第6話 Vanilla

 懐かしい匂いがする。

 花のような、また飴のような。

 甘い匂いがする。

 それに混じって、深く鼻腔を撫でる潮の匂い。

「バニラ。君、今とても輝いているよ」

 そういう声と共に、橙に焼けた空を背にしてその女性を背後から優しく抱き寄せる長髪の男がいた。

 女は華奢な腕とは裏腹に、その豊満な腹部を撫でる男の手にそっと自分の手を乗せた。

「ジェイソン、あたし、今とっても幸せよ」

 その名は彼が一生忘れることのない怨恨の色を呈した名だった。



 あれからどれほど寝ていたのだろう。レンセイはまるで後頭部を殴られた後のように、ズキズキと痛むその頭を抑えながら、今まで寝ていた黒皮のソファーに手を付きながらも座り込んだ。

「どうだ、調子は」

 聞き覚えのある声が彼の脳天に響く。まだ焦点のはっきりしない眼を擦り、目の前に置かれたグラスの水を飲み干した。

「ぬるいな」

「頭痛だろ?冷たくてどうする」

 ナナコはその筋肉質でスラリとした足を伸ばし、背後にあった椅子の脚を引っ掛け自分に引き寄せたと同時に、背もたれを自分の前になるよう半回転させ、座った。彼女の左手にはラムのロックがあった。

「チェイサーならもっと度数の低いやつを頼むよ」

「追跡者は程度を知らないのさ。次元酔いご苦労さん」

 そういってナナコはラムのグラスも彼の前に置いた。そしてフィッシュアンドチップスと黒ビールを頼み、小さい丸テーブルの真ん中にそれらを置いた。

「どう?食べれるか?」

「いんや。まだ酔ってる」

「そうか」

 レンセイはラムをちびちびと飲みつつ、後ろ首元を揉んだりして頭痛を治そうと試みていた。

「あのニンジャは?」

「マサヨシか?アイツは先に帰らせたよ。最後に当てるって言ったのに当てずに全部外しやがったってビービー言ってたな。まぁ、結果オーライだったからなんとでも言えと言いたくなるが」

「なるほど」

 外を見ると、夕日が差しており、自分が4~5時間ほど気を失っていたことが分かる。

「道理で夢を見ていたわけだ」

「なんだって?」

 レンセイは目の前に置かれた、正直あまり美味しくない揚げ物を手に取り、ラムを1口飲んだ。

「だから、夢を見てたんだ」

「走馬燈か?三途の川でも渡りそうだったのかレンセイ」

「死んじゃあいねぇよ。ただまぁ、忘れてた思い出を1つ思い出していてな」

 ナナコはふーんと興味無さそうにまたフィッシュを手に取る。

「ほれで、どんな夢だった?」

「両親の夢。死んだ母親の夢だ」

「両親、か」

 レンセイはラムのグラスを置き、ソファーにもたれた。

「サラ。それが俺の母親の名前。父親からはバニラと呼ばれていた」

 ナナコは目を見開いた。

「父親の名は?」

 レンセイは顔を顰め、言いたくないと言わんばかりにそっぽを向いた。

 ナナコは目を見開いた。よくよく見れば大人びてはいるものの、昔見た姿を思い出していた。

「そうか。アンタ、『哀しき子供たち』の一員だったのか」

「なんとでも言えよ。報われない人間の1人だ。そういうあんたは誰なんだ?」

 ナナコは少し考え、こう言った。

「アンタの父親の上司だ。アタシのことは覚えていないのか?」

「幼い記憶はとうになくてな」

「そうか。レンセイという名前を付けるやつが他にもいたのかと思えば、当の本人だったなんて話、奇遇すぎて世界の狭さを感じるよ」

「そりゃどうも。当の本人とやらは全く覚えてないが」

 ナナコは椅子の背もたれに顎を置き、ての指先と指先を合わせた。

 三角形の窓から見るレンセイの姿を、ナナコは懐かしく思った。

「そうか。しかし本当にレンセイか、見違えるように成長したなぁ。その時ちょうど8歳の時だったものな。アタシが15だったから…12年経っているのか」

「14年だ。今俺は22だからな」

「あっちゃー、間違えちゃったー」

「嘘をつけ、サバ読んだろ」

「バレたか。もうすぐ三十路かぁ…」

 そういってナナコはアルスタープライドを彼に見せつけるように、ラッパ飲みをした。

「そういって若作りの薬でも飲んでたりしてな」

「仕方ないよ、あたしら魔術師だもん」

「図星じゃねぇか。通りで若すぎると思った」

 レンセイは手を頭の後ろで組んだ。

「というと?」

 ナナコは手を胸の前で組んだ。

「声の割にっていう話だ。声の割に?いや違うな、言葉の割にか…」

「理解した」

「それだよ」

 2人は目を見合わせ笑った。

「全くだ。いやはや、こんな所で少女に慣れんとはな」

「言葉が固すぎるんだよ」

「嫌か?」

 頬杖を付き、レンセイを見た。

 レンセイはその肉食性のある眼を見てすぐに逸らした。しかし、逸らした先が首から下へと逸らしたものだから、骨ばった窪みとその控えめではあるが柔らかそうな丘へと目がいってしまった。

 少しでもその柔肌に触れたいという気持ちが、彼を狼狽させた。

「い、いや、いやではないが」

「嫌ではないんだな」

 ナナコはニヤリと笑った。

「と、兎に角だ。こんな話をしにきた訳では無いだろう」

 レンセイは手元にあるはずの手持ち鞄を求めた。だが、そこには何も無かった。

「あれ?」

「ああ、これか?」

 ナナコはバーのマスターを少し見、目配せをした。

 マスターはなにか分かったように、その丸眼鏡を直し、カウンターの裏からレンセイの鞄を出し、ナナコに渡した。

「なんだ持ってたのか」

「アンタのいうニンジャから預かっててね。亜空間に置きっぱじゃあ見つかるものも見つからんだろうよ」

 そう言うとナナコはレンセイに渡した。

 レンセイはナナコから受け取り、その黒革の中からひとつのファイルを取り出した。

「ナナコ、本題に入ろう」

 ナナコはそれを聞いてすくっと立ち椅子を正しい位置へ戻した。

 そして大きくリラックスした状態で背にもたれ、足を組んだ。

「ナナコ、『人形達の凱旋』この言葉に聞き覚えは?」

 ナナコは顔を顰めた。

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玩具屋レンセイの魔法人形 馮姿華伝 @MYSELF2013

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