終わりの終わりに

 それがあることで救われてる人は、きっとどこかにいると思う。

 だから、ホントは見下したりしちゃいけないんだ。


(尻鳥雅晶「異世界がどうとかキモいネット小説を読んでる叔母さんから聞いた話」より引用)



 私が初めて「あの世」に思いを馳せたのは、小学生の頃。

 母方の祖母が話してくれたある話を聞いたときでした。


「お彼岸のとき、死んだ人たちは全員、ごちそうを振舞われるの。

 だけどそのお箸は腕よりも長いので、自分では食べられない。

 善人はお互いに食べさせてあげるから食べられるけど、

 悪人は自分だけで食べようとするから食べられないのよ」


 いま考えると、突っ込み所満載の話であるし、祖母の宗教観の背景もけっこうアレだと思うのですが、小学生の私は感銘を受けたものです。

 ただし、それはこの話が勧善懲悪の教えを含んでいるから、ではありません。

 当時から理屈っぽい私は、こう思ったのでした。


「同じごちそう、同じ箸で、そんなふうに結果を分けられるアイデアが凄い!」


「あの世」システムはシンプルなものである、いや、そうでなければならないのだ。

 私の心にその考えの種がまかれたのは、たぶんこのときだったのだ、と思います。



 さて。


 では結局、「あの世」って何なの?


 その答えはもちろん、人によって違います。

 私の主観的な答え、つまり「私にとって」の答えについては、このテキストの始めのほうにて、それは「心のありよう」である、と事実を述べています。


 しかし。


 たとえ証明できないことであっても、人は「何々だと思う」という形で、客観的な答えを出すことはできます。

 事実ではなく、主張として。


 だから、このテキストの結びとして、私も現実的かつ客観的な主張としての「あの世とは何か」という問いに答えたいと思います。


 でも。


 実は、その「答え」については、このテキストにてもう述べているのです。

 しかも、繰り返し繰り返し、何度も何度も。


「それは〇〇として扱わなければならない」

「それは〇〇として矛盾している」

「それは〇〇として間違っている」


 〇〇とは何か、もうお判りですよね。

 それは「フィクション」です。


 貴方は思うかも知れません。

「それはツッコミの手法か、でなければ単なる保身で言ってたんじゃないの?」


 それもあります(笑)。


 しかし、それは、まぎれもない私の答えでもあるのです。


 フィクションだからといって、そのフィクション自体が実在していない、ということにはなりません。

 いや、ここは「フィクション」ではなく、「物語」と言い換えましょう。

 神様が実在しなくても、神様の物語は実在します。

 あの世が実在しなくても、あの世の物語は実在します。


 そして、これはカクヨムにいる貴方もそうかも知れませんが、私は「現実」にくらべて、「物語」を、決して軽んじてはいません。


 ※ご注意 もし私が「現実」よりも「物語」を軽んじているのなら、それは単に「現実」も「物語」も同じように軽んじているだけに過ぎません。

 テヘッ(笑)。


 物語は、それが物語だと判っていてもなお、良くも悪くも世界をも動かすことがあります。

 そのパワーと実在性は、現実と何も変わらないのです。


 物語は、それが物語だと判っていてもなお、人の心を動かし、その人生を導くことがあります。

 死んだ人が、死んでいると判っていてもなお、生きている人を導くことがあるように。

 まるで、死せる私の祖母が、私の父が、「兄」が、友が、そしてまた死せる別の誰かが、生ける私を走らせるように。

「私が私である確率」に影響を与えるように。

 たとえ「あの世」などなくても、そのパワーと実在性は、生きている人と何も変わらないのです。


 ただし。


 物語と現実は、決して混同してはいけないと思います。

 それは、「現実のほうが偉い」からではありません。

「物語に失礼」だからです。

 物語には物語の良さがあるからです。

 現実と「同じくらい尊い」からです。


 私と貴方は同じ人間であり、同じ人権を持っていても、確固たる別の存在であり、その尊重すべき権利を個別に持っているように。


 それでも、貴方は言うかも知れません。

「現実は単独で実在するけど、物語は語り手がいないと実在できないんじゃないの?」と。


 いいえ。


 なぜなら、私は「客観的な答え」のことを言っているのです。

「客観的」であるということは、その反応が肯定であれ否定であれ、「聞き手」がいるということです。


「聞き手」がいるなら、「語り手」がいるに決まっているではありませんか!


 だから、私は。


「あの世って何なのよ?」という問いかけに、こう答えます。

 私はこう思う、という現実的で客観的な主張としての答えを。


「あの世とは、物語である」


 そして。


「人は死ぬと、物語になるのだ」


 と。





 このテキストは、これで本当に終わりです。

 それでも。


 私は「語り手」として、こう結ぶのです。



 それではまた、お会いしましょう。

 会うべき時、会うべき場所で。

 いつか物語になったとしても。





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あの世って何なのよ? 尻鳥雅晶 @ibarikobuta

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