海にささげる

淡島ほたる

海にささげる

 おおきな船に揺られる夢を見た。隣には赤んぼうを抱えた美しい女がいて、海は宝石のように光っていた。ひたすらに大きくて、さみしい海だ。私は怖くなって船縁をつかんだ。ゆれる。赤んぼうは、なにもこわくないみたいに笑っている。そして、私は空を、



「花瀬は、海を見たことがある?」


 舜がそう訊いたとき、私は即座に、ないと答えた。


『一度も?』

「いちども」

『君は、どこに住んでいるんだっけ』

「ずうっと西のほうだよ。舜は東でしょう。あなたとは、真逆のはずだから」

『そうか、それは知らないだろうね』


 知らない番号からの電話を取ったのがはじまりだった。

 あなたでしたか、と言った彼の声を、いまでも憶えている。


 私は彼を知らなかったから、不思議に思って「失礼ですが、どちらさまですか」と訊ねた。すると舜は「参ったなあ、冗談です」とほんとうに困ったふうに笑った。

 おかしなひとだ。そう思いつつ、私たちは互いの電話番号を教えあった。秘めごとのように日々電話をかけ合っては、とりとめのない話をした。

 たまに彼が政府の話をすることがあったけれど、私はほとんど分からなくて「未来は舜に任せる」とまとめた。彼はそんなとき、「任されました」と言ってすこし淋しげに笑った。


 舜は電話越しに『こちらに来るといい。綺麗だよ』とおだやかに言う。畳に置いてある柔らかなえんじ色のソファに腰掛けると、私の身体はざぶんと沈み込んだ。

「舜のいるところは、遠いでしょう。いまは戦もあるし、行けないよ」

 私はなんども舜に会いたがったけれど、彼は頑なにこちらに来るとは言わなかった。いつだって、君がこちらにおいで、とはぐらかすように笑うだけだ。ずるいと思うけれど、仕事が忙しいのかな、と納得する気持ちもあった。

『彼ら、水上はノーマークなんだ。海を渡れば問題ないさ。船で、そうだな、三日。たった三日だ』

 電話の奥で音楽がきこえた。なにをきいてるの、と訊くと、さてなんでしょう、と舜はしずかに返す。ずるいひとだ。知らない、おだやかな曲。ちゃり、と鍵の音がして、おせっかいかなと思いながらも気になって口を開いた。


「こんなときに出かけるの? 雨だよ。夜、激しくなるって」

『仕事だから。ちょっと呼ばれてしまってね。まあ、危なくない道を通るし、大丈夫だろ』

 舜はかすかにうんざりした気配をにじませてそう伝えた。彼のそういう雰囲気を知るのは初めてだったので、私はすこしの動揺と喜びを隠して、「そっか。気をつけてね」と言った。


 そういえば、私は舜の仕事をいっさい知らなかった。あるときふと訊ねると、生死にかかわらない職業だよと答えられて、ひどく戸惑ったのを憶えている。ふつう、そんな言い方をするものだろうか。

「ピアノの調律師とか、バーテンダーとか」私が直感でそう言うと、彼はめずらしく大きな声で笑った。そのあとに、君は僕を買い被りすぎだ、そんなに晴れがましいものじゃないよ、と柔らかな声で返した。

「舜に会えるかは分からないけれど、私も機を見て行ってみる」

 そうは言いながらも、今夜行こう、と思った。ちゃんと着くはずだと、なんの根拠もなく信じられた。きっと彼に会えるだろうということも。

『眠っていればすぐだよ。すこし退屈かもしれないけれど』

「本をいっぱい持って行くから、大丈夫だよ」

『君の顔を、僕は知らないから。どうしようかな』

「あなたを、ちゃんと判ると思う」

 だから心配しないで。そっと言うと、参ったなぁ、と舜は苦笑したような声を漏らした。初めて話したときのことが思い出されて、きゅうと胸が鳴る。


『……花瀬、近くに窓はある? いま、とても美しい空だから。見てごらん』


 その言葉につられるように窓のほうを見ると、空は淡い茜色に染まっていた。さああ、とかすかな雨音がする。細やかな雨が降っていた。ほんとうだ、と静かなため息を漏らすと、『そろそろかな』と舜が言った。あと数分で、警報が鳴る。もうじき、私たちの国のどこかで戦が始まる。

 こんなおだやかな空のもとで人が死ぬなんて、信じられなかった。もっとも、私のような一般人にとってその現実はあまりにも遠い存在だ。交通規制などの些細な取り決めはあるものの、さほど情勢は緊迫してないからだ。私を含めたふつうの人間は、日々を過ごしながら、すこしずつなにかから脅かされている気配に嫌悪感を募らせるだけだ。


『花瀬、気をつけて来て。そうだな、途中、怖くなるときがあるかもしれない。そのときは、歌をうたえばいいからな』

 内緒話のように低い声で舜が言うので、私も「なにをうたえばいいの」とわずかに声を潜めて訊ねてみた。

『なんでもいいよ、君の好きな歌で。また来るころに教えてくれたら、迎えに行くから。それじゃあ、気をつけて』

 彼はひとつひとつ丁寧に話した。電話が途切れると、私は突如大きな不安に襲われた。舜のいるところは、遠い。確実に遠いのだ。


 


 空を見た。はるか高く、うんと上空で、橙の光が点滅している。雲は灰色だ。わざと不安を煽るような耳障りな警報が鳴った。昼のあいだ、彼と話していたときに聞いたものよりも、もっと呻るように音をあげている。

 はっとして隣にいた彼女らを見ると、赤んぼうは呆けたように空を見ていた。女もそれにならった様子で、ただただ空を見ている。青い。ただただ、青いのだ。女の白いスカートがなびく。はらりと覗いた彼女の脚は青白く、私は目を伏せた。船はいつのまにか港に着いていた。遠くに見える町並みは朝靄に紛れて白く、静かだ。



 気がつけば、私は港町に立っていた。見渡しても、赤んぼうも女もいない。向こうには船乗り場とおだやかな水の流れだけがあった。これが、彼の言っていた海なのだろうか。舜が言っていたとおり、綺麗だ。吹く風は冷たく、私の頬をすっかり冷やした。薄いコートから忍び入ってくる風が、ひんやりとした。


「花瀬」


 声がした。確信をもった足取りで、背の高い影が近づいてきた。舜だ、と感じる。

 あなただったのか。初めて会ったのに、そうか、とやけに腑に落ちた。それほどまでに懐かしい顔立ちをしていた。


「花瀬だろう」


 そうだよと答えるよりも先に、さわやかな青色の防護服に身をつつんだ彼は「花瀬」と私の名前を呼んだ。このひとは、こんなふうに笑うのか。こんなにも優しい目をすることを、もっと早くに知りたかった。


「ちゃんと来られたのか。そうか。えらいな」

「がんばったでしょう」


 私は泣きそうな気持ちで、それでも強い口調で言った。舜はしずかに頷いてから、たずねた。「怖かったろう。歌をうたった?」

「うたう前に、あなたが来た。こわい夢を見ていた。でも、あれはほんとうかもしれないの」

「戦は、もうすぐ終わると思うよ。ほら、いま政府は、」

 私は彼のむずかしい話を聞きたくなくて、「簡潔に言ってよ」と遮った。

 彼は「簡潔か」と言ったきり悩んでしまった。

「私、ずっと、あなたがなにを言ってるのかわからなかった。舜がほんとうに戦っているなんか知らなかったから、あなたに任せる、なんて言っちゃったでしょう。洒落になってなかったよ、ばか」

「ごめんな」

「謝ってほしいわけでも、なかったんだけど」

「あのな、花瀬。きょうで戦はしまいだ。この一年で人はずいぶん死んでしまったけれど、終わったよ。とりあえず、終わった」

 舜が謝ることはなかったはずなのだけれど、私の言葉に気圧されたように彼はごめんと繰り返した。憔悴しきった顔の陰のなかに、安堵の

色があった。もういいよ、と言おうとすると、舜はふわりと私を抱きしめた。煙草くさい。このひとは煙草をすうのだったのだろうか。想像の中の彼は、ちがった。なにも知らなかった。つんと鼻を刺す匂いのするワックスをつけているなんてことも、知らなかった。それに、なんだろう。磯の香りがする。

 私がさまざまな異議申し立てをすると、舜は「参ったなあ。海の匂いは勘弁してほしいな」と頭を掻いた。

「参ったなあ、て、ほんとに言うんだね」

 ふとおかしくなって笑った。舜はなにも理解していない様子で「え?」とまぬけな声を出した。電話でつながっていたときの、彼の口癖。ふいに泣きそうになるのをこらえて、私はまた口を開いた。

「なんでもないよ。それから、もうひとつ。到着するまでに三日間だなんて、とんだ嘘だった。こんなに早く着くなんて思わなかった」

「そうだなあ。ああ言ったら、君は諦めるんじゃないかと思ったんだ。めんどうだろうし、危ないから。ああ、花瀬、いつか僕は君に嘘をついたと思うんだけれど、憶えてる?」

「あたりまえだよ。もう、舜に言われた嘘なんて、ありすぎて数えられない。あなた、生死にかかわらない仕事をしているって言ったでしょう」

「僕は海が好きだから、できれば、海のそばで遂げたかった。それに生死にかかわるなんて言ったら、君が怒ると思ったから」

「怒らないよ」

「そうか、ごめん」

「舜、そんなに話すの下手くそだったっけ」

「電話と本物じゃあ勝手がちがうんだ」

「髪が長いね」

「ああ、最近忙しくて。なかなかね」

「切ってあげる」


 私はかばんから銀色にひかる鋏を取り出した。そこに座って、と大きな岩を指さす。ええ、と言いつつも、おとなしく舜が座った。私はてきぱきとハンドタオルを彼の首に掛ける。

「どうしたの、こんな立派な鋏」

「私、こう見えて、髪を切るひとなんだよ。見習いだけど」

 彼の髪をとった。さらさらしていて、なんとなく腹が立つ。いらいらして「舜、もしかして女の子なんじゃないの」と言うと彼は愉快げに笑った。

「もしそうだったら、君はどうするの」

「しかたがないから、一緒にアイスを食べよう。交換日記もしようよ」


「海、綺麗だった?」

 ざく、ざく、と音をたてて舜の髪の毛が地面に落ちる。

「きれい。こんなにいいものをひとりじめしてたなんて、舜、悪いやつ」

「花瀬は、だいぶ手厳しいな。電話だけだと、あまり分からなかったよ」

 舜が意外そうに話すので、すこし笑ってしまった。

「舜がだめなんだよ。あなたこそ、こんなに愉快なひとだと思わなかったから」

「ほめられてるなあ」

 私たちは雨のなか、いつまでもそこにいた。彼の切りおえた髪が濡れて洗い流されるまで、そこにいた。海は夜に包まれて、暗闇が広がった。私たちはやがて来る朝を見守った。

「海は、消えないの」

 私は彼のとなりに腰掛けると訊ねた。

「ずっとあるだろうね。僕たちがいなくなっても、ずっとあると思うよ」

 横から下手くそなはなうたがきこえた。

「今日、ここに来られてよかった」

 舜がわらう。


 雨はやんで、朝の光が水色の海を照らす。沢山の青い光があふれて瞬いている。もういちどくらいなら、夢を見てもいいかもしれない。気持ちよさそうに眠る彼の横顔を見ながら、私はそう思った。


 その晩は舜の家に泊まった。翌朝、彼はジャスミンの葉っぱが入った温かいお茶を注ぎながら、「帰ろうか」と言った。どこに、と言うと、君の家だよ、とよくわからないことを言う。

「なんで」

「せっかく戦がおわったんだ。それに君は、船を楽しんでいないだろう」

 髪を切った彼は、とてもさっぱりとした表情で

ほほえんだ。

「なにそれ。こっちに、来てくれるの」

「休暇をもらった。いままで働きづめだったからね」

「……ほんとう?」

 信じられない気持ちで言ってから、彼に抱きついた。ソファにすわっていた舜がのけぞった。

「詰まった」

 彼がげほげほと咳き込む。くっついていた私が笑うと余計に舜の身体は揺れて、彼はつられたように笑って「危ないな!」とこぼした。


 お昼すぎまで、ふたりでただ、ぼうっとソファに腰かけていた。彼はラジオを聴きながらうたた寝をしている。だから彼が聞いていないつもりで、私はふと話しかけた。

「ねえ。舜の家は、西日がすごいね」


「君の家は、どんななの」

 彼はすっかり目を開けて、こちらを見た。長い睫毛がきれいだ。あんまりまっすぐ見られるから、私はどきどきして、彼から目をそらす。

「……そんなに、いいものではないんだけど。来てくれたら、うれしく思います」

「なんで敬語なの」

 穏やかに彼が笑った。

「じゃあ、そろそろ行こうか。船に乗ろう。まったく僕らは、海ばっかりだな」

「また、いつでも、行きたいな」

 


 そう言って、手を握る。あたたかな温度だ。西日に照らされる彼が、なによりもなによりもうつくしくて、私は彼の手をもういちど、たしかに握りしめた。

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