2.
少年と出会って、一週間が経った。
「こんにちは」
今日は朝から、澄んだ秋晴れだった。泡立てたクリームのような雲が、空に幾つか散らばっている。
「こんにちは」
少年はふりかえって、挨拶を返した。今日も、バルコニーでカンバスに向かっているところだった。
「今日は荷物が多いですね?」
「はい」
いつもの籠に加えて、少女は、籠をもう一つにブリキのバケツ、それから箒を持っていた。纏った薄桃色のドレスは、古びた質素なものだ。
おこがましいかもしれませんが、と前置きしてから、少女は黒い瞳で少年を見すえた。
「私に、この洋館を掃除させてくれませんか?」
少年はぽかんと口を開けた。何とか返事を絞り出す。
「……ぼくは、構いません。そもそも、ぼくの家ではありませんから」
少女は表情を緩めた。
「ありがとうございます。荷物、ここに置かせてください」
いつもの籠を、少年から少し離れたところに置く。もう一つの籠とバケツ、箒も少し離して置いて、籠の中から前掛けと三角巾を取り出し、身に着けた。バケツに入っていたはたきを持って、螺旋階段に向かう。
と、くるりとふりむいた。一部始終を見守っていた少年に言う。
「貴方は絵を描いていてください。大丈夫です、ちゃんとやりますから」
少年はぎくしゃくと頷いて、再びカンバスに向きなおった。一度絵筆を取れば、もう後ろは気にならなかった。
遠くから微かに、鐘の音が響いてくる。再び少年が絵筆を置いたとき、螺旋階段はすっかりきれいになっていた。少年は手を叩いた。
「すごい。お疲れさまです。ありがとうございます」
少女は頬を赤くした。
「でも、階段しか終わっていないんです」
「それでも、ですよ」
少女は慌てて、三角巾と前掛けを解いた。前掛けはすっかり鼠色になっている。
「それよりも、お茶にしましょう」
いつもどおり、マグカップを並べて紅茶を注いだ。クッキーの入った籠も外に出す。
「今日はせっかく晴れているから、鐘楼に行きますか?」
マグカップを両手に包んで、少女はにこにこと言った。
「疲れていませんか?」
少年は少し眉を下げるようにして、少女を見た。少女は大きく首を振る。
「元気いっぱいです」
「じゃあ、お願いします」
少年の言葉に、少女ははい、と笑った。
日の傾いてきた金色の町の中を、ふたりは歩いていった。
あそこの家はいつも綺麗な花が咲いているだとか、ここの路地には白い猫がいるだとか、ここのベンチはぶちの犬を連れたおじいさんの席だとか、少女はこの町のあらゆるところを知り尽くしているらしかった。少年がそう言うと、少女は曖昧に笑ってみせた。
「小さな町だから」
のんびりと道を行く人々は、少女を見かけると、決まってにこやかに挨拶した。そしてそのあとに従う少年を見て、怪訝そうな顔をする。
「やあ、お嬢さま。その子は?」
「絵描きさんよ」
少女は胸を張って答えた。
「本当に美しい絵を描くんだから」
「そうかそうか」
町の人は少女の言葉を真に受けず、にこやかなまま頷くだけだった。
「本当に本物の絵描きさんなのに」
少女は一人、目を吊り上げて小さく叫んだ。少年は、慣れていますから、とあまり気にしていない風だった。
鐘楼は町の中心に建っていた。
淡い黄色の、石造りの四角い塔で、結構な高さがある。少女は焦げ茶色の扉を叩いた。すぐに扉が開く。
「こんにちは、お嬢ちゃん」
出てきたのは、紺の帽子を被った初老の男だった。髭をたくわえた口にパイプを咥えているのに、全く煙草の匂いがしない。
「塔に上っていいかしら」
「そっちの坊やは誰だい?」
「絵描きさんよ」
「へえ?」
男は胡散くさそうな顔で、じろじろと少年の顔を眺めた。少年はじり、とあとずさる。
「本当よ」
少女は言いつのったが、埒が明かないのを見て取って、思わず大きな声で言った。
「それに、私の友達なの!」
少年は茶色の瞳をみひらいた。少女は少年のほうはふりかえらずに、口をひき結んで挑むように男の顔を見上げている。男は苦笑して道を開けた。
「悪戯するなよ」
少女は少年の手を取り、塔の中に入った。少年はされるがまま、少女に手を引かれていった。
暗い階段をとんとん上っていきながら、少女は尋ねた。
「私と友達になるのは、嫌ですか?」
少年はとんでもない、とかぶりを振った。少女の手に、僅かに力がこもる。
「じゃあ……友達に、なってくれる?」
「喜んで」
少年は、強く少女の手を握り返した。少女には見えなかったが、少年は、心からの笑みを浮かべていた。
短い階段を上っては踊り場で右に折れるのをくりかえし、最後の踊り場に辿りついた。梯子が、光の中に続いていた。
その梯子を登りきったところが、鐘楼のてっぺんだった。
大きな鐘が、屋根から下がっている。四方には壁がなく、町中を見渡すことができた。家々は蜂蜜色に塗り替えられている。
「ね、良い眺めでしょう」
少女は少年に笑いかけた。少年はじっと景色に見入りながら、頷いた。
少しずつ、景色は朱を深めていく。西の空が橙に染まって、雲が金色と薔薇色に輝く。東の空は青から紅を経て、紫が地平と接していた。白い月が、幽かに浮かぶ。
風が吹きつける塔の上で、握った手が温かかった。
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