第2章 『正月編』


――ステロイド投与の副作用から顔が月のように丸く大きくなる症状を、ムーンフェイスと呼ぶ――





-2016年- 秋




「父ちゃん! 脱いだものくらいカゴの中入れといてよ。 しーちゃん大変じゃない!」


「いいのよサッちゃん。どっちみち……ほらね」


「もう! 兄ちゃんまで~。ゴメンねー、私の教育がダメだったんだわ」


「詩織がいいってんだから、別にいいじゃねえか。なぁー父ちゃん」


「おうよ! しーちゃんは優しいからな、お前と違っていちいちガミガミ言わねぇのよ」


「悪かったわねー、いちいち煩くて! もう帰るわよ帰ればいいんでしょ……お疲れ様でした!」



あれから十年がたった。聞いての通り、我が家は相変わらずの騒がしさだ。


すぐに長女(琴葉)その一年後に長男(幹太)が生まれたこともあり、結婚後も、そのまま暮らしていた詩織の部屋では手狭になってしまった。


それならばと実家で父ちゃんと同居することにした俺達に代わり、今はサチが近くのアパートで独り暮らしを始めていた。


藤木金物店は代替わりして、父ちゃんが会長で俺が社長。とてもじゃないが詩織に見せられる経営状態じゃないので、事務はそのままサチに任せている。


まぁ、俺も社長と言ったって、やってる仕事は前と大して変わっていない。配達兼 営業兼 社長兼……ケンケンパーの大安売りだ、まったく。


父ちゃん? 十年前が嘘みたいに、すっかりお祖父ちゃんを満喫中だ。社長を退いたのを機に念願だった車も買った。


いつかはクラウン……。そう思っていたのは知っちゃーいたが、その真っ黒なボディーはどうかと思うぜ父ちゃん。ゴツゴツの厳つい顔が窓から覗いたら、そっち系の人にしか見えないんだよ。


まあ、口笛吹きながら楽しそうに洗車してる姿を見てると、昔の苦労を知ってる分こっちまでニヤついてくるけどな。



「そんなに毎日磨いてたら、せっかくの塗装が禿げて銀色の車になっちまうぜ?」


「うるせえバカ、天下のロイヤルサルーン様だぞ。今度の日曜はドライブだからな、鏡みてえにピカピカにしとかねぇとよ。こーとちゃーーん、かーんちゃーん♡ ジジがとってもいい所に連れてったげるからね~」



オエー。孫ができると、人間こうも変わるもんなのか。



「さあさあ! 今日はどっちがジジとお風呂に入るのかなー?」


「はーい、私が入るー!」


「えー姉ちゃん、今日は僕の番じゃんかー」


「仕方ねぇなぁー、今日は三人で入るとするか!」


『うん!!』



へへ……、やれやれだ。



「あ、ところでサチ。頼んどいた見積りの清書しといてくれたか?」


「え? 私頼まれてたっけ?」


「おいおい、明日お客さんとこ持ってくからって、昨日俺がいつもみたいに手書きして渡しといただろう」



俺もパソコンを使えるには使えるが、事務歴が長いサチと比べると仕上がりが段違いだった。



「お前最近ちょっとたるんでんじゃねぇのか?」


「ごめんごめん、持って帰って明日の朝に持ってくるから。琴に幹太、じゃあねーバイバイ!」


『バイバーイ!』



それにしても家で一番のしっかり者だったサチが、ここんとこ妙にミスが多い。仕事中もどこかダルそうに見えるのは、社長になった俺の見る目が厳しくなったからなのか?



「しっかしサチの奴、毎日毎日ギャーギャーと。だんだん死んだ母ちゃんに似てきやがんなぁー三太」


「そうか? そりゃあ父ちゃんが無茶ばっかしてたからだろ。俺達にはすっげー優しかったからなぁー母ちゃん」


「あいつももう三十二か……、いつの間にか母ちゃんに追いついちまったな。どっかに貰ってくれる奴はいねーもんかねぇ」


「見合い話なんて、写真も見ずに断っちまうしな」


「……」



サチと宮部は、結局俺と父ちゃんが無理やり別れさせたようなもんだ。


家族を選んだこの十年、恋に臆病になりずっと独り身でいたサチ。口にこそ出さないが俺たちは、どこか後ろめたい気持ちが拭いきれないままでいた。



「ん?」



何だか詩織がさっきから落ち着かない。大きな瞳を不自然にパチパチさせながら夕飯の支度をしている。


詩織の瞬きがいつもより多い時は決まって何か隠し事をしている時だ。俺は十年の結婚生活から、それを見抜いていた。


クリスマスに誕生日……、バレバレサプライズの気づかない振りで苦労したのは、いい思い出なのだが……。



「なぁー詩織? お前ひょっとして……」


「なになになに? 私なぁーんにも知らないよ! あ、そうそう子ども達のパジャマ取ってこなきゃ」


「なに急に焦ってんだよ、まだ俺なんも聞いてねーだろ」


「そうだぜしーちゃん、もしもサチの事で何か知ってんなら教えちゃくれねーかい」



あれ? 詩織の癖に気がついてたのは俺だけじゃなかったみたいだ。



〈パチパチパチパチパチ……〉



やばい、詩織の瞼が超高速回転している……、明らかなる動揺。


まぁー嫁さんが隠し事が苦手ってのは、旦那としては悪いことではない。



「ど、どうしたいしーちゃん!」


「詩織、もういいもういい! 全部吐いて楽になっちまえ!」


「あぁーもう、私ってどうしていつもこうなんだろ。琴に幹太、ジジとお風呂入るんならタンスからパジャマ取っておいでね」


『はーーい』



琴葉と幹太は二人して奥の部屋に走っていった。



「サッちゃんゴメンなさい、内緒の相談って言われてたのに……。ふう~、お父さん三ちゃん……あのね」


『お、おう』


「サッちゃん……サッちゃんプロポーズされたんだって」


「プ、プロポーズ!?」


「プ、プロポーズって、あの、結婚して下さいってぇ……あれかい?」


「他にあるわけねえだろー父ちゃん。で、相手は誰だ? 付き合ってる奴なんていなかったはずだぞ」



俺たちが気がついてなかっただけなのか? いやいやいや、今までの経験からいってそれはない。サチはサチで、その辺はとてもわかりやすい奴なんだ。一途に思い詰めてしまう分とても……。



「そうなの、付き合ってはないの。でも、でも付き合いはとっても長いの」


「あ? よく話が見えねえなぁー。付き合ってないけど、昔からの知り合いってことか?」


「はい、 三太くん大正解! 五百ポイント獲得ーー!」


「よっしゃー! これで逆転優勝も夢じゃない……って、冗談言ってる場合じゃねえんだよ。ほら見ろ、父ちゃん思考が完全停止しちまってるじゃねえか!」


「プ、プロ……プロ……」



どうりで最近サチの奴、仕事に集中できてないわけだ。それにしても、付き合ってもないのに結婚申し込むなんて思い切った奴がいるもんだ。



「なぁ詩織、付き合いが長いって事はもしかして、俺や父ちゃんも知ってる奴なのか?」


「もちろん、よーくね」


「よーく? うーん……。ダメだダメだ、いくら考えたって全く誰の顔も浮かんでこねーよ」



腕を組んだ父ちゃんが、小難しい顔で顎の無精髭をさすっている。こんな時、以外に勘が働くのが父ちゃんの恐ろしいところだ。



「しーちゃん、今俺の頭ん中に一人だけコイツかもって奴がいるんだが……。昨日も家に来てなかったか? 軽トラ乗ってよ」


「えっ、凄いお父さん 大正解! ボーナスポイント獲得で……」


「もういいって詩織。父ちゃんそれってまさか」


「へっ、やっとわかったか三太。将吾だろ、酒屋のよ」


「えーー! マジかよ、将吾ぉ!?」



将吾は同じ町内に住んでる酒屋の息子で、サチの同級だった奴だ。俺と父ちゃん二人の大酒飲みがいるうちは、いつも将吾の店に酒の配達を頼んでいた。


何を隠そう幼い頃にサチをイジメていた張本人で、俺がゲンコツを一番多く喰らわせた相手でもある。


俺にとっては昔の喧嘩友達、サチにとっては幼馴染と言えなくもない。



「そう言えば将吾の野郎も、まだ独り身だったな……。全く頭になかったけどよ」


「うーん、そうか……。将吾か」



俺はこの街で、同じように家業を継いで頑張ってる懸命な将吾の姿を知っている。何とも言えない複雑な感情が湧いていたのは、父ちゃんも同じだったに違いない。


だが、ここからの展開が俺たちの予想を遥かに超えて早かった。


サチが早々に将吾との結婚を決めてしまったのだ。


頑固一徹で決断が早い父ちゃんの血を一番強く引いていたのは、案外サチだったのかもしれない。


両家の挨拶、結婚式の日取り決めに会場予約。全てがトントン拍子に進んでいった。順調に……誰もがサチの異変に気がつかないほど、順調過ぎるほどの早さで進んでいったんだ。




――それは一本の電話からだった……。



「はいもしもし、藤木金物店です。はい、藤木幸は私ですが。え?……はい。……わかりました、また予約して伺います。はい、失礼します」


「どうしたサチ? 今の電話なんだって?」


「あのね兄ちゃん。こないだ皆んなで健康診断受けたじゃない?」


「あぁー、組合のいつもの奴な。診断結果が忘れた頃に来るんだよな、意味ないっつーの」


「その病院からだったの。意味……あったみたい」


「なに? それって、どう言うことだよ」


「なんか早急にお伝えしたいことがあるからって。兄ちゃん一緒に行ってくれる? 何だか一人じゃ心細くってさ」


「おう、あたりまえだ。つうか、病院が早急にって言うなら、ちょっとでも早いほうがいいんじゃねぇのか。午前の診療時間まだ間に合うだろ」


「うん、そうだね。ちょっと着替えてくる」



俺はサチを会社の箱バンに乗せて病院へと向かった。


病院と言っても健康診断を受けたここは小さな個人医院に過ぎない。詳しい説明などはなく伝えられたのは血液検査の数値異常だけ。市内で一番大きな総合病院の紹介状を貰い、サチは血液の精密検査を受けることとなった。



そして後日、検査結果として伝えられた病名は……。



『全身性エリテマトーデス』一般的には膠原病と呼ばれる病気だった。



担当の医者からすでに危険な状態だと言われ、サチの即日入院が決まった。その日から三日間、点滴による一回八十mgにも及ぶステロイドの大量投与が始まった。この治療法をパルス療法と呼ぶらしい。


そしてサチの病状が落ち着き次第、専門医がいる大学病院への転院を強く勧められた。


難病、ステロイドと言う非現実的で重すぎる響きに打ちのめされながら、俺はできる限り、この病気について調べ情報を集めた。



――全身性エリテマトーデス―― 【SLE:膠原病】

通常自分を守る為に働くはずの免疫が、反対に正常な細胞や組織を攻撃してしまう自己免疫疾患。発症原因が不明な為、未だ完治する方法は確立されていない。約一万人に一人の発症率で国からの難病指定を受けている。

免疫疾患という性質上、様々な合併症状に広がりを見せ、関節、腎臓、皮膚、肺、心臓、脳、血液細胞などが損傷を受け、脱力感、疲労感、かゆみ、胸の痛み、脱毛などを引き起こす。

特に腎臓の障害が重篤になると腎不全に進行し透析が必要となる。心臓や肺では胸膜炎、また、多彩な精神神経症状もみられ、うつ状態・妄想などの精神症状とけいれん、脳血管障害に発展する。

まだステロイドの使用が始まっていなかった一九五〇年代の五年生存率は約五〇パーセントであったが、現在では約九〇パーセントとなっている。また、感染症を起こした場合でも、決してステロイドを中止してはいけない。

長期間にわたるステロイドの内服のために副腎皮質のストレス反応が十分に起きにくくなっているため、中止すると副腎不全を起こしてショック状態になる危険があるからである。

またステロイド薬の副作用には、無月経(生殖器障害)、満月様顔貌(がんぼう)等があるので、慎重に適応を考える必要がある。



つまりサチは一生治らない、たとえ病状が軽くなってもステロイドはこの先ずっと飲み続けなきゃならないってことか。何だよ無月経って……、サチはこれから結婚するんだぞ。


やっとこれから、将吾と幸せになるんだぞ。これから……これから。くそったれが!


SLEを調べた今ならわかる。サチは、サチの体は確かに信号を送っていた。サチがダルそうに見えたのは、らしくない忘れ物をしていたのは、全部全部病気のせいだったっんじゃないのか。


俺がもっと早く異変に気が付いてやっていたら……、もっと早く病院に行かしてやれていれば。俺の頭に後悔の波ばかりが押し寄せていた。




             *




数日後、サチの転院先が決まった。入院期間は恐らく三ヶ月程度、家から車で片道四時間はかかる。とてもじゃないが毎日通える距離ではなかった。



「ただいま~」


『パパー、おかえんなさい!』


「三ちゃんお疲れ様。サッちゃんどうだった?」


「あぁ、もうだいぶ落ち着いてたな。おう、今日もジジと三人で風呂入ったのか?」


「うん! ねー幹太」


「ねー琴葉」


「それでジジは?」


「裏の縁側でお酒飲んでるよー」



小さいながらも我が家には、裏庭と縁側がある。庭木の隙間から見える空を眺めながらここで酒を飲むのが、父ちゃんは昔から大好きだった。



「おう三太、帰ってきたか」


「あぁー。大学病院へ行く日決まったぜ」


「そうか。色んな手続きも全部おめえに任せちまって、すまねえな」


「なんだよそれ? あたりめえだろ、兄貴なんだからよ」


「たまにはお前も一緒にやるか?」



父ちゃんは俺を待っていたんだろう。波々と注がれたグラスの横に、もう一つ空のグラスが置いてあった。



「ふぅーー、うめえ!」


「美味いだろ。今日持ってきた将吾の酒だ」


「あいつ……何て?」


「やっぱりサチとは結婚できないそうだ。お袋さんにどうしても孫を見せてやりてぇってよ、泣いて土下座されちまったぜ」


「そっか。あいつは家業もあるしな」


「親のことを持ち出されちゃぁーな。俺にどうこう言える道理はねぇよ」



父ちゃんはグラスに残っていた酒を一気に飲み干した。


空の月がこちらを見ている。俺はまた、将吾の酒を溢れるほどに注いでやった。



「そらよ」


「おう。なぁー三太」


「うん?」


「あん時よ」


「あん時?」


「あぁー、十年前のクリスマスの日よぉ。もしも俺が先生を追い返さなかったら、今頃サチは子供の一人でも抱いて……幸せになってたのかなってよ」


「へっ、何だよ柄にもねえ。父ちゃんがやってなかったら、俺が宮部をガンドでたたっ斬ってたかもしれねぇぜ? 結果は変わらねえよ」



それは俺自信、何度も考えたことだった。十年間誰とも付き合おうとしないサチを見ながら、俺達のしたことは本当にサチの為だったのかと何度も何度も自問していた。



「そうだな……。おっとやべぇやべぇ、バカ三太に慰められてちゃ俺もお仕舞いだぜ」


「ちぇっ、人がせっかくよぉ」


「今度は俺の出番だな三太」


「出番? 出番ってなんだよ」


「実はよ、サチの転院する大学病院の近くにアパート決めてきたんだ」


「ア、アパート!?」


「あぁー。お前は仕事があるし、しーちゃんは子供たちの面倒見なきゃいけねぇ。かと言ってあんな遠い所通える距離でもねえだろう。そしたら俺がサチの傍に引っ越すのが一番手っ取り早いじゃねえか」


「そりゃ、そうだけどよ」


「それによ、俺は入院患者の世話は母ちゃんで慣れっこなんだよ。あらよってなもんだぜ」


「でも、金はどうするんだよ? アパートつったって、敷金だの礼金だの……それに、あっちに住んじまったら父ちゃん自身の生活費だっているんじゃねえのか?」


「そんなもんはあれだよ、俺にだってお前の知らねぇ蓄えってもんがあらぁな」


「嘘こけこの年金暮らしが。 蓄えなんて定期かき集めて、こないだ夢だったクラウン買ったとこじゃねぇか。……あ、まさか……父ちゃん!」



俺はツッカケ姿で飛び出して、店横ガレージのシャッターを開けた。



〈ガラガラッ〉



昨日まで、そこに威風堂々と佇んでいた真っ黒なクラウンの姿は、もう何処にもない。行き場をなくした神社のお守りステッカーだけが、柱に寂しく貼られていた。


いつもそうだ。何でもかんでも相談なしに自分の考えだけで決めてしまう。


あんなに毎日嬉しそうに磨いてたじゃねえか。貯金全部つぎ込んで、これが俺の四十年間の結晶だって笑ってただろう。琴葉や幹太とドライブに行くのあんなに……あんなに。


俺が肩を落として縁側まで戻った時、父ちゃんはまた空を眺めていた。



「あーあ、見つかっちまったか。ひでーんだぜ、買った金の半分になっちまいやがんの。ヘッ、つっ立ってねーで……まぁー座れや三太」


「……」



俺は父ちゃんにここまでさせちまった自分が情けなくて、黙ったまま隣に腰掛けた。



「なぁー三太、昔俺が大事な順番の話をしたの覚えてるか?」


「あぁー、覚えてる。はっきりと……覚えてるよ」


「お前にとっての守りてぇ順番の一番目が、しーちゃんや子ども達であるようによ」


「……あぁ」


「俺にとっちゃあ三太とサチ、お前らがそうなんだよ。そんでしーちゃんが嫁に来てくれてよ、琴葉が生まれ幹太が生まれてな……。フッ、いい歳したおっさんが、いつまでも拗ねたガキみてえな顔してんじゃねえよ」


「痛てっ」



久しぶりに父ちゃんのデコピンが飛んできた。



「俺の順番のてっぺんは母ちゃんが死んだ時一回減っちまった。それをお前が一生懸命また増やしてくれたんじゃねえか。よくやってるよ……お前はよ」



コップ酒の水面が、俺の涙で揺れた。


やべぇ……父ちゃんの前で泣くなんて、男が涙を見せるなんて……クソッ、止まれ、止まれ。



「嬉しいもんだぜ、一番が段々増えてくってのはよ。そんで今回のサチの病気だよ。俺は思ったね、これは結婚するまで何にもできなかった不器用な俺をよ、こんな時の為に母ちゃんが修行させてくれてたんだってな」



俺たちを残して母ちゃんに死なれて、めちゃくちゃ苦労してたじゃねえか、おまけに今度は娘まで病気になって。なんであんたはそんな事が言えんだよ、なんで腐っちまわねんだよ。適わねえよ……父ちゃん。



「俺の車なんてもんはただの道楽だ。順番の上の方じゃねえ、会社の箱バンの方がよっぽど大事な位だぜ。惜しかねぇ、惜しかねぇよ。それでもまだそんな顔してくれるんなら三太、いつかお前がクラウンプレゼントしてくれ、中古でいいからよ」


「へッ、バカ言ってんな。今度はピカピカのベンツ買ってやるさ、真っ黒のな。それ乗って警察に職務質問でもされてやがれ」


「じゃあーサングラスも頼むぜ、レイバンでな」


「どこでそんなもん覚えてきたんだこのジジイ!」


「お-寒みぃ、冷えてきやがったから俺はもう寝るぜ。じゃあな、残りの酒はおめえにやるわ」



それからもう暫く、俺は一人で月を肴に酒を飲んだ。


――順番……か。


一週間後、転院するサチの荷物を抱え、本当に父ちゃんは引っ越していった。




             *




「悪いな三太くん!」


「いいっスよ社長……いやいや、お義父さん」


「ハハ、君にお義父さんと呼んでもらうのはもう諦めたよ。ちょっと一服しようか」


「すんません社ちょ……あ。エへへ、ありがとうございます」



今日は連休を利用して、久々に子ども達を連れて詩織の実家にお邪魔している。


ちょうど材料の配達便が来た所で、力仕事に駆り出されたというわけだ。仕事での長年の社長呼びから、俺は十年経ってもお義父さんとは呼べていなかった。


工場の一角にある休憩所でお義母さんの入れてくれたコーヒーを頂く。例えインスタントでも労働の後で飲むと格別に美味い。



「三太くん、せっかく遊びに来てくれたのにごめんなさいね。この人ったら人使いが荒いもんだから」


「いやいや全然いいっスよ。動いてたほうが気が紛れるし」


「かみさんの実家なんてそんなもんだよなぁー。どこにいたって居心地のいいもんじゃないさ」


「い、いやいや、そういう意味で言ったんじゃないです……はい」


「所で、あれからサッちゃんの具合はどうだい? なかなかお見舞いにも行けなくてすまないね」


「いんですよ、本人もまだ人にはあんまり会いたくないって言ってますし。体調はまぁー、ぼちぼちってとこです。元々自覚症状も殆ど無い状態での発症でしたから、薬が効いてくれて本人は元気に暇を持て余してますよ」



難病治療には家族の協力が不可欠だ。詩織も会社の電話番など今までと違う仕事で時間を取られている。以前のように好きな時に実家へというわけにもいかない。社長達にもサチの病気のことは隠さず打ち明けていた。



「あまり人に会いたくないのは、やっぱり薬の副作用のせいかい?」


「……そうだと思います。やっぱりステロイドって、効き目が大きい分副作用もきつくて。今は顔が……本当にお月様みたいにまん丸にむくんでしまいました。先週、琴葉と幹太を連れてったらサチの奴『サッちゃんアンパンマンみたいでしょ』って笑うんですよね」


「それは……なんとも、辛いね。女性としては」


「最近ちょっと視力にも影響が出てきたみたいで、こないだなんか片目だけターミネターみたいに真っ赤っかになってて……、充血なんてレベルじゃなくて。そんなこと、ネットや本で症例調べたって全く出てないんです。俺、心配になって先生に聞いたんですけど、『大丈夫です』の一言しか……」


「三太くん……」



サチの病気の件は、家族以外には誰にも話していない。詩織にさえ心配をかけてしまうだけだから、いつも簡単な説明だけで終わらせていた。


話せない、相談できないというのは自分で思っていた以上に俺の心に重しを載せていたようだ。つい社長の気遣いに甘え、さっき『サチは元気だ』と説明したのが嘘のように、病状や治療に対する疑問が口を衝いて出てしまった。



「……あ、なんか俺、ここまで話すつもりなかったのに……。すみません……社長」


「いいんだ、私でよければいくらでも話してくれよ。親子だろ?」


「……。この先、サチの人生どうなるんだろって……、ちゃんとやってけんのかなって。俺と違って真面目……っていうか、気持ちが弱いとこあるし」


「三太くん、いきなりですまないが、私がどうして君と詩織の交際をすぐにOKしたかわかるかい?」


「え、俺てっきり自分の仕事ぶりを認めて下さってたんだとばっかり……」


「ハハハ……、勿論それもある。それもあるんだがね、一番大きな理由は、君が源さんの息子だったからだよ」


「え! と、父ちゃんですか!?」


「あぁ、あの男の息子なら間違いないってね」



結婚前、詩織からよく『お父さんも三ちゃんのこと褒めてたよ』って聞かされていた。俺はすっかり自分の営業態度がいいからだと信じ込んでいた。



「一見ぶっきらぼうで強面で、とても営業なんて向いてない男に見えるだろ? でも源さんには一つだけ、誰にも真似できない凄い所があるんだよ。何だかわかるかい?」


「父ちゃんの凄い所ですか? 社長にそこまで言ってもらえるようなとこは……、正直、全く見当つかないです」


「源さんにはね、社交辞令がないんだよ」


「あ、はぁー」


「今、何だそんなことかって思っただろ?」


「はい。あ、いや……」


「普通はそうなんだよ、それで当たり前なんだ。だって世の中社交辞令で成り立ってるようなもんなんだから。でもね、私が出会った人間の中で源さんだけは違った」



こんなに熱っぽく誰かに語って貰える父ちゃんを、同じ男として少し羨ましく思えた。



「私も一応会社を経営する身だからね、色んな人から仕事の発注話だったり、遊びの誘いを受けるよ。もしも家を建てた時は是非ミサキさんの建具を……とか、今度一緒に一杯やりましょう……とかね。


もしも、いつか、また今度……、その殆どが話だけで終わってしまう。言った方も、言われた当人でさえも本気にしてないから、すぐに忘れてしまうんだよね。


ところが源さんときたら、今度一杯と別れ際に言ったかと思えば、私好みの酒を持ってひょっこり玄関に現れてウチの奴をビックリさせるし、今度お客さん紹介しますって言えば、本当に新築の施主さんを連れてきて、従業員皆んなで徹夜したりね」


「へへ……。父ちゃんらしいっすね」


「あぁ。長年付き合ってみてわかったよ。この男には社交辞令ってもんがないんだ。この男にとっては全部が小さな約束で、それをコツコツコツコツ破らずに、守ってきたんだろうってね」


「俺には……とっても無理です。そんなこと」


「私にだって無理さ。だって、社交辞令を約束に数えてしまったら、破られて傷つくのは自分だからね。源さんの本当に凄いのはそこかな、相手を許す度量の大きさ。だからね」


「……はい」


「結局ね、私が言いたいことなんて単純なんだよ。三太君もサッちゃんも、同じあの父ちゃんの子どもなんだから。心配しなくて大丈夫ってことさ!」


「ウッ!」



そう言いながら社長は、俺の背中をおもいっきり叩いた。痛いけど……痛くない。ビリヤードの玉のように、何かが俺の中から弾き飛んだ。



「……。そうですよね、俺がこんなことじゃあ、向こうで頑張ってるサチや父ちゃんに笑われちゃいますよね」


「そうだよ、今は三太君が藤木家の大黒柱なんだ。そろそろ源さんを安心させたげてよ」


「はい、俺やります。小さな約束をいっぱい守りまくって頑張ります。よっしゃーー!」


「三ちゃん、何吠えてんの!」


『パパ、何吠えてんのー?』


「おう詩織!琴葉!幹太! 俺はやるぜ、やったるぜ」


『パパ~、変なの~』




今日“お義父さん”と話せて良かった。俺は確かに何かが吹っ切れた気がしていた。


――そして……。




             *




-2017年- 元旦 



正月をゆっくり家で過ごせるように、退院日を少しだけ早めたサチが今日、いよいよ父ちゃんと一緒に帰ってくる。


本当は母ちゃんの命日に間に合う退院日を希望していたが、残念ながらそれは叶わなかった。


心配していたステロイドの量も二〇mgまで減らせたから、日常生活には支障をきたさないと判断してもらえた。この量なら月一度の通院検査で治療が可能だ。副作用も随分と軽くなった。まだ無理は禁物だし直射日光も避けなければならないが、いつもの事務仕事なら復帰できる。


俺はサチに病院まで迎えに行くと伝えていたが、『いいから待っていろ』と後になって父ちゃんが連絡をよこしてきた。家の中にいても落ち着かないし、もうそろそろ着く頃だろうと家族全員玄関先に出て待っている所だ。



「ねえパパ、サッちゃん遅いね」


「ママ、ジジ達今どの辺かなぁ?」



琴葉と幹太が案の定待ちくたびれた様子で聞いてくる。



「おっかしいなー、俺ちょっとそこの角まで走って見てくるわ」


「あ、三ちゃん!」



数十メートルダッシュしてから近所の角を曲がろうとしたその時……。



「うわっと! あっぶねぇなこの野郎! どこ見て運転してやがんだ!!」



趣味の悪い型遅れの黒塗りベンツが、怒鳴った俺の数メートル先で止まった。



やばい……。内心ヒヤヒヤしながらも、ゆっくりと降りていくパワーウィンドウから目が離せないでいた俺の視界に、サングラスをかけた見慣れた顔が飛び込んできた。



「父ちゃん!?」


「おう三太! 出迎えご苦労ご苦労。ほらよ、お待ちかねのお姫さんだぜ」



今度はスモークガラスのリアウィンドウが開いた。



「兄ちゃん……、ただいま!」


「サチ。お、おか……えり」


「いやーよ、そこでコソコソうちの方覗いてる怪しい奴がいたからよ。ふん捕まえてたら遅くなっちまったのよ」



父ちゃんがロックを解除したトランクから、ニョキッと顔を覗かせたのは……。



「お久しぶりです。三太兄さん……テへ」


「将吾まで!?っていうか、誰が兄さんだバカ野郎! てめぇがなり損ねさしたんじゃねえか!」


「まぁーまぁー三太くん。正月早々怒鳴っててもつまらんよ」


「一番怒鳴りてぇのはてめぇだよ父ちゃん。この古くせえベンツどうしたんだ言ってみろ!」


「あーあーこれ? 参ったぜ。母ちゃん頃と違ってよ、入院の付き添いって意外とやる事ないのな。あんまり暇なもんで、病院食堂でバイトして中古の……」


「……もういい」


「あ? 何だよ聞いてくれよ。このサングラスなレイバ……」


「もういいつってんだろうが!!」



元旦の抜けるような青空に俺の叫び声がこだました。



「おい将吾!」


「は、はい!」


「てめぇは急いで店に帰って、一番いい酒持って来い!」


「ラ、ラジャー!」


「父ちゃん!」


「はい!」


「このままサチを連れて、まずは母ちゃんの墓参りだ。帰りに美味い魚買ってきてくれ」


「おうよ!」


「帰ってきたら……」


「帰ってきたら?」


「もちろん、家族揃って退院祝いの大宴会だぜ!」



聞きたいことも言いたいことも、山ほどあるが今はいい。


今日はめでてぇ正月だ。


何よりサチがまぁーるい顔して、お日様みたいに笑ってらぁ。




〈了〉

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サンタとまん丸お月さま daima @ta_daima

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