3.

 秋は、終わりに近づいていた。

 少女は自分の部屋で寝台に腰かけ、少年の絵を眺めていた。小さな影が、朝焼けを見つめている絵だ。緋色の絵だった。

 近頃少年の描く絵は、以前よりずっと明るくなっていた。だから、少女は自分の部屋に飾っておくことができた。だが、少年が絵を仕上げる速度は、段々と遅くなっていた。

 少女は前掛けの裾をいじりながら、絵の中の影になっていた。私は今、朝焼けを見ている。とても満ち足りた気持ちだけれど、何かが間違っているような。私は今、どこにいる? 私はひとり? それともふたり?

 少女はふっと我に返った。もうすぐ、少年に会いに行く時間になる。そろそろ紅茶を淹れよう。

 部屋を出て、台所へ向かった。やかんを火に掛けて、籠を用意する。二つのマグカップと、焼いてあったマドレーヌを籠に入れる。ふわり、甘い焼き菓子の匂いが漂う。珍しく、台所には一人の女中もいなかった。

 紅茶の用意も終え、ケープとマフラーを纏って屋敷を出た。

 木立の陰に屋敷が隠れるかというところだった。少女は黒い瞳をみひらいた。

「珍しいね、貴方がこっちに来るなんて」

 少年は、少し眉を下げて笑った。色づいた葉が落ちはじめる頃、少女が贈った黒いセーターの上に、茶色のコートを羽織っている。被った同色の帽子から、黒い癖っ毛がはみ出していた。左手に大きな旅行鞄を持ち、右手には、平べったい四角の包みを抱えている。少女はその包み方に見覚えがあった。父が少年の絵を買ってくるとき、絵はそうやって白い布に包まれていた。

「どうしたの?」

 少年は、しばらく何も言わずに、少女の瞳を見つめていた。空は初めて会った日のような薄曇り。ふたりの間を、紅の葉が駆けていった。

「……貴女に、あげたいものがあるんだ」

 少年は相変わらず、どこか蒼い笑みでそう言った。右手に抱えていた包みをさし出す。少女には白いそれが、まるで書き置きか手紙のように見えた。

「受け取ってくれるかな」

 受け取れば、もう戻れない。少女はそう直感する。だが、受け取らなければ戻れるのだろうか? 少女は籠を左の肘に掛けて、両手をさし出した。

「もちろん。私、貴方の絵が大好きだもの。最初に見た蒼い絵も、この間の緋色の絵も」

 ありがとう、と少年は、今度はちゃんと笑った。

 時が、動いてしまう。少女は唇を噛んだ。

 そうだ。少女は包みを右の脇に抱えると、籠の中から、自分がいつも使っていたマグカップを取りだした。

「私も貴方に、あげたいものがあるの。いいかしら」

 頷いた少年の手に、少女はマグカップをのせた。

「ありがとう」

 ふたりは同時に呟いて、目を見合わせて儚く笑った。

 少年は少女に背を向けた。少女は目を逸らさなかった。



 少年の鞄の中には、一つのマグカップが入っている。普段はしっかりと布にくるまれているそれは、例えば星が凍る夜、少年の手にくるまれる。

 握った手の温かさで。


 少女の部屋に、一枚の絵が飾ってある。風に栗色のお下げをなびかせ、優しい黒い瞳をした少女の肖像。

 蜂蜜色の絵。

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蒼と蜂蜜 音崎 琳 @otosakilin

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