降りる時には、

「明華、今度は融橋大酒店で私の誕生会をしてくれよ、誕生日は10月8日だから」

と言ってそれとなく期限を切ると共に人の良いおじいさんと愛想が良くて面倒見の良い

おばさんになって、

「陽峰おじさん。その時は美味しい料理とお酒を一杯飲ませてくださいね」

と言って分かれた。


江陽峰と分かれた、明華の気持ちは重かった。どちらの裁定が下っても、今までの慣例からは完全に納得することが出来なかった。

果たして、1週間後に月に1回の「連絡会」という福建省の最高意思決定機関の開催があり、必至に頼み込んで議題の最後に、明華から陽峰に依頼された、堀田への対応が検討されることになった。

提案された時には、組織が関わる案件では無いという雰囲気だったが、財務担当の最高委員の一人が、

「その男は、組織に大損害を出させた男です。日本の沖縄県の事業で、出資者を募って金を集めて、途中で計画を中断し、組織に2億元の損害を与えた。日本の警察の捜査を受け、その関係で事業見直しを迫られたという不可抗力はあったにしてもこの男の責任は大きい」

「そうかこの男のためにボーナスが1回出なかったんだ」

と各々が雑談しだして会場が賑やかになった。

これを制して、議長が

「静かにしてください。この男と組織の関係は理解してもらったと思う。最高委員に採決を聞きます。」

と言うと、最高委員5名中3名から処罰が必要という意思表示があり、処分方法は責任議長に任されることになった。この会議で表決が分かれることは珍しかった。


会議の閉会後、明華は責任議長に呼ばれて、雑談後に、

「堀田を1ヶ月以内に処分するように。方法は任せる」

と短く言ってその場を離れた。

もしかして、表決が分かれた事もあって処分を延期すると言われると思ったのでやや意外な指示だった。

残された明華は、頭が混乱したなかで中々思考がまとまらなかった。それでも福州市西湖近辺の大企業の本社ビルからアポロホテルの前にある明華が経営する自動車販売店内にある事務所に帰る車の中で思案をめぐらし、事務所に着く手前で考えがまとまった。

そこで出した結論は、

実行者を指名し、日本の組織に連絡し手配を整えるということだった。後は結果を待つのみである。

2日後に陽峰に会議の結果を簡単に報告すると、満面の笑みで答えて強く明華の手を握って暫く離さなかった。

1週間後、組織にプレッシャーをかけるために陽峰は福清市内の自宅を出て、出身地である三山鎮の

田舎の一軒家に移って、全ての対外活動から身を引いていわゆる隠居のポーズを取った。


 もう明華はやるしかない状況に追い込まれた。堀田が殺害される3週間前に中国福建省の片田舎で、このような密談が行われていたのは驚きだった。が当然、当事者以外に事情を知るものはいなかった。それが、組織の組織たる所以である。


こんな話しが陰で進んでいたとは夢にも思っていない勇次は日本に帰国後、名古屋の華僑総会に参加し、その事後報告を終えて、やっと時間が出来たのは帰国後5日を経過していた。


福清から帰った、翌日には峰観から得た情報、即ち

「お父さんと言ってお互いに抱き合った。そして二人は別れて別々の方向に歩いていった」

という情報を日本の警察に入れたかったが、担当者が出張中なので3日後に来て欲しいという官僚的な答えが帰って来て、直ぐに面会が出来なかった。

約束の当日、兼ねての予定通り警察に出頭し、リトルワールドでの事件の経過を聞くとともに峰観からの情報を捜査担当者へ話した。


この情報を聞いた捜査担当者は驚き、再捜査を約束した。

警察からは特別な情報を提供してもらったお返しとして、公表していない情報を提供すると言われ、理香を刺して逃げたと思われる男には父親が居たが、10年前に発生した阪神淡路大災害で行方不明となりそのまま死亡宣告がなされていた事を教えられた。

またに驚くべきことに死んだ男には二箇所の刺し傷があり、1箇所は他人が、もう1箇所は自分で指した可能性が高いこと。

更に、この自分でさした傷が致命傷であることを告げた。2箇所の刺し傷のことは絶対に言わないように、これはマスコミにも秘密だからと言って公言することに釘を刺した。

警察は近日中にこの事実をマスコミに公表し犯人逮捕に全力を尽くすとのことだった。

この情報を聞いて、勇次はこの死んだ男は信一郎の父親で自殺した、と推測しやがて結論付けた。


警察署を出てからタクシーを拾って、いわゆる逃亡犯の信一郎の家を新聞情報から探し出して訪問し、やっと面談してくれた母親に、「死んだのは信一郎の父親で致命傷は信一郎が刺した傷ではない事を告げ、早く自首する事を勧めて欲しいと母親に要請した」この情報は警察からは口止めされていたが、犯人に自首を促すために敢えて母親に知らせた。

いつの間にか母の目には涙が溢れていた。

母親はきっと息子の居場所を知っていると推測しての行動だった。コンプライアンス上は問題も多いが、早期の事件解決のためにはこれしかないとの判断に基づく行動だった。警察もこれを期待していたのかもしれない。

母親から話を聞くと犯人の信一郎は父親になついていて父親ッ子だったが、父親が飲酒運転で交通事故を起こし、会社を退職しなくてはならない事態となり借金生活になった。そしてストレスから逃れるように浪費に走り、お決まりのサラ金、闇金融から借金して遊興費に使い、首が回らない状態になっていた時に大震災が発生し行方不明になった。とのことだった。


7)保険金詐欺


もう十数年前にもなるだろうか、信一郎の父親である下田 信次は、朝5時、得意先の靴屋に革製品を配達すべく工場の門が開くのを待っていた。

缶コーヒーを飲みながらラジオを聞いていた。


不意に手がふるえて缶コーヒーを落としてしまった。

最初、何が起こったか分からなかつた。次に車が大きく壁側に飛ばされた。

かろうじて車から抜け出して命からがら街を離れた。

すぐに火災が発生して全てが灰になった。

のちに言う阪神淡路大震災の発生だった。


信次は、咄嗟にこの機会を上手く利用することを思いついた。

上手く立ち回れば1950万円に膨れ上がった借金を清算出来て厳しい取り立てからも逃れられ、僅かではあるが2千万円の保険金も手に入れることが出来て人生をリセット出来る。幸か不幸か換金出来る資産も無く、夫婦関係も冷めていた。唯一、信一郎のことが心配だったが、何年か立てば再会できるとたかをくくっていた。

自分の死を偽装することに大きな罪悪感を感じなかった。


素早く、神戸を離れて大阪から、家に電話して妻に、

「和代か俺だ。いいか俺の言うことをよく聞け」

と言って、

次のようなことを言った。

【自分はこれから姿を隠すので、一年後に特別失踪人の申請をして保険金2千万円を受取るんだ。

そして、事前に自分の遺産相続を放棄しておくことを指示した。更に、全てが解決したら顔を出すから】

と言うようなことを言った。妻は夫の指示に従った。


死体が発見されない被保険者の保険金を受取るには、失踪宣言が必要となる。失踪宣告とは、不在者、生死不明の者すなわち死体が確認できていない者などを死亡したものとみなし、その者にかかわる法律関係をいったん確定させるための制度である。

失踪宣告には普通失踪と特別失踪の2種類があり、両者では失踪宣告に必要な失踪期間と失踪宣告により死亡したものとみなされる時期が異なる。


具体的には、

普通失踪 - 失踪期間は不在者の生死が明らかでなくなってから7年間。

特別失踪 - 失踪期間は危難が去ってから1年間。仙台高裁平成2年9月18日決定では、

   「それに遭遇すると人が死亡する蓋然性の高い事変を指し、火災・地震・暴風・山崩れ・

    雪崩・洪水等の一般的事変のほか、断崖からの転落、クマ等野獣による襲撃等個人的

    な遭難が含まれる」としている。


しかし失踪宣告を受けた者が生存していること、または失踪宣告による死亡時とは異なる時に死亡したこと、失踪期間の起算点以後のある時点で生存していたことが判明し、本人ないし利害関係人より請求があった場合、家庭裁判所は失踪宣告を取り消さなければならない。

色々難しい取り決めはあるが、失踪宣告がなされると、「死亡」とみなされるので、死亡保険金受取人は保険金を受取ることが出来る。


妻の和代は目の前に有る現実の生活苦からほぼ夫が言う通りに動いた。

即ち、まず田舎を出て大阪に行き、1年1か月後に、保険会社に特別失踪人届けを出し合わせて遺産相続を放棄した。

3ヶ月後には保険金を手に入れて中古マンションを購入し、残りは信一郎の学費になった。


この時の父親の指示と母の行動がなかったら多分、信一郎は大学に行けなかっただろう。


金と引き換えに家族の絆を絶ったのだった。重い決断だった。

信一郎が名古屋のリトルワールドで再開するまで、父のことは全く忘れて、思い出の中に生きることもなかった。勿論、逢いたいと思っても、音信が無かったので会うことは出来なかった。全く消し去っていた。


失踪後、信次は人の嫌がる、すなわち3Kの仕事に従事したが、体はきついが人付き合いは余りなく、自分のペースで機械的に仕事が出来で楽な面もあった。唯一実入りが良くないのが難点だった。時給600円で月収10万円での生活は厳しかったが、工面すればなんとか生活出来た。

この生活の中で、10年程前に身寄りのない男、飯田二郎と出会い愛隣地区の公園での青テントでの共同生活を経て、死に水を取った。お互いの孤独感を二人で共有したのだ。

飯田の青テントでの遺言。即ち、

「俺は天涯孤独だから、俺が死んだら、俺の持ち物を皆お前にやるから持っていけ。これからの生活に役に立つものも有ると思うから。おれは無縁仏になる。死ぬまで横にいて俺を見取ったら荷物を持って早く出て行け」

という言葉を実行して、以後の信次の生活を支えた。飯田次郎から託された荷物の中には、運転免許書と健康保険があった。これ以外のものは一斗缶で飯田の冥福を祈りながら焼いて、信次は飯田二郎に成り代った。飯田二郎が死亡した3日後に青テント村が放火によって全焼する火災があり、現場検証の過程で焼死体が大阪府の公園管理課の職員により発見、収容されて司法解剖を受けたが、事件性は無いと判断されて無縁仏として処理され58年の生涯を閉じた。後半の10数年間は全く孤独な生活で、地区内を転々と移動する青テント生活だった。


信次は飯田に成りすます時にそんなに巧く行くかという不安があったが、年格好と顔、容姿が似ていること更に交通事故歴、犯罪歴も無い事が幸いして運転免許の更新も健康保険の継続も戸籍謄本などの書類を揃えて提出することで難なく通過することが出来た。

余りにも巧く行くので自分自身が驚いてしまった。やはり制度、システムは人間がやることなので、不正を完全に防止するのは難しいことだと自身の保険金詐欺を含めて改めて思った。

飯田二郎になってからも生活は厳しかったが、運転免許証のお陰で新聞販売店の従業員になることが出来て少しは生活が安定した。


失踪途中での幸運も有って、いつしかこの生活が天国のように思えて信一郎の前に出る機会を失ってしまった。

それに反比例して信一郎の心の中に父親への複雑な気持ちが醸成され否定され忘れ去られた。


8)母の必至の説得


母は信一郎が大きな罪を背負っていると思っていた。


「信一郎、もう良いんじゃないかい。父ちゃんも成仏していると思うよ。刺したくて刺したんじゃないんだから。昨日、母ちゃんの枕元に立ってお前を楽にさせてやってくれって言っていた。」


とこれまでもう何回も繰り返された母親の説得が行われた。父親が自分で死を選んだことは、敢て言わなかった。

暫く沈黙の時間が有り、

「色々心配掛けてすみません。気持ちの整理も大分出来たのでもう出て行こうと思っとる」

「そうだよ逃げても逃げ切れるもんではないんだよ。どこかでけりを付けないと何の解決にもならないんだよ」

とこれまでと同じことを言ったが、今日はこれまでと違う感触を持った。

と言うのは最後まで自分の話しを聞いたからだ。

微かな手応えが有った。

信一郎にも遍路を続ける中で色んな出逢いが有り、更に時間の経過が気持ちをほぐしていった。

「もう少し最後までは行きたいと思っとる。そしたら母ちゃんの望む結果が出ると思う」

と言われると言いたいことは色々あったが、これ以上言うと逆効果になると思って言葉を控えた。息子の声の張り、抑揚を聞いて母親の予感は確信に変わった。


母親が感じた通り、信一郎の心はおだやかだった。

更に、

「無理はしないようにするんだよ。それに飲み過ぎないようにね」

と言うと反発することなく、素直に

「分かった。今日は本当にありがとう」

と明るい声で言った。

信一郎と話した後、母親は1日も早く息子が警察に出頭して自首するようにと、近くの神社でお百度を踏んで祈願した。これまでと違って目には覚悟の涙が有った。

勇次の訪問後、母親は再度警察からリトルワールドで死んだ男の事を聞かれ、今度は素直に死んでいた男は、夫であり信一郎の父親である下田信次であることを認めた。


ところで堀田殺しについて、警察は当初、下田信一郎の犯罪と思っていたが、捜査を進める中で、堀田に殺人を行う可能のある人間として、裏世界の人間、鋭く叱責されて人格を否定された部下、会社資産を横領していた共同経営者、新しい彼女が出来て捨てられた3年間付き合った彼女などがいたが、刃物を使ってためらうことなく一突きにしていることからプロによる犯行との見方が強かったが、確固たる決め手となる証拠が無く難航した。

当初、想定した犯人像では説明出来なかったが、上意下達の官僚組織では考え方の変更は容易ではなかった。

プロによる犯行と思われる場合には、犯人が所属すると思われる組織を経済的に封鎖する。即ち、縄張りへのゾーン監視、幹部への24時間マンツーマン監視、関係風俗店、舎弟企業へのガザ入れなど行い経済活動を阻害する。

そして経済的に追い詰められた闇組織は、交渉人を出し警察と相談して犯人を自首させるという構図があった。最近、この構図が崩れているとはいえ、まだ有力で有効な手法だった。警察はこの日のために日頃から組織の弱点、センターピンを探っておくのである。


果たして、警察による締め付けが2週間を経過した時、組織からの接触が有った。

裏世界の交渉人が言うには、

「今回の殺人は自分の組織とは違う組織がやったが、警察の締め付けで経済活動が出来なくて困っている。こちらの情報では、今回の山は神戸山田組と中国が組んだ犯罪で、実行犯は中国福清の福建マフィアの一員でもう中国に帰国した」

と言った。

更に、

「自分の組織ではないが経済的に困窮しているので、同業者の好で損して得取れの商法である」

と言い、もっと真面目に捜査して欲しいと泣きを入れた。


それはそれとして交渉人曰わく、【身代わりの犯人を出させるので、締め付けを止めて欲しい】と言った。

出頭した人間が真犯人となるために捜査資料を回して欲しいとも言った。

警察側の交渉人は捜査資料の提供は難しいが、概要は教えることを約束し、しつかり練習してから出頭させるようにと言って別れた。2日後に事件の概要を、特に犯人しか知らない点を中心に口頭で説明した。

5日間後に犯人が殺害当日着ていた血の付いた服を持って出頭した。日本の組織は、この日を予測して保管して置いたのだった。ただし、身代わりの犯人が出頭前に服を手洗いし、そこに中国製の血の付いた服をいれて血を付着させ、乾燥後に二日間着込んだ。勿論、本物の中国製服は証拠隠滅のため焼却した。

ヤクザ組織間のやり取りは、大阪駅前の不動産取引の利権と引き換えで手を打った。しかし、肝心の“犯人”は事前にあれほど言っておいたにも拘らず出頭したのは、頼りない男で捜査本部は対応に苦慮したが、堀田の血が付いた決定的な証拠を持っていることと、犯人しか知らない現場の状況を断片的では有るが、知っていることが決め手となり首尾よく犯人と断定された。だだし、誰から依頼されたかという点については黙秘を貫き解明されず、汗も出さずに金を稼ぎ女と遊ぶ男に対する犯人の義憤が動機ということになったが、額面通り信じる人は少なかった。

 出頭者は首尾よく最低限の役割を果たした。 


 今回出頭した犯人は、20年は刑務所に居ることになり人生の良い時を失うことになる。そう考えると実社会で活躍できる人間が犯人の身代わりにならないことは容易に類推出来た。堀田殺しの“真犯人”が見つかったことは信一郎にはプラスとなったことは勿論である。


信一郎は母親と話してから一週間歩いて、堀田が殺害された寺の近くまで来た所で遍路を中断して近所の交番に出頭して、逃亡劇に自ら幕を引き新しい世界、即ち将来性のある実世界に踏み出した。

最終的に決断を促した言葉は、若い住職に言われた、

「実の如く自身を知る」

という教えだった。この意味は、【自分を良く見せようと思って行動しても、世間の人は全てを知っているよ】ということで、転じて、【自分を飾らず、ありのままの姿で素直に生きなさい】という諭しである。


勇次が母親に警察情報を一部リークした10日後に犯人の信一郎は自首して警察に逮捕されたことになる。

母親からの電話で、「これで安心して次の日を迎えることが出来る。今日、一日やることがあるという心の張りが出来て、一歩づつ前に向かっているという気持ちを持つことが出来るようになった」と母に語ったという話を聞いて、信一郎の背負っていたものの大きさと苦労を思うと胸が一杯になって涙が出た。

弘法大師との出会いと帰依が信一郎を新しい世界に導いたのだった。


9)リトルワールド内での父子の会話


ところで自首した息子 信一郎の証言に寄れば、

茂みの中に走りこんだ自分の後を追うように一人の男が追いかけて来た。信一郎は追ってきた初老の男と絡み合い男を振り払うように身体を捻った時に、手に持ったナイフが初老の男の腹部に吸い込まれた。男は小さく悲鳴をあげてから倒れこみ、血が滴り落ちた。

血を見て信一郎は狼狽して後ずさりした。

その時、刺された男が、

「信一郎、俺だ。俺がわからないのかお前のお前の親父だ」

と言われて、信一郎は戸惑って、足が止まった。誰が言うともなく二人は歩み寄り互いの顔を見た。自分がイメージし追い求めた顔とは変わっていたので、暫し狼狽し躊躇したが低いがはっきり聞える声で、

「本当に親父だ。親父なんだ。どうしたんだ。なんでこんなとこで!」

と聞くと父親は答えず

「・・・・・」

無言で、更に信一郎が叫んだ、

「何でなんだ。もう10何年も前に死んだはずじゃなかったのか?どうしてたんだよ今まで・・・今ごろ現われるなよ。残酷だろう・・・・・」

と言うと絶句した。

信一郎に変わって、父親が、

「すまん。本当にすまん。色々あってお前の前に出る事が出来なかったんだ。許してくれとは言わんし言えんが、ちょっとだけでも時間を取って聞いてくれ」

「何言ってんだ、何を言ってんだ!今頃なに言ってんだよ、お前のお陰で母さんがどれだけ苦労したか知ってんのか?故郷も親戚もみんな捨てなくてはならなかったんだよ。本当に・・・・天涯孤独になったんだよ。」

「・・・・・・」

「何とか言えよ!生きていたらもっと早く出て来いよ」

と此処まで言うともう涙声になっていた。

信一郎も父が出てこれない理由はそれとはなく知ってしたが、敢て言わずにはおれなかった。父親はこの詰問に適切に答えることが出来なかった。

暫く沈黙が二人を支配した。


そして父親の、

「信一郎、もうちょっとこっちに来い」

と絞り出すようにして発せられた声に促されて歩み寄って抱き合った。この抱擁によってこれまで積もり積もった恨みが少しは氷解した。

沈黙を破る様に、

「信一郎お前は、このまま真っ直ぐに走って塀を乗り越えたら道があるから、それを歩いて道路に出てそこら1時間歩いて街に出るんだ。わかるか?」

と聞くと小さく頷いた。が信一郎は素早く進むことが出来なった。

「さあ早く行くんだ。早く・・早く・」

と言われても動くことが出来ず、

「一緒に行こう。その傷では心配だけど・・・」

「バカ、これは浅い。大丈夫だ早く行け。お前を犯罪者にしたくない。分かったか?分かったら早く行け早く」

と最後は恫喝するように言った。

この恫喝に促されるように信一郎は覚悟を決めたのか、自分の親に頭を深々と下げてから走り出した。

それを見て父親は右側にゆっくりと歩き出した。同じくして雨が激しく降ってきた。寒かった。それに耐えて右側によたよたと歩いた。

ところで、この時、二人の男、即ち親子の様子を遠めに見ている男が居た。真理亜と一緒に居た男で頭が真っ白になって考えがまとまらず呆然と立っていた。

 この男は発見されることを恐れて動けなかった。

更に雨が激しく降ってきた。

 信一郎と別れた父親の信次は寒さで薄れていく意識のなかで、思考が錯綜し自分で腹を刺して死ねば息子の罪も自分が背負えて、罪を問われないと考え、ナイフを握り上から下に思い切り腹を刺した。更にこれで過去の保険金詐欺も清算出来て家族も守れると。

冷静に考えれば考えられない行動だったが、ここ数ヶ月息子の事を思い、軽いうつ状態に陥っていた事を考えれば仕方が無い面もあった。

暫くして我に帰った男すなわち峰観は、信次が死んでいるのを発見し、目を見開いて睨みつけている姿を見て怖ろしくなってその場を足早に離れた。


当時、現場では理香が男にナイフで刺されてから30分後に警察が来て、事情聴取が始まり、それと平行して現場検証が行われたが、激しい雨で有力な証拠は見つからなかった。と言うより小さな傷害事件に資源を裂くことは出来なかった。捜査は1時間で打ち切られたが、深夜、通報があり再捜査が行われ死体が発見された。

通報は犬山駅前の交番にたどたどしい片言の日本語、即ち、

「死体、・・・・・リトルワールド・・・・、死体、・・・死んでいる・・・死体、・・・・・リトルワールド・・・・、死体、・・・死んでいる・・・」

という内容で行われたという情報が、後の捜査を混乱させた。信次の死体を見つけた峰観は、自分が死んだ時に見捨てられる姿を想い重ねて、何回も自問自答を繰り返したが、敢て危険を冒して警察に通報したのだ。最後は目を見開いて睨みつける死体に負けた。

そして翌日、新聞の片隅にはリトルワールドで傷害と殺害事件が発生し、犯人が逃げていることだけが伝えられることになったのだった。



これで事件も解決したので、帰国する2日前に理香の家を訪ねた。勇次の勝手な考えだが、過去の出来事にけじめを付けたかった。あれから1年以上が経過していたので、もちろん傷もすっかり癒えていて明るい表情で応対した。

「元気そうやね」

「ええ陰様で、超元気にしています」

「変な言い方だけど最近、連絡無いけど。どうしたの」

「ええ、お忙しいようなので連絡しない方がいいかなと思って。それにもう付き合ってもいないし。友達でもないし。当たり前でしょう。違いますか・・・」

「それもそうだけど。メール位はあってもと・・・」

「それって変でしょう・・・超変・・」

というよそよそしい会話から始まった。がどうも会話が噛み合わない。もちろん真理亜の事を知っているからだ。

ここで理香が切り出した。

「勇次さん、私たちこれまでの関係もう完全に清算しません。過去にしません」

「なんで。分らないこともないけど友達だから」

「友達は嫌だね。もう過去にして合わない方が、その方がお互いにいいかなと思って」

「誰かいい人でも出来たんでしょう?」

「そんなところですかね。あなたは・・」

「すまん。理香にそこまで思わせてしまって、本当に申し訳ない」

「いいんです。勇次さんも新しい恋に頑張ってくださいね」

「すまん本当にスマン本当にスマン。理香さんこそ幸せになって下さい。引き止めてくれないんですね」

「何で、その方がお互いのプラスになると思って。お互いに引っ張るのは良くないと思って。いい思い出を本当にありがとうね。感謝しています」

「俺こそありがとう・・・」

という会話になり、あっけなく二人の円満な別れが決まった。


この日、理香は勇次には新しい恋が始まったと、言ったがそれは嘘で、勇次が他の恋に興味を持って完全に軸足を移したことを鋭く察知しての言動だった。


5.別れと出発の時


日本の恋を完全に清算した勇次は、直ぐにでも中国に帰って真理亜にプロポーズして両親にも正式に挨拶をしたいと思っていたが、仕事が錯綜して自分の意思で動けない状態になっていた。名古屋で公私とも忙しくしている時に、真理亜から勇次に電話が有った。

真理亜が、

「勇次、お父さんが死んだ」

とぶっきらぼうに言った。

勇次は、

「本当に・・・」

と絶句し、それから二人の会話が始まった。真理亜が言うには、父親は3日前に自宅で亡くなったという。


真理亜の息子、国邦の父であり元夫だった峰観の死から暫くして、真理亜の父も亡くなったのだ。真理亜は亡父に親孝行できずに悔やむこと仕切りだった。自分の再婚を見せる事無く亡くなった父の人生が、哀れに思えてならなかった。

父が亡くなった時、家族のために働き、愛情を注いでくれた父に、なぜもっと孝行してあげなかったのかと悔やんだ。父には真理亜が幸せな家庭を築くところを見て欲しかった。と思った。


 本当は、勇次に直ぐにでも父の死を知らせて悩みを相談したかったが、何故か出来なかった。気持ちが落ち着いて暫くしてから勇次に電話して、自分の気持ちを語ったのだった。

「あなたは心の優しい人ですね。お父さんの人生を振り返りながら親孝行できなかった自分を責めているんですね。私に真理亜の純粋な気持ちを伝えた事によってもう十分親孝行していると思うけど。考え過ぎないように。約束通り一緒に歩んで行こうね。約束だから」

と勇次が言うと、

「ありがとう本当に貴方は優しいのね」

「目にみえなくても、大事な人の精神は受け継がれるよ。お父さんが生前、真理亜にたくさんの愛情を注いでくれたから、真理亜は人の気持ちがわかる優しい人になったと思う。そしてこれからもこの優しさで人に接して欲しいな。それはお父さんが最も望んでいたことだと思うけど。」

と言った。

この話を聞いて、勇次の胸の中に倒れ込んで泣きじゃくりたかったが、それは出来ない相談だった。


「勇次、私を大事にしてね。これからも一緒に人生楽しく生きて行こうね」

と言うと更に強く抱きしめて欲しいという思いが高まった。

「僕も、おばあちゃん子だったんで、祖母が亡くなった時、真理亜と同じように涙が止らなかた。祖母がいなくなったという悲しみと、祖母にひどいことを言ったままだった自分を悔やんだものだった。でも、時間と共に私の心の中で祖母が生きていることがわかったんだ。気がつくと一緒に笑い、一緒に考えてくれているんです」

「そうね勇次と話して少し気持ちが楽になった。時を待つ事にする」

と言っていつもの明るく快活な真理亜に戻って、電話の向こうに真理亜の笑顔がイメージ出来た。


 そして、

「当面はお父さんの写真の前に座って、今日はどんな一日だったかをお父さんに報告したら」

と告げた。

「お父さんは、ちゃんと答えてくれるだろうか。」

「答えてくれると思うよ。お父さんに恥じない生き方こそ、それが貴方の最高の親孝行ですよ。」

と言うと、もうすっかりいつもの真理亜に戻っていた。


こんなことも有ったが、峰観と父親の死の影響が大きく結局、会う事は無く勇次と真理亜は別れと言うか暫くの冷却期間を置くことになる。峰観のことについて本当はもっと聞いて欲しい事も有ったが自己規制した。

これを最後に真理亜からの連絡は途絶え、中国に戻った勇次が連絡しても返事は無かった。


理由を見出せない真理亜との突然の別れもありフィールドワークの意欲が急速に衰えていくのが自分でも分かったが、ここで活動していれば、また真理亜に逢えると考え、気を取り治して調査に乗り出した。

街には綺麗に着飾った娘たちがオートバイの後ろに乗って元気良く街を走り回っていた。

その姿が、真理亜と重なって胸がジーンとして流れ出す涙を抑えることが出来ない時も有った。


連絡が途絶えた時、勇次は狼狽したが、意地もあり迅速に動く事が出来なかった。変な意地を張ったことを後悔した。直ぐにでも逢っていれば良かったと思った。

真理亜も勇次と逢わない事は本位ではなかったが、一種のモラトリアム状態になり自分から前に出る事が出来なかった。少し時間が経ち冷静になった時に自分の取った行動を後悔した。


時が経過し最近、勇次は自分の肌に福州の風を心地良く感じることが多くなった。福州は明朝の頃、鄭和艦隊がインド洋を越え、アラビアから東アフリカまで遠洋航海をしたが、その出航の地だ。当時から福建は海外進出の窓口で、福建本貫すなわち本籍が福建の華僑は現在も世界に分布している。


福州は日本との関係も深い、空海の乗った遣唐使船は、暴風雨により福建霞浦に流された。その後、一行はこの福州に入り、ここから遥か長安に向けて出発したことが「中国の大航海者 鄭和」(清水新書)に記述されている。

琉球王朝は、この地に琉球館という宿泊施設を有し、朝貢使節の往来のたびに逗留している。現在では沖縄県の福建事務所がこの地に置かれている。元朝の頃の泉州(福建)は国際港で、イスラム世界の人たちも常住していた。その盛況ぶりはマルコポーロの「東方見聞録」にも記載されている。

そんな歴史のある町に吹く生暖かい風、南方の雰囲気が勇次はたまらなく好きになった。


福建人は海外移住者が一族縁者に必ずいるのが普通という環境なので、中国の他地域の人たちと比べると、明らかに違った海外感を持ち、できれば海外で一旗挙げたい、といった山っ気も持っている。

成功者は莫大な資金を故郷に投じ、学校や病院などの建設資金を寄付し、地元に貢献する。

失敗者は闇の世界に身を落とし、違法行為を続けて当該国官憲に逮捕され犯罪者となる。その中間の人たち、もっとも多くの人間は堅実にその国に根を張って生きている。


日本における「蛇頭」「密入国」「不法滞在者」「偽装結婚」「風俗営業摘発者」といった関連記事の中には相当数の福建人がいるのも現実だ。むしろ、今の日本人に不足しているある種、進取・改革の気風に富んだ気質と賞賛すべきかも知れない。物事は純粋に一方だけを見ることはできない、清濁併せ飲んでその上で判断すべきだ。

福建は色んな匂いのする街だ。勇次はそれを良しとしたいと思っている。


 南からの風が弱まり朝夕にはジャンパーが必要となった頃、勇次は思い切って真理亜の実家を訪問した。連絡が途絶えて2ヶ月が過ぎていた。

対応した母親は、

「勇次さん久しぶりだね。ご存知有りませんか、娘は東京に出て行きましたよ。勇次さんとはもう逢わない。ありがとうございました。研究の成功を願っています。とのことでしたよ」

と親しみを殺して機械的に低い声で言って、

「詳しい事は此処に書かれていますので後で読んでください」

と言って封筒に入った紙切れを差し出して、勇次に渡そうとしたが手が伸びなかった。

「お父さんの仏壇を拝ませて頂けません」

と聞くと、

「日本みたいな仏壇は無いんだよ、それに共同墓地に埋葬したんだ。家には写真だけが置いてある」

と言って2階のお父さんが生活していた部屋に案内した。

机の上にB4サイズの大きなカラー写真が飾られていたので、勇次はそれに手を合わせて冥福を祈った。

暫く、お父さんの話題で話しが盛り上がった。

最初の冷たい態度は消えて少しは打ち解けてきた。


「死ぬ前にはね淑民もいい婿を貰ってこれで本当に幸せになれるって喜んでいましたよ」

という母親の言葉がせめてもの救いだった。

話はそれ以上に進まず、母親の手料理を食べて足早にお暇した。それ以上は此処に居れない雰囲気だった。


1) 真理亜の気持ち


時間の経つのは早いもので、真理亜との別れから1年以上の月日が流れた。その間に日本では、日航が会社更生法の適用を申請し過去最大の破綻となり、トヨタ車が大規模リコールされ、朝青龍が泥酔暴行問題で現役を引退した。

また中国の毒ギョーザ事件で元従業員が逮捕され、スカイツリーが高さ世界一にもなった。小惑星探査機「はやぶさ」が帰還し日本の技術の高さを証明し、敬老大国の日本では所在不明の「100歳以上」が相次いた。

世界的には、ロシアのメドベージェフ大統領が北方領土を電撃訪問。尖閣衝突ビデオが衆院で部分公開された。尖閣列島事件の余波で、中国で拘束されていたフジタの社員3人が帰国した。

この間も勇次と真理亜を巡る世界は確実に動いていた。


 勇次は、真理亜と何故か意味が分からずに逢わなくなってから意識的に高山を避けて適当に仕事をこなしていたが、大学の先輩からの、

「三宅、お前何を甘えているんだ。見損なったぞ」

と言う声や、

「勇次、最近のお前は輝きを失ってるよ。だらだらしているんだったら日本に帰って来て、田舎で一緒に暮らそう」

とまで母親に言われてしまった。門外漢の母親にもズバット言われる位にだらけた生活をしていたのだった。


 そんな時、福清市内であった日本人会の集まりに参加し、話の弾みで高山鎮にある教会の余興で行われる上海雑技団の公演を見に行く事になった。最近親しくしている日本からの女子留学生、高城百合を連れての参加だった。公演に堪能し、その後の食事会でビールを飲んでアルコールが回るにつれて無性に真理亜に逢いたくなって来た。

 座を離れて、無意識にふらふらと真理亜の家に向かっていた。

さすがに、真理亜の家のブザーを押すのは躊躇した。誰か、きっと真理亜の精霊が指を押してくれたのだろう。

すぐに母親が出て来て、

「ヤッパリあんただ、ベルの押し方で分かるんだ。最初小さく鳴らして最後は異常に強く押すんだ」

とまで分析されてしまった。


「飲んでいるんだね。それなら一緒に飲もうか」

と言ってビールを持ってきてグラスに注いだ。

「久しぶりだね。仕事は順調かね。元気にしてたの新しい彼女出来たか」

と聞くので、

「ええ綺麗な彼女出来ました。今日も一緒に高山の教会に来てて、ちょっとお母さんに報告しようと思ってここに来ました」

と強がりを言うと

「それはよかったね。私も嬉しいよ、今から連れておいで。歓迎するよ」

と言われて、立って探しに行くような素振りを見せたが、それは虚勢で振り返った時は目には涙が一杯溜まっていた。

「お母さん、やっぱり真理亜に逢いたい。逢いたいんです」

と涙ながらに訴えた。

「男が女の前で泣くなんて恥かしいね」

と言いながら部屋を出て手紙を持って帰って来た。


「これでも読んで気持ちを落ち着けたら。私は席を外そうか?」

と言ったが、それには答えず今日は手紙に目を通した。

手紙には、

<勇次さん真理亜です。突然居なくなって驚いた。真理亜はあなたに合うと泣きだしでしまい、自分の思っていることが言えないので紙に書きます。あなたには全てを包み込んで許してしまう不思議な魅力があります。

あなたが笑った時に出来る左の笑窪は人柄を表し、私を始め多くの人を魅了します。話し声は自然に耳を通して心に響きます。そして、いま言える事は言葉で表現出来ない程に貴方が好きということです。愛しています。心の底から深く深くもっと深く。

あなたからメールが来ない日は、気持ちが沈んで黄河のように濁っています。

あなたからのメールを知らせるチャイムや電話を知らせるウエディングベルがかかった時は、もう天国で心の中に太陽が昇ります。

あなたにはこんな気持ちきっと分からないでしょうネ!


そんな気持ちを抑えてあなたに甘え、かってなことばかりする真理亜ですが頑張って来ました。ただそれが若い命を犠牲にすることになったことに、自分の罪深さを恥じています。

本当は小心者で怖がり屋なのに勇次の前では強く見せていた真理亜。理香さんのように優しい女なんです。

理香さんからは言わないでと言われていますが、公平のために言います。理香さんは大学に私を訪ねて来られました。それ以前にも私の事は知っていました。あなたが間違って私宛のメールを理香さんに送ったみたいで、それを見て気持ちが昂ぶってたまらず、探しながら私を訪ねて来られました。その行動力にはさすがに私もかないません。メールには注意してね!


でもこの訪問は私の気持ちをストレートに理香さんに伝えることが出来て良かったです。

理香さんには、真理亜が勇次さんのことが好きなこと。信頼していること。愛しあつたことを素直に話しました。

そして、あなたを失いたくないことも。

理香さんはさすがに大人で私の話しを聞いて、

「勇次さんをよろしくお願いします。貴方には私にないものが沢山あることを知りました。末永く幸せになって下さいネ」

と言って帰って行きました。

背中には何か吹っ切れたものがありました。

真理亜は大きな声で、

「まだあなたにもチャンスが有るよ」

と言いましたが、振り返り大きく頷いて笑いながら、

「もうあなたにお任せします」

と言って後ろも見ずに帰って行った。理香さんは泣けて涙が止まらなかったみたいです。真理亜は責任を感じました。


でも真理亜があなたの本当の恋人になるにはまだまだ時間が必要です。時間を下さい!

私が会社員になり、あなたが石竹山の石橋が渡れるようになって、その時にお互いの気持ちが変わっていなかったら2年後の2011年、私の誕生日である8月8日午前8時に石竹山の石橋の前で大人の男と女として会いましょう。

最後にあなたの研究と論文の成功を願っています。>


という長い手紙を読んでいる間、勇次は涙が次から次へと流れ出て来て、手紙の上にぼとばと落ちた。母を気にせず泣いた。それでも手紙を読み終える時には気持ちも収まって冷静に自分を見れるようになっていたが、涙を止めるにはきっかけが必要だった。


ようやく母親に促されて泣くのを止めて食卓につき暫くすると、具の入っていない鳥のスープが運ばれて来て、それから料理が続き、最後は鯛のあんかけで食事は終わった。

この時、また勇次の目には涙が溜まって来て、自分の気持ちを巧くコントロール出来なくなった。その心を察した母親も勇次には何も言わずに密かに泣いていた。

お互いに言葉はなくてもお互いの気持ちは分かっていた。

長い沈黙の後に二人は別れた。


これが真理亜との、永遠の別れではなく当面の別れになると信じて・・・・。

母親は真理亜が、名古屋にいることを伝えたいと思ったが、娘との約束から言えなかった。でもいつか娘の良い人として迎えることが、出来ることを信じて敢えて今日は、これ以上迫らないようにした。

真理亜は大学で学びながら、夜の店で働き卒業後は旅行会社への就職を目指していた。無事、就職が決まれば勇次に胸を張って逢えると信じて疑わなかった。性急に見返りを求めず誠意を尽くしながら、程ほどの幸せに感謝することが、これからの幸せを確かにする道と思い待つことにした。



2)勇次の旅立ち


こんなこともあったが勇次は、真理亜と2年間逢わなかった事を後悔していた。意地をはって格好よく真理亜を待ったのが間違いだった。子供との別れ、元の夫の死、そして父親の死、多くの心労が重なって、これでもかこれでもかと言うように真理亜にストレスが掛かった。

2年間を有効に使ってお互い成長しようという発想は悪くなかったが結果が最悪だった。


けじめをつけるため、沖縄の大学の教員になる話を断り、真理亜との思い出の地、福州で更に2年間研究活動を行うことを決心した。

この決心を促したんのは、以前に二人で海口鎮に行った帰りに、真理亜が、

「あの石なに・・・・」

というので良く見ると「石巌當」と読めた。沖縄にしかないと思っていたので衝撃だった。少し行くと、今度は、

「あれは・・・・」

と指差した。

そこには「南無阿弥陀仏・・・」の文字があった。

更に勇次に衝撃が走った。

暫く、無口でいたら真理亜が、

「どうしたの・・・・」

というので、

「あの二つの石が気になって」

と言うと茶化すように、

「また、あの石が出て来た。続いているようだね」

と言ったので、ここでいつかはこれを調査してみたいと思ったが、その時は真理亜には口に出して言わなかったが、それを見越したように、

「これ研究してみたら。“福清海口鎮と沖縄の関係を石巌當と南無阿弥陀仏の石碑から探る”てどう」

と勇次の心を読まれてしまったことがあった。


決心が固まると直に、高山鎮の真理亜の実家を訪問して母親に、

「お母さん2年間福州で研究生活を継続することにしました」

と報告すると、

「そうかね、それは良かった頑張ってください」

と静かに言って台所に立った。勇次は肩透かしを食らった思いだった。

食堂の窓から見る空は、勇次の気持ちを映したかのように、どんよりしておらず不思議に青かったが、気持ちは曇っていて先が見えない霧中の中でもがいている自分がいた。


勇次は自分の気持ちのあり方が定まらない中で、自分の意思とは無関係に動いているようだった。それでも真里亜の遺影への報告を終えてから、飛行機で上海経由で那覇空港に向かった。

偶然にも飛行機の中で読んだ雑誌の記事に、信一郎とも親交があった堀田健一(通称ホリケン)殺害犯人について身代わり疑惑が有ると報じられていた。若手の弁護士が独自に調査し、服役囚にはアリバイが有り、自供も揺れていると結論付けていた。


飛行機を降りたその足で沖縄県庁に出向き、上司に今後の身の振り方を相談し、あと2年間は福州で研究を続けたいと言うと大学からの誘いが有ることを知っていた上司は、最初は思い直すように説得したが、勇次の意志が固いのをみて最後は納得して応援すると言ってくれた。

2日後、勇次は鹿児島から大阪に向かう新幹線の中にいた。大学への就職を斡旋してくれた鹿児島大学にいる先輩にお詫びと理由を説明して、真里亜にストーカーをして誤って理香を刺し、その弾みでこころならずも父親を傷つけてしまった信一郎が、大阪刑務所にいることを聞いて会いに行くためだった。


勇次の訪問を知ると、信一郎は明るい顔をして快活に話したが、真里亜が亡くなったことを告げると涙目になり嗚咽した。勇次はこのことは是非とも信一郎に伝えなくてはいけないと思った。真理亜が信一郎を犯罪者にしたと言えなくも無かったからだ。きっと真理亜も勇次のこの行為を望んでいると思った。

涙声で勇次が、

「真理亜の浅はかな行動をどうか許してやって下さい」

というと二人とも涙を止める事が出来なくなった。

更に、ホリケン殺害犯人について身代わり説が有ると告げると、最初は驚いたが、

「そんなことが世間であるんですか・・・ホリケンさん成仏出来ずに可愛そうだね」

と言って、また涙を流した。


しかし、暫くすると冷静になり、般若心経をあげてくれた。勇次は頭を下げて静かに聞いた。

別れの時は、心の重石が取れたのかいたって晴れやかだった。

懲役3年の実刑判決を受けたが、控訴せず刑に服して父の霊を弔うと言った。

勇次は、信一郎が長い暗闇から抜け出して新しい道を見つけたことに安心し、改めて弘法大師の偉大さを知った。

帰り際に勇次の論文を渡すと、

「貴方と真理亜さんの愛の結晶ですよね。ゆっくり読ませて頂きます」

と言って、柔らかい笑顔が返って来た。

この言葉を聞いて心が暖かくなった。この勢いで名古屋に向かった。

名古屋では、一番の親友と痛飲し、自分の今の気持ちを吐露して思いを吐き出した。自分の心を何も言わず素直に損得無しに受け入れてくれる友人の存在がありがたかった。


ひとしきり話すと気持ちも落ち着き、礼を言って別れて、酔いに任せて金山の繁華街を歩いた。

自然に真里亜が働いていた店や一緒に行った店を回っていた。

こうしていると、いつか真里亜に会えそうな気がした。あの角を回れば真里亜に会えそうな気がして、次から次へと街を歩いた。歩き疲れて公園のベンチで仮眠した。

夢うつつの中で真里亜が現れ、

【私は高山にいまでも居るよ。早くおいで、一緒に遊ぼう……】

と言っているように思えた。

結局、この日はサウナに泊まった。


久しぶりに深い眠りに就くことが出来た。

朝、10時まで熟睡し好物のきしめんをセルフサービス店で食べ、真里亜の母親にカルティエの時計を買いに名鉄デパートに入り、エスカレーターを上がっていくと理香によく似た女性が降りてくるのが目に入った。

理香は手を組む隣の男性に、勇次には見せたことのない柔らかい笑顔を見せている。時代が変わったと思った。

すれ違った時に理香も気付いたようで小さく会釈して、勇次にはわざとらしく男にしなだれたように思えた。不遜にも嫉妬心が沸いた。

暫くして振り返ると、理香が左手を背中で裏返してダイヤと思われる指輪を見せた。

そこから発せられる光が勇次の心臓を射抜いたようで、胸苦しさを感じた。


無性に早く、福州に帰りたくなり、時計を買うとホテルに帰って素早く身支度を整え、2階に今でも蚕飼育の痕跡が残る飛騨の実家にも帰ることなく関空に向かった。里帰りを心待ちにしていた母親を裏切る親不孝、この上ない出来の悪い息子の行動だった。



3)縺れる糸


過去を捨て、新しく生まれ変わった自分を信じて、高速バスで関空に急いでいると携帯電話にメールの着信が有って、過去に引張り込まれた。

【以前、飛行機で一緒になった李 邦憲です。覚えておられますか。私は今から、日本での堀田健一殺害の実行犯として警察に出頭します。組織内のイザコザが有って私が自首することになりました。あなたの優しさを信じてお知らせします】

と有った。

 勇次は何が起こっているのか理解出来なかったので、電話を入れた。予想に反して李 邦憲本人が出た。話の概要は、勇次が始めて中国に来た時、李が空港で麻薬密輸の疑いを掛けられ、空港職員に5万元の賄賂を渡しうやむやにしてもらった。

その金は蛇頭から借金したが、それが返せなかったので、蛇頭の指示で借金の棒引きと引き換えに殺人事件を起こしたとのこと。殺害後、中国に逃げたが、そこで組織と揉めて自分の命を守るために日本に来た。警察に自首して刑務所に入って守ってもらうのが良いと考えた。

と喋った。それ以上は幾ら聞いても喋らなかった。


埒が空かないので、

「今どこにいるの」

と聞くと、関西空港に居ると言うので、

「分った、今からそっちに向かう。今日の5時に関空のホテル日航のロビーで逢おう」

と言った。


空港に向かう勇次は、始めて中国に来た時のことを必至に思い出していた。李とは飛行機の中で知り合った。世間話から、

「漁業関係の方」

「いや公務員」

「仕事で・・・・」

「ええ沖縄県の職員で福州に行く」

と言ってから俄然話しが弾んで、男すなわち李は中国事情を教えてくれて、電話番号やメールアドレス交換もした。声を掛けられたことで一気に緊張が緩んだ。

「中国で困ったことが有ったら遠慮せず連絡下さい」

と笑顔で言った。

空港での入国手続きで李は麻薬密輸の疑いを持たれたが、窮地の自分のことをさて置き、空港で勇次を騙そうとする男や執拗にまとわり付く男女から守ってくれた。

そして、渡された紙切れには宿泊するホテル名が書かれていて、

「タクシーの運転手にこれを見せてホテルに行ってもらうんだよ」

と言ったのだった。


李は、勇次と別れた後、空港で拘束された。

麻薬ではないがハーブの一種で、それが分かっていたので勇次に持ち込んで欲しいと思って、飛行機の中で声を掛けたが、言い出せなかった。何せもともと優しくて親切な男だった。

 分かれてからメール交換で、

「元気していますか」

と入ったので、

「元気です。中国は2つ有ると思います。新しい中国と古い中国、上海と福清、福清と高山、新市街と旧市外、余りにも雰囲気が違います。それが同じ面に存在しています」

「そうですか。面白い印象ですね。また、帰る時に意見聞かせて下さい」

と返って来た。

 李もこのメール交換で自分の気持ちを紛らしていた。

 これ以降、日本に帰った李にも色んなことがあり、勇次のメールにも返事が出せない状況になった。


 勇次は、李と向かい合っていた。

「すみません。急に連絡して・・・・」

「驚いたけど嬉しかった。それでも元気そうだね」

と明るく優しい声で話すと柔らかい笑顔が帰って来た。

 ここで、李は勇次に概ね次のようなことを語った。

空港でのトラブルを裏組織に5万元で解決してもらったが、父親の不動産投資の失敗、弟の病気等が重なり借金した金が返せなくなって膨らんで、大学も辞めて夢が消えて自分の未来が見えなくなった。自暴自棄となり酒に溺れた。そんなときに殺人依頼があり断れなくなった。


 18歳で入った軍隊でナイフの操作には慣れていた。訓練でナイフを持っての豚、水牛との格闘と解体も有って殺害に関する技術と免疫を養った。

 それでも依頼が有った時には躊躇し2日間考えた。日本で殺人を犯し福建に帰り組織に入ったが馴染めなかった。自分には特技がなかった。腕力もないし学歴も頭脳もなかった。即ち、武闘派にも経済ヤクザにもなれず、年下の男にこき使われていた。更にこの男と相性が悪いのが悲劇だった。

一種のうつ状態になり生活も荒れていった。

そんな時、些細な事から上司であるこの男と諍いになり、持っていたナイフで刺して、金も持ち逃げして組織に追われる身になった。


組織の規律が厳しいことは知っていたので覚悟したが、そんな時、組織のボスから日本に逃げて自分の起こした殺人事件の犯人として自首すれば許すと言われた。日本の組織から早く犯人を出すことを執拗に迫られている事情があった。ホリケン事件を告発した弁護士の行動が組織の活動を制約し、早くこの件に決着を付けたかったのだ。李がこの犯人であったことは奇蹟というかラッキーとしか言えなかった。

「お前の行為を組織は許さない。それは分るね」

「分ります。実際に見てきたから」

「だから日本でも組織のことは言わずに、自分の怒りから。とだけ言うんだよ。これが守れたらお前の罪は許す。駄目なら命は無いし、組織のことを喋ったら家族に被害が及ぶ」

とピシャリと言われてしまった。

 

 ボスのこの言葉は素直には信じられなかったが、ネット情報とテレビで日本の刑務所では殺人事件は発生せず。安全である事と何がしかのお金がもらえ教育も受けさせてくれることを知っていたので仮釈放迄の約15年を有効に利用出来ると考えた。

そして更に自分の命に保険を掛けるために勇次に真実を語ったのだった。李は勇次以外の3人にもメールを出したが、親身になって相談に乗ってくれたのは勇次だけだった。

勘の鋭い勇次は李に、

「俺に本当は何をして欲しいの」

と問いただすと、頷き、

「これを持っていて下さい」

と言って、紙を出した。事件の顛末書だった。勇次は躊躇なく受取り握手した。


殺人事件の件が一段落したことを受けて、ここで勇次が、

「飛行機で声を掛けたくれたのも、空港で優しくしてくれたのも・・・・・」

「そうすみません。正直に言いますけど僕の本心は、薬の持ち込み依頼や、帰国時の荷物引き受け、日本でのサポート、支援と本当に打算的な計算からだったんです。でも、素直な勇次さんの態度を知って言い出せなかった」

と言って、右の人差し指で右目の上をかいた。


正直、勇次はこの話のスピードについていけなかった。それでも自分を頼ってくれたことが嬉しかった。一緒に食事をして握手をし、勇次と李は空港警察署に向かった。李は一歩前に進めたことによって安らいだ爽やかな顔立ちになっていた。

勇次は李の決断を好しとし、李は将来自立し日中交流に貢献することを誓い、勇次はそうあって欲しいと願った。


 翌日からマスコミがセンセーショナルにこの事件を報道し、日本警察の捜査能力の低さ、中国マフィアの恐ろしさ、を報じたが、勇次はあの優しそうな青年が今でも心底から殺人者とは思え無かったし、事件の構図が納得できるレベルで描けなかった。


 李が言ったボスが勇次も知っている明華であることを知る由も無かった。

勇次は、この事件にはまだ自分が知らない裏事情が有ると思ったが、これも中国と考え、今の自分に与えられていることを確実に行うことを、胸に掛けた真理亜を描いた翡翠に誓って、足を高く上げて歩き出した。もう迷いは無かった。頬を伝う風が汗というか涙を気化させて気持ち良かった。

「勇次さんしっかり。ご苦労様でした」

と言う、真理亜の声が心に届いた。それが何よりも嬉しかった。



4)そして真理亜へ


久し振りの日本への帰国と関係者との面談によって勇次は真理亜のことを心身ともに清算して前向きな気持ちになれた。

直ぐにでも高山鎮の家を訪問して真理亜に報告したいと思ったが、予期せぬ出来事が起こった。


中国帰国、翌日の新聞に真理亜の交通事故は殺人の可能性があると報道された。

新聞によると殺人を依頼したのは峰観の父、江 陽峰だった。新聞報道によれば自分の息子が死んだのは元嫁である真理亜が原因だと考え、更に新しい彼氏も出来て将来が約束されており、日が経つにつれて真理亜への憎しみが高まったのが動機と書かれていた。

最初、不思議と峰観の父への怒りが湧かなかった。それでも冷静に考えると江の取った行動が許せなくなった。悔しくて、

「真理亜、白状な俺を許してくれと」

と言わずにはいられなかった。


勇次は原因の一部が自分にあると思うと、勤務先である福州歴史資料館に出勤できなくなった。真理亜への自責の念に捕らわれた。真実を知らせることが全て良いことだとは思えなかった。出来れば、そっとしておいて欲しかった。

真理亜の母からも電話が有ったが、出る事は出来なかった。無気力になっていた。


翌日、明華が勇次を訪ねて来た。面識はあったが、なぜ、彼女が訪ねて来るのか理解出来なかった。挨拶もそこそこに明華が話し出した。

「実は今回の件、警察に通報したのは私なんです。私を恨んでいません。怨んでいるでしょう。何で忘れたことを思い出させるのかて・・・・。図星でしょう。真理亜が生き返るわけでもないし」

「貴方の言う通りです」

「その気持ち分かります。私も苦しみました。でも真理亜の悔しさを思うと我慢出来なくて」

「その気持ちも分かりますが。でも何故、貴方が警察にも分からないことを知っていて、家族でもない貴方がそこまでするのか理解出来ません」

「それもそうだね・・・。私も上手く説明出来ない」

「私の心はズタズタですよ。どうにかして下さい」

「すみません。でもこうしないと私も気持ちが許せなかった」

と言って、大粒の涙を流した。


勇次は、明華の行動が理解出来なかった。

そして更に理解出来ないことを言った。

「勇次さん。今、私が話したことは誰にも言わないように特に警察には、私が情報源ということが分かると私の命も危うくなるので」

「理解出来ません。まったく。それなら静かにしておいて欲しかった」

と勇次は自分の気持ちを素直に言った。

「勇次さん。貴方の気持ち分かります。私も色々考えあぐねた末に決心したことです。貴方には本当のことを知っておいて欲しかったんです」

「それは真理亜の本心ですか?」

「本心です」

と言って、経緯を説明してくれた。


その概要は、峰観の死に疑問を持った真理亜は父の江陽峰を厳しく責めると、父が息子の居場所を組織に教えたことを涙ながらに告白した。それから真理亜は江を詰り、攻めた。

最初は、責任を感じて耐えていた父も、真理亜が建前で責めて峰観死亡の免罪符を得て、自分は幸せになろうとしている態度を許せなくなった。そこで、真理亜を殺すことを依頼したと言った。

真理亜の潔癖さが招いた災いだった。

勇次は、

「真理亜はそこまでしなくても」

「それがあの娘の潔癖さと峰観への誠意だと思うよ」

「でも、父の気持ちも分からない」

「それが組織というもんなんだ・・・」

「組織ですか」

「そう組織です」

と言った時、明華の顔が厳しくなり曇った。

「僕がもっと傍にいて真理亜の話し相手になっていたら真理亜もそこまで突っ込まなかったと思う」

「それは結果論だから余り自分を責めないで」

「でもこれは事実ですから一生背負っていかないと、と思う。半分は自分の責任です」

「私はもうこれ以上言わないから。時間が解決するまで塩漬けしましょう。私も罪深いですから」

と搾り出すように明華が言って窓際に立って外を見た。

明華には勇次が想定している以上の秘密が有った。


 これ以上、勇次が何を聞いても明華は答えなかった。

勇次が経緯を高山鎮の母親に知らせると、

母は冷静に、

「勇次、色々有ると思うけど、ここはこらえて明華の気持ちを分かってやっておくれ。あれはあれで真理亜のことを考えているんだから。今度、来た時に詳しく話すから」

と言われるとそれ以上言えなくなってしまった。


電話を切って30分の沈黙の後、気持ちは行きつ戻りつ気持ちの整理が出来て、

「明華さん。分かりました。今日は色々ありがとうございました」

と礼を言うと、

「本当に約束守ってくださいね。今日は色々ありがとうございました。頑張って下さい」

と手を取って深々と頭を下げた。

「本当にくどい人ですね。分かりました。私を信じて下さい。私も複雑なんですから・・・」

と強く言って、明華を送り出すと悔しさと自責の念で、再び涙が留めなく流れた。

 このやり取りで、明華は自分が出来ることはやったし、勇次は心の整理が出来たと前向きに捉えていた。


 翌日から勤務先に出社し、高山の母には今日のことは忘れて当面、言及しないようにしようと心に決めた。これは正しい決断だった。



明華の訪問から一週間後、勇次は真里亜の母親の家で昼食を食べていた。

二人とも真理亜の殺害事件のことについては話題にしないという暗黙の了解があった。

「今日は良い物ありがとうね。でもおばあちゃんには良さがわからないから、早く新しい彼女探して、連れて来なさい。私が判定してやるから」

と言って、表面的にはあんまり喜んでいる素振りを見せなかったが、内心は嬉しくて感謝の言葉を素直に言おうと思ったが、勇次のこと即ち、いつまでも真理亜のことを思っていてはいけないと思って敢えて冷たく言ったのだった。


食後、真理亜と二人で歩いた市場に行き、花を買った。

帰りに道を間違えたのか細い道に迷い込んで、真っ直ぐ進むと小高い山があり登って行った。最後の階段はきつかったが登り切ると小さな台地が有り、中央に白亜の石碑が有った。それが真里亜の墓碑のように思えたので、さっき市場で買った鉢植えのカサブランカを、落ちていた杭で穴を掘って埋めてから、勇次は石碑に向かって語りかけ出した。

【真里亜、元気にしていますか、一生懸命頑張っていますか!頑張っているならこっちに来て一緒に遊びましよう。

もう一度だけ本当に一度だけ逢ってあなたと話しがしたい。それが私の唯一の希望です。それが適わないなら遠くでいいですから、私にあなたの姿を見せてください。それも駄目なら空の上から私の名前を一度だけでいいですから呼んでください。それが今までの人生で一番愛した真里亜、あなたへの最後のお願いです】

と言って墓碑に泣き崩れて思い切り泣いた。最近、涙もろくなったが大人になって初めて赤子のように大きな声を出して号泣した。


いつのまにか空高く雲雀がやって来て【ユーウジィ、ユーウジィ……】と鳴いているように聞こえた。

その声を聞いて勇次は我に帰って、華僑が夢を抱いて乗り出した希望の海を見ながら、これからは明日を見て生活することを真里亜に誓うために、大きな声で、

「真里亜、おおい真理亜、聞いてるかい、お互いに頑張ろうね。俺の姿を見ていてくれ。怠けたら怒ってくれ」

と大きく叫び山を下った。

足は軽やかだった。真里亜の家に帰ると母親がカルティエの時計を腕に付けて満足した顔で勇次を迎えてくれた。勇次も笑みを返し、

「何処に行っていたの」

という問いかけには答えずに、

「お母さん色々お世話になりました。今から明日に向かって生きることにしました。」

と言えば、

「それは良かった。勇次はまだ若いんだから、真里亜のことはすっかり忘れて生きるんだよ]

と言って励ました。

それに答えて、

「いい結果が出ればまた報告に来ます」

と言うと、

「期待して待っているからね。無理せずしっかりやるんだよ。あせっちゃ駄目だからネ。ちょっと位、うまく行ったからって有頂天にならずにネ。好事魔多して日本でも言うだろう」

と言って励ました。

さらに、葬式の時に真理亜の棺から取り出したダイヤの指輪を持って来て、

「これを持ってお行き。新しい彼女が出来たら、事情を話してこれを渡すんだよ」

予期せぬ対応に躊躇したが勇次は大きく頷き、

「本当にありがとうございます。」

と言って泣き出すと、

「本当に良く泣く男だね。さあ、決心したら泣かずに早くお行き。男は度胸だよ。そして話せるようになったら真理亜のことをもっと話そう」

と旅立ちを促した。

これに答えて勇次は立ち上がり、母親に見送られることなく真里亜の家を出て、門を開けて喧騒の高山鎮の町に出てバスに乗って福州に帰って行った。

こころは風の無い湖面のように穏やかだった。 その上を真理亜の香りを包みこんだ一陣の生暖かい風が吹き抜けた。

自分の出来る事は、全てやった。これで終わったという充実感が勇次を支配した。勇次は全てが終ったと思って足は軽やかだった。


6.あとがき

 この物語は、若い日本人と中国人の愛の物語である。最後は悲恋に終ったが新しい風を感じてくれたら幸せだ。これからも二人の後を歩む人間がいることと尖閣列島問題の速やかな解決を願って本文を終える。

なお「おはようございます」表記の下線を施した斜め文字は本来、中国語で話された内容を日本語で記述した部分であることを示す。


                                       2014年9月15日作成 奄美大島 龍郷町にて

2021年5月4日大幅に改定 沖縄県 与那国島にて 


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名古屋 リトルワールド ~福建省高山鎮ルート 悲恋殺人事件 @takagi1950

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