秋高馬肥 一日三秋

すぎ

第1話 秋高馬肥

 秋高馬肥という言葉がある。

 秋の空が澄み渡って空も高く感じる実りの季節には、馬さえも食欲が増して肥えていくことから、転じて秋の爽やかで気持ちの良い天候のことを指す。というのは、歴史好きなのに国語教師という高校時代の偏屈な担任が、この時期の風の気持ちよさを例えてよく言っていた言葉である。

 もともとは中国の歴史書である『漢書』の言葉であるらしいから、きっとこの世界中の秋の空はどこも澄み切っていて、空が高く感じるのだろう。同じ日本なのだから、それは東京でも同じことに違いない。そうに違いない。

 周囲を山に囲まれた狭窄な土地一面に広がる棚田、その先には一面の海。夕暮れの朱色に染まった棚田に佇む俺の前髪を、海からの風が揺らす。

 俺は、久保田斗真は立っていた。俺が親父から受け継いだ、正真正銘の俺の田んぼを見下ろしながら、視線はその先の海にある。実りの秋を迎えた水田には一面の麦穂が黄金色に光り輝いており、普通の農家なら穂の重みに一喜一憂するのだろうが、どうも俺はそういう気分にはなれなかった。

 俺には山岡奈津美という幼馴染がいる。短く揃えた髪に、元気な印象を受ける大きな瞳、健康的に日焼けした小麦色の肌。男顔負けかというほどに快活な元気印だ。保育園から高校まで同じ時間を過ごして、俺は実家の農家を継ぎ、奈津美は東京の大学に進学していった。その奈津美が、お盆の帰省ということで東京から帰ってきた時のことだ。

 俺はその時まで、ずっと俺の中にいる奈津美が変わらないのだと思っていた。

 あれはひと月前の、夏もそろそろ終わりという時のことだった。

 秋の風が吹く。



 ※



「とーうーまー!」

 うだるような夏の暑さの中で田んぼの手入れをしていた俺は、聴き慣れた声に思わず手を止めて振り返った。

 声のした方を見やれば、棚田へと続く唯一の道であるあぜ道を、猛スピードで突っ込んでくる自転車が見える。舗装もされていないのに転ばないのかと心配になるが、昔から不思議と自転車で転ばなかったので、大丈夫なのだろうと思った。

「到着!」

 自転車から飛び降りるようにして奈津美が声を上げる。見慣れたはずなのになぜか懐かしいその笑顔に、無表情とからかわれることの多い俺も、思わず口元に笑みを浮かべたのが分かった。

 飛び降りた奈津美が、そのままの勢いでこちらに向かってくる。はじけるように、はずむように声を震わせる。

「あっついけど、海があるからある程度は涼しいね!」

「風通しがいいと、病気にもなりにくいからな」

「すっかり斗真は農家さんだねえ」

「農家だからな」

 悪戯っぽい奈津美の問いに、至極まっとうな俺の返答。台詞だけはあの頃と何も変わらない。変わってほしくはなかったのだ。

 太陽のような、いつもと変わらない、しかし少しだけ魅力的になった笑顔がそこにあった。

「おかえり」

「ただいま」

 この言葉が言いたかったのだ。俺は感動を隠せているだろうか。



 Tシャツの下に既に水着を着んでいると突如宣言し、海へ行こうと強硬に主張する奈津美に根負けして、海に向かって続く道を歩いていた。隣には奈津美がいる。

「大学は楽しいか?」

「うーん、まあ、そこそこ。でも今までの勉強とは違ってすごく専門的で、勉強の割には楽しいかな」

 あれだけ勉強嫌いだった奈津美からそんな言葉が聞けるとは思っておらず、

「そんなもんか」

「そんなもんだね。農業は?」

「難しい。俺の田んぼではあるが、まだまだ親父には教わらないと」

「ふーん」

 農家に生まれ、農家に育った俺は、何かあればすぐに作業に駆り出されていた。自分の田んぼさえ持てれば親父のように独り立ちできるだけの知識と技量があると思っていた。しかし、日が経てば経つほどに自分の無力さと無知さを思い知らされる。親父は時間が解決してくれるというが、目の前にいる奈津美のことを考えるだけで、このままではいけないというプレッシャーに苛まれる。

 奈津美はこの半年でずいぶんと纏う空気が変わったと思う。奈津美が今纏うのは、知らない土地で必死に生きようとする生命力と、さらにそこで己を磨いているという自負だ。俺は努力はしているつもりだが、何も得てはいない。もうこの場所に奈津美はいないのだ。

 沈黙が場を支配する。

「黒くなった?」

 奈津美が囁くように問いかけてくる。一瞬なんのことかわからなかったが、農作業で日焼けしたかどうかを聞かれているのだとすぐにわかった。

「―――ああ、そういうことか。そっちは、少し肌が白くなったか?」

「ふふふ、都会の女と呼んでほしいわね」

「俺から言わせれば不健康な証拠だね」

 嘘だ。恥ずかしかったのだ。

 奈津美も、いつまでも俺と野山を駆け巡っていたころのままではいないだろう。そんな予感はしていたが、今日奈津美の様子を見て確信した。人は何かの拍子にがらりと変わる。それも、俺の知らない間に。

 俺は奈津美を初めて女性だと思った。見た目が変わったとか、そういうことではない。

 そして、俺は何も変わっていない。奈津美もぶっきらぼうに不健康だ、などとは言われたくはないだろう。それは分かるのだ。分かるが、どうしてももう一言踏み出すことができない。

 俺の心中を知ってか知らずか、奈津美は悪戯っぽい笑みを浮かべたまま、俺をのぞきこんでくる。まるで俺の心の中を覗き込むようで、俺は少しだけたじろいだ。

「そういう斗真は、うーん…………変わってないねえ」

「高校を出て半年も経ってないんだ。そう変わるもんじゃない」

 俺のそっけない言葉に、奈津美はそうかなあ、なんて言いながら朗らかに笑っているが、それは事実であると思う。奈津美が変わりようが凄まじいのだ。

 声も変わらない。容姿も少し色白になった以外は何も変わっていない。それなのに、その身に帯びている雰囲気は全く違う。まず、笑顔が違う。様々な経験をしてきたのだろうか、ほんの些細な違いだが、心からの、目の前のものすべてが楽しいというような笑顔ではなくなったように思う。

 それがマイナスなことなのかというとそうではなく、いくつもの笑顔の理由と、その笑顔に至るまでの苦労や災難がそのまま彼女の魅力として乗り移ったかのような、そんな多面性を見せる笑顔だ。

 先ほどまではうるさいくらいに話しかけてきたのだが、その声が止んだので、ふと奈津美の顔を見て、見るのをやめた。

 俺には眩しすぎたのだ。その複雑な感情が透けて見えたその笑顔に、得も言われぬ恐さを感じたような気がして、思わず顔を逸らしてしまった。恐いと感じたのは、幽霊に対して怖いというような「怖さ」ではない。奈津美の変わっていく様がありありと目に見えて、それに取り残されている自分が恐かったのだ。

 よくぶっきらぼうなところを直せと奈津美に言わているが、今日ばかりは、自分の感情が表情に出にくい人間であることを感謝した。

「あの砂浜」

 ふいに、奈津美が呟くように言った。視線が交差することはない。

「ん?」

「あの砂浜、誰か人が来るようになった?」

「いや。辺鄙過ぎて相変わらずいつも誰もいない」

「そっか」

 奈津美は何かに納得したのか、それ以上話そうとはしなかった。

 奈津美は常に向う見ずに突っ走っているように見えるが、こう見えてよく考える人だ。そういう時は俺は何もできないのを、これまでの経験から痛いほど知っている。

 結局、目的の砂浜にたどり着くまで、俺たちは一言も会話をすることはなかった。



 高校を卒業するまでは、一学期の終業式が終わると必ずその足で砂浜へ行っていた。もっとも、俺たちが単に砂浜と呼んでいるだけで、実態は少し大きめの入り江に過ぎない。地元の人間以外には全く知られていないが、それでも子供の遊び場としては申し分のない広さがあった。

 地元の人間でも年に数回海に入る時に来るだけなので、俺にとっても久々に来る場所で、やはり懐かしく感じる。少しだけあの頃よりも小さく感じるのは、俺たちのほうが大きくなったからだろう。

 奈津美たっての希望であの誰もいない砂浜に居るが、その焼き直しをしているようで、あの頃に少しだけ戻れたような気がして嬉しかった。奈津美は農作業をした後の俺を気遣って少し申し訳なさそうだったが、全くそんなことはなかった。照れ臭くてそんなこと言えるはずもなかったが。

「どうだ!」

 奈津美は砂浜に着いて早々に着ていたTシャツとショートパンツを脱ぎ捨てて、俺に見せつけるように、太陽のような笑顔で胸を張った。その羞恥心のかけらもない行動に、恥ずかしさよりも呆気にとられる方が先に来てしまった。

「いや、どうだ、って言われてもだな……」

「せっかくビキニ着たんだから、もっとなんかないの? 色っぽい! とか、きれい! とか」

 改めて奈津美を見てみると、確かにビキニだ。水色の生地に、一輪の大きな花があしらわれたシンプルなデザインは、彼女らしい溌剌たる印象を受ける。

 いきなり脱ぎ始めたものだから面食らったが、改めて見てみると、奈津美の印象によく似合っていて、素直に素敵だなと思えた。高校時代までずっと学校指定の水着だったこともあり、新鮮さも手伝ったのかもしれない。

 だがしかし、やはり照れくさくて、そんなことを考えているなど顔に出したくはない。

「……水着だな」

 ―――出したくはなかった。

「……それ以外になんか言うことないの?」

「…………似合ってる」

「よろしい」

 気の利いたセリフなんて言えるはずもなく、情けなくも奈津美に促されて出た尻すぼみの台詞に、なぜだか奈津美は満足したようだった。

 奈津美と遊んでいるときは、後継ぎとしてのプレッシャーや、感動を素直に表せない自分へのいら立ち。それに、俺だって下心はある。何はともあれ、毎年同じように遊べるあの時間が嬉しかったのだ。

 だが、正直言って、今日来ている水着は本当に似合っている。似合っているが、やはり奈津美がどこか遠くに行ってしまったような気がして、俺は複雑な心境だった。

 すると―――

「斗真も、ほら!」

「あ、ああ」

 大きなかけ声と共に俺の腕を握る奈津美の意味するところは、俺も早く水着に着替えて遊ぼうというのだろう。奈津美の燦々と輝くその笑顔を見て、いろいろ考えていたことが、一気に馬鹿らしくなってしまった。

 俺は馬鹿なのかもしれない。次の瞬間には思わず叫んでいた。

「奈津美!」

「え、な、なに?」

 握られていた奈津美の腕が、驚いたように振りほどかれる。声を荒げることはほとんどない俺の大声にびっくりしたようだった。

 そんな奈津美には一切構わず、勢いのままに俺はぶつけた。

「また来年も、ここで遊ぼうな」

 一瞬の驚きと、一瞬の静寂と、満面の、笑み。

「気が早いねえ」

 呆れたようなその声音に、かえって安心してしまった自分がいた。奈津美に置いて行かれないで済んだと、安心してしまう自分がいた。

「あったりまえじゃん」

 そこには、今までで一番眩しいと感じた、奈津美の笑顔がそこにあった。

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