Hold one's breath

雉男一色

Hold one's breath

 雷路らいじは駆けていた。全力を以て、脱兎の如く駆けているのだった。黒のワイシャツの袖口が何かに引っかかって破れても、グレーのベストとトラウザーズが砂埃に汚れても、自身の髪色と同じ栗色の革靴が謎の液体に濡れても、どれもこれっぽちも気にならなかった。彼は気分が良かった。なにせ、この薄暗い湿気た廃病院の廊下には今、己と、己を追い掛け回す狂人の他には誰も居ない。

 足元に転げられた担架や医療用ワゴンを軽々と飛び越して、雷路はひたすらに駆ける。途中、崩れた壁が瓦礫の山となって行く手を塞ぎ、歪んだ扉が通せんぼをしたが、彼にとってその程度の障害など屁でもなかった。


「追いついて見せろよ、ウスノロ」


 遠くで雷鳴が轟く。何処かから鼠が飛び出してきて尻尾を踏まれ鳴き喚く。雷路は止まらなかった。背後の少し遠くから、鼓膜を震わすような発狂と共に己を目指して駆けてくる何かから、逃げ切れるという自信がさらに前へと彼を走らせるからだ。

 雷路は楽しんでいた。埃にまみれたこの廃病院を上へ下へ、右へ左へ縦横無尽に駆け回りながら、あのとち狂った追跡者ハンターの手をすり抜けていくのが楽しくて仕方がなかった。弄んでやるつもりなど無かったのだが、こうして好き勝手に意地悪をしてやれるのは久しくて、つい始末を後回しにしてしまった。何者にも邪魔されず、イタチごっこをしていられる機会などそう多くない。そんな絶好のチャンスが巡ってきたのだ。


『ウオオオオオオオ!』


 そうこうしているうちに、わりと近くで奴が唸りを上げた。腹の底を掻き回すような、人離れした叫びだった。

 今、雷路を追い掛け回しているものの正体は人間である。我々と同じように生まれ、生きていた人間。しかし、奴にはもう正気も理性も残っていない。辛うじて残った人間らしい見た目とは裏腹に、奴を支配しているのは獣の意識だからだ。目に映った己以外を食らいつくし、噛み殺し、平らげる人喰いの獣。傷だらけの身体から骨が出ようと臓物が零れ落ちようと、奴らは痛みも苦しみも感じない。中身をすべて失ったとしても死にも至らない。奴らはもう人では無いのだ。人であるのだから。


「ほう、やるじゃねえか」


 瓦礫の山が力ずくで突破される音がけたたましく響き渡る。道を塞ぐ強固な棚を雷路が容易く飛び降りる。床でくるりと身を転がしてすぐさま立ち上がり、また最高速度で駆け出す。やはり楽しい。楽しくて楽しくて仕方がなかった。技術で翻弄し、速度で圧倒的な身体力の差を見せる。雷路の口角は吊り上がっていた。縁のないシルバーテンプルの四角い眼鏡のその奥で、濃厚な蜂蜜色をした双眸が瞳孔をおおっぴろげて闇を見据えていた。

 彼にとって暗闇などは足枷にならない。彼にはからだ。音の反響が、モノクロの点と線で映像をつくる。それは彼の視界と重なって、毎秒リアルタイムに景色を見せてくれた。故に彼は息を飲むような暗闇の中でさえ、こうして駆けずり回れるのだった。


『ウオオオオオオオ!』


 また追跡者が吼える。硝子窓がかち割られる音がした。破片が雷路の足元に飛び散って、駆ける足にじゃり、という感覚をもたらした。

 目の前に朽ちて剥がれ落ちたカーテンレールが垂れ下がってきて、慌てて身体を低くし潜り抜ける。それも束の間、今度はふたつのロッカーによって道が狭められていた。これは横にならなければ通り抜けられまい。すかさず上体を僅かな隙間に差し込めて、ずりずりと全身を押し入れていく。背後の足音が猛烈な速度で近づいてくる。あと数メートル、数十センチ、数ミリ──


『ガアアアアアアア!』

「触るな、ノロマが!」


 あと少しで通り抜けられるという時に、遂に追跡者が雷路に追いついてその腕を鷲掴んだ。振り向いた雷路の目に映ったのは、ぐずぐずに溶けた顔と蛆の湧いた頭、ほぼ飛び出た目玉ふたつと外れた顎から涎を垂れ流す黄色い歯。それから筋組織が丸見えになったどす黒い腕だった。鼻が曲がるほどの酷い臭いがする。腐臭だった。人間が腐った臭い。奴は腐り果てているのだ。今にも噛みつかんと暴れるその身体は、どこもかしこも正しく機能などしていないのだ。

 雷路は掴まれた腕を何度か噛まれかけながらも振りほどいて、無事ロッカーの隙間から抜け出す。奴は通り抜ける、ということを思いつくだけの知能すら失っていて、まだ隙間の向こうで汚らしい歯を鳴らして暴れているのだった。


「そろそろお終いにしておくか」


 雷路が喉元で乾いた笑い声を転がした。大腿の横に括り付けられたホルダーから黒刃のナイフを取り出して、一歩、また一歩、ゆっくりと退いていく。

 追跡者がひとしお激しく唸りをあげて、重いロッカーの片方を傾け始めた。強行突破するつもりらしい。金属が擦れ合う甲高い不快な音をたてて、じわりじわりと此方へ身体を捩じ込んでくる。


「来いよ、阿呆」


 耳が聞こえなくなってしまいそうな爆音と共に、片方のロッカーが横倒しになる。と同時に追跡者が地を蹴って跳ね上がり、雷路に向かって飛びかかった。間一髪でそれを翻して、雷路は隙をついて追跡者の腿にナイフを突き立てる。奴が悲鳴をあげる。振り向きざまに腕をぶん回してきたのが雷路の頬を掠めた。それも紙一重で翻し、お返しに再びナイフを起てる。


「何をしてもトロいな」


 追跡者のあらゆる動きは何処か鈍重で、雷路は避けるのに大して苦労しなかった。彼らは身体がほとんど腐り落ちているせいで、瞬発力が無いのだ。突進も、腕回しも、投擲も、何もかもが鈍い。雷路はそれらを軽々と、しかし出来るだけギリギリで臨場感を感じながら避けていく。時には少し無駄なアクションを挟んで。


「ほら、俺を傷つけてみろ。無理だろうが」


 雷路の口角がより吊り上がって、我慢しかねた笑い声が漏れる。一歩、一歩と後ろへ退きながら、背中に近づいてくる廊下の突き当たりまで追跡者を弄ぶ。


『ウオオオオオオオ!』


 痺れを切らした追跡者が、臓物の無い腹の底から高く高く吼えた。堪忍袋の緒が切れたらしい。不潔な唾液が飛び散って、幾つかが雷路の頬を濡らした。

 奴はぐっと身を低くしたかと思うと、先程までとは比べ物にならない勢いで突進してきた。流石の雷路も少し身構えて、ナイフを強く握り直す。ぐずぐずの身体が、全身全霊で突撃してくる。狙いを定めてナイフを構える。重みが手を伝って肩にのしかかる。──身を、翻す。


「残念だったな」


 追跡者の身体は、横に回避した雷路を通り越して突き当たりの壁にとんでもない勢いのまま叩きつけられた。辺りが一瞬揺らぐほどの勢いだった。のたうち回る追跡者がゆらりと此方を振り向く。段々とその動きは鈍くなっていき、やがて雷路を見つめたまま動かなくなった。よく見れば、奴の胸にはナイフが突き立てられているのだった。


「楽しませてもらったよ」


 雷路は奴の胸からナイフを取り上げて、雀の涙ほど残されていた奴の衣服跡で血を拭う。それをホルダーへ戻してやれば、もう何事も無かったように元通りだった。

 ──が、事態は突如急転した。メキ、という重厚感のある音と共に、壁に一本の稲妻が走ったのだ。追跡者の全力の体当たりを食らった老朽化した壁が、いよいよ崩壊する合図だった。


「む、不味いかな」


 雷路は速やかに来た道を戻り始めた。駆け足で、なるべく振動を伝えないように気を配りながら。だのに、壁の亀裂は雷路を追い越して次々と生み出されていく。雷路は少しばかり焦っていた。あと少しでロッカーのところだ。廊下はまだ長い。間に合うだろうか。


「おいおい、冗談はよしてくれ······!」


 駆け足を早めようとしたその時だった。先程よりも大きな、ビシ、という音が足元で軋んだ。何事かと視線を落とした直後、雷路の身体がぐらりと揺らぐ。不味い、床が抜けた。コンクリートで出来た床が、抜けた──


「──クソ!」


 重い瓦礫が下へ、下へと階を幾つか通り越して落ちていく地響きが病院を揺るがす。鉄骨や金具が甲高い声で喚き散らす。人一人の叫び声が暗闇にこだます。


 そうしてすべてが静寂に包まれる頃、そこに大きな穴と狂人の死骸だけを残して、喧騒は何処かへ去ってしまったのだった。



 終

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