第22話 忠明

 その朝は、俺も景色もぼんやりしていた。

 昨晩は激しく雨が降っていた。雨漏りが家のあちこちを濡らすから、湿気に敏感な紅白がうろうろと歩き回り、けっきょくは俺にぴったりくっついて眠ることになった。

 俺の体は20歳かその手前、紅白はいまも12~3歳だから、傍目にみればアブない光景である。

 ……と、いっても、この時代、ロリコンだなんて概念はまだはるか先のこと。『ロリータ』を書いたナボコフが生まれる予定のロシア帝国は、海の向こうでモンゴルに征服された「タタールのくびき」の真っ最中……なんだろうか? この「おとぎ話の世界」が歴史上のどこかなのか、それとも地球とは違うひとつの世界なのか、俺はいまだによくわかってない。


 とにかく、雨上がりの村には薄くかすみがかり、どこもかしこも白くぼやけていた。ついでに、寝ぼけた紅白にひっつかれたり噛まれたりして、俺の頭も睡眠不足に侵され、何度もあくびを漏らすほどに眠かった。

「はるがすみ、たなびく山の桜花さくらばな、うつろわんとや……なんだっけ」

「眠たそうでございますねえ」

 チチチ、と朝らしいさえずりとともに、一羽のスズメが俺の肩に止まった。先の一件で俺の「家来」になったスズメだ。


「早起きだな」

「スズメですもの。檎太郎様は、もう少しお眠りになったほうがよろしいんじゃないですか?」

「体が冷えるし、今のうちに畑仕事してあとでゆっくり昼寝するよ」

「働き者ですねえ」

「働くんだと思うと途端にイヤになってきた」

「働かざるもの食うべからず、ですよ」

「そんな言葉、どこで覚えたんだよ」

「鳥はいろんな言葉が耳に入るのですよ」


 ぬかるむ畦道あぜみちを歩きながら、スズメと話をつづける。かん高いさえずりは耳元で聞くにはちょっぴりつらい音域だが、眠気覚ましには最適だった。

 その時だ。

 道の先に、ぼんやりとした影が見えた。霞の中に、誰かが立っている。

この早朝に、ほかに人がいるとは思わなかった。ぎくりとして、俺が足を止めると同時に……


「檎太郎というのは、貴様か?」

 その影が声を発した。若い男の声だ。

「そうだけど……」

「しからば」

 ぎらり。鈍い光が霞の中に一瞬、ひらめいた。

「御免!」

閃光が地を這うように迫る。

「うおっ!?」

 俺は思わずのけぞった。鼻の先数センチの場所を、恐ろしく鋭い刃が通り過ぎ、冷気が顔の上をすべる。


「今のをかわしたか」

 切り上げられた刀が霞すら切り裂いたかのように、襲撃者の姿がはっきりと表れる。

 長い黒髪をきっちりとそろえた美丈夫。着ているのは、千草色ちぐさいろ狩衣かりぎぬ立烏帽子たてえぼし。腰に2本の鞘が見えた。そのうち一方は抜き放たれている。

 男は眼を鋭く細め、抜き打ちの姿勢から、肩の上から刀を突きだすように構えなおした。

 明らかに、追撃をねらっている。


「待て待て、あんた、さむらいか?」

「いかにも。それがしは検非異使けびいし忠明ただあきらと申す」

 構えた刃は、ぴったりと俺の首に狙いを定めている。隙あらば、突き入れてくるだろう。

「け、検非違使ってのは、警察みたいなものだろ? 俺は捕まるようなことはしてねえって!」

 十歳そこそこの女の子と一緒に寝たりはしたけど。断じて、いっしょに寝たからって犯罪的な行為はしていない!

 いや、それ以前にこのころはそれを禁じる法もないはずだ!

 いやいや、法がないからってやっていいわけじゃないぞ!

 いやいやいや、今はそんなことより、なぜ検非違使が俺の命を狙うかのほうが問題だ。


「検非異使はなる非法をしらべるもの。すなわち、鬼を討つことこそ使命」

「俺を鬼だと思ってんのか!?」

「それはこの刀が教えてくれる」

 男がわずかに腰を沈めた。その直後には、風を切る音よりも早く刃が走っていた。

「うおわっ!?」

 尻もちをついて腰を落とす。霞の中で見事なまでの輝きを放つその刃が俺の頭上をかすめていった。


「逃がすか!」

 二撃、三撃、白い軌跡を描く刀が振り下ろされる。後ろに転がって、すんでのところでかわした。


「檎太郎様!」

 頭上に逃れたスズメが、悲鳴に近い声で俺を呼んだ。

 スズメは元鬼だ。鬼じゃない。この検非異使を名乗る男がそれをとがめに来たというなら、俺には家来を守る義務がある。

「こ…のっ!」

 後転の勢いそのまま、地面を手で押して飛び上がる。やわらかい泥に手が埋もれそうになったが、不恰好ながら膝をついて体勢を立てなおす。

「相手になってやる」

 膝をついた俺と、刀を正眼に構えた忠明。距離は三歩ほど。一歩踏み込めば、じゅうぶんに切っ先が届く間合いだ。


「勝てると思うか?」

 忠明の堂々とした構えは、明らかに訓練と実戦に裏打ちされたものだ。おじいさんに刀の扱いを習っただけの俺とは違う。刀を手足と同じように使いこなせるまで、何年もの修練をこなしたに違いない。

 俺が踏み込めば、その瞬間に斬りつけられる。かといって、先手を取られればそのままズバリだ。

「やってやるさ!」

 腕を振り上げる。武器はない……が、代わりに握りこんだ泥を、忠明の顔めがけて投げつける。


「っ!」

 目つぶしの必要はない。顔に向かって何かが飛んでくるだけで、本能的にひるむものだ。

 忠明の注意が、一瞬だけそれた隙に、俺は地面を蹴った。ぬかるみに足を取られそうになりながら、検非異使が構えた刀を左手で払って、攻撃の構えを崩したすきにその間合いの内側に飛び込んでいく。

「くらえっ!」

 そのまま、胴の真ん中に右のこぶしを叩き込む……鬼でない相手に暴力を振るいたくはないが、この場合は間違いなく正当防衛だ。何せ、丸腰の俺に刀で切りかかってきてるのだから。


 ……なんて、考えていた俺が甘かった。

 前のめりになりながら突きだした拳は、見事に空を切った。

「えっ」

 一瞬、カートゥーンアニメみたいに空中で静止した気がする。

 俺の左手は……刀を払ってはいた。だが、忠明の構えを崩す効果はなかった。忠明は刀を手放していた。そして、あっさり体をひねって俺のこぶしをかわし……

「ふん」

 鼻息とともに、俺の足を軽く払った。もともと、泥に足を取られかけていた俺は、あっさりと泥の中に顔から突っ込んだ。


 すらり、と、音が聞こえた。忠明が腰の脇差を抜いたのだ。

「他愛ない」

 忠明の足が、俺の背を踏みつけた。起き上がれない……

「やめなさい、この!」

 頭上でスズメの声が聞こえる。俺のために、忠明の目をつつこうとでもしてくれているのか。でも、そんな程度で通じるような相手じゃないことは明らかだ。


「これで決着けりだ」

 忠明の刃が、まっすぐに俺のうなじへ向けて振り下ろされた。

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