第6話 エヴァリスト・ガロア

今日の名言

「僕にはもう時間がない」 (je n'ai pas le temps)


 若くして死んだ数学者エヴァリスト・ガロア (1811年10月25日 - 1832年5月31日)の言葉です。


 エヴァリスト・ガロアと言えば、若くして後にガロア理論と呼ばれるモノに繋がる画期的な研究をしていたにもかかわらず、不幸にも周りに評価されず、革命運動に傾倒し、21歳にして決闘で死を遂げるという壮絶な人生で有名です。

 ガロア理論がどれだけ凄い発想であったかは、残念ですが紙面の関係でここでは説明できません。まさに発想の転換というべき新しい視点を与えるものであったのは間違いないようです。


 ガロアは、公立学校の校長の家に生まれ、パリの名門リセ・ルイ=ル=グラン(ルイ大王学院)に進学します。

 ラテン語の優秀賞やギリシア語の最優秀賞を受けるなど成績は当初良好でしたが、やがて学業をさぼるようになります。時間を持て余した彼が出会ったのが数学でした。2年間の教材をわずか2日間で読破すると、どっぷりと数学の魅力に浸かってしまいます。飛び級で数学特別級に進級しましたが、物理と化学では「少しも勉強しない」と酷評されているほどです。

 そしてわずか17歳にしてガロアは素数次方程式を代数的に解く方法を発見、重要な研究論文をオーギュスタン=ルイ・コーシーに預けフランス学士院に提出するように頼みましたが、予定していた会合に体調不良で欠席、そのままその研究論文を紛失してしまいます。これがガロアの不幸その1です。

 (コーシーはその後、フランス7月革命を契機にフランスを離れ、帰国したのはそれから8年後になりました。)

 また、その年、自由主義的だった父親が保守的な教会に攻撃され、自殺。その1か月後、理工科学校への2度目の受験に失敗します。不幸その2。

 代わりに高等師範学校に進学したガロワは、コーシーが紛失した論文を書き直した上で、改めてフランス学士院に提出しましたが、またまた不幸なことに審査員で論文を預かっていたジョゼフ・フーリエが急死したため、またしても論文は紛失してしまいます。不幸その3ですね。

 こういうこともありガロアは政治活動に傾倒していきます。ガロアは家族の前で「もし民衆を蜂起させるために誰かの死体が必要なら、僕がなってもいい」と口にしていたといいます。まだ10代です。革命のロマンに酔ってしまうのも仕方ありません。

 放校されたりで荒れに荒れたガロアは、共和主義者として政府に反抗するような活動を繰り返し、ついには禁固6か月の刑に処せられます。

 その出所の2か月後、「つまらない色女に引っかかって決闘を申し込まれた」と友人に手紙を送ります。相手は「愛国者」たちだそうです。死を覚悟した彼は「すべての共和主義者へ」と題した手紙と共に自らの数学的発想を断片的に記した手紙を残しています。

 実はガロアは学士院のシメオン・ドニ・ポアソンから、もう一度学士院に論文を提出するよう呼びかけられ、その誘いに応じて再度11ページの論文を提出していたのですが、「説明不十分で理解できないから、もっとわかりやすく書き直して欲しい」ということで返却されていました。ガロアは自らの死を予期し、この論文の添削を残したのです。

 この手紙に添えられていた言葉が「僕にはもう時間がない」という走り書きです。


 ガロアは「愛国者」との決闘に敗れ、その場で放置されてしまいます。何とか病院に運び込まれたガロアは弟に

「泣かないでくれ。二十歳で死ぬのには、ありったけの勇気が要るのだから」

“Ne pleure pas, j'ai besoin de tout mon courage pour mourir a vingt ans!”

という言葉を残して亡くなります。彼の葬儀には2000~3000人の共和主義者が集まったと伝わっています。


 彼の死後、友人のオーギュスト・シュヴァリエがガロアの論文をまとめ名だたる数学者に送ったようですが、当初は誰も理解できるものはいなかったようです。ジョゼフ・リウヴィルがなんとか、論文を理解しようと努力し、1846年自身が編集する『純粋・応用数学雑誌』に掲載するに至ります。その後、彼の死からガロア理論が評価されるまでに50年という時間がかかったのは、ガロア自身に自らの理論を説明する機会がなかったことも影響したのでしょう。


 さて、ガロアの人生をどう思いますか。

 若き日の私はすっかり彼にメロメロになってしまいました。

 天才でありながら、不幸が重なり社会に認められない不条理。

 政治活動にはまり、熱情の中で死に向かっていく青々しさが輝いて見えたんでしょうね。

 「僕にはもう時間がない」と書いたその瞬間、彼にはまだ選択肢があったはずです。彼が「理想」よりも「時間」を選んだのなら、そしてガロアが自らの理論を丁寧に世間に説明する機会が与えたのなら、世界はまた少し違っていたかもしれません。

 しかし、ガロアは「僕にはもう時間がない」と言いながら、自らの死を避ける道を選ぶことはできなかったのです。

 愚かなのは彼なのでしょうか、それとも我々が何かを失ってしまっているのでしょうか。


今日の教訓

 さて、彼を死に向かわせた「つまらない色女」って誰なんでしょうか。

 実は、ガロアが最後に暮らしたフォートリエ療養所の所長の娘、ステファニー・フェリス・ポトラン・デュモテルという女性らしいのです。もちろん彼女は「つまらない色女」等ではなく親切で礼儀正しい女性だったようです。そして、どうにもガロアは彼女に求婚し、断られていたのです。


  ほんとのところ

 失恋でやけになっちゃったんですね。

いや、よく分かるよ、その気持ち







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