魔女の森の黒翼亭

夜風りん

ep1 魔女のアップルパイ


 とある魔法の世界には北の大陸と南の大陸がありました。

 海峡を挟んで大きな北側の大陸には三つの大国といくつかの小国が。南の大陸には三つの民族が主に住まう小国の集まり、連邦が一つありました。


 その西の大国のとある森にて――



 グキュルルルル…



 森にこだまするほど情けない腹の音が響き渡った。


 腹を抱えてげっそりとした表情で森を歩いているのは一人の子供。ボサボサの短い髪の毛と、そして目深にかぶったキャスケット帽。衣類は村の少年たちのようなシンプルなシャツにカボチャパンツ。靴はブカブカの大人用のようであり、サイズが合っていないのかカポカポとしていた。

 スラム街から直接出てきたようなその子供はやせ細っており、どこで拾ったのか手にしている刃こぼれしたナイフでは茂みを開拓することすらできていなかった。


 「…はぁ、なんもないや」


 子供はそうぼやくと、その場にぺたんと座り込んだ。

 風の吹く音と木々のざわめきだけがやけに大きく森の中を吹き渡る。


 と、その時、茂みの向こう側で何か物音が聞こえた。

 ゆっくりと足音を忍ばせながら茂みの方に歩み寄り、そっと顔を出すとふくらはぎまで伸びたおさげの黒髪を垂らした女性がリンゴを木からもぎ取って幸せそうにリンゴの香りを嗅いでいた。


 「うん、いい出来…」


 その子供はごくりと生唾を飲んだ。


 (今のボクの足じゃあリンゴを取りに木に登ることも、魔法でリンゴを落とすこともできない。――けど、あの人を倒してリンゴを奪えば…!)


 森の中になぜ、一人で暮らしているのか。

 山賊に襲われる危険もあれば、野生の獣である魔物に襲われる可能性もあるのに、無警戒に歩いていられる理由を考えられるほど冷静だったなら、その子供の運命はまた違ったものになっていただろう。

 だが、空腹から冷静な判断を失っていた。


 茂みから飛び出すと、ナイフを構えて勢いよく駆けだす。

 死のうが、死ぬまいがどうでもいいことだった。ただ、見えているのはその手に収まった赤い熟れた果実だけ。



 すべてがスローモーションのようだった。



 ナイフを構えて勢いよく駆けだしたその子供を振り返った女性のルビーレッドの赤い瞳がわずかに見開かれた。

 だが、ハイライトのないその瞳がキュッと細められ、叫びながら突っ込んできたその子供に向き直る。

 村娘らしいシンプルなワンピース姿の一見すればスタイルがいいだけの若い娘。しかし、その普通の娘では浮かべることのない殺意にも似た冷徹な光がハイライトのない瞳を閃いた。


 何かにつんのめり、視界が270度回転する。

 手にしたナイフが衝撃で弾き飛び、不自然な弧を描きながら緩やかに地面へと突き刺さる。

 そしてその幼い体は大の字に倒れこみ、その視界に銀砂が散った。


 一ミリも動かない体で青空を仰いでいると、何を仕掛けたのかわからないが手を触れることさえせずに転ばせるという芸当を行った女性が幼い顔を覗き込んだ。


 「まさか、襲われるなんて思わなかったわね。結界が甘かったのかしら?」


 酷く冷徹な赤い瞳を見ながらその子供がビクッと体を震わせる。だが、怖いのに水分不足で涙さえ零れない。


 「殺すなら、殺せよ」


 その子供は開き直ってそう宣言すると、女性は目を細めた。


 「あいにく、あたしは直接手にかけない主義なの。残念だけど、勝手にのたれ死ねばいいわよ。墓の穴くらい、掘ってあげるから」


 その子供が唇を噛みしめた。その直後、



 キュルルルルルル…キュウウゥ……



 さらに情けない腹の虫が鳴いた。

 その子供が顔を真っ赤にして顔を背けると、その女性は驚いたように目を丸くしていたが、苦笑して手を差し伸べた。


 「あらあら、お腹が空いていたのね、坊や?」


 彼女はそう言うと、その子供は驚いたような顔をして目を見開く。


 「何か食べさせてあげるわよ。その代わり、帰るならさっさと帰りなさいよね」


 その女性の手を遠慮がちに握ると、すぐに引き起こされて尻もちをついた。

 だが、それ以上は目もくれずに立ち去っていく。

 その先にある小屋には看板が掲げられていないが、置き型の看板に『黒翼亭』という文字が書かれており、やたらと癖のある字で『今日のおすすめ』という文字と、その下に『アップルパイ』と書かれていた。


 「料理屋をしているの?」


 そう尋ねると、ドアに手をかけていた女性が頷いた。


 「会員限定、だけど、これから会員探しから始めないといけないけどね。…そんなことはどうだっていいのよ。改装がまだ完全に終わっていないから、店は来週からの予定だったんだけど、どうぞ」


 「…金ならないよ」


 「お腹を空かせてリンゴ目当てに襲い掛かってくるような子からお金を取る趣味はないわよ。それと、よく読めたわね? そこら辺の子供達じゃあまだ読めないわよ」


 「ボクの親はいいところの出身だったから…」


 だが、言葉を遮るように情けない音が再び鳴り響いて、耳まで赤くなったその子供に彼女は微笑んだ。


 「あらあら、仕方のない子ね」




     ☆




 店主の女性が皿に乗せたアップルパイを持ってきた。一緒にすりおろしたリンゴのスムージーまで用意してくれている。


 「急ごしらえだったから、お茶じゃないけど、いいかしら?」


 「うん」


 その子供は土埃などに汚れた手で皿に触れるのはどうかと思ったが、我慢できずにリンゴのスムージーを飲み干した。


 「! 甘い!」


 彼女はちょっと嬉しそうな顔でカウンター席に腰掛け、得意げに言った。


 「私の自慢のリンゴの木だもの。そこからとれたリンゴが美味しくないわけ、ないじゃない?」


 「おかわり!」


 飲み干してグラスを天井へと向かって掲げたその子供に、彼女は苦笑した。


 「ただ飯だからって自重しないのね?」


 「二杯目からは水でいいから」


 「お冷を持ってくるから待っていて。後でお茶も用意してあげるわ」


 彼女はパチンと指を打ち鳴らすと蛇口がひとりでに捻られ、水が流れ出す。それをフワフワと浮いて向かってきたコップが受け止めた。

 ある程度注がれると、そこに魔法で生み出されたらしい氷が投入され、あっという間にお冷が完成していた。

 その水入りのコップがフワフワと漂い、その子供の前に置かれた。


 「あまり冷やしすぎるのもなんだけど、どうぞ」


 「わーい!」


 ごくごくと美味しそうに喉を鳴らして飲むその子供の姿を見ながら店主は目を細めた。


 「その、いいところ出身の坊やがどうしてこの森に?」


 「母さんとボク、一緒に家を追い出されちゃったんだよ。でも、母さんは流行り病で死んで、スラム街で暮らしていたんだけどさ…体が小さくて弱っちいから悪ガキどもに何度も追い回されちゃって…。気が付いたら、この森に迷い込んだんだ」


 その子供は少し遠慮がちに差し出された、店主のおやつ用に焼いて時間が経ち、すっかりさめてしまったアップルパイに齧りついた。

 サクッという音と共に仄かなバターの香りが口いっぱいに広がり、そして、濃厚なリンゴの味がジャムのように蕩ける食感となって舌の上に零れ落ちる。

 軽やかな口当たりのパイ生地と、それと対比するように甘くて、でもほんの少し酸味のある火の通ったリンゴのトロトロに煮込まれた柔らかな舌触りが心地よく、その食べる手が止まらなくなる。

 アップルパイのパイ生地が粉となって皿に落ちるのさえもったいないくらいに品のいいアップルパイだった。


 「これ、本当に美味しい…」


 「そうでしょうね。あたしの得意料理だもの。――ところで、坊や。ここが何の森か知っているのかしら?」


 「? もひふぉははへ(森の名前)?」


 店主がわずかに声のトーンを落とした。



 「そうよ。ここは『魔女の森』」



 その子供はもぐもぐとアップルパイを食べていたが、手を止めた。


 「魔女の、森?」


 不思議そうに小首を傾げたその子供に店主が告げる。


 「恐ろしい魔女が棲みついた森のことよ。人間に手を掛けても何一つ感じない冷徹な魔女が――ね?」


 「それって、…お姉さんのこと?」


 「そうよ」


 店主が返すと、その子供はクスクスとおかしそうに笑った。


 「冷徹だったら、お姉さん、ボクのことを助けずに見捨てていたでしょ? どうして見捨てなかったの?」


 「怖くないの? あたしは魔女って呼ばれているのよ?」


 その子供はにっこりと笑った。


 「料理の美味い人に悪い人はいない。お姉さんのアップルパイ、本当に美味しかったもん! だから、お姉さんは悪い人じゃないよ!」


 彼女は戸惑ったような表情を浮かべたが、やがて、シニカルな笑みを浮かべた。


 「変わった坊やね」


 「その、それで相談なのですが…」


 その子供が背筋を正すと、彼女は不思議そうに小首を傾げた。


 「なあに?」


 「あの、お客さんの呼び込みも手伝いますし、その、どんなお仕事も頑張りますから、その…ボクをこのお店で働かせてくださいませんか?」


 彼女はキョトンと目を丸くした。


 「図々しい子ね。…でも、まあ、暇だからいいわよ。特に行く当てもないんでしょ? じゃあ、うちにいていいから、その代わり、ちゃんと働いてね? その分の賄い料理は出すから。――お客さんが来れば、だけど」


 「…!」


 彼女は肩をすくめた。


 「あたしは真人間じゃないし、正義の味方でも何でもないわ。むしろ、悪い人間の側でもあるかもしれない。それでもいいなら、いたいだけいていいわよ」


 その子供が目を輝かせて立ち上がった。


 「ありがとうございます! ボク、ルードって言います。あの、先生ってお呼びしても?」


 「あたしはアルセ。先生なんて柄じゃない。でも、よろしくね、ルード」


 「はい!」




 とある結界に阻まれた森の奥、密かに一軒の料理屋がありました。

 そのお店の名は――『黒翼亭』。完全会員制の、魔女とその弟子が切り盛りする小さなお店です。


 そのお店が立ちゆくのかって?


 さあ、さて、どうなることやら。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

魔女の森の黒翼亭 夜風りん @mikan3938

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ