第2話 一日三秋

 一日三秋という言葉がある。

 三秋とは秋が三回過ぎることで一日会わないだけでも三年も会わなかったような気がすることの例えなのだと、高校時代の偏屈な担任が言っていた。

 三千年前に中国で栄えた周という王朝の時代に書かれた、『詩経』なる本に収録されているとても古い言葉で、それがずっと言葉として受け継がれているあたり、いつの時代も待ち人というのは待ち遠しいものなのだと、黄金色に一面染まった稲穂の中から、これまた黄金色の夕日を見やれば、そんな感傷的なことを考えたくもなる。

 奈津美は「またね」と言って去って行った。その「また」がいつのことなのかは分からない。あるいは、俺のことなど忘れてしまうのかもしれない。

 息災でいてくれればいいと思う反面、明日にはまた自転車を駆けてやって来ないのかと思う。俺は首を振ってその考えを霧散させた。

 稲穂に手をやれば、感じるのはずっしりとした重み。きっと豊作になることだろう。季節は移り変わり、やがて年を越える。

 俺はいつもの年と何ら変わらず、もう少ししたら米の収穫をし、新しい年になったらまた苗づくりを始めるのだろう。きっとそれがずっと続いていくのだろう。

 俺は、ずっとここで暮らしていく。明日も明後日も、来年も。そのとき、奈津美はどこにいるのだろうか。俺の隣を悠然と走り抜けるのだろうか。

 再度、俺はかぶりを振る。意味のない思考を払い落とすように。また来年も、と言ってくれたのだ。また来年も、その後もずっと、奈津美は確かにここに帰ってくるのだ。

 秋の風が吹く。





 ●





 秋高馬肥という言葉がある。

 秋の空が澄み渡って空も高く感じる実りの季節には、馬さえも食欲が増して肥えていくことから、転じて秋の爽やかで気持ちの良い天候のことを指す。というのは、歴史好きなのに国語教師という高校時代の偏屈な担任が、この時期の風の気持ちよさを例えてよく言っていた言葉だ。

 東京に住んでいる私にも、秋の空というのは高く感じるものだ。もっとも、実家に住んでいたころと比べれば、星々の少なさと空気の澄み具合など比較するまでもないが。 雑踏の中を進んでいると、ふと前髪が揺れた。風は煙たい排ガスと、油の濃そうなファストフードの匂いをまとっていて、地元で感じたような爽やかさは微塵もない。

 私は、今年初めて大学生になった山岡奈津美は歩いていた。授業が終わってキャンパスから一斉に吐き出された同じ学徒である大学生とともに、駅までの道を歩いていた。こうして集団の中にいると、憧れの東京に出てきた新鮮さは早くも薄れ、バイトの予定に憂いを浮かべる、数多いる大学生の中のちっぽけな一人であることを嫌でも思い起こさせる。

 ため息はやまないが、精神的にも経済的にも応援してくれる両親の手前、弱音を吐いている暇もないし、弱音を簡単に吐けるような友人もいない。唯一居るとするならば―――いや、居ない。

 私には久保田斗真という幼馴染がいる保育園から高校まで同じ時間を過ごして、私は東京の大学に進学し、斗真は実家の農業を継いだ。お盆の帰省ということで実家に帰った時のことだ。

 私は、ずっと変わらないものだと思っていた。

 あれはひと月前の、夏もそろそろ終わりという時のことだった。

 秋の風が吹く。



 ※



 猛スピードで久保田家が代々受け継いできた棚田を目指す。斗真と外で遊ぶときはいつも通っていた道だ。この先の曲がり角を左に曲がればカブトムシのよく取れるコナラの森があるし、まっすぐ行けば辺鄙過ぎて誰もやって来ない砂浜がある。

 視界は見慣れた道。乗り慣れた自転車。けれども、すでに幾度も転びそうになっている。自転車に乗り始めて間もないころには転んだこともあったが、中学校に上がってからついぞ転んだ記憶はない。自分の変化に愕然とすらする。

 そんな不安な気持ちを隠すように、私はせいいっぱいに叫んだ。

「とーうーまー!」

 いい加減大人なのだからやめたら、と何度も言っている坊主頭が視界に入った。

 自転車を乗り捨てるように飛び降りて、走って、走って、自分の心のうちの不安を隠すように走る。あぜ道からは少し離れたところに、鎌を持って汗をぬぐう、あのころよりも少しだけ色黒くなった斗真の姿があった。

 走れば走っただけ距離は詰まる。そんなことは分からなかった。分かっていたら、まず再会の挨拶をしただろうから。

 斗真の姿が眼前にある。

「あっついけど、海があるからある程度は涼しいね!」

「風通しがいいと、病気にもなりにくいからな」

「すっかり斗真は農家さんだねえ」

「農家だからな」

 目指したのは、あの頃のいつもの感じ。お互いに挨拶なんて必要ない、顔を合わせればすぐに会話が始まるような、そんな関係。

 私はちゃんと笑えるだろうか。あの頃のように笑えているだろうか。

「おかえり」

「ただいま」

 この言葉が言いたかったのだ。私は感動を隠せているだろうか。



 Tシャツの下に水着を着こんだのは作戦だ。斗真は冷静なようでいて、実は単なる無口なのであって、状況の中でのベストが導き出せるような器用な男ではない。突然の状況に弱く、本当に嫌でなければ自分の意見を飲み込んでしまう。

 隣には斗真がいて、海岸までのあぜ道を歩いている、そんないつもの光景。

「大学は楽しいか?」

「うーん、まあ、そこそこ。でも今までの勉強とは違ってすごく専門的で、勉強の割には楽しいかな」

「そんなもんか」

 斗真の返答が何故だかそっけない。棘はないが、困惑しているような、そんな感じ。

「そんなもんだね。農業は?」

「難しい。俺の田んぼではあるが、まだまだ親父には教わらないと」

「ふーん」

 本心からそう言っているのだろう。自分の未熟を自覚し、その未熟を埋めようとあがきもがく姿が、目の前に浮かぶように分かる。しばらく会わないうちに肌の色は心なしか変わり、草をかき分け続けた証である、擦り傷も枚挙にいとまがない。

 苦労を重ねたのだろう。上手くいかないことも多くあったのだろう。それでも、前に前に進み続けたその姿は、私にとっては眩しすぎた。

 そんな動揺をごまかすべく、話題を変える。

「肌、黒くなった?」

「―――ああ、そういうことか。そっちは、少し肌が白くなったか?」

「ふふふ、都会の女と呼んでほしいわね」

「俺から言わせれば不健康な証拠だね」

 綺麗になった、なんて歯の浮かぶような一言が言えるような男だとは思っていない。私にとっては変わっていないことの方が重要なのだ。似合ってもいないお世辞など言われるよりも、あの頃のままであり続けられる方がよほど大切だし、嬉しい。

 嗚呼、やっぱり斗真は変わっていなかった。これで甘い言葉でもささやかれても見ろ。内心では心底喜びながら、科白の吐かれた瞬間に斗真を殴りつけてしまうかもしれない。

 そんな身勝手で傲慢な私は、考えをごまかすように斗真を話題の中心に掲げるべく、多少の強引さを持って斗真を覗き込んだ。

「そういう斗真は、うーん…………変わってないねえ」

 私は嘘をついた。斗真は変わった。見た目もそうだが、纏う雰囲気が違う。

 ただ雰囲気が変わったのではない。その背中には責任感が重くのしかかっている。しかしそれは決して誰かによって強制的に負わされた責任感ではない。自分で背負って、自分で勝ち取った責任だ。ウチの集落の過去を振り返ってみて、斗真の年齢で自分の田んぼを持たせてもらえている人物などそうはいない。その責任こそが、信頼なのだろう。

「高校を出て半年も経ってないんだ。そう変わるもんじゃない」

 斗真は心底からそう思っているのだろうが、斗真に負けず劣らず私も変わったと思う。ただし、私の顔に張り付いた笑みは、慣れない環境で常に愛想笑いをしていて、それが取れなくなってしまったもの。大学に入る前なら腹の底から笑えていたことが、自分の目の前のことなのに、なぜだか自分には関係の無いようなことに思えてきて、しまいにはそれが本当に面白いことなのかすらわからない。

 唐突に、ふと気になったことを斗真に聞いてみる。

「あの砂浜」

「ん?」

 突然話しかけられたせいか、少しだけ斗真の声が裏返った気がした。

「あの砂浜、誰か人が来るようになった?」

「いや。辺鄙過ぎて相変わらずいつも誰もいない」

「そっか」

 事実として今の私は変わっているけれど、過去は変わっていないのを改めて実感して、少しだけ心が軽くなった。

 視線は合わせずに、砂浜への道を進んでいく。結局何も話せなかった。

 


 毎年、一学期の終業式が終われば半ば記念行事のように海に入っていたのに、全ての授業が終わったにも関わらず、私は海に入っていなかった。東京に住んでいれば当たり前のことだが、私にとっては地元のことを何から何まで全てを実家に置いてきてしまったようで、気持ちの収まりがつかなかった。

 農作業で疲れているであろう斗真を無理に誘ったのは悪いとは思ったが、久々に誰もいないあの砂浜に行けると考えただけで心が躍ってしまった。

 雑木林を掻き分けて、毎年通った砂浜に出る。地元の人間しか知らないこの場所が私はお気に入りで、実家を出るまでの間、落ち込んだり、一人になりたいときはこっそりここにやって来ていた。夏の海水浴シーズンにしか人が来ないのを知っていて、誰も来ないのをいいことに、何時間でも砂浜に座っていられた。

 もちろん、斗真には内緒だ。斗真は私のことを落ち込む暇もないほどの元気印と思っている節があるが、人並みに落ち込むこともある。ただ、それを見せていないだけだ。

 そんな感傷を振り払うべく、私は思い切ってTシャツを脱ぎ捨てた。一瞬だけまごついたが、Tシャツが体を抜けて手に収まり、私はそれを放り投げた。

「どうだ!」

 正直言って羞恥心はあった。いくら斗真とはいえ、男性の前での生着替えは自分でも無いと思う。だが一度始めてしまったのだ。私はTシャツに目もくれず、ショートパンツも脱ぎ捨てる。

「いや、どうだ、って言われてもだな……」

 斗真は自分のことを感情が顔に出にくい人間だと思っているようだが、確かに顔に出にくい。出にくいが、自分の想定外のことになると若干ガードが甘くなって、視線があちらこちらに移動するのを知っている。よく観察していないと分からないが、今日は今までで一番分かりやすいのではないか。

 私は見られているという恥ずかしさと、そして自分の現状を思い出し、後からやって来た羞恥心に、私は思わず叫んでいた。

「せっかくビキニ着たんだから、もっとなんかないの? 色っぽい! とか、きれい! とか」

 ここまで来たらヤケだ。女らしさのかけらもないのは自覚しているが、私だって女だ。男性に言われてみたい台詞くらいある。

 それに、こうやってせかされて渋々ひねり出した言葉の方が、かえって斗真の本心が滲み出た言葉のような気がして、突っついてみることにしたのだ。もちろん、いじわるをしてみたかったというのもある。

「……水着だな」

「……それ以外になんか言うことないの?」

 私は畳みかける。斗真は観念したのか、顔をそむけながら、私に聞こえるか聞こえないくらいの声で囁いた。

「…………似合ってる」

「よろしい」

 嬉しい。ああ、嬉しい。

 自発的かどうかなんて関係ない。あの表情にあの台詞。斗真の本心から言ってくれているのだろう。それが伝わるのが、何より嬉しい。

 嬉しくて、つい、斗真の腕をつかんでいた。

「斗真も、ほら!」

「あ、ああ」

 遊びたい。この半年をすべて埋めるくらいの、思い出を私に。

「奈津美!」

「え、な、なに?」

 聞いたこともないくらいの大声に、掴んでいた斗真の腕を思わず離してしまう。

 どうしたのかと斗真の顔を見やれば、私の好きな、微笑をたたえた面持ちに、吸い込まれるような感覚を持った。

 そして斗真は、私だけを見て言う。

「また来年も、ここで遊ぼうな」

 ああ、嬉しい。嬉しい。嬉しい。

 斗真のことだから、その言葉以外に何も考えていないのだろう。来年も遊ぼうという、ただそれだけの事実を確認したに過ぎない。

 ただ、私にとってみれば全く違う意味を持つ。斗真に置いてきぼりにされないで済む。よかった。本当によかった。

「気が早いねえ」

 私は、自分に出来る限りの最高の笑顔で言ってやった。

「あったりまえじゃん」

 斗真もその言葉に満足したのか、変わらず、ただ微笑み続けるだけだった。



 ※



 一日三秋という言葉がある。

 三秋とは三回秋が通り過ぎることを指し、一日会わないだけでも、三年も会わなかったくらいに長い時間に感じることの例えなのだと、高校時代の偏屈な担任が言っていた。

 私は今、都内の大学のキャンパスで授業を受けている。秋という言葉への寂しさを感じざるを得ない。夏が終わり、一年も終わりが見えてきた、そんな季節。

 明日も、明後日も、同じように何となくキャンパスで講義を受けて、何となく友達と遊んで、何となく食べて、何となく寝て。そんな生活が続いていく。

 その間にも斗真は生活している。成長しながら疾走している。また来年も、と私は確かに言われたが、その時斗真は、いったいどこにいるのだろう。

 窓から望む景色では、街路樹が揺れ、木々から葉が一斉に落ちる。そしてどこかへと運ばれていく。運ばれていった先で木々の根となり、糧となる。

 ふと思い出した、崖沿いの棚田にある斗真の田んぼ。もうすぐ実りの季節だろう。斗真はずっと、毎年そこで一喜一憂していく。責任の中で生きている斗真にとって、その隣にしばらくの間、私は存在しないだろう。

 私は日々を生きていく。斗真の言葉を胸に、生きていく。そしてその後、何が待っているのだろうか。その時、近くに斗真はいるだろうか。

 黒板とチョークがぶつかる音が聞こえ、私は窓から目を離した。

 秋の風が吹く。

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秋高馬肥 一日三秋 すぎ @kafunsugi

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