スプリング・エフェメラル

うりごえ

スプリング・エフェメラル

 福寿草のような幸せが欲しいと思った。初春の雪間から顔を出した私を、誰かが見つける喜びが欲しいと思った。いつだって叶わなかった思いだけが、雪解け水に交じって流れて行って、海になり雲になり雨になり雪になり、そうしてまた私に帰って来てしまうのだ。


「雪だ」

「それは困る」

 

 嬉しそうに言った僕の声に対して、彼女は冷静に返した。雪国出身の人は、雪が降るとその後のことを考えて憂鬱になるというけれど、僕は雪といえば教室中が窓の方を向き、ひとたび積もったとなると、一時間目は雪遊びの時間になる地域で育った。もう、十年以上も前の話だけれど。


「大人になっても雪が降って嬉しいなんて、気楽でいいね」


 いつまでたっても子供なんだから、ため息をつく彼女の横顔は憂いを帯びて、とってもセクシーで、僕はまた少し彼女に魅かれてしまう。そうして、胸の奥に疼く罪悪感にそっと打ちひしがれて自分の思いに気付かなかったふりをする。


「熱いお茶でも入れるよ。せめて寒いなりに、寒いことを楽しまなくっちゃ」


 こんなときは温かい飲み物がおいしいだろう、そう言って彼女の顔は見ないで席を立つ。空が暗くて重くてアンニュイで、どうしても僕は昔のことを思い出してしまう。向き合わないで逃げるのは、あの時と一緒。たぶん、これからも。


「こっちでも、雪のにおいってするんだね」

 

 ぽつり、とつぶやく声。たぶんこちらは見ていない。

 嗅覚からの記憶は忘れないんだって。昔の彼女の声が、続いて脳裏に蘇った。

こぽこぽと、急須に湯を注ぐ音。立ち上る湯気が、僕の視界を曇らせる。

 記憶の蓋がゆっくりと開かれていく音がした。


 その日も外は冷え込んでいて、大学からの帰り道は肌に突き刺さりそうなほどの鋭さを纏っていた。下宿までの道のりはそれほど長くはないけれど、少しでも早く家で暖まりたくて自然と早足になる。できるだけ肌の露出を下げようとマフラーに顔半分を突っ込むようにして家路を急ぐ。視線が俯きがちになっていたそのせいだろう、気付いたのはだいぶ近くになってからだった。

 アパートの入口に、彼女が立っていた。


「あれ、どうしたのこんなところで?」

 同じ学科だから大学ではよく見かけるけれど、外で遭遇するのは初めてだった。顔をよく見てみると、どうやら随分と長いこと外に立っていたようで、頬や鼻頭がだいぶ赤くなっている。


「あぁ……ううん、なんでもないよ、気にしないで」

声をかけてから反応が返ってくるまでに少し間があった。僕の記憶にある限りだと普段の彼女はきびきびとしているのだけど、今の彼女はどこかぼんやりとしていて、おぼつかない感じがする。


「ねぇ、もしかして、家、ここなの?」

 彼女が聞く。


「うん、そうだけど」

「……そっか」


 ふぅ、と大きく息を吐く音がした。


「あのさ、家、少しお邪魔してもいい? ここにいるの、冷えちゃって」

 突然の台詞だった。

「あ、迷惑だったら別にいいの。無理強いするつもりはないから」


 僕の反応に対して、彼女は慌てたように口を開く。正直に言ってしまえば、この時少し訝しんだのは事実だ。顔見知りとはいえ、突然、仲が良いというわけでもない異性の家に上がろうというのはなかなかできることではない、そう僕は思っていた。だけど、気付いてしまったのだ。だぼっとしたジャージの裾から、しもやけになった彼女の裸足がのぞいていることに。


「……いいよ。寒いでしょ、そんなところにいたら」

「本当に? 」

「何か事情はあるんだろうけどさ。そういうのも含めて、いったん暖かいとこにいこうよ」

「……ありがと」


 そう言って彼女は微笑んだが、どこかぎこちない表情だった。


「部屋、こっちだから」

 この時、彼女を家に招き入れていなかったらどうなっていたのだろう。そんなことを、僕はことある毎に考えてしまう。正解がなんだったのか、そんなものがあったのか、もはや知ることはできない。

 昔からそうなのだ。とりあえず、受け入れようとしてしまう。抱え込むこと。そこに纏わりつく責任というものに、無頓着なままに。


「……やっぱり、おいしいね。」

 彼女の声に、過去から引き戻される。

「私は、あの時飲んだあったかいお茶が、セカイで一番美味しかった。」

 おなじ「あの時」を思い出していたことに気付く。彼女の視線はどこを見るともなく落ちている。あの日々の彼女は、ささやかな僕らの幸せの日々は、本当に存在していたのだろうか。

 あの夜から、当たり前のように彼女が居る生活が始まり、突然それは終わりを告げた。ご迷惑をおかけしました、そういって彼女を迎えにきた男性は、彼女の父親にしてはあまりに若かった。僕と彼女はなんとなく、生活空間を共有し、すこしずつ互いを知って行って。なんとなく、だけど確かに魅かれていたのは僕だけだったのだろうか。シングルベッドを分け合うこともなく、カーペットの上に客用布団という簡易な寝床を提供して、ただ眠るだけだった僕らの間に、「特別」は存在したのだろうか。

 雪のにおいがあの夜の記憶を鮮明に思い出させる。赤くなった彼女の頬、悴んだ手、すっかりしもやけになってしまったつま先と、いつまでも震えがとまることのなかった体。


 か細い首筋に付いた、絞め痕。



 僕はただ、ぼんやりと、この男の、この手が、あの痕に重なるかを想像していた。彼女があの夜と同じように震えて見えたのは、その目に「助けて」と見えたのは僕の希望だったのだろうか。


「思ったより、長いことお世話になっちゃった。ありがとう。また、大学でね」

 にっこり、笑って手を振って、傍らで一礼した男性とそのまま振り返らずに去って行った彼女は、あれから二年たった今でも元気に大学に来ている。


 ただ、僕は時々夢想するのだ。そのマフラーの下に、ハイネックの下に、あの時の赤い痕跡が、また彼女を震えさせてやいないかと。



 安心感。それを感じている自分がいるのは事実だ。彼は優しいし、詮索もしてこない。何にも気付かないほど鈍感というわけでもなくて、多分、悟った上でラインを踏み越えてこないように気を配ってくれている。それは嬉しいことで、だからこそ私は、こうして彼の近くにいることで心安らかに過ごすことができている。

 彼の入れてくれるお茶はおいしい。悔しいけれど、料理も私より上手だ。恋人はいない。作る気もないみたい。戯言のように言葉を投げ付ける私に、いちいち律儀に言葉を返してくれる。否定から入らない。攻撃的にならない。でも、芯がないんじゃない。私とぶつかりそうなところにそれがないだけで、彼自身は、しっかりと生きるための軸を持っている。

 だから、彼と一緒にいる間は自分を取り繕う必要がない。ふと彼の匂いが途切れたとき、彼の家を後にするとき、私は世界を呪いたくなる。自分を壊したくなる。覆い被さる影が、記憶とともに這い寄ってくる。苦痛、不快感、圧迫感、無力感。その全てが押し寄せてくる。歪にデコレートされた「私」が、また戻ってくる。


 側頭部を、肩を、腕をわき腹を、赤く青く様変わりした皮膚をなぞる。彼に打ち明けることはまだ出来てない。これから出来るかどうかもわからない。自分が自分でいられる瞬間を壊してしまいそうで、私の毒で彼を殺してしまいそうで、少しも動くことが出来ない。

 雪に埋もれた脆い脆い自分自身を。薄く薄く幾重にも覆った脆い私の心を。それを踏み抜かないように慎重に歩を進める、その足音が聞こえている。いつか春が来て、雪が解けて、私の姿が、その全部があなたの目に留まる時は来るのだろうか。

 あの夜の歪な私の姿に彼は何も言わなかったけれど、首の跡にきっと気付いていただろう。


 だけど、その下は?もっと下は?


 知るはずもない。知られたくない。

 できることなら、ずっとずっと、そうであってほしい。


 だけど、私は願ってしまう。

 福寿草のような幸せが欲しいと思った。

 少しの間でもいい。すぐに枯れてもいい。

 いつか短くても、春が来たなら。ささやかな幸せの日々は、もう戻らなくても。

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