ふわりと温かなものが、唇に触れた。



「……う」



 寝起きの頭が、鈍く回転を始める。指先がぴくりと痙攣したが、それはまだ彼の意思によってではない。目蓋の外に感じる太陽は存外明るく、慣れるまでもう少し目を閉じていた方がよさそうだ。


 ひんやりとした風が木々を揺らし、優しく耳触りの良い音を立てていた。

 小川の流れる気配に、喉の渇きを思い出す。ああ、いつから眠っていたんだったっけ。


 頭の下にある枕は高さも柔らかさも申し分ないけれど、いつだったかの埃臭さも、黴臭さも、青臭さも薬品臭さも感じなかった。ただただ肌触りの良い絹の感触が、漠然とした不安を呼ぶ。


 目を開けて、そこにいるのは果たして「彼女」なのだろうか。

 悩んでいると、不意に影が差した。

 ぽたり、ぱたりと、ぬるい雫が降ってくる。


 ああ。子供みたいにしゃくりあげる、その音を確かに知っている。


「……泣くなよ、」


 手を伸ばす。

 まろい曲線を描く頬は、記憶にあるより少しだけ大人になっていた。

 白い肌に朱を刷いた娘が、大事そうに彼の手を包む。柔い掌は温かく、彼の大きな手も、同様に温かい。屁理屈を理屈で圧して手に入れた心臓は、一応きちんと働いているらしい。


 癖の強い銀髪を、妙に素朴なリボンで結った「魔女」は、彼の言葉に頷いた。

 頬を撫でると、くすぐったそうに目を細める。涙の残滓が伝って落ちて、だから泣くのはもうおしまい。


 ほわりと笑った愛しい少女が、まあるい声で囁いた。



「おはよう、お寝坊さん。……お誕生日おめでとう。大好きよ、わたしの王子さま」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

アクイレギアの心臓 佐倉真由 @rumrum0830

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ