俺と私の箱庭
「好きなのか」
髪を撫でられる。内臓がぎぅとなって、やっとの思いで絞り出そうとした、何がとの言葉は口で塞がれてしまった。驚き受け入れた舌は、逃れられない様に深く絡む。掴まれた髪と腰から伝う体温は酷く冷たくて、こちらからしがみ付いた両腕に力が籠もった。何時だか願った事なのに何故か、駄目だ違うこれは、ああそうか。同性で立場が違う。皆をまとめ上げ指示する彼を、只支え手伝うだけだ。自分等受け入れられる筈が無い。
「 はは からかって るの 冗談止めて」
整いきらない思考と呼吸のまま、無理矢理言葉を出した為に一瞬、何を言ってしまったのか分からなかった。彼から離れようと身体を引けば、痛いくらいに放そうとしない。鉱石色をした目が細められ、それを見ていられなくて反らしてしまった瞬間に、あ、と思った時にはもう、柔らかい絨毯に押し倒された後だった。まずい。背は自分の方がでかい筈なのだけど。頭をぶつけてしまわない様に、彼の腕が後頭部にあったがそれでも、目の前がちかちかする。目の前にある彼の顔が見えない。ぼうとする視界は一向に良くならなくて、何時の間にか取り払われていた眼鏡に、今更ながら気が付いた。
「抵抗しろ」
冷たい手のひらが頬を包み、次に髪を撫ぜられる感覚が混乱する頭を微睡ませた。絡み付く舌が、腰に滑らす指が、じわじわと熱を与えてきて、彼に対しても、受け入れてしまう自分に対しても、酷く怯えてしまう。彼は抵抗しろと言ったのに。そう思い出して押し返そうとしたが、何故だか更に押さえ付けてくる。掴まれた手首が痺れる程痛んだ。
「やめて」
涙が流れる。抵抗等出来やしない。しかしこれ以上進めてしまえば、彼に迷惑が掛かってしまう。どこで感付かれたのかさっぱりだが、殺し続けてきた気持ちが、抑えられなくなってしまう。ゆるゆる力を込めると、顔を近付け耳許で、俺が好きでは無かったら抵抗しろ。なんて、なんて、狡いのだろうか。こんなの酷過ぎる。シャツを裂いて噛み付くように口付ける彼に、掴まれていた震える腕をゆうっくりと伸ばした。肩に置いて少し力を入れると、深い色の鉱石がこちらをじっと、それから今度は目が離せなくなくて。まるで拒絶するのかと手が酷く震えていた。怒っている、のではなく、泣いてしまいそうな。拒絶等、する筈がないのに。肩に置いた腕が情けなく震える。
「嫌われたく ない から 抵抗したいのに 貴方は酷い人だ 私に どこにも逃げ場を 与えてくれない」
涙が止まらなかった。痛みはもう感じない。呼吸が辛い。彼の顔が見えない。言葉を口にした瞬間から、堰を切った様に溢れ出す汚らしい幾年の想いを、この人にぶちまける。
好きです。ずっと前から好きでした。戦場を共にかけていた時からずっと。側に居るだけで、声を聞くだけで、浅ましくも幸せでした。決してこの汚い感情を出さない様してたのに、もう駄目だ、抑えられない。貴方の枷にはなりたくない。手放して、嫌いだと貴方から拒絶してくれ、お願いだ。
声を詰まらせ息を詰まらせ、まるで幼子のよう。ああ気持ちが悪い。気持ちが悪いのに、きれいに身体が空っぽになった気がする。悪い視力と涙のせいで完全に彼の顔は見えないが、きっと這いつくばる敵を見下げるような、冷えた目をしているのだろう。消えてしまいたかった。いや消えてしまおう。今日の内に引き継ぎを行って、出来るだけ丁寧に穴を埋めてから、幾年も側にいた彼の前から、消えてしまおう。
「言いたい事は其れだけか」
見開いた目にぼやけた彼が近付いた。先程よりも優しく口付けられ、髪を撫でる手も柔らかい。ひやりとする手の温度が、熱くなった身体に触れてくれて、とても心地良くて。もう力尽くに私を押し倒してはいなかった。濡れた目許を拭いながら丁寧に舌を絡ませられ、溶けた思考が混ざっていく。
「 許可しない」
「な ん 」
「俺から離れる気だろう」
何を、彼は何を、止めてくれ。
「良く聞け 俺はそんな事認めない 許可等しない」
力は上だ。突き飛ばしてしまえば良い。だがもう溶かされ混ぜられた思考では、到底無理な話になる(それ以前に手を上げるだなんて無理だろうけど)。しかもこの人は、何時もの命令を下すが如く、私を無理矢理縫い止めて来た。痛く優しく心地良く酷い。どうしてこんな、やわらかに、触れてくれるのだろうか。
「相手の策を見破るに長けているお前が 如何してそんな顔をする 望んでいた事に何故そんなにも怯える 俺がお前を拒絶するならば 此の様な事はしないと分かっているだろう お前は馬鹿だな 自分の事になると馬鹿で鈍感だ」
……………………………………………
あれ、インク切れた。
「ん」
ありがとう、と、言うかこれペン先が。うわぎりぎり耐えてくれた。危ない。
「其れやるよ プレゼント」
貴方から貰った最初の物が、先潰れた万年筆かよ。しかも名前彫ってあるし、直せば良いのに。頼もうか。
「いらん 新しいのはもう作った」
塵処理ですか。
「嬉しいだろう」
はは、有り難迷惑だよ、全く。
彼奴に用があり部屋へと出向いた時、ノックしても返事が無かったので、勝手に入る事にした。きちんと片付けられた部屋。立場にしてはとても質素で、衣類以外の収納と言えば、本棚と机の引き出し程度だろうか。頼んだ資料は机上に置かれており、回収し立ち去ろうとした時にふと、引き出しが1つ、少しだけ開いている事に気が付いた。他の奴等ならば気にも留めないが、真面目な彼奴の中身を知りたくなって、そうと開けてしまった。中は小さな木箱。
其の中身を見てしまった瞬間に、彼の感情が一気に流れ込んで来たんだ。何年も前の塵を直し手入れして、大事に綿を敷いた木箱に詰めて、引き出しの奥に仕舞っている彼の、その様な一面に、目の前が真っ白にきらきらと光った。嫌悪感等は一切感じない。まさか彼が俺に対して。俺は彼みたく何年も隠す柄では無いので、即刻俺の部屋に呼び出し、こうして手荒に確かめている。確信は得られた。然し彼は自身の感情を汚いと言い、俺から手放せと訳の分からない事を口走り、あたたかい涙が止まらなくなってしまった。如何して聡く賢い彼は、何時も俺の指示を隅まで理解する彼は、此所で違えてしまうのか。勝手に答えを決め付けて、勝手に去ろうとするな。そんな事許す筈が無いだろう。
「言いたい事は其れだけか」
お前を手放す等死んでもするものか。涙を流しながら俺への好意を口にする彼に、堪らなく愛おしいと感じている自分が居た。やわらかな舌に絡めて、熱い腰へ手を滑らせて、全部受け入れる彼はもう、誰にも渡さない。もしかすると俺も随分前から。未だ困惑している表情の馬鹿で鈍感な彼へ、また濡れた目許を拭って、取り払った眼鏡を返した。
「其の言葉を聞いて 理解した上で 離れる許可等出さない 意味が分かるか」
冬の朝焼けの様な目の色が、俺を見てちかちかときれいに光る。止まらなかった涙はもう流れない。
お前を受け入れ愛そう、俺のものになれ。
――――――――
「付き合っているから」
俺と彼。がたりと動揺を隠し切れない彼を余所に、朝の会議前に上層部全員に公開すれば、予想通り驚きはしなかった。寧ろやっとか、と皆々息を吐く(彼の視線が鋭く刺さるが其方は決して見ない様にして)。本当はあの後「暫く皆には内密に」、そう言われていたのだが。早く公言したかったので。つい。
「朝から機嫌が良かったのはそう言うことか」
「ホント長かったよ 待ちくたびれました」
「ああ副官殿 わたし達全員望んでいた事ですよ 貴方以外司令官を宥められる者は存在しない」
「はーもう おっせぇんですよ」
「でも良いのかい 司令官結構面倒臭そうだよ」
からから笑うのは軍外から支援する機密人物だ。多大なる貢献故、失礼な態度と言葉遣いには以前から目を瞑っているが、流石に其の発言は駄目だ。鋭く睨めば手を上げ笑いながら謝罪する。ざわめく中やっと彼の方を向けば、皆の受け入れた言葉に戸惑っており、赤くなった表情を隠す為の手のひらも赤い可愛い。そぅと手を取れば皆も目を丸くし息をのむ。普段穏やかに微笑み滅多に感情を表に出さない、彼が今、目に薄い膜を張って、羞恥から小刻みに身体を震わせながら、冬の朝焼け色を、惜しみ無く晒すのだ。美人が照れたら可愛らしくなるのだねと面妖な格好の其れは1つ高く鳴いて、まるで研究対象を見付けたかの様に彼に近付こうとする。止めろ触るな。ぎ、と本気で睨んでも此奴はあっけらかんとし、式は何時だいと。式。式か。其の発言を皮切りに様々な言葉が会議室に飛び交う。まだ早いだの寧ろ遅いだの完全に無法地帯になってしまった。俺は俺で式と言うものを割と本気で考えていたので、机を叩き割る勢いの音が鳴り響くまで突っ立っていたらしい。冷めた朝焼け色も綺麗だ。全員が静まり返る。
「朝の 会議を 始めます」
……………………………………………
冷酷で無慈悲、精密で大胆な作戦を練り、相応しい人材を纏め上げ、短期間で弱小部隊を強靭にしたこの御方は、自身に対して酷く無頓着だった。副官殿が管理してくれて、それこそ身の回りの御世話まで、仕事の域を超えているなぁと常々思っていた。業務が山積みの司令官様の代わりに彼が隣国へ赴き、たった1週間居ないだけで地獄だった。彼の存在を痛感した。放っておけば寝ないで仕事をしているし、散々言ったが食事も真面に取らない。なのに本人は至って普通にしているから怖い。人間じゃないとの噂はあながち間違いでは無いのだろう。本当は10日を予定していた彼は、有難い事に早めに切り上げてくれて、帰国の報告より先に何か食えと、普段より低い声で司令官の前に食事を差し出した。あんなに言っても聞かなかったのに、黙って食べながら報告を聞き資料に目を通す。食べ終わったタイミングで資料を奪い取り、今度は眠れと柔らかく言えば、のろのろ立ち上がりソファへ身体を沈めて動かなくなった。あっけに取られていたわたし達を労う様に笑いかけ、君たちも早く休みなさいと。もうこうなると如何して結婚していないのかが疑問だ。仲間内でああだこうだと言っていたけれど、双方恋愛沙汰には興味が無いのだろうと結論付けてしまい、結局今のままが1番良いのではないかと。それから何年か経ってようやっと争い事が落ち着いたある日。技師が万年筆の修理を終えたと届け出てくれて、誰の依頼か聞けば副官殿だと。おかしいと思った。彼は羽根ペンを愛用していたし、万年筆自体は持っていたが、修理する程の思い入れは感じなかった。だから疑問と興味が湧いて、不在ですので自分から渡しますと、布に包まれた小箱を受け取ってしまった。誰も居ないのを確認して、廊下の隅でこそりと布を取れば、良かった小箱は透明な素材だった。それは黒漆が塗られた上物で、しかも細かな装飾を纏っている。なる程、これなら修理に出すのも納得だ。ちいさく刻み込まれた名前を見るまでは。司令官様の名前だ。ああ修理を頼まれたのかもしれない。そうかそう考えれば全てが納得が行く。小さく息を吐いて、でも小さな期待から少し鎌を掛けてみようと、実は休憩中だった彼の許へ。
「失礼致します 届け物ですよ」
「おや ありがとう」
「出来栄えは最高だと 技師は貴方に使われる事を誇りに思うと言っていました」
「そう」
否定しない。表情は変わり無くやわらかい。しかし彼は演技が上手いので、真実や嘘を霞ませられる。そうして他国の幹部を手玉に取ってきた恐ろしい御方だ。好奇心と期待感に突き動かされて、今度は司令官様に、何日か後書類を提出する際聞いてみる。
「あれ 万年筆変えたのですね」
「嗚呼 先が壊れてな」
「修理とかはしないんですか」
「俺は直しはしない あれは彼にやったよ 名前彫ってあるから棄てただろうな」
自分に塵を押し付けるなと言わんばかりであったが、とくつくつ笑っている。要らない物を押し付けられて、それを直して持っている。あれ、どうしてそんな事をするんだ。高価な物だから取ってある、いや違う、彼は高級品に興味は無い。
司令官様が人に贈り物をする事はまず無く、それこそ国が絡む事柄でさえも稀だ。その方から、例え本人が塵だと言う物だとしても、手渡されてしまったら。副官殿がもし好意を持っていたとしたら。自分自身の妄想でしかないが、なんだか物凄く嬉しくなった。それからずっと祈っていたんだ。この妄想が事実で、隠し通すのが上手い彼の好意が伝わります様に。祈っていた、ら。
「付き合っているから」
俺と彼。
………………………………………………
半月が冷たく空に浮かぶ時刻。行き成り自室の扉が開閉し、愛しい顔が俺を睨んだ。怒気は感じないが、些か疲れている様子だ。後ろ手に鍵を閉めた後ずるずると、扉に体重を預けてしまった。書きかけの書類を投げ出して、彼の許へと駆け寄る。
「いきなり過ぎない」
膝に顔を埋めた。表情が分からなくて声もくぐもる。此の様な彼を見るのは初めてだ。傍に屈んでそぅと前髪を上げると、彼は少しずつ顔を上げ、がちがちに顰めた表情筋を一気に緩めながら、流れる感情を言葉にする。
「言わないでって言いました ええ 貴方が昨日無理矢理繋ぎ止めた後にです 覚えていないとは言わせない」
「応 確実に聞いた 然しすまない 一早く俺のものだと皆に伝えたくてつい もし言うと伝えても拒否しただろう」
「したよ 全力で 会議で言うなんて非常識にも程がある 私がどれだけ恥ずかしかったか」
「万が一に備えて」
「なん それ はあ 朝から質問攻めが凄いんだって 今も逃げて来た所 でも ノックせずに入った事は謝ります」
「全く構わない おいで」
立ち上がって両手を広げる。少しだけ眉を寄せたが、ゆるゆる腕の中へと入ってくれた。ぬくい温度。抱き締めるだけでこんなにも安心する。嗚呼早く想いを口にしてくれれば、もっと前の段階からこの感覚を味わっていたかもしれないのに、等、考えただけ無駄なので早々に切り捨てる。己には愛情以前に、感情なんざ必要無いのだと思っていた。血と硝煙と焦げた臭いや悲鳴を浴びて幾年も過ごし、陥れ切り捨て立ち回り、自身を上へと押し上げる事だけを考えていたから。溶かしてしまった方が楽だった。そうやって身を滅ぼした王や指導者は数知れず、俺もそうなってしまうのだろうかと。だが辛うじて人間性を保っていたのは、彼が世話を焼いてくれていたからだ。でなければもうとっくの昔に化け物になっているか、死んでいるだろう。首に顔を埋めれば微かに震え、くすぐったいですよと。嫌かと聞けば否定される。耳をゆるく囓れば小さく悲鳴を上げ、目を合わせられた。
「正直こんな風に触れられるとは思ってなくて その 貴方愛情だとかそう言うの 興味なかったでしょう」
「自分でも驚きだ」
「私は受け入れてくれただけで嬉しいのですよ こうしているとまだ夢の中にいるみたいですが 質問攻めの精神疲労は健在なので これは現実のようですね」
「俺は受け入れるだけでは満足しない 彼奴が言った様に俺は面倒臭いぞ 好いた事を後悔する程に」
「後悔等しませんよ 何年想い続けていたと」
「其の話は後でじっくり聞かせて貰う事にしよう」
ぎゅっと眉根が寄った。2徹明けに珈琲が切れた時にする不機嫌な顔。とてもレア。勘弁して下さいと長く息を吐いた後、胸元に頭を押し付け、消えそうな声で「しあわせだ」と呟いた。体温が上がった気がした。どうしようも無いのだ、どうしようも無く、彼が大切なのだと、好きなのだと、愛しているのだと気付かされてしまった。万年筆を見付けて良かった。今まで溶かし切ったと思っていた感情が、抱き締めるだけでほら、あたたかく湧いてくる。俺は人間であると受け入れてくれる。
さて此れからが大変だ。最大の弱点を作ってしまい、最高の側近を最愛の恋人にしてしまったのだから。何時も以上に気を張らなければ表情筋が弛む。彼ばかりを見てしまう。駄目だ、思ったよりも事態は深刻だ。ううんと唸ればどうかしたかと、彼が聞いて来たので、何でも無いと笑って答えた。なんでもない。些細な事だ。笑って、そぅと口付けた。
人を愛すると言う事は、嗚呼こんなにも素晴らしい。
人に愛されると言う事は、どうしようもなく幸福だ。
箱庭シリーズ(戦の箱) とりなべ @torinabe
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